古代日本

倭国大乱を徹底検証

2023年12月6日

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宮下悠史

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名前倭国大乱
時期147年?~189年?
時代弥生時代
場所倭国
記録魏志倭人伝など
コメント卑弥呼の共立により倭国大乱は終焉

倭国大乱は魏志倭人伝などに記録があり、倭国が乱れ国々が争った事を指します。

倭国大乱を経て邪馬台国の女王である卑弥呼が共立される事になりました。

日本側の史書には倭国大乱が書かれておらず、倭国大乱の記述は中国側の史書に頼る事になります。

倭国大乱の原因は寒冷化により食料が不足し、国々が争ったと考えらえています。

ただし、戦乱の形跡が九州に偏っている事や瀬戸内海近辺で高地集落が出来ている事から、近畿以東は比較的影響を受けなかったのではないか?とする説もあります。

倭国大乱の名は有名ですが、詳細は殆ど知られておらず、中国側の記述は簡略であり、日本側の資料はなく謎多き大乱だったと言えるでしょう。

魏志倭人伝の記述

倭国大乱の記述と言えば魏志倭人伝となります。

魏志倭人伝には次の様に記録されています。

※魏志倭人伝より

倭国では元々は男王が統治する時代が7,80年ほど続いた後に倭の国々が互いに争い戦乱が起こった。

多年にわたり互いを討伐し争った。

そこで国々は一人の女子を共立した。

その名を卑弥呼と言う。

上記の記述から倭国には元々男性の王がいたが、倭国の国々が争い倭国大乱に突入した事になります。

後漢の安帝の時代に倭王師升が朝貢した話がありますが、倭王師升も男性の王だったのでしょう。

倭国大乱を経て鬼道を行う邪馬台国卑弥呼が倭国の女王となったわけです。

倭国大乱はいつ頃起きたのか

中国側の記録

倭国大乱がいつ頃起きたのか?ですが、後漢書には後漢の桓帝や霊帝の時代だと記録されています。

後漢書の記述を見ると桓帝や霊帝の時代である146年から189年の間に、倭国大乱が起きた事になっているという事です。

しかし、中国の梁書を見ると光和年間とあり、178年から184年の間に倭国大乱が勃発した事になります。

倭国大乱に関わる記述は、朝鮮半島の歴史書である三国史記にも書かれており、173年頃に卑弥呼が倭王になったと通達してきた記述があります。

卑弥呼は倭国大乱を経て倭王となったのであり、三国史記の情報を信じるのであれば、少なくとても173年以前に倭国大乱が勃発した事になります。

ただし、倭国大乱は黄巾の乱で難民が大量に発生し、倭国に流れ込んだ説もあり、これを考えると黄巾の乱が起きた184年以降に倭国大乱が起きた事になるはずです。

東アジア全体で大飢饉

三国史記にも倭国大乱を匂わせる記述があります。

三国史記によると193年に倭人が大飢饉により、食料を求めて千余人が新羅にやってきた事が記録されています。

ただし、三国史記いう倭人が朝鮮半島南部にいた倭人を指すのか、日本列島の倭人を指すのかは不明です。

それでも、朝鮮側の記録には倭人が大飢饉に苦しみ、食料を求めて新羅に押し寄せた記録があります。

さらに、三国史記では高句麗側の記録でも194年に食糧不足に苦しんだと記録されました。

正史三国志の武帝紀にも194年に穀物が1万5千余万銭に高騰し人間同士が食い合ったとあります。

