徐庶と言えば、劉備の最初の軍師というイメージが強いのではないかと思います。
三国志演義などでは、曹仁の八門金鎖の陣を破るなど、活躍しています。
しかし、程昱の策略により母親の手紙を受けとった徐庶は、やむなく曹操に降る事になるわけです。
劉備の元を去る時に、臥竜こと諸葛亮孔明を推薦して去るなど、渋い役として登場します。
さらに、赤壁の戦いでは、魏軍として参加しますが、龐統の連環の計を見破り、涼州の馬超に備えるという名目で戦地を離れています。
魏に仕えながらも、心は蜀にあるような描かれ方をしているのが、三国志演義の徐庶だと言えるでしょう。
今回は、史実の徐庶を中心に解説します。
三国志演義の徐庶は渋い役どころ
三国志演義の徐庶ですが、先ほど述べたように劉備の最初の軍師となっています。
当時の劉備は、水鏡先生(司馬徽)から「伏龍・鳳雛のいずれかのうち、一つでも手にする事が出来れば天下は取れる」と言われた事から軍師に対して興味を持っていた時期です。
そんな時に「天下が乱れているのに、俺を用いようとする奴はいない」と歌っている徐庶を見つけてしまう事になります。
ただし、この時の徐庶は単福と名乗っています。
単福と話をして、劉備は大いに気に入り軍師として迎える事になります。
魏の呂曠と呂翔が5000の兵士で、劉備が守る新野を攻めてた時に、見事な作戦を立てて2000の兵士で破る活躍をしています。
さらに、曹仁が李典と2万5千の大軍で攻めてきましたが、曹仁の八門金鎖の陣をいとも簡単に見破り大勝しました。
曹仁の本拠地でもある樊城まで奪い取ったわけです。
正史三国志の曹仁と言えば、魏でも屈指の名将なのですが、単福と戦った時の大言壮語などもあり、口ほどにも無いようなイメージがついてしまっています。
曹操は人材を多く集める事を好んだわけですが、単福にも興味を持つわけです。
程昱が、自分と単福(徐庶)は同郷だと教え親孝行な性格を利用して、母親の筆跡に真似た偽の手紙を徐庶に送る事になります。
それを見た徐庶は、曹操の元に行く事を決意して劉備の元を去るのですが、その時に「臥竜(伏龍)こと諸葛亮孔明」を推薦していくわけです。
劉備は、徐庶は失いましたが、三顧の礼により天才軍師である諸葛亮を手に入れる事になります。
その後、徐庶は赤壁の戦いでは、龐統の連環の計を見破ります。
龐統のアドバイスにより徐庶は、涼州に備えるという理由で戦場から離脱しています。
後に、周瑜の火計や黄蓋の苦肉の策などもあり、赤壁の戦いは孫権の大勝利に終わっています。
戦力では、曹操軍の方が圧倒的に上だったわけですが、呉の孫権を中心とする軍が完膚なきまでに叩きのめしたわけです。
ただし、徐庶が戦場を離脱する行為ですが、自分の周りの同僚や罪のない兵士を見捨てる行為にも見えますし、絶賛出来る様な行為とは思えません。
これが羅貫中が描く、三国志演義の徐庶です。
諸葛亮を紹介するまでは、渋くてカッコいい気もしますが、赤壁の戦いでのやり取りは、酷いな~とも感じました・・・。
史実の徐庶は任侠の人だった
陳寿の書いた正史三国志には、徐庶伝があるわけではありません。
しかし、諸葛亮伝に記述があり、そこから読み解く事が出来ます。
徐庶の出身ですが、名家ではなく、単家だったと書かれています。
単家と言うのは、権勢のない家の事を指します。
最初は、徐庶ではなく徐福と名乗っていました。
三国志演義で劉備の前に現れた時に、単福という名前を使っていますが、正史三国志の単家の徐福だから、単福と名乗らせたとする説もあります。
史実の徐庶ですが、若い頃は任侠の人で剣を振り回したりしていたようです。
ある時、徐庶は人に頼まれて仇討ちをします。
この敵討ちは、人を殺してしまったのではないかと思われます。
徐庶は逃げるわけですが、結局は役人に捕まってしまいます。
役人から名前を聞かれても口を開けなかったようで、役人も困ってしまい徐庶を柱に縛り付けて街中を引き回しました。
しかし、徐庶だと言う事を告げる人はいなかったとされています。
告げた場合に、任侠者の徐庶の復讐を恐れたのか、人望があったのかは分かりませんが、徐庶だと教える人はいなかったようです。
そうしているうちに、徐庶は仲間に助けられて逃亡する事になりました。
この時に、改名を行い徐福から徐庶に変更したようです。
罪を犯してしまった事から、本名ではいられなくなってしまった実情があるかと思います。
その後、逃亡して荊州に行き、司馬徽の門下生となります。
ただし、この時までに既に任侠の人はやめてしまったようで、学問に励むようになったようです。
仇討ちをした時や、逃亡している最中に思う事があったのでしょう。
尚、徐福と言えば始皇帝から大金を掴み海に出た徐福を想像する方も多いかと思いますが、秦の徐福と徐庶は同姓同名なだけであり関係がないと考えられています。
諸葛亮と知り合いになる
司馬徽の弟子となった時に、同門でいたのが諸葛亮孔明です。
正史には詳しく書かれていませんが、龐統ともここで知り合ったのではないかと思われます。
徐庶の勉強仲間として他にも、同じく北方から来た石韜、孟建などもいましたし、さらに劉表配下となる韓嵩や劉備に従った向朗などとも親交を結んだようです。
諸葛亮の事を評価する
徐庶は諸葛亮の事を非常に評価していたようです。
