名前 | 張翼(ちょうよく) 字:伯恭 |
生没年 | 生年不明ー264年 |
時代 | 後漢末期、三国志、三国時代 |
主君 | 劉備→劉禅 |
年表 | 231年 綏南中郎将に就任 |
238年 都亭侯・征西大将軍に就任 | |
255年 鎮南大将軍に就任 | |
259年 左車騎将軍に就任 | |
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張翼は正史三国志に登場する人物であり蜀に仕えました。
張翼は益州犍為郡武陽県の出身であり高祖父が司空の張浩、曽祖父が広陵太守となった張綱だと伝わっています。
さらに言えば、張翼の祖先が前漢の劉邦の軍師となった張良であり由緒正しい家柄だとも言えます。
因みに、五斗米道の教祖である張魯なども張良の子孫となっていますが、張翼とどれ程の接点があるのかは不明です。
張翼は劉備の時代から蜀に仕え、劉禅の時代には姜維の北伐に反対しながらも、軍には同行し姜維の北伐を支えた武将とも言えます。
三国志演義では諸葛亮の南征にも参加していますが、史実を見る限りでは張翼が南征の軍に参加した記録もありません。
尚、張翼は鄧張宗楊伝に伝があり、下記の人物と共に収録されています。
鄧芝 | 張翼 | 宗預 | 楊戯 |
劉備に仕える
劉備は劉璋から益州を奪い益州牧となりますが、この時に張翼を書佐に任命しました。
三国志演義では張翼は劉璋の配下として登場し、張任が捕虜となり卓膺が降伏し、張翼が劉璝を殺害して劉備に降るシーンがあります。
しかし、正史三国志を見る限りでは、張翼が劉璋に仕えたとする描写は無く、張翼が劉璋に仕えたとするのは、三国志演義の創作だと考えられます。
張翼は建安の末年(220年)には、孝廉に推挙され、江陽県の長官となり、涪陵県令、梓潼太守と出世を重ねました。
広漢太守や蜀郡太守にもなっており、地方官を歴任したとも言えるでしょう。
後に蜀の代表的な武将となる張翼も、キャリアのスタートは文官だったわけです。
ただし、江陽県の県長だった時代には、劉備の漢中攻略にも参加し、趙雲と共に曹操の軍を破る活躍をしました。
劉備は夷陵の戦いの後に亡くなりますが、張翼はそのまま劉禅に仕える事となります。
張翼は231年に庲降都督・綏南中郎将となり南方に赴く事になります。
馬忠と交代
張翼は南方を鎮める役割となりますが、法律を厳格に適用させるなど、融通の利かない部分もあった様です。
張翼に関していえば「郷に入っては郷に従う」と言った人ではなかったのでしょう。
張翼の統治が厳格であった為か、異民族の頭目である劉冑が反旗を翻しました。
劉冑の乱では、張翼が鎮圧に赴きますが、蜀の朝廷では馬忠を派遣し、張翼と交代させる事にしました。
蜀の首脳部は張翼よりも、馬忠の方が異民族討伐で信頼感があり、交代させたのでしょう。
この時に張翼の部下達は、張翼が罰せられると考え「早く蜀の朝廷に戻る様に」と進言しますが、張翼はしっかりと防備を固めた上で、馬忠と指揮権を交代しました。
馬忠は張翼の築き上げた陣営を基礎とし、配下の張嶷の活躍もあり、劉冑の乱を平定しています。
張翼が馬忠が来るまでの間も、しっかりと軍の指揮を続けた事を知った諸葛亮は、張翼を褒め称える事となります。
北伐に従軍
諸葛亮は234年に最後の北伐を行い武功に出陣しますが、この時の蜀軍の中に前軍都督及び扶風太守となった張翼の姿がありました。
張翼の性格は厳格であり、諸葛亮は南方の異民族の統治よりも軍内にいた方が役に立つと考えたのでしょう。
しかし、諸葛亮は五丈原の戦いで司馬懿と対峙している最中に亡くなってしまいました。
諸葛亮がいなくなった蜀軍は楊儀を中心に撤退を始めますが、魏延が命令を聞かず離反し、馬岱により命を落す事態となります。
尚、三国志演義では諸葛亮の北伐で張翼が活躍するシーンがありますが、正史三国志を見る限りでは、名前だけが上がる存在であり、どの様な功績があったのかは不明です。
ただし、諸葛亮死後に出世している事を考えると、何かしらの功績はあったように感じています。
出世を重ねる
諸葛亮が亡くなると張翼は前領軍となり、さらに劉冑討伐が取り上げられ関内侯の爵位を賜わりました。
さらに、蔣琬が政務を執った時代である延煕元年(238年)になると中央に戻り尚書となり、暫くすると建威郡の督に任命され、さらには符節を与えられ都亭侯・征西大将軍に任命されます。
張翼が征西大将軍になった時に「前に王平、句扶あり、後ろに張翼、廖化あり」と讃えられた話が華陽国志にあります。