曹操はこうした状況を見て募兵を取りやめた話しもある程です。

これらの事から、193年と194年は東アジア全体で大飢饉に見舞われ倭国も困窮し、倭国大乱が起きたのではないか?とする説もあります。

備蓄してあった食料が無くなった時点で、生き残るために略奪や戦争に走ったと考える事も出来ます。

ただし、193年頃に倭国大乱があったとするならば、正史三国志の桓帝や霊帝の時代に倭国大乱があったとする記述とは合致しません。

尚、193年が倭国大乱であり、三国史記の卑弥呼が170年頃に即位した説を尊重すれば、卑弥呼が倭王になった後も政権は安定したとは言えず、困難があったはずです。

当時の稲は品種改良が出来ておらず、気候変動に耐える事が出来なかったとも考えられています。

倭国大乱はなぜ起きたのか

後漢王朝の衰退

魏志倭人伝を見ると、倭国大乱が起きた事は記述されていますが、原因が書かれていない事に気が付きます。

倭国大乱の原因が後漢王朝の衰退にあるとする説があります。

後漢王朝は地球規模の寒冷化の影響もあり、食料不足に悩み桓帝や霊帝の時代に食糧不足となります。

食糧不足は深刻な問題であり、羌族などの遊牧民は漢民族の居住地にまで食料を求めて侵入を繰り返しました。

後漢王朝では羌族ら遊牧民を追い払う為に、軍隊を出したりしますが、これが国家財政を圧迫したわけです。

後漢の桓帝や霊帝の時代には食糧不足により、人口が減少に転じました。

後漢王朝の桓帝や霊帝は暗君にされたりしますが、実際には気候変動による寒冷化により、政治的に苦しい状態だったと言えます。

この時期に西のローマ帝国も衰退し、親魏大月氏王に冊封されるクシャーナ朝やパルティアなど世界規模で王朝が弱体する時代に突入していたわけです。

こうしたユーラシアの国家の衰退の波が日本にまでやってきて、食料不足による倭国大乱が勃発したとも考えられています。

倭の奴国や北部九州にあった国々は後漢王朝に朝貢したりして、後ろ盾としており、後漢王朝の衰退と共に権力も弱まったともされています。

後漢王朝も黄巾の乱などもあり、朝貢貿易をしている場合ではなかったのでしょう。

尚、後漢王朝の時代には倭国は100以上も国があったかの様な記述がありますが、倭国大乱を経て倭国は30国程になっていた記述もあります。

ただし、この時代の倭国は北部九州のみを指すなども説もあります。

鮮卑が倭人をさらった説

鮮卑の食糧不足が倭国大乱と関係している説もあります。

後漢書烏桓鮮卑伝に鮮卑で人口増加により食料が不足した話が掲載されています。

鮮卑族の大人である檀石槐は東の烏侯秦水を見ると、魚がいる事に気が付きました。

檀石槐は烏侯秦水の魚を捕えて食料にしようとしますが、鮮卑族は遊牧民であり、海洋民族と違い魚を獲る技術がなかったわけです。

当然ながら鮮卑の人々は魚を得る事が出来ませんでした。

魚捕りに失敗した檀石槐は「東の倭人は海洋民族で漁業に優れている」とする情報を得ます。

檀石槐は鮮卑族を率いて東の倭人の集落を攻撃し、千余戸ほどの倭人を得ました。

檀石槐は倭人を秦水の付近に住まわせ漁業を行わせ食糧難を解決した話があります。

鮮卑による倭人拉致事件が倭国の社会不安に繋がり、倭国大乱を引き起こしたとする説もあるという事です。

後漢書によると、檀石槐が倭人を誘拐したのが、178年だったともされています。

