三国志 魏(三国志)

姜維は最後まで戦い抜いた蜀の将軍

2023年5月3日

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宮下悠史

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名前姜維(きょうい) 字:伯約
生没年202年ー264年
時代三国志、三国時代
主君曹叡劉禅
年表234年 右監軍・輔漢将軍・平襄侯に就任
254年 狄道の戦い
256年 段谷の戦い 大将軍に就任
263年 剣閣の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

姜維は三国志の終盤を飾る蜀漢の将軍とも言えます。

諸葛亮の後継者は蔣琬費禕でしたが、諸葛亮の意志を最も受け継いだのは姜維だったのではないか?とする指摘もある程です。

姜維に関しては何度も北伐を行いますが魏の陳泰や鄧艾に阻まれた事で、いたずらに蜀の国力を疲弊させたとする見方もあります。

しかし、頑なに魏打倒の姿勢を見せる姜維に対し、好感を持つ人も多いのが実情でしょう。

姜維は亡国の士だとする見方もあれば、忠義の士だとする意見もあり評価が分かれるところです。

それでも、姜維は劉禅降伏後に蜀が滅亡しても、復興を諦めず鍾会を利用し鄧艾を討つなどもあり、最後まで戦い抜いた人物だと言えます。

姜維の評価は分かれる傾向であり孫盛などは「いたずらに蜀を衰退させた」と評価していますが、郤正は「当時の模範的な人物」だと評価しました。

個人的には干宝の「死ぬことが難しいのではない。死に方が難しい」とする姜維の評価がしっくりと来ると感じています。

今回は蜀漢の最後を彩る将軍である姜維を解説します。

尚、正史三国志で姜維は蔣琬、費禕と同じ伝に収録されています。

姜維の生い立ち

正史三国志によると姜維の字は伯約であり、天水郡冀県の出身だとあります。

中国で天水の辺りは涼州に入れられたり雍州に入る場合もあり、一概には言いにくい部分もあります。

姜維の家は涼州の名家だった様ではありますが、幼くして父を戦いで亡くし母親と共に暮らしていました。

姜維は鄭玄の学問を好んだとあり、教養の重要さも理解していたのでしょう。

ただし、傅子の記録によれば姜維は功名を好む人物で、密かに決死の士を養い庶民の生業を行わなかったとあります。

この辺りは劉備魯粛などに通じるものがあり、名を挙げ偉業を成し遂げてやろうと考えていたのでしょう。

姜維は郡に出仕すると、上計掾となり州からお呼びが掛かり、従事に任命されました。

姜維の父親である姜冏が羌族の反乱の時に身を挺して群将を守った事もあり、姜維は中郎の官を贈られたとあります。

姜維はここで軍人デビューをするわけですが、最初から蜀に仕えていたわけではなく、最初は魏で出世を重ねた事になります。

蜀に降る

諸葛亮の北伐

魏の武将だった姜維に運命の時が訪れます。

姜維が上司で天水太守の馬遵と共に巡視していました。

馬遵の一行には姜維だけではなく巧曹の梁緒や主簿の尹賞、主記の梁虔らもいました。

魏略によれば、馬遵や姜維の一向に郭淮もいた事になっています。

夷陵の戦いで劉備が陸遜に大敗北を喫した事もあり、魏では蜀に対し防備が疎かになっていました。

蜀は大敗北により魏では「当分は何も出来ない」と考えていたのでしょう。

しかし、劉禅に政務を任された諸葛亮は短期間で国を立て直し、228年には第一次北伐を行い祁山に押し寄せてきました。

諸葛亮が祁山を攻撃した情報が入ると郭淮と馬遵は上邽に入り、姜維と馬遵は袂を分かつ事となります。

蜀漢に帰順

正史三国志によると、姜維は冀県に戻りますが、城門が閉じられており中に入る事が出来ませんでした。

姜維は仕方がなく諸葛亮の元に赴く事となります。

ここで馬謖街亭の戦い張郃に大敗を喫し、諸葛亮は北伐を断念し撤退しました。

諸葛亮は西県を陥落させ千余軒住民を連れ帰りますが、諸葛亮の蜀に引き揚げる軍の中に姜維の姿がありました。

正史三国志だと姜維は冀県に入れなくなった事で、諸葛亮に面会に行く事になりますが、魏略では別の話が掲載されています。

魏略だと馬遵と別れた姜維が上官子脩と共に冀県に戻ると、冀県の吏民は大喜びして姜維と上官子脩に諸葛亮への面会をさせる事にしました。

正史三国志だと姜維は冀県の城門が閉じられていた事で諸葛亮に降りますが、魏略では冀県の人々に諸葛亮と会うのを任された事になっているわけです。

姜維は諸葛亮と面会しますが、諸葛亮は姜維を高く評価しました。