諸葛亮は同門である、徐庶、石韜、孟建などに「君たちは頑張れば、刺史や郡太守位にはなれるだろう」と言ったとされています。
この時に、徐庶たちは「君(諸葛亮)は、どれ位なのだ?」と聞いたら、笑って答えなかったという話が残っています。
この話ですが、一般的には諸葛亮の大志を見る事が出来るエピソードにも見えます。
しかし、ある意味「君たちは、州の刺史か郡太守止まりで終わりだ」と言っている様にも見えますし、諸葛亮の尊大さが分かるような話でもあります。
こういう話をされると、普通で考えれば嫌な奴だと思うかも知れません。
しかし、徐庶は諸葛亮に対する評価は変わらなかったようです。
徐庶の懐の広さが分かるようなエピソードと考える事も出来るでしょう。
尚、諸葛亮の方もこれを見ると、人に対して気を配るなどはしない性格にも見えます。
しかし、後年は関羽が黄忠と同列になるのは嫌がるから、黄忠の後将軍就任はやめるべきと述べています。
諸葛亮の方も昔に比べると、人に対して気を遣えるようになっている事が分かります。
この辺りは、案外、徐庶が自分にしてくれた態度などを見て、学び取った可能性もあるでしょう。
徐庶は官僚、諸葛亮は政治家?
司馬徽の元で徐庶や諸葛亮は、習っていたわけですが、諸葛亮は深く知ろうとはせずに、大要を掴む事に努めたとあります。
それに対して、徐庶は物事を深く細かく知ろうとしたと記載があります。
ここが徐庶と諸葛亮の違いなのでしょう。
諸葛亮は、「管仲・楽毅に匹敵する人物」と言ったりもしています。
ちなみに、管仲は斉の桓公を春秋五覇の一人で押し上げた春秋戦国時代の名宰相です。
楽毅は、春秋戦国時代に強国であった斉を壊滅状態にした将軍です。
諸葛亮は丞相や一番上の将軍となり、細かい事を指導せずに物事の方向性を決める事の重要さが分かっていたからではないでしょうか?
諸葛亮は、細かい部分は官僚などがやればよくて、自分は方向性だけを決めればよい!と考えていたのかも知れません。
それに対して徐庶は、物事を深く知ろうとしたりして、どちらかと言えば官僚型の勉強だったのかな?とも考えた事があります。
それを考えれば、学問を勉強していた時から、諸葛亮は政治家の勉強をして、徐庶は官僚型の勉強をしたのかも知れません。
これは、あくまで想像ですので、判断は読者に委ねます。
劉備に諸葛亮を推薦する
後に、徐庶は劉備に仕えています。
徐庶と劉備は気が合ったのかも知れません。
しかし、ある時に徐庶は劉備に諸葛亮を推薦する事にします。
この時に、徐庶は諸葛亮の事を「この人を連れて来る事は出来ませんが、行けば会う事は可能です」と言っています。
徐庶にも、諸葛亮を連れて来る程の力はないと言う事なのでしょう。
劉備は、諸葛亮には三顧の礼をするわけですが、関羽や張飛だけではなく徐庶にも同行させたのではないかと思われます。
諸葛亮の弟は、諸葛均と言いますが、最初の2回は劉備に仕えるつもりもなく、諸葛均に対応させたのでしょう。
しかし、何故か劉備は諦める事をせずに、3回目も諸葛亮が住む場所と尋ねています。
この時に、劉備は諸葛亮の事を大いに気に入り、この時から劉備軍の頭脳としての役目となります。
ここで諸葛亮は、荊州と益州を取る事を劉備に勧めたはずです。
劉備と諸葛亮を引き合わせた徐庶の功績は大きいと言えます。
長坂の戦いで劉備と別れる
劉表が死に、劉琮が後を継ぎますが、この時に曹操は荊州を攻め取るべく南下してきます。
この時に、劉備は人望がありましたから、兵を集めて劉琮を急襲すれば荊州の主になった可能性もあります。
諸葛亮や徐庶などは、劉琮を攻める様に劉備に進言したのかも知れませんが、劉備は採用しなかったのかも知れません。
因みに、正史三国志の諸葛亮の言葉で実際に、劉備に劉琮を攻めれば荊州の主になれると進言した話も残っています。
曹操は徐州で大虐殺などを行ってしまった為に、曹操が来たら酷い目に合わされると思い襄陽などの住民が劉備についてきました。
劉備は住民たちと南下を始めますが、曹操は騎兵隊を放ち追撃を行います。
この時に、劉備配下の趙雲が甘夫人や阿斗(後の劉禅)を無事に救出しています。
しかし、劉備自身は、曹操軍の追撃を見ると真っ先に逃げ出してしまったわけです。
さらに、徐庶の母親も曹操に捕らえられてしまいます。
それでも徐庶は劉備と南下を続けたわけですが、呉の魯粛が劉備の元を訪れる頃には、劉備に暇乞いをしています。
理由としては、母が捕らえられてしまい、母の元に帰るという理由です。
ここで徐庶と劉備は別れますが、これ以降で徐庶と劉備は会う事はなかったでしょう。
もちろん、徐庶と諸葛亮も会っていないのではないかと思われます。
後に諸葛亮は、蜀漢の丞相となり北伐を行うのですが、徐庶や石韜の官職を聞いて「魏は有能な人が多いはずであるが、あの二人が用いられないのはなぜだろう?」と不思議がった話が残っています。
徐庶の最後ですが、明帝(曹叡)の時代に亡くなったとされています。
諸葛亮が亡くなったのが西暦234年ですが、同じころに徐庶も亡くなったとする説が有力です。
徐庶が魏に仕えた事は事実ですが、歴史に残るような活躍はしなかったようです。
これは、ちょっぴり淋しく感じます。
徐庶が劉備の元に留まれば蜀が天下統一した?
