名前 | 劉度(りゅうど) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 曹操 |
年表 | 209年 劉備に降伏 |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
劉度は正史三国志にも名前が登場し、零陵太守に任命されています。
ただし、正史三国志の記録では、赤壁の戦い後に劉備に降伏した位の記録しかありません。
三国志演義では劉度の子に劉賢がおり、配下には邢道栄がいた事になっています。
しかし、正史三国志には劉賢も邢道栄の名前もなく、架空の人物なのでしょう。
劉度は韓玄、金旋、趙範らと共に、三国志ファンの中には荊州四英傑や荊州四天王の名で呼ばれる事もあります。
三國志演義では荊州四英傑の中で最初にやられた事もあり、劉度が最弱ではないか?とする見方もある様です。
しかし、劉度の劉備軍との戦いを見ると、劉度自身のインパクトは低いですが、四天王最弱というイメージはありません。
劉度の史実
呉の勢力が周瑜や魯粛、黄蓋などの活躍もあり、赤壁の戦いで曹操軍を退ける事に成功しました。
この後に、周瑜は呂蒙、甘寧、淩統らを引き連れ、曹仁が守る江陵を攻撃しますが、劉備は別動隊を率いて荊州四郡の制圧に乗り出す事となります。
劉度に関しては、正史三国志の蜀書先主伝に、次の記述が存在します
「先主(劉備)は上表し、劉琦を荊州刺史とし、南方の四郡の征伐に赴いた。
武陵太守の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、零陵太守の劉度を全て降伏させた」
上記が正史三国志の劉度の事が書かれた全てであり、劉度は名前だけが登場する様な人物となっています。
劉備が劉琦を荊州刺史に推薦した後に、討伐された事位しか記述がないわけです。
劉度が零陵太守になった時期もよく分かりません。
劉表が劉度を零陵太守に任命し、劉琮が降伏した後に、曹操が零陵太守に任命したかなども不明です。
曹操が荊州を制圧した時に、零陵太守として、北方から連れて来たのが劉度だったのかも知れません。
尚、劉表と劉度は同じ劉姓であり、一族の可能性も残っている様に思います。
史実の劉度は零陵太守となりますが、赤壁の戦い後に劉備の侵攻を止める事が出来ず、降伏する事になったのでしょう。
劉備と劉度が対峙した時期は、桓階が劉巴を推挙し、劉巴が荊州を劉備に手に落ちない様にと活動していた時期でもあります。
劉度は劉巴はコンタクトを取った可能性もありますが、劉度は曹操からの援軍が来る見込みがない事が分かり、降伏した様に思います。
三國志演義では劉備に降伏した劉度は、再び零陵太守になっています。
しかし、正史三国志を見る限りでは、劉度の降伏した後の記述がなく、歴史から消え去る事となりました。
三國志演義の劉度
邢道栄と劉賢が敗れる
三國志演義の劉度ですが劉備、諸葛亮、趙雲、張飛が荊州の守備を関羽に任せ、零陵に進軍してきたわけです。
劉度は息子の劉賢と相談し、万夫不当の勇の者と称された邢道栄に、先陣を率いさせる事となりました。
この時に劉賢も1万の兵を率いて出陣しています。
しかし、邢道栄は張飛や趙雲に比べ武芸が劣っており、捕らわれてしまいました。
邢道栄は諸葛亮の策略に利用され、劉賢も捕虜となります。
劉賢は諸葛亮から、劉度に降伏を勧める様に命じられています。
劉度が降伏
劉度は劉賢の話を聞くと降伏を決断する事となります。
劉度は零陵の城に白旗を掲げ、降伏する決断をしたわけです。
劉度は城門を開け、諸葛亮の陣を訪れ零陵太守の印綬を渡し降伏しました。
諸葛亮は劉度の降伏を認め、劉度を再び零陵太守に任命しています。
劉度は劉備の軍に食料を提供し、息子の劉賢は劉備に仕える事になったわけです。
これ以後の劉度の出番はなく、三国志演義でもどの様な最後を迎えたのかは記録されていません。
劉度の評価(三国志演義)
劉度は劉備との戦いの大半を劉賢に任せており、三国志演義では「ほぼ何もしていない」と言ってもよいでしょう。
荊州四英傑の中では、韓玄の様な猜疑心や金旋の様な自ら出陣し、張飛を見て逃げ出すなどのインパクトもありません。
その為、荊州四英傑の中では最も存在感がないとも言えます。
ただし、韓玄配下の黄忠や魏延の様な実力派の武官はいませんが、劉賢や邢道栄など自分の為に戦ってくれた武将がいただけマシにも感じました。
金旋などは張飛と戦ってくれる配下もおらず、自ら戦おうとしますが張飛に恐れをなし、城に引き返しますが、味方の鞏志に裏切られて射殺されています。
それを考えると劉度は荊州四英傑最弱なのではなく、荊州四英傑の中で最も存在感がないと言えるでしょう。
劉度の能力値
三国志14 | 統率25 | 武力23 | 知力26 | 政治49 | 魅力52 |