その他 三国志

趙範(ちょうはん)は史実では桂陽太守の座を奪われ逃亡していた

2022年4月27日

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宮下悠史

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名前趙範(ちょうはん)
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力曹操
年表209年 劉備に降伏
画像三国志(コーエーテクモゲームス

趙範は正史三国志にも僅かですが、記録があり実在した人物だと考えられています。

正史三国志では劉備に降伏した後に、趙雲が桂陽太守となりますが、後に逃亡した話がある程度です。

それに対し、三国志演義では配下の部将らが趙雲と戦い、樊氏を使った色仕掛けも行いますが、逆に趙雲を怒らせる結果となっています。

趙範と趙雲の話は、趙雲の任務を忠実にこなす姿勢を現わしている様にも感じました。。

今回は荊州四英傑の一人とも目されている趙範の解説をします。

正史三国志の趙範

劉備に降伏

正史三国志の先主伝によれば、赤壁の戦い後の記述として、次の記述が存在します。

「先主(劉備)は上表を行い劉琦を荊州刺史に推薦した。

荊州南部の四郡の制圧に取り掛かり武陵太守の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、武陵太守の劉度を降伏させた」

劉備の記録である蜀書先主伝を見ると、劉備が劉琦を荊州刺史に推挙した後に、荊州四英傑とも呼ばれる金旋韓玄、趙範、劉度を降伏させた位の記述しかありません。

史実だと趙範がどの様に劉備と戦い降伏したのかも不明です。

さらに言えば趙範は桂陽太守だった事は間違いなさそうですが、劉表から桂陽太守に任命され、劉琮曹操に降伏した時に、改めて桂陽太守になったのか、曹操が北方から趙範を連れて来て、桂陽太守に任命したのか?などは分かっていません。

尚、趙範の場合は劉備に降伏した後の行動が、正史三国志の注釈である趙雲別伝に記述されているので紹介します。

趙雲に樊氏を勧める

趙雲別伝に下記の記述があります。

「趙雲は江南の平定に付き従い、偏将軍に任ぜられた。

桂陽太守を兼務し、趙範と交代させた」

三國志演義では趙範は劉備に敗れた後も、桂陽太守を続けた記録がありますが、正史三国志では桂陽太守の座を趙雲に明け渡した記録があるわけです。

趙範は劉備に降伏した者であり、疑われており身の危険を感じていたのでしょう。

趙範は趙雲に兄嫁で未亡人となっていた樊氏を勧めました。

しかし、趙雲は同性を理由に、樊氏との縁談を断わっています。

正史三国志の記述はシンプルですが、三国志演義同様に趙範が趙雲に樊氏を勧めた記録が存在しています。

趙範が逃亡

趙雲と樊氏の縁談がまとまらなかった趙範ですが、趙雲別伝には次の記述があります。

「趙範は逃亡したが、趙雲は何の未練も持たなかった」

趙範は樊氏との縁談が失敗に終わった事で、命の危険を感じ逃亡したのでしょう。

趙雲にしても、趙範が逃げた事も樊氏の縁談も興味がなかった事で、特に未練を感じなかった様です。

尚、これが史実における趙範の最後の記述であり、この後に趙範がどの様な最後となったのかは不明です。

劉備が荊州南部の四郡を制圧する時に、桓階に推挙され曹操の為に行動していた劉巴がおり、劉備の荊州四郡制圧時には、趙範も劉巴とコンタクトを取った可能性もあるでしょう。

因みに、劉巴は劉備に荊州四郡を制圧されてしまうと、交州の士燮の元に逃亡した話があります。

しかし、先に述べた様に趙範がどこに逃げたのかは不明です。

三國志演義の趙範

陳応が敗れる

劉備は劉度を降伏させた後に、桂陽太守の趙範を降すべく動く事になります。

この時に趙範の相手を誰がするのかで趙雲と張飛が揉めますが、最初に名乗り出た趙雲が桂陽に向かう事に決定しました。

趙雲は三千の精鋭を率いて桂陽に向かいますが、既に趙範は怖じ気づいており、降伏も視野に入れていたわけです。

しかし、配下の武官である陳応鮑隆が迎撃する様に進言し、趙範は陳応の出撃を許可しました。

陳応は三千の兵を率いて趙雲と戦いますが、呆気なく敗れ去っています。

樊氏の色仕掛け

趙範は趙雲に降伏を申し入れ、桂陽の城に招きます。

趙範は酒宴を開き趙雲とは同郷だった事もあり、兄弟の様な関係となり親しみました。

趙範は頃合いを見て、趙雲に樊氏を紹介したわけです。

樊氏は趙範の兄嫁であり、現在は未亡人となっていましたが、絶世の美女とされています。

しかし、趙範の行動に趙雲は激怒し、怒りをあらわにしました。

趙範は趙雲が激怒した姿を見て「やばい」と思ったのか、周囲に目配せをし趙雲を始末しようとしたわけです。

趙雲は趙範の行動を裏切りだと察知し、趙範を殴りつけ城から出て行ってしまいました。

趙雲には樊氏の色仕掛けなどは通用しなかったわけです。

趙雲に捕らえられる

趙雲を怒らしてしまった趙範ですが、配下の陳応と鮑隆の策を採用する事にしました。

陳応と鮑隆が偽りの降伏で趙雲の陣を訪れ、趙範との戦いが始まったら陳応と鮑隆の二人が趙雲を急襲し捕らえるとする策です。

しかし、趙雲には陳応や鮑隆の策が見透かされており、陳応と鮑隆は処刑されてしまいました。

趙雲は陳応と鮑隆の兵を使い、桂陽の城に行くと趙範は油断していた事もあり、捕らえられてしまったわけです。

趙雲は桂陽の城を陥落させた事を劉備に報告すると、劉備と諸葛亮は桂陽に訪れる事になります。

劉備に降伏

趙範は劉備と諸葛亮の前で、次の様に述べています。

「兄嫁の縁談を持ち出したのは趙雲への好意であり、趙雲が激怒したから、この様な事になってしまった」

この後に、劉備や諸葛亮が趙雲に樊氏を進めますが、趙雲は固辞しました。

劉備や諸葛亮も趙範が「好意で行ったはずが裏目に出てしまっただけ」と判断したのか、趙範を許しています。

劉備は趙範を再び桂陽太守にとしました。

正史三国志では趙範は逃亡した事になっていますが、三国志演義では趙範は桂陽太守に復帰しています。

ただし、正史三国志と同様に三国志演義では、これ以降に趙範の出番はなく、どの様な最後を迎えたのかも不明です。

趙範の能力値

三国志14統率28武力21知力32政治58魅力56

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