しかし、漁業が出来ない鮮卑族が海を渡り日本列島まで行くのは至難の業だと考えられます。

さらに、朝鮮半島南部の倭人の集落を攻撃するには、三韓を通過する必要もあり、現実的ではないとする指摘もあります。

朝鮮半島北部の鴨緑江の下流域に倭人が存在しており、これを鮮卑が襲ったとする説もあります。

ただし、鮮卑が倭人の集落を襲ったのは、倭国大乱勃発の説としては面白いのですが、あくまでも中国側の史書に書かれている事であり、噂話に過ぎないとも考えられます。

難民説

難民が倭国大乱を引き起こしたとする説があります。

後漢王朝では霊帝の時代に社会混乱により、黄巾の乱が勃発しました。

黄巾の乱は中国全土に広がり日本列島にも難民が押し寄せたとする説です。

他にも、高句麗が後漢王朝が統治する楽浪郡に侵攻し、扶余や東沃沮、挹婁、濊、三韓などの民族が押し出されて難民となり倭国に訪れたとする説です。

倭国の方でも難民に食糧を与える余裕がなく、食料不足により倭国は混乱し倭国大乱に発展したとも考えられています。

西暦3世紀の前半には、遼東公孫氏が楽浪郡や帯方郡に侵攻したりしており、それらも難民を引き起こしたともされています。

環濠集落の誕生

歴史人YouTubeチャンネルより

北部九州の吉野ケ里遺跡を見ると分かる様に、弥生時代の集落の特徴と言えば環濠集落ではないでしょうか。

環濠集落は集落の周りを堀で囲み敵の侵入を防ぐ狙いがあります。

吉野ケ里遺跡では堀が二重になっていたりもします。

他にも、柵や櫓を造ったりもしており、防御性の高い施設になっているわけです。

倭国大乱に備えて弥生時代では環濠集落が多く出来たと考える事が出来ます。

尚、縄文時代の環濠集落としては北海道の苫小牧市に静川遺跡があり、弥生時代よりも二千年前に環濠集落が造られました。

これを考えると縄文時代にも環濠集落はあった事になりますが、縄文時代に発見された環濠集落は静川遺跡だけであり、縄文時代の平和な様子が伺えます。

縄文時代には倭国大乱の様な戦乱は、無かったとも考える事が出来るはずです。

倭国大乱の場所

九州が最有力

倭国大乱が起きた場所ですが、九州が最有力だと考えられます。

倭国大乱があった場所が九州だとされる理由は、鉄鏃が発見された県で福岡県、熊本県、大分県が圧倒的に多いからです。

鉄鏃は使い捨てになる事が多いと言えます。

鏃は非常に回収しにくい特徴があり、使い捨てで回収する事が殆どないと考えられるためです。

当時の鉄は弁韓から輸入したりしており、非常に価値が高いものでもありました。

普通の鉄製の武器であれば、高価なものであり、使い捨てにはしませんが、鉄鏃であれば使い捨てにしていたと考えられます。

鉄の鏃が大量に出土する場所があれば、その地で大規模な戦闘が起きていた事になるわけです。

尚、考古学者の間では邪馬台国近畿説が強いのですが、奈良盆地では鉄が全くというほど出土してはいません。

それどころか銅鐸文化が最盛期を迎えており、鉄とは無縁の生活をしていたとも言えるでしょう。

大和王権の本拠地の奈良では鉄はあっても、実用化されるまでには至らなかったのではないか?と考えらる事も出来るはずです。

倭国大乱と鉄鏃を考えた場合であれば、倭国大乱が起きた有力な場所は北部九州となります。

瀬戸内海沿岸説

弥生時代の中期、後期になると、北部九州から瀬戸内海沿岸、大阪湾にかけて高地性集落が出現しています。

戦国時代に山城が生活に不便にも関わらず多く造られたのは、防備に優れていた為です。