姜維は冀県の人々を迎えに行こうとしますが、魏略でも街亭の戦いで馬謖が張郃と費曜に敗れ蜀軍は撤退する事になり、姜維はこのまま蜀軍の武将となりました。

正史三国志と魏略で経緯は違いますが、姜維が魏から蜀に移った事だけは間違いありません。

尚、この時に姜維の年齢が27歳だったと正史三国志に記録があり、姜維が生まれたのが202年だった事が分かります。

姜維の母親

姜維は蜀軍の中におり漢中に引き上げますが、母親と離れ離れとなってしまいました。

姜維の母親は天水郡の冀県におり、天水は諸葛亮の北伐の際に内通したかどで、魏軍は冀県を攻撃しています。

姜維の母親や妻は魏軍に捕らえられてしまいました。

しかし、姜維は本来は去るつもりはなく、成り行きで蜀軍に降った事が判明し、姜維の家族は誅殺されず、拘留されただけで済んでいます。

後に、母親が姜維に帰って来てほしいと手紙を送ると、次の様に述べた話があります。

※孫盛の雑記より

姜維「百頃の良い土地を持てれば、一畝の地しかない我が家は気にかけないものです。

将来の希望を持つ者は、故郷に帰る気持ちはもたないのです。」

姜維は母親がいる天水に戻ろうとはしなかったわけです。

姜維の態度を見るに天下統一し大出世を果たすまでは戻らないとする決意表明にも感じ、呉起が大臣や宰相になるまで地元に帰らないと言ったのと通じる所がある様に感じました。

姜維は蜀で出世する事になります。

尚、魏だと蜀と違い人材が多く、姜維が魏に残った場合は、大して出世も出来なかったのではないか?とする見解もあります。

諸葛亮からの絶大なる評価

諸葛亮は姜維を倉曹掾・奉義将軍とし、当陽亭侯に封じるなど破格の待遇で迎えました。

諸葛亮が姜維を好待遇で迎えたのには、魏の将軍が「蜀に投降すれば好待遇を得られる」とする為の演出ではなかったのか?とも考えられています。

しかし、諸葛亮は成都にいる蒋琬や張裔には、次の様な手紙を送りました。

※正史三国志 姜維伝より

姜伯約は職務に忠実であり、物事は慎重に考える性格だ。

彼(姜維)の才能は永南(李邵)や季常(馬良)よりも優れていると感じる。

この人は涼州において最高の人材である。

諸葛亮は姜維を李氏の三龍と呼ばれた李邵や馬氏の五常で白眉と呼ばれた馬良よりも上だと評価したわけです。

諸葛亮は街亭の戦いで敗れて、泣いて馬謖を斬るで処刑した馬謖を失ったが、姜維という素晴らしい人材を得たと言いたかったのかも知れません。

しかし、諸葛亮の姜維への評価は、これだけでおさまらず、次の様に続けました。

まずは中虎歩軍の兵5,6千を訓練させる必要がある。

姜伯約は軍事には聡明であり、度胸も備えており兵士の気持もしっかりと分かっている。

この男は漢室に心を寄せているし、才能は常人の倍もあり、軍事の訓練が終わり次第宮中に参内させ主上に御目通りさせて貰いたい。

諸葛亮は姜維を劉禅に紹介したいと述べており、如何に高く評価したのかが分かるはずです。

姜維が魏に帰還しなかったのは、諸葛亮の高評価も大きく影響していた事でしょう。

諸葛亮は姜維を出世させ、後には中監軍・西征将軍に任命しています。

諸葛亮の死

姜維は諸葛亮の北伐には従軍した事は確実です。

李厳が解任された時も行護軍・征南将軍・当陽亭侯の姜維の名前が挙がっています。

姜維は234年の五丈原の戦いにも参加しました。

しかし、姜維の具体的な活躍は不明としか言いようがありません。

五丈原の戦いでは司馬懿と対峙している最中に諸葛亮が没し、楊儀を中心に撤退しました。

この時に魏延が蜀軍の動きを妨害しようとしますが、王平や馬岱の活躍もあり魏延を討っています。

姜維も無事に劉禅がいる成都まで帰還しました。

諸葛亮の遺言もあり蒋琬が政務をみますが、姜維は右監軍・輔漢将軍となり、諸軍を統率する任務を帯びて平襄侯に昇進しています。

蒋琬政権

238年になると劉禅は魏が公孫淵の討伐を行っている事を理由に、蒋琬に魏を討つ様に命じました。

姜維も蒋琬と共に漢中に向かう事となります。

蒋琬が後に大司馬となると、姜維は司馬に任命されました。

さらに、姜維伝によれば姜維は何度も兵を率いて西方に侵入したとあります。

蒋琬は北伐を志しており、船による移動で荊州を狙う蜀の東征計画を考えますが、姜維や諸将の反対もあり頓挫しました。

蒋琬と姜維は魏の打倒は考えていましたが、姜維は土地勘もあり自分にとって特異な西方からの侵入が最適だと考えていたのでしょう。

243年に姜維は鎮西大将軍及び涼州刺史に任命されました。

蒋琬が