王連を紹介します。
南陽郡の出身で、劉璋に仕えていた人物です。
誰それ?と思うかも知れませんが、三国志の隠れた優秀な人ではないかと考えています。
ちなみに、正史三国志には蜀漢の人物として、王連伝がちゃんとあります。
短い記述ではありますが、国庫を富ませたりして有能な人物でもあった事が伺える人物です。
諸葛亮に対しては、南征を諫めた記述があります。
逆さ吊りで劉璋を諫めた王累ほどのインパクトはありませんが、劉璋に対しても忠義を貫いた人物でもあります。
尚、王連伝が収録されている正史三国志の蜀書・霍王向張楊費伝には、下記の人物の事も合わせて書かれています。
劉備の入蜀に抵抗
劉表が死に曹操が荊州に攻め寄せてくると、劉備は孫権と手を結ぶ事になります。
曹操と孫権の間で赤壁の戦いが起きると、魯粛や周瑜の活躍もあり、孫権(呉)が大勝します。
周瑜は、江陵を取るわけですが、劉備は劉度・韓玄・趙範を降伏させて、さらに金旋(きんせん)を打ち破っています。
これにより荊州の一部を劉備は孫権から借用という形で手に入れています。
周瑜が病死すると、劉備は益州を手に入れるべく龐統らと益州に向けて出撃するわけです。
表向きは、張魯や曹操に対抗するために出陣だったのですが、裏では劉璋から蜀の地を奪う事が狙いでした。
龐統や法正などが軍略を担当して黄忠も奮戦し、さらに馬超が劉備に降った事で、成都の劉璋を降伏させて蜀の地を手に入れています。
王連は劉備が攻めて来た時に、城門を閉ざして抵抗する構えを見せたわけです。
王連のこの行動を劉備は忠義の臣だと感服して、それ以上の攻撃を加えようとはしませんでした。
城を閉じた為に、劉備からの信頼を得たわけです。
しかし、劉璋が降伏した後は、城門を開けて降伏して劉備の臣下となります。
張任の様に死を選ぶ事はしませんでした。
国庫を充実させるほどの手腕
劉備の配下となると、広都県に任地を移したが、その地で業績を上げたと正史三国志に書かれています。
功績を認められて劉備は、王連を司塩校尉に任命しています。
塩や鉄の利益を管理する仕事で、国庫が充実したと記録に残っています。
ただし、王連がどのようなやり方で、塩や鉄を管理したのかは不明です。
無駄を削ったのか、新しい管理方法を考えて国庫を充実させたのでしょう。
この事から、王連は内政に関しても卓越した手腕を持っている事が分かります。
呂乂・杜祺・劉幹を推薦する
臣下の務めとして有能な人物を推薦する事も立派な仕事です。
王連は、呂乂・杜祺・劉幹の3人を推挙したとあります。
3人とも大官になったとあるので、かなり出世したのでしょう。
尚、呂乂に関しては、正史三国志にも列伝があります。
呂乂は、諸葛亮の北伐においては、補給の役割としたとあります。
さらに、任地のおいては善政を敷き評判がよかったようです。
ただし、仕事はきびきびと精力的にこなすようではありましたが、法に厳格過ぎるような人物を登用したため、評判が下がった話もあります。
それでも、董允の後任として尚書令になっているため出世したと言えるでしょう。
杜祺に関してですが、陳寿が書いた正史三国志に列伝があるわけではないので詳しくは分かりません。
諸葛亮が死に、蒋琬(しょうえん)や費禕の時代に、魏の曹爽が大軍で蜀に攻めて来た事がありました。
この時に、杜祺は王平の配下として活躍した記述があります。
この戦いは、費禕の援軍などもあり魏に大勝しているので、杜祺も武功があったのではないかと思います。
杜祺が大官になったと言う事は、何かしらの功績を挙げて行ったのではないかと考えられます。
王連が推挙したとされる3人目の劉幹ですが、実績がよく分かっていません。
そのため武官と言うよりは文官であり塩や鉄の管理で王連の後を継ぎ業績を上げたのかも知れません。
しかし、何かしら普通の人よりも高い能力を持っていて、活躍したのではないかと考えられます。
呂乂・杜祺・劉幹のキャリアは、王連の補佐役から始まった可能性も高いはずです。
諸葛亮の南征止める
諸葛亮孔明は、南征を行いたいと思っていました。
南征を行うにあたって、自分以外に人材がいないと思い、馬謖らと南征の計画し自ら出征しようとしたわけです。
しかし、これを止めたのが王連です。
王連は正史三国志の王連伝で下記の様に述べた話が残っています。
「南の地は、不毛な土地が多く風土病も多い地域です。一国の宰相が危険を侵して行くような土地ではありません」
諸葛亮は、諸将では南征で成功出来る人材がいないと思い、自ら行く決心をしていたわけですが、王連に止められたわけです。
王連が諸葛亮の南征を止めた理由は、222年の夷陵の戦いで蜀の皇帝である劉備が呉の陸遜に敗れ多くの将兵を失った事で、蜀の国力が回復していない事を不安視した可能性もあるでしょう。
結局、諸葛亮は王連が生きている間は、蜀の成都に留まり南征を実行に移す事はありませんでした。
その後、王連が死亡すると、諸葛亮は南征を始めています。
諸葛亮の南征伐が225年から始まる事を考えると、225年よりも前に亡くなった事になります。
劉備の死が223年になるので、224年くらいが妥当かなと、私は考えています。
尚、夷陵の戦いに参加したような記述もないので、ずっと蜀の地にいたのではないかと思っています。
諸葛亮にも頭が上がらない人物がいた?
諸葛亮のイメージで言えば、行動力はあるような気がします。
自分で考えて、実行に移すイメージが多いわけですが、その諸葛亮であっても気を使ってしまう人物が王連だったのではないかと考えています。
諸葛亮が南征を決行しようとした時に、諫言してさらに諸葛亮も実行しなかったのが、その証になるのかも知れません。
三国志の物語などでは、目立たない人物ですし、明らかにマイナーな人物ですが、隠れた有能な人だったと考えています。
だけど、歴史上の人物の中には、目立たないけど立派な人物はたくさんいるんじゃないかと考えています。
特に文官の実績は目立たない事が多いので、王連のような人は多いのではないかと思います。