名前 | 邪馬台国 |
別名 | 邪馬壱国 |
読み方 | やまたいこく、やまとこくなど |
年表 | 170年頃 卑弥呼が即位 |
239年頃 魏に朝貢 | |
266年 西晋に朝貢 |
邪馬台国は魏志倭人伝に登場する卑弥呼が女王となり治めた国です。
しかし、邪馬台国の場所には様々な説があり、現在でも九州説と近畿説を中心に揉めている状態です。
邪馬台国が東に移り大和王権になったとする邪馬台国東遷説や、邪馬台国は日本ではなく海外にあったなど様々な説が出ています。
ただし、個人的には魏志倭人伝の記述を読む限りは、邪馬台国の場所は北九州にあったと考えています。
何故、邪馬台国の場所が近畿ではなく九州になるのかを解説します。
邪馬台国の歴史に関してですが、卑弥呼の時代に始まり西晋の弱体化に伴い勢力を後退させ、空白の150年の間に滅亡したとするのが妥当だと感じました。
邪馬台国の場所が九州で、さらに邪馬台国がどの様に滅亡したのかも合わせて解説します。
邪馬台国への道
帯方郡から狗邪韓国まで
最初にですが、魏志倭人伝の記述で朝鮮半島北部の帯方郡から邪馬台国までの距離が、1万2千里だという事を覚えておいてください。
魏志倭人伝には帯方郡(現在のソウル付近)から邪馬台国への記述がなされています。
帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って船で移動し、韓国を経て南下し、
次に東に向かい、倭の北岸である狗邪韓国に至る。
その距離は七千余里である。
ここで注目したいのは、帯方郡から邪馬台国までが一万二千里なのに、既に帯方郡から朝鮮半島の南にある狗邪韓国に来たところで、既に7千里を消費している事になります。
これで邪馬台国までの距離は残りが5千里となりました。
尚、狗邪韓国は名前に「韓国」が付きますが、実際には倭人の国だと考えられています。
狗邪韓国は伽耶もしくは、加羅の事だとされています。
対馬国から末羅国(九州上陸)
狗邪韓国から日本のエリアに入る事になります。
海を千余里移動すると、対馬国に至る。
大官を卑狗、副を卑奴母離と呼ぶ。
対馬には千余戸あり。良い田地はなく海産物を食べて交易をしている。
上記の対馬国は間違いなく現在の対馬の事でしょう。
尚、地名の9割は千年後でも9割が残ると言われ、地名に関しては古代日本の地理を考える上で重要なポイントです。
現在でも邪馬台国の時代と同じ地名が8割は残っているのではないか?とも考えられています。
対馬の南の海峡を渡り千余里で、一大国に至る。
官を卑狗、副は卑奴母離と呼ぶ。
三千ほどの家があり、田畑はあるが船で交易を行っている。
一大国が現在の壱岐だと考えられています。
尚、魏志倭人伝では一大国と記載されていますが、梁書、隋書、北史などでは一支国となっています。
また海を渡り千余里で末羅国に至る。
四千戸あり。皆が潜って魚をとる。
末羅国が現在の長崎県松浦市だと考えられ、末羅国で九州に上陸した事になります。
帯方郡から邪馬台国まで1万2千里の距離だったのですが、帯方郡から九州上陸するまでに1万里を消費した事になります。
邪馬台国まで残りは二千里しかありません。
尚、朝鮮半島南部の狗邪韓国→対馬国→一支国→末羅国までの海上を渡る区間は全てが千余里となっていますが、当時の技術では海上は正確な距離の測定が出来なかった為だと思われます。
それでも、島間の長い短いの差はありますが、全て千里で計算しました。
伊都国が重要
末羅国の次に伊都国に行きますが、伊都国が邪馬台国の場所を知る上で重要なポイントになります。
東南に陸行五百里にして、伊都国に至る。官及び副官がいて、
家は千余戸。代々王はいるが女王国に属す。
ここは帯方郡の使者が常に留まる所なり。
伊都国は名前から見ても現在の福岡県糸島市だと考えられています。
ただし、魏志倭人伝の記述だと末羅国から東南に移動すると伊都国となりますが、糸島市だとすれば北東に位置する事になります。