征西大将軍になった頃には、張翼は蜀漢の代表的な将軍にもなっていたのでしょう。
後に蔣琬は病に倒れ費禕が政務を行いました。
費禕の時代は北伐を行おうとせず、将軍の張翼の大して出番が無かったのが実情でしょう。
正史三国志の張翼の記録を見ても、征西大将軍になってから話が254年まで飛びます。
254年は前に費禕は既に亡くなっており、尚書令の陳祗と姜維が北伐を主導していた時代です。
北伐に反対
254年に張翼は姜維と共に隴西に兵を進めました。
魏の李簡が蜀軍に寝返り、病身の張嶷が戦死するなどもありましたが、徐質を討つなど狄道の戦いで勝利を挙げています。
姜維は狄道、河間、臨洮の住民を蜀に移すなどの戦果がありました。
255年に張翼は姜維と共に蜀の成都に帰還すると、姜維は出撃許可を願い北伐を敢行しようとします。
狄道での勝利に気を良くしたのか蜀の多くの者たちが姜維の意見に賛同する中で、張翼は反対意見を唱えました。
張翼は「蜀の国家は弱く民に疲れがあり、武力を濫用するのは宜しくない」と述べたわけです。
しかし、張翼の主張は取り上げられず、蜀は北伐を継続する事となります。
それでも、姜維は張翼の武を頼りとしていたのか、張翼を鎮南大将軍として北伐に従軍させています。
姜維に諫言
姜維は夏侯覇や張翼を連れて隴西に再び出陣すると、魏の雍州刺史の王経を破る大戦果を挙げました。
王経は数万の兵を失う程の惨敗を喫しています。
姜維は王経を追撃し、さらなる戦果を挙げようとしますが、ここで張翼は次の様に述べ姜維を諫めました。
※正史三国志 張翼伝より
張翼「止どまるべきです。さらに進軍してはなりませぬ。
軍を前に進めれば、この大きな功名に傷をつける事になるやも知れません」
姜維は魏の王経への追撃を考えており、張翼の言葉に腹を立てますが、張翼は次の様に続けました。
張翼「蛇の絵を書いて足を書き加えるようなものです」
張翼は姜維の追撃は「蛇足」であり、余計な事だと述べた事になります。
しかし、姜維は勝利で気を良くしていたのか、王経が籠る狄道を包囲しました。
魏の陳泰は王経を救う為の軍を既に発進させており、狄道に迫っていたわけです。
魏の援軍が予想以上に早く到着した事で、姜維の兵の士気は下がり、魏軍の士気は上がりました。
姜維は王経が籠る狄道を陥落させる事が出来ず、結果を見れば張翼の言った通りの展開となったわけです。
256年には姜維は段谷の戦いで、鄧艾にも敗れました。
姜維は狄道でのやり取りから張翼との間に遺恨が発生し、姜維は張翼を快くは思わなくなります。
しかし、姜維は張翼の軍事能力は高く評価しており、軍には必ず張翼を同行させていました。
張翼もまた遠征には反対だった様ではありますが、姜維と行動を共にしています。
張翼は景耀2年(259年)に左車騎将軍となりました。
廖化も右車騎将軍になった記録もあり、張翼と廖化で左右の車騎将軍を分け合ったのでしょう。
張翼の最後
景耀6年(263年)に、魏の司馬昭は蜀を滅ぼすべく鍾会と鄧艾を派遣しました。
姜維は張翼や董厥を成都に派遣し、防備を固める様に劉禅に説いています。
しかし、黄皓の意向もあり、蜀は防備を固めるのが後手に回る事態となります。
姜維は漢中を守り切れないと判断し、軍を後退させると漢寿で援軍を率いてきた張翼と合流する事となります。
姜維と張翼、廖化らは剣閣に入り防備を固めました。
剣閣の戦いでは姜維や張翼の守は固く、鍾会は一時は撤退をも考えました。
しかし、鄧艾が後方を襲撃し諸葛瞻、諸葛尚の親子を綿竹の戦いで破り、成都にいる劉禅は降伏してしまいます。
劉禅が降伏した話を聞くと蜀軍は刀を抜き石を切ったとする話があり、剣閣を守る蜀軍の戦意の高さが分かるはずです。
劉禅が降伏した事で張翼は姜維と共に、涪城にいる鍾会の元に赴き正式に降伏しました。
姜維は蜀の滅亡後も復興を諦めてはおらず、鍾会を焚きつけて反乱を起こさせ蜀の奪還を狙います。
姜維の計画に張翼が何処まで参与していたのかは不明ですが、張翼は姜維や鍾会と共に蜀に向かいました。
姜維は鄧艾を討つ事には成功しましたが、魏の将兵らに姜維、鍾会らは討たれています。
こうした蜀の混乱の中で張翼も兵士に襲われ命を落しました。
これが張翼の最後です。
廖化が蜀の始まりから滅亡までみた将軍だと言われますが、張翼もまた蜀漢の最初から最後まで見届けた武将だと言えます。
陳寿は張翼の事を「姜維の鋭気に抵抗し、称賛すべき所があった」と述べています。
尚、張翼には張微という子がおり、広漢太守にまでなりました。