同じ様に弥生時代に高地性集落が多く出来た理由は、敵の侵略から身を守る事を優先した結果だとも言えるはずです。

香川県の紫雲出山遺跡は標高352メートルの山頂に築かれ、竪穴式住居の跡や高床倉庫などの遺構があり、石鏃や石槍などの武器も発見されました。

瀬戸内海沿岸を中心とする高地性集落の中には、狼煙台と目される遺物が発見されるなど、軍事的な要素を備えています。

ただし、高地性集落によっては倭国大乱と時期がずれており「倭国大乱と直接結びつけることは出来ない」とする見解もあります。

実際に高地性集落が出現したのは、倭国大乱よりも前の時代だと言えます。

しかし、倭国大乱前の諸国の緊張状態から、高地性集落が誕生したのではないか?とも考えられるはずです。

倭国大乱が勃発し戦乱になってから、対処するのでは手遅れと言ってもよく、緊張状態が発した時点で高地性集落が建設されたとみる事も出来ます。

大和は倭国大乱の場所ではない

倭国大乱で考えた場合に、邪馬台国が大和にあるのであれば、大和の地で戦乱が起きた事になるはずです。

魏志倭人伝の記述だと卑弥呼の宮殿は城柵に囲まれて兵士が武器を手に取り厳重に管理されていた事が書かれています。

しかし、纏向遺跡などは環濠がなく武器が出土せず、戦乱があった様な形跡がありません。

纏向遺跡からは農耕具も出土せず、都市があった事は明らかでしょう。

纏向遺跡が邪馬台国だと考えた場合に、余りにも無防備すぎて、とても戦乱に耐えきる事が出来る様には見えないわけです。

こうした理由から、倭国大乱で考えた場合に、邪馬台国が近畿にあったとは考えにくいと言えます。

倭国大乱の終焉

邪馬台国が軍事力で統一

倭国大乱を経て卑弥呼が倭国の女王として共立される事になります。

卑弥呼の共立をもって倭国大乱は終焉したとも言えるでしょう。

しかし、卑弥呼の共立までの経緯は史書には書かれておらず、様々な説がある状態です。

卑弥呼は30カ国ほどを纏めたわけですが、倭国大乱からどの様な経緯で卑弥呼が倭王に選ばれたのかの記録がありません。

一つの説として邪馬台国には強力な軍事力があり、力で諸国をねじ伏せて倭王となったとする説です。

邪馬台国が国々を圧迫し力で卑弥呼が女王となり、弟が政務を執った説となります。

実際に魏志倭人伝を見ると邪馬台国は7万戸の人口があったと記述されており、投馬国の5万戸、奴国の2万戸を抑えて倭国でトップの人口を誇っています。

しかし、卑弥呼は共立されたとあり、国々から選ばれたとみる事も出来る為、軍事力で諸国を制圧した説は弱いとも考えられています。

シャーマンの卑弥呼が選ばれる

シャーマンとして名を馳せていた卑弥呼が人々から選ばれて倭王に選出されたとする説があります。

古代では天候をあてたりする事が出来るシャーマンは重宝されました。

魏志倭人伝にも倭人は何かあると占いをすると記述されており、鬼道の達人で占いのプロだった卑弥呼が倭王に選ばれたとする説です。

しかし、当時では情報ネットワークが発達しておらず、占いのプロだからといって人々が卑弥呼を共立するのか?という問題が出ます。

宗教勢力が国を勃興させた例としては、イスラム帝国がありますが、ムハンマドであっても戦って領地を拡げています。

それを考えれば、単なる占いのプロである卑弥呼が、倭王に選ばれる可能性は限りなく低いと言わざるを得ないでしょう。

卑弥呼は傀儡だった!?