しかし、末羅国から糸島市は陸路で行くわけであり、海岸線に沿って行けば、最初に東南に移動した後に、北東に移動する事になります。
それを考えれば、東南でも間違ってはいない事になるはずです。
伊都国は邪馬台国の観察機関である一大卒が設置されるなど重要拠点となっています。
尚、末羅国から伊都国まで陸路で行くのは、邪馬台国としても背後に魏がいる事をアピールしたいわけであり、陸路で進んだと考えられています。
もしくは魏の使者に何かあったら困るわけであり、最大限の安全を考えて陸路を移動したのかも知れません。
さらに、次の記述が存在します。
女王国より北の地域には、特別に一大卒の官が置かれて、国々を監視し、国々はそれを畏れている。
一大卒は伊都国にその役所を置き、国々の間でちょうど中国の刺史の様な権威を持っている。
上記の文章で女王国の北に一大卒があり伊都国に役所があると書かれているわけです。
女王国(邪馬台国)の北に伊都国があるならば、伊都国の南には邪馬台国があるという事になるはずです。
それを考えれば、伊都国の南にある筑紫平野の辺りが邪馬台国の有力地になると読み解く事が出来ます。
尚、伊都国は魏の使者が留まる場所でもあり、倭国に行ったとされる弓遵、梯儁、張政らは伊都国までしか行っていない可能性が高いです。
因みに、伊都国までは倭国の民衆の描写がありますが、伊都国以降の国は民衆の描写が無くなり、邪馬台国であっても民衆の姿は描かれていません。
末羅国から伊都国の場所が東南と書かれており、伊都国の場所が吉野ケ里遺跡だったのではないか?とする説も存在しています。
それでも、普通に考えて伊都国の場所が九州から出る事はないでしょう。
尚、伊都国に邪馬台国の監察官である一大卒がいる事に着目し、邪馬台国近畿説が否定される場合もあります。
邪馬台国が近畿にあったら、九州の伊都国にまで監察官を派遣し、諸国の監視するなど極めて難しいと考えられるからです。
奴国から不弥国
伊都国の次の記述があるのが奴国です。
東南奴国に百里で至る。
官及び副官がいて、二万余戸ある。
奴国は福岡県の博多近辺だと考えられています。
奴国は人口2万戸の国であり、邪馬台国7万戸、投馬国5万戸に次ぐ人口の多さを誇っています。
奴国は博多周辺の平野を利用した国だと考えられています。
奴国は人口の2万戸を養う必要があり都市国家ではなく領土国家だったと考える事が出来ます。
尚、奴国は後漢の光武帝に朝貢して授かったとされる漢委奴國王の金印が有名です。
魏志倭人伝で奴国の次に記載があるのが、不弥国となります。
奴国から百里で不弥国に至り、
官及び副官がいて、千余家あり。
不弥国が現在の福岡県糟屋郡宇美町でしょう。
既に起点である帯方郡から不弥国まで、1万700里を移動した事になり、残りは1300里となります。
残り1300里ですから、九州から出るのが難しく、魏志倭人伝の記述を普通に読めば近畿説は否定される事になります。
しかし、ここからが魏志倭人伝の難しい所です。
投馬国の謎
奴国の次に投馬国が記載されていますが、次の様に書かれています。
南にある投馬国に至るには、
水行二十日、官及び副官がいて、約五万余戸ある。
今までは「何里」と距離が書いたあったわけですが、投馬国からは水行や陸行など距離の単位が日数に変わります。
投馬国は人口が五万戸もあり、倭国の中でも邪馬台国に次ぐ人口を誇る大国です。
専門家によっては投馬国が大宰府だという方もいますが、投馬国は倭国の中でも大きな国であり、邪馬台国への道筋とは関係なく紹介した話もあります。
投馬国に対しては、出雲説、宮崎説、鹿児島説、但馬説などが存在しています。
個人的には宮崎県の西都市都萬神社の付近だったのではないかと感じております。
古事記や日本書紀によれば天皇家は神武天皇が神武東征を行い日向から大和の地に移動しました。