周大荒という人物が描いた反三国志演義という物があります。
反三国志演義が連載が始まり完結されたのが1930年なので、比較的新しい部類の三国志です。
もちろん、史実の内容とかけ離れているのですが、徐庶は母親の元に帰ろうとした時に、劉備や諸葛亮などが止めています。
それにより徐庶は、劉備にずっと使え続ける事になります。
それにより歴史が大きく変わってしまい、最後は蜀漢が天下統一を成し遂げて終るわけです。
劉備が益州に移動した後に、荊州は関羽に任されますが、徐庶が関羽の軍師として適切なアドバイスをすれば、史実とは異なる歴史が待っているという事も表しているように思いました。
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徐庶が劉備の元を去った理由
徐庶が劉備の元を去った理由ですが、いくつか考えられます。
まず、諸葛亮と徐庶は同僚となったわけですが、劉備は諸葛亮の方の意見を聞きたがったのではないでしょうか?
それまでは、徐庶の発言に重みがあったわけですが、諸葛亮に移ってしまった為に、居所がなくなってしまったのかも知れません。
当時の劉備が曹操の陣営のように大きければ、徐庶も置いておくゆとりがあった可能性もあります。
実際に、曹操などは、智謀に長けた臣として郭嘉、荀彧、荀攸、賈詡、司馬懿、満寵、劉曄など沢山いるわけです。
これは曹操陣営の組織の大きさに比例している様に思います。
それに比べて、諸葛亮と徐庶が来た当時の劉備は組織が小さすぎて、二人を受け入れるだけの器が無かったのかも知れません。
他にも、長坂の戦いで、妻子、住民、部下などを捨てて一人逃亡する劉備を見て嫌気がさしてしまった可能性もあるでしょう。
劉備の問題行動に関しては、噂では聞いていたが、実際に見てみると「かなり酷い」と思い別れを告げた可能性もあります。
しかし、徐庶が劉備の元を離れる原因ですが、母親が捕らえられたというのも大きいと思います。
当時の考えで言えば、子よりも親の方が大事という感覚が強いようです。
劉備も自分の子を捨てて逃亡していますし、漢の高祖である劉邦などは、自分の子を馬車から投げ捨てて逃亡しようとした事もあるほどです。
後漢には、孝廉という推薦制度があり親孝行も役人になるための重要な要素とされていました。
それを考えれば、徐庶も母親が捕らえられた事で、劉備の元を離れても不思議はないかなと感じています。
ここは、徐庶本人でないと分からない部分ではありますけどね・・。
しかし、劉備を離れる時に、徐庶は苦悩があった事は間違いないでしょう。
それでも、蜀に残っていれば、魏よりは活躍出来たのかな?と思うような気もします。
追記
徐庶と諸葛亮の関係は、春秋戦国時代の管仲や鮑叔になれなかった可能性もあります。
鮑叔は自分よりも能力が優れている管仲を主君である、斉の桓公に勧めました。
そして、鮑叔自身は管仲よりも下の位にいたわけです。
鮑叔は、宰相の管仲に対して献身的に支えたわけですが、徐庶は諸葛亮に対して評価はして推薦はしたけど、献身的に支える事は出来なかったのでは?とも考えられます。
それを考えると、徐庶と諸葛亮の関係は、管仲と鮑叔には及ばなかった可能性もあるでしょう。
さらに言えば、戦国七雄が争った時代の趙の廉頗と藺相如の様な刎頸の交わりを結ぶような関係にもなれなかった様に思います。
どのような関係だったのかは、本人同士でないと分からない部分も多いんですけどね。
そういう事を想像してみるのも、三国志の楽しみの一つかも知れません。