名前 | 趙遷(ちょうせん) |
諡号 | 幽穆王 |
国 | 趙 |
生没年 | 不明 |
在位 | 紀元前235年ー紀元前228年 |
年表 | 紀元前234年 趙将扈輒が平陽の戦いで破れ10万の兵を失う |
紀元前233年 李牧が肥下の戦いで秦軍を破る | |
紀元前232年 李牧が番吾で秦軍を破る | |
紀元前231、230年 趙で大地震と大飢饉 | |
紀元前228年 秦軍の捕虜となる |
趙の幽穆王と言えば、趙の悼襄王の子で、戦国時代の暗君の代名詞として扱われる様な人物です。
趙の幽穆王は郭開や韓倉を重用し、名将李牧を処刑した話があり、暗君として名を馳せている事実もあります。
さらに言えば、幽穆王という諡も幽穆王の無能さを語っている様にも感じました。
幽穆王の諡の「幽」は周の幽王など国を亡ぼすなど、行いが悪かった人物に付けられる諡でもあります。
さらに、「穆」は過ちを犯したとする意味もあります。
それを考えると、幽穆王の諡からは名君としての資質は感じられません。
ただし、「穆」の諡に関して言えば、秦の穆公や周の穆王などがいます。
秦の穆公は春秋五覇の一人に選ばれる事もありますし、周の穆王の時代が西周王朝の全盛期だった話もあります。
「穆」の諡に関しては、過ちをしたともされますが、名君として考えられる場合もあります。
今回紹介する趙の幽穆王は名君とは言いませんが、かなり運が無かった王様とも言えそうです。
尚、春秋戦国時代を題材にした人気漫画であるキングダムで、趙の幽穆王は次の言葉を発した話があります。
幽穆王「私の興味は、快楽に溺れていた父王を超える快楽の極みに達する事だけだ」
しかし、史記や戦国策、資治通鑑などを見ても、趙の幽穆王が、その様な言葉を述べた記録はなく、フィクションだと考えた方がよいでしょう。
幽穆王が即位
趙の幽穆王ですが、元から趙の悼襄王の太子だったわけではありません。
趙の悼襄王の太子は趙嘉だったわけですが、趙の悼襄王は幽穆王の母親である悼倡后を寵愛しました。
悼倡后の願いもあったのか、趙の悼襄王は太子の位を趙嘉から趙遷(幽穆王)に変える事にしたわけです。
悼倡后は遊女だった話もあり、実家のバックアップも無かったと思われますが、趙の悼襄王の寵愛だけで息子の趙遷を太子にする事が出来たのでしょう。
尚、趙遷も素行は悪かった様ですが、これに関しては、最後の王様は悪く書かれる傾向にあり、それが影響したのかも知れません。
因みに、趙の幽穆王の母親である悼倡后は、春平君と密通したり、秦から賄賂を受け取るなど、かなりの問題行為をしていた話しも残っています。
趙の幽穆王の母親が悼倡后だったと言うのも、幽穆王の不幸の元でもあった様に感じます。
さらに言えば、趙の悼襄王の末年に、趙は秦の王翦、楊端和、桓齮の三将に、趙の首都邯鄲の南にある鄴を落とされるなど、苦境に立たされていました。
鄴攻めが終わった頃には、趙の領土は全盛期の武霊王の頃に比べると、領地は4分の一にまでなっていた話があります。
平陽の戦い(紀元前234年)
趙の幽穆王が即位して2年目には、平陽の戦いが勃発しています。
平陽の戦いでは、趙の扈輒が秦の桓齮に敗れ10万の兵を失うという大打撃を食らいました。
趙の幽穆王は即位して、まだ2年目であり政治も慣れていない状態だったとも考えられ、扈輒の大敗はかなりの衝撃だった様に思います。
尚、幽穆王の父親である悼襄王の時代は、代表的な将軍が龐煖でしたが、幽穆王の時代になると龐煖の名前が見えません。
それを考えると、趙の幽穆王は龐煖を用いずに、扈輒を大抜擢したが、扈輒は期待に応える事が出来ず、大敗してしまった可能性もある様に思います。
他にも、扈輒は幽穆王の側近であり、趙の幽穆王は扈輒に功績を立てさせようとしたら、大敗してしまったのかも知れません。
名将李牧
秦の攻勢は収まらずに、趙の幽穆王の3年(紀元前233年)には秦の桓齮が趙の宜安、肥下、赤麗などを攻撃しました。
この時に趙の幽穆王は北方の代にいた将軍である李牧を大将軍に任命し、秦軍と戦わせています。
趙側としては首都圏を秦軍に荒されている状態であり、趙の幽穆王としても、かなり苦しい状態だったはずです。
さらに、先の平陽の戦いでは扈輒は10万の兵を失っていた事で、李牧に全てを掛けるつもりで大将軍に任命したのでしょう。
李牧が並みの武将であれば、秦軍に敗れて趙は滅亡した可能性もありますが、李牧は匈奴を大破した実績があり、春秋戦国時代でも屈指の名将だったわけです。