神武東征を行うだけの国力がある国は日向であり、神武東征後に残ったのが投馬国だったとも感じているからです。
都萬神社がある宮崎県西都市には、西都原古墳群が存在し日向と大和王権の関係性は強いのではないかと考える事も出来ます。
尚、投馬国に関しては、魏の使者が滞在している伊都国を起点にした距離ではないか?ともされています。
邪馬台国の所在地
水行十日、陸行一月
投馬国の次に書かれているのが、邪馬台国の場所に関する記述です。
南に邪馬台国がある。女王が都とする所、水行十日、陸行一月。
官三名おり。約七万余戸あり。
邪馬台国の「水行十日、陸行一月」の記述が専門家や我々を悩ます事が多く、邪馬台国ジャワ説、邪馬台国エジプト説、邪馬台国畿内説、四国説などが考えられてしまうわけです。
個人的には、この「水行十日、陸行一月」を考えるに、普通に思考してはダメであり、視点を変えてみる必要があるのではないでしょうか。
因みに、邪馬台国近畿説では「南」は間違いであり「東」が正解だとし、邪馬台国が近畿の大和盆地にあったとする事が多いです。
ただし、本当に記述が間違えたのかは不明であり、不弥国から邪馬台国までの距離は残りが1300里しかなく邪馬台国が近畿にあったとすると記述の辻褄が合いません。
邪馬台国の朝貢の目的
邪馬台国の卑弥呼が大夫である難升米や都市牛利を魏に派遣し、朝貢した理由を考えてみると、狗奴国との対立が背景にあった事は確実でしょう。
実際に卑弥呼は親魏倭王になった後であっても、狗奴国の卑弥弓呼との戦争が勃発しています。
邪馬台国と狗奴国の戦争は魏の張政の調停がありましたが、邪馬台国が有利であれば張政に戦いを調停して貰う必要はなかったはずです。
邪馬台国が魏に朝貢した理由は、親魏倭王の位を授かり、狗奴国との戦いを有利に進めたかったのが現状でしょう。
魏の詔書
卑弥呼は曹叡もしくは曹芳に朝貢し親魏倭王となりましたが、魏は卑弥呼へ多くの返礼品を贈り詔の中に次の一文が存在します。
※正史三国志 魏志倭人伝より
「これら(返礼品)の全ては、汝(卑弥呼)の国のうちの者達に示し、魏の朝廷が汝らに深く心を注いでいると知らしめんが為である。」
魏の朝廷は卑弥呼に返礼品を諸国に示す様に命じているわけです。
魏としても遠国である倭国で魏の朝廷の威光を示せる事は権威の上昇に繋がりますし、邪馬台国でも魏が背後にいる事を見せつけ狗奴国との戦いを有利に進めたいと考えたのでしょう。
水行十日、陸行一月の意味
卑弥呼の目的は魏に朝貢し倭の国々の求心力を高め、狗奴国を牽制する狙いがあったはずです。
さらに言えば、中華の魏が邪馬台国の背後にいる事を考え、狗奴国に靡いている諸侯の切り崩しの狙いもあった様に思います。
邪馬台国としては魏からやってきた人々が、行列を作り派手なアピールをして沿道に人を集め、ゆっくりと移動して貰いたかった事でしょう。
諸国を周り国の代表には、魏からの返礼品である銅鏡や見た事も無い様な珍宝を見せびらかせ、魏と邪馬台国が懇意にしている所を見せつけたかったはずです。
邪馬台国の住民にしても、魏の行列など一生に一度しか見れない様な出来事でもあり、多くの人が見物に集まったと想像するのは難しくありません。
民衆が多く集まれば、それだけ邪馬台国の噂は口コミで広がり威勢を見せる事が出来るわけです。
そうなると雨の日は移動しなかった可能性もあり、倭の諸国からの魏に対する歓待もあった様に感じています。
邪馬台国に行くには「水行十日、陸行一月」という記述があるので「水行十日」は筑後川を下ったはずですが、何度も停止し様々な国に立ち寄って財宝を見せつけた可能性も高い様に感じています。
筑紫平野は人口の密集地帯であり多くの国に立ち寄り、魏との仲を見せつけた可能性も高いです。
邪馬台国の南には狗奴国があり、狗奴国の諸侯に対する切り崩しや、邪馬台国の諸国に対する求心力の上昇も期待した事でしょう。
邪馬台国の政治的な思惑が重なった結果として「水行十日、陸行一月」という長い期間での移動となったはずです。