卑弥呼は傀儡だったのではないか?とする説も存在します。

卑弥呼はシャーマンとして名が通っていた事で、神秘的なものが感じる部分であり、卑弥呼の求心力を利用したとする説です。

この説だと卑弥呼の求心力で倭国大乱を終わらせ、他に実力者がいる事になります。

しかし、卑弥呼はあくまでも祭祀王であり宮殿の中にいる存在で、実際に政務を行っているのは卑弥呼の弟です。

弟が姉を傀儡にすると言うのも変だとも感じており、卑弥呼が傀儡だったとする説は少し難しいとも感じました。

外敵の脅威により団結した

倭国大乱が終焉した理由ですが、外部の脅威とする説があります。

中国の春秋戦国時代では強国の秦に対し残りの六国が同盟する合従が行われました。

古代ギリシャでもアテネやスパルタなど様々なポリスがあり争っていましたが、アケメネス朝ペルシアの脅威が出ると一致団結しています。

倭国大乱で様々な国が争いましたが、共通の敵が現れれば国々は団結するとも考えられるわけです。

魏志倭人伝を見ると邪馬台国は狗奴国と戦争をしており、魏の張政が調停などもしていますが、かなり苦戦している事が分かります。

それを考えれば、狗奴国という驚異の前に倭の諸侯が団結したと考える事も出来ます。

倭国大乱からの日本列島の歴史

倭国大乱の時代に日本列島がどの様になっていたのか、考察してみました。

倭国大乱の記述を信じるのであれば、鉄鏃の発見や瀬戸内海沿岸の高地性集落を見ても分かる様に、九州で倭国大乱が勃発したと考えるべきでしょう。

九州では倭国大乱があり狗奴国の脅威もあった事から、邪馬台国卑弥呼を中心とする邪馬台国連合が結成されました。

魏志倭人伝の記述からも分かる様に、邪馬台国と狗奴国は共に鉄器は持っていましたが、互いに戦争により消耗していたと言えます。

この時に、近畿地方には大和王権がおり、欠史八代の時代だったのではないでしょうか。

欠史八代は記録が少なく「存在しなかった説」もありますが、婚姻の記録だけは残っています。

それを考えると、大和王権は欠史八代の時代に欧州のハプスブルク家の様な政略結婚により、勢力を拡大したとみる事も出来るはずです。

倭国大乱で消耗する北部九州を横目に、大和王権は婚姻により勢力を拡大していたとみる事も出来ます。

大和王権は鉄の国ではありませんでしたが、政略結婚により国力を蓄えたと考えるべきでしょう。

大和王権も崇神天皇の時代になると、四道将軍を各地に派遣するなど、本格的な外征の時代に入ります。

この時に、倭国(邪馬台国)と大和王権の緩衝地として、瀬戸内海周辺の国々があったはずです。

瀬戸内海の国々は大和王権に味方するのか、鉄資源がある邪馬台国の勢力に味方するのか?の選択肢に迫られた可能性もあります。

邪馬台国や奴国などの九州倭国の勢力は朝貢貿易を行う時に、奴隷貿易もしていた事が分かっています。

倭王師升も卑弥呼も奴隷貿易を行っています。

瀬戸内海の国々は邪馬台国に味方した場合は、自国の民が奴隷として中国に送られる可能性もありました。

民が奴隷として中国に送られる事は、領主たちにしてみてみれば、自らの求心力の低下にも繋がり避けたい部分でもあったはずです。

逆を考えれば、邪馬台国の卑弥呼は自国の民を中国への奴隷にするのは嫌がり、他国の民を奴隷にしたかった事でしょう。

それらを考えると、瀬戸内海の多くの諸国は大和王権に靡いたと考える事は出来ないでしょうか。

崇神天皇が崩御し垂仁天皇が即位した頃に、大加羅の王子であるツヌガアラシトが大和王権を訪れました。

記録にはありませんが、ツヌガアラシトの目的は大和王権に朝鮮半島の倭人を保護する立場になって貰いたかったのでしょう。

大和王権は朝鮮半島に出先機関である任那を設置する事にもなりました。

これにより大和王権の方にも鉄が多く流入し大和王権も朝鮮半島に多くの利権を持つ事になったと考える事が出来ます。

この頃になると、倭国大乱から共立された卑弥呼の時代は終わっており、邪馬台国も弱体化していたのではないか?とも考えられます。

三国志の時代を終わらせた西晋ですが、八王の乱もあり邪馬台国の後ろ盾となる事は出来なかったのでしょう。

倭国大乱で興隆した邪馬台国ですが、景行天皇の土蜘蛛討伐や日本武尊の征西、仲哀天皇の九州遠征もあり、最終的に神功皇后の時代には滅亡したと考えられます。

山門の田油津媛が滅んだ時が、邪馬台国の終焉だったのかも知れません。

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