李牧は大将軍になるや宜安の戦いや肥下の戦いで秦軍を破りました。
趙の幽穆王は李牧の功績を認め武安君に任命しています。
武安君に関しては、燕の昭王が楽毅を昌国君として領地を与えた様に、李牧に領地を与えたとする説と武安君はあくまでも尊号だとする説があります。
因みに、戦国時代において武安君と呼ばれたのは白起、蘇秦、李牧の3人だけです。
白起は秦の昭王の時代に大活躍した武将ですし、蘇秦は戦国七雄の秦以外の六国の同盟を締結させています。
それを考えれば、趙の幽穆王が李牧を武安君に任命したのは、かなりの名誉ある事だった様にも感じます。
尚、趙では秦に何度も苦しめられた事から、楚にいる廉頗待望論も出て来た様ではありますが、郭開と廉頗の仲が悪かった事から実現はしませんでした。
廉頗は「趙兵を用いたい」と述べ、寂しく世を去った話があります。
李牧を宰相に任命する
戦国七雄を滅ぼした後の、始皇帝の言葉で趙の宰相である李牧が、秦に和議を結びにやってきた話があります。
これを考えると、趙の幽穆王は李牧を武安君に任命したタイミングで、李牧を宰相に任命したのかも知れません。
李牧は既に趙の大将軍となっており、宰相になった事で文武の要となり趙において位が高い臣下となったようにも思いました。
ただし、幽穆王は李牧を宰相と大将軍にしてしまった事で、これ以上役職を上げる事も出来ませんし、悩みの種だった様にも感じます。
さらに言えば、趙には佞臣とも言える郭開、韓倉、春平君、母親の悼倡后もおり、佞臣の連中からしてみれば、李牧の出世は面白くなかったのは間違いないでしょう。
尚、李牧は紀元前232年の番吾の戦いでも、秦軍を破る活躍を見せています。
秦軍も李牧が相手では分が悪いと思ったのか、講和を結んだ様に思います。
趙では宰相の李牧が秦に行き、講和の使者となったのでしょう。
代で大地震(紀元前231年)
趙の幽穆王は秦との講和が結ばれた事で、趙から秦兵が去り平和が訪れたはずでした。
しかし、趙の幽穆王の5年に次の記述があります。
「代で大地震が起き楽徐から西北方の平陰にいたるまで、桜台、家屋の大半が倒壊した。
地面の亀裂は東西に幅130歩にも及んだ」
これを見ると趙の北方にある代で、大地震が起きた事が分かります。
地面の亀裂が東西に幅130歩と言えば、かなり大規模な地震だったと言えるでしょう。
平陽の戦いで趙兵10万を斬首された事で、この時点で趙の主力軍となっていたのは代の兵士達だったはずです。
代の大地震は代の兵士らにも、大きな動揺を与えた事は間違いないでしょう。
代の兵士の中には、故郷の代に帰りたいと述べた者も多くいた様に思います。
しかし、趙の幽穆王の不幸は、これで終わりになったわけではありません。
大飢饉が起きる(紀元前230年)
趙の幽穆王の6年(紀元前230年)には、趙で大飢饉が起きた話があります。
趙で大飢饉が起きると、下記の様な民謡が流れた話があります。
趙は号き、秦は笑う
信じる事が出来ねば、地の毛(草)を見よ
この民謡は趙の大飢饉により、趙が秦に滅ぼされる事を揶揄したとも言えそうです。
尚、趙で大飢饉が起きた理由ですが、李牧は秦軍の戦いに原因があるとする説があります。
趙の若者の多くは秦との戦いに駆り出されてしまい、趙では農耕を行う事が出来ずに大飢饉になってしまった説です。
李牧は確かに秦軍を何度も破りましたが、秦と趙では国力が10倍以上も離れていたはずであり、趙の幽穆王や李牧は民にかなりの負担をかけてしまったとも考えられます。
しかし、秦軍が去ったと思ったら、大地震や大飢饉に襲われる趙の幽穆王は、かなり運のない王様だと言えるでしょう。
尚、趙で大飢饉があった紀元前230年は秦の内史騰により、韓が滅亡した年でもあります。
本当であれば、趙は韓を助けたかったが、援軍を送るだけの余裕もなかったのでしょう。
因みに、始皇帝の統一後の言葉で「趙は宰相の李牧を遣わして盟約したのに、晋陽で反旗を翻した」との言葉があります。
晋陽は過去に趙の領地だった土地であり、趙の幽穆王が韓を助けようとして、晋陽の反乱分子に声を掛けた可能性もある様に思います。
司空馬と幽穆王
趙の幽穆王の時代に、仮の宰相となった司空馬なる人物がいた事が戦国策に記述されています。
司空馬は呂不韋と親しい人物であり、呂不韋が嫪毐の事件で失脚した時に、一緒に秦を去る事になった人物です。
趙の幽穆王と司空馬は問答を行い、趙と秦を比較しますが、将軍、宰相の有能さ、国力、兵の数など全てにおいて趙は秦に及ばないとする判断をしました。