水行十日、陸行一月の正体は、魏と邪馬台国が懇意にしている事をアピールしたい為に、わざとゆっくりと移動したと考えられます。
邪馬台国の北方の国
魏志倭人伝には、邪馬台国の北の周辺国として、斯馬国、姐奴国、対蘇国、躬臣国、烏奴国などの21の国々が挙げられています。
代表的な所だと、斯馬国が現在の福岡県志摩郡、姐奴国が佐賀市、対蘇国が鳥栖市、躬臣国が大分県の玖珠町、烏奴国が大野城市だと考える事が出来ます。
邪馬台国は吉野ケ里遺跡にあったという方もいますが、吉野ケ里遺跡は鳥栖市と佐賀市の中間に位置する様な場所です。
それを考えると個人的には吉野ケ里遺跡は邪馬台国ではないと考えています。
烏奴国と大野城市に関しては、名前が似てないと思うかも知れませんが、昔は大野と呼ばれていて、「おうぬ」と呼ばれていました。
これらは九州に存在する地名であり、邪馬台国の北の国々となるのでしょう。
地名で考えれば邪馬台国は九州にあった可能性が高いと言えます。
魏志倭人伝では奴国で女王国の領域が終わる記述があり、邪馬台国が九州全体を治めていたわけでもないという事が分かるはずです。
魏志倭人伝の記述を見る限りでは倭国の最北端は奴国となります。
邪馬台国は何処にあったのか
山門郡が有力
邪馬台国は何処にあったかですが、現在の福岡県みやま市から熊本県山鹿市にある筑紫山門と肥後山門を合わせた地域だと考えられます。
邪馬台国は「やまたいこく」と呼ぶのが一般的ですが「邪馬台(やまと)と読む事も出来て、地名的に一致するはずです。
筑紫山門と肥後山門の間には、筑肥山地がありますが標高はそれほど高くはありません。
筑肥山地は山と言うよりは丘と言ってよく、場所によっては農業も行われています。
邪馬台国の首都は旧山門郡にあったと考えるのが妥当でしょう。
邪馬台国は7万戸の国であり、それだけの人数を養える場所となれば、筑紫平野くらいしか考えられません。
単純計算で1つの家に5人いたとすれば、35万人を養うだけの土地が必要となります。
尚、邪馬台国は九州にあったと考えられますが、最北端は奴国の辺りであり北九州の方までは勢力下になかったはずです。
邪馬台国が吉野ケ里遺跡にあったという説もありますが、吉野ケ里遺跡は重要拠点ではありましたが、邪馬台国の所在地で考えれば山門郡の方がしっくりと来ます。
女山の存在
みやま市には女山があり旧名は女王山と呼ばれていました。
女山の周辺からは立派な銅矛や装飾品が見つかっています。
それを考えると、卑弥呼が本拠地とした場所は女山の可能性もあるはずです。
卑弥呼の墓がみやま市の権現塚古墳だったとする説もありますが、邪馬台国の本国がみやま市や山鹿市にあったとするならば、何の問題もないでしょう。
邪馬台国の周辺情報
邪馬台国の場所を考える上で、邪馬台国の周辺情報も考慮する事も重要です。
魏志倭人伝に下記の記述が存在します。
※魏志倭人伝より
邪馬台国の南に狗奴国があり、男子を王と為す。
その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。
狗奴国が邪馬台国のライバル国であり、日本書紀や古事記に登場する熊襲ではないか?とも考えられています。
官職名である狗古智卑狗が都市の名前となり、現在の菊池市だともされている状態です。
菊池市には菊池彦なる領主がおり、魏志倭人伝の記述と一致します。
狗奴国の領土は熊本平野の辺りだと考える事が出来ます。
狗奴国や熊襲と言えば、邪馬台国や大和朝廷に従わない、文明が遅れた蛮族に思われがちですが、実際には良質な鉄器を持つ強国だったわけです。
狗奴国は倭国の中でも1,2を争う文明を持っていた事でしょう。
実際に熊本県からは日本でも1,2を争う良質な鉄が発見されています。
ただし、狗奴国の北には邪馬台国があり、地理的な条件で狗奴国は魏に朝貢するのは難しかったと考えられます。
一里は何里なのか?
魏志倭人伝には帯方郡から邪馬台国までの距離が1万2千余里と書かれています。
中国の一里の長さは時代と共に変わり、現在の中国が使われている一里は魏志倭人伝の一里と距離が違うと考えられています。
魏志倭人伝の一里の長さを知る上で重要なのが、中国の古代数学書である「周髀算経」であり、周髀算経によれば一里は76メートルとなっています。
現在で中国で使われている一里は500メートルですが、当時とは明らかに距離が違うと考えるべきでしょう。
魏志倭人伝の言う千里と言うのは、狗邪韓国から対馬、対馬から壱岐など、それほどの距離がないという事が分かるはずです。
倭種の存在
魏志倭人伝の記述に、女王国から東に一千里の海を渡ると別々の国があり倭種がいると書かれています。
倭種は倭人と同じ種族という事であり、三韓などの韓族や高句麗などのツングース系とは別の民族が住んでいたと言いたかったのでしょう。
邪馬台国の場所が北九州にあったとすれば、東の国東半島を渡れば本州に上陸し倭種がいた事が確認出来るはずです。
しかし、邪馬台国近畿説を採用してしまうと、太平洋を渡ったり伊勢湾や琵琶湖を海と考えて渡る事になってしまいます。
他にも、倭種の次に記述がある背丈の低い人が住んでいた侏儒国の記載を考え、倭種は架空の存在になってしまうわけです。
倭種の記述を普通に考えれば、邪馬台国は北部九州にあったと言えるでしょう。
尚、邪馬台国の場所を知る上でのキーポイントである倭種の中には、近畿の大和王権があったと考える事も出来ます。
大和王権は近畿を本拠地としており、魏とは国交がなく記録されなかった可能性も高いです。
女王国から北の国々
魏志倭人伝では邪馬台国の場所の説明が終わると、次の記述が存在します。
※魏志倭人伝より
女王国の北方の国々に関しては、戸数や道のりをほぼ記録する事が出来るが、それ以外の方向に連なる国に関しては、遠く隔たっており詳細を知る事が出来ない。
次に下記の国々も記載があります。
斯馬国 | 己百支国 | 伊邪国 | 都支国 |
弥奴国 | 好古都国 | 不呼国 | 姐奴国 |
対蘇国 | 蘇奴国 | 呼邑国 | 華奴蘇奴国 |
鬼国 | 為吾国 | 鬼奴国 | 邪馬国 |
躬臣国 | 巴利国 | 支惟国 | 烏奴国 |
上記の国々は突如として「次に●●国」と書かれており、何処を起点にして述べているのか記載がありません。
しかし、糸島市の付近に斯馬国(志摩郡)がある事から、伊都国を起点にして、左回りで記述したのではないか?とも考えられています。
現在の地名と合わせると、下記の様になるのではないでしょうか。
斯馬国 | 福岡県志摩郡 |
姐奴国 | 佐賀市 |
対蘇国 | 鳥栖市 |
躬臣国 | 玖珠町 |
烏奴国 | 大野城市 |
対蘇国は「とすこく」と読む事も出来る事で、地名と一致したとも言えます。
烏奴国が現在の大野城市だと考えられ、隣に奴国があった事になっており、これで伊都国を起点とし北九州を左回りで一周した事になるはずです。
尚、姐奴国(佐賀市)、対蘇国(鳥栖市)であれば吉野ケ里遺跡とも近い事になります。
吉野ケ里遺跡が邪馬台国だという方もいますが、個人的には吉野ケ里遺跡は邪馬台国ではなく筑紫平野の山門郡が邪馬台国だった可能性が高い様に感じています。
狗奴国の位置
邪馬台国の場所を知るには、邪馬台国の南にあったとされるライバル国・狗奴国の位置を探る事も重要です。
狗奴国は熊本の球磨郡ではないでしょうか。
狗奴国のには狗古智卑狗という長官がいたとされていますが、これが菊池市の近辺を治めていた領主である菊池彦ではないかと考えられています。
それを考えれば熊本県の菊池市までは邪馬台国の勢力下になかったと見る事が出来るはずです。
邪馬台国の領域
邪馬台国は連合国家であり、邪馬台国の首都であり卑弥呼がいる場所は山門郡だと考える事が出来ます。
邪馬台国の北は奴国がある福岡平野までであり、南は現在のみやま市から山鹿市辺りまでと言う事になるでしょう。
近畿説を採用してしまうと、倭種、伊都国の位置、邪馬台国の北の国々などの記述を全て無視する結果になってしまうわけです。
それを考えれば、邪馬台国は九州にあったと考えた方が自然とする結論が出ました。
邪馬台国は倭国最強の国家だったのか?