司空馬は「これでは趙は滅ぶ」と述べ、趙の領土を半分割譲すれば、諸侯は秦に恐怖し合従の同盟を結べると進言しました。
しかし、趙の幽穆王は幾ら秦に土地を割譲しても、秦を肥やすだけであり趙の禍は消えないと却下しています。
当時の趙の領土は、秦にかなり奪われており、普通に考えれば秦に土地を割譲しても無駄なのは明らかでしょう。
司空馬は趙の幽穆王に自分は秦の地形に詳しいから、趙の全軍を率いて秦軍と戦わせて欲しいと願います。
しかし、司空馬は軍隊を指揮した経験がない事もあり、趙の幽穆王は、またもや司空馬の進言を却下しました。
この策は一か八かの策になるかと思いますが、個人的には兵を率いるのであれば司空馬よりは李牧の方が良い様な気がします。
司空馬は自分の進言が用いられない事を知ると、趙の幽穆王の元を去る事にしました。
趙を去る時に、司空馬は趙の幽穆王は韓倉の意見を採用する事と、李牧の死を予言して趙を去っています。
個人的には、趙の幽穆王が司空馬の言葉を採用したとしても、趙を救う事は出来なかった様に感じています。
趙の幽穆王の最後
趙の幽穆王の7年(紀元前229年)に、秦の王翦、楊端和、羌瘣の三将軍に趙を攻撃させています。
この時に趙では、李牧と司馬尚を将軍として迎え撃つ事にしました。
趙では大地震や大飢饉が起きた事もあり、邯鄲で籠城する以外に道はなかったのでしょう。
それか、李牧と司馬尚の軍だけが、邯鄲の外に配置されていたのかも知れません。
李牧は過去に秦軍に対し、何度も苦杯を舐めさせていたわけであり、李牧が相手では王翦であっても迂闊に攻撃は出来なかったわけです。
しかし、秦では李斯や尉繚の政策により、多額の賄賂を使い趙の臣下の買収を行っていました。
買収に応じたのは、郭開、韓倉、春平君、趙の幽穆王の母親である悼倡后だともされています。
郭開、韓倉、春平君、悼倡后らは李牧を讒言し、趙の幽穆王は讒言を信じたのか李牧を処刑し、司馬尚を庶民に落しました。
これにほくそ笑んだのは、王翦、楊端和、羌瘣ら秦の三将軍だったわけです。
趙の幽穆王は李牧と司馬尚の代わりに、趙葱と顔聚を将軍に任命しますが、秦軍は趙葱と顔聚を破りました。
趙世家によれば、趙では幽穆王を奉じて降伏し、趙の幽穆王の8年の10月に趙の首都邯鄲は秦の領土となった話があります。
尚、秦側の記録では趙の幽穆王は東陽に逃亡しますが、王翦や羌瘣により捕えられたとあります。
趙の幽穆王は秦軍の捕虜となり、房陵に幽閉されたとも言われています。
趙の幽穆王は捕らえられますが、趙の元の太子であり趙の幽穆王の兄となる趙嘉は代で即位し、代王嘉となります。
趙の幽穆王・趙遷に幽穆王の諡を贈ったのは、代王嘉だとも感じています。
代王嘉も代王を6年間続けた記録がありますが、最後は秦の李信や王賁に敗れ、戦国七雄としての趙は完全に滅亡しました。
始皇帝死後に二世皇帝胡亥が即位しますが、この時に張耳と陳余に擁立された趙歇は趙王家の子孫だと伝わっています。
しかし、趙歇と陳余は楚漢戦争において韓信の背水の陣により敗れ去り、これにより趙は完全に滅亡したとも言えるでしょう。
趙の幽穆王の評価
趙の幽穆王ですが、李牧を殺害するなどの失策はあったにしても、かなり運がない王様だと感じました。
滅亡寸前の趙で王様になるのは、巡り合わせが悪かったと感じます。
さらに言えば、悼襄王時代からの佞臣である郭開、韓倉、春平君、母親の悼倡后が幅を利かせていたのは、既に趙が末期症状だった事が分かります。
悼襄王時代の負の遺産をまともに受けてしまった様にも見えます。
趙の幽穆王の良心とも言える李牧を処刑し、司空馬を去らせてしまったのは大きい様に感じます。
暗君と言えば、史書に伝わっている殷の紂王や夏の桀王の様に、民の事を顧みず残虐で、自分の欲求に従って動いている人物を想像しがちだと感じます。
しかし、趙の幽穆王と司空馬の話の中には、幽穆王が苦悩する姿があります。
それを考えると、趙の幽穆王は斜陽の趙を何とか立て直そうとしたが、秦の勢いが止められず結局は滅びてしまった様に思います。
さらに言えば、母親の悼倡后は趙の悼襄王の寵愛だけで、趙の幽穆王は趙王に即位しており、実家のバックアップもなく苦しい立場でも趙王の即位だった様にも感じました。
趙の幽穆王に対する大臣達の冷たい視線も感じられたかも知れませんし、趙の幽穆王も趙王にはなったが孤独を感じていた可能性もあるでしょう。
趙の幽穆王は名君とは呼べませんが、決して猜疑心ばかりが強く国を事を想っていない様な人物ではなかったはずです。