邪馬台国と言えば、魏から卑弥呼が親魏倭王に柵方されるなど、破格の扱いを受けていた事は間違いないでしょう。
正史三国志の東夷伝には、馬韓、弁韓、辰韓などの三韓の国や高句麗の名前が挙がっていますが、親魏●●王としてはいません。
魏が親魏と付けた国は親魏倭王と親魏大月氏王の二カ国だけです。
しかし、親魏倭王の称号を邪馬台国の卑弥呼が賜わっても、倭国最強が邪馬台国だとは限らないはずです。
邪馬台国の地形を見ると北九州にあり、朝鮮半島とも極めて近い事が分かります。
邪馬台国が北九州にいる限りは、狗奴国や倭種の国が魏に朝貢しようと思っても邪馬台国が邪魔しており、かなり難しかった事でしょう。
邪馬台国は地理的な有利を生かして、いち早く魏とコンタクトを取り、親魏倭王に認めさせた様に感じました。
実際の邪馬台国は狗奴国を相手にも苦戦していた様であり、倭国最強の勢力だとは限らないと見る事が出来ます。
邪馬台国の歴史
卑弥呼時代
邪馬台国の始まりは倭国大乱で乱れた国々が卑弥呼を王とする事で連合国家が誕生した事に始まります。
それ以前の邪馬台国がどの様な国だったのかは記述がなく分かっていません。
三国史記の記述が正しければ卑弥呼は西暦170年頃に倭王に即位したと言えそうです。
卑弥呼の治世の後半になると、魏に朝貢し親魏倭王となるなど邪馬台国の全盛期を築き上げたと言えるでしょう。
九州北部に邪馬台国はあったと考えれば、地理的に魏に朝貢しやすい場所でもありました。
ただし、邪馬台国は狗奴国との戦争には勝利した記録がなく、魏の張政が調停を行い狗奴国との戦争を取りやめて貰おうとした話があります。
台与の時代
卑弥呼が248年頃に亡くなると男王が立ちますが、倭国は再び乱れました。
しかし、卑弥呼の親族である台与が邪馬台国の王となるや国が治まったと伝わっています。
即位した時の台与は僅か13歳であり政治を行えたとは思えず、周囲の大人が政治を動かし神輿に過ぎなかったはずです。
266年になると魏は滅び西晋が後継国となっていましたが、倭の女王が朝貢した話があります。
266年に朝貢した倭の女王が台与ではないかとも考えられています。
邪馬台国は女性が王になると国が治まる様な傾向があり、266年に朝貢したのは台与の後継者となった女性も可能性もあるはずです。
空白の150年
266年に朝貢してから、中国の史書から倭の言葉が消える事になります。
413年もしくは421年に倭の五王の一人である倭王讃が宋へ朝貢するまでの期間を空白の150年とか、空白の4世紀などと呼んだりします。
空白の150年の間に、邪馬台国は弱体化したと考えられます。
邪馬台国は魏や西晋に朝貢し援助をして貰い狗奴国に対抗していました。
西晋は西暦280年に呉を滅ぼし三国志の世界を終わらせ天下統一を成し遂げています。
しかし、西晋は300年ごろから八王の乱がエスカレートし、軍事衝突に繋がってしまい邪馬台国が存続していたとしても、援助する余裕はなかったはずです。
それを考えれば、中華王朝のバックアップを失った邪馬台国が衰退してもおかしくはないでしょう。
近畿からは大和王権の圧力もあったはずです。
大和王権では欠史八代の時代が終わると、崇神天皇が四道将軍を各地に派遣したり、垂仁天皇が纏向を都とするなど強勢となっていきました。
さらに、景行天皇の時代では土蜘蛛討伐を行ったり、日本武尊が熊襲討伐を行っており大和王権の勢力が九州にまで侵攻した事が分かるはずです。
邪馬台国の滅亡
仲哀天皇の時代になると、熊襲が再び背き天皇が自ら討伐に赴きました。
この時に、伊都の県主の先祖である五十迹手が仲哀天皇に接近した話が日本書紀に残っています。
伊都国は邪馬台国の重要拠点で過去には一大卒が設置されるなどありましたが、仲哀天皇の時代に大和王権の支配地域となったのでしょう。
仲哀天皇が崩御すると神功皇后が九州の羽白熊鷲や田油津媛を討伐しました。
田油津媛は山門の県を本拠地としており、これが邪馬台国の末期の姿だとも考えられています。
田油津媛は呆気なく神功皇后に討ち取られてしまいましたが、これが邪馬台国の滅亡ではないか?とも考えられています。
神功皇后は田油津媛の討伐が終わると、朝鮮半島に遠征し三韓征伐を行っている事から、神功皇后の時代に邪馬台国は滅び九州は大和王権の支配下に入ったのでしょう。
尚、邪馬台国最後の女王とも目されている田油津媛ですが、卑弥呼との同一人物説も存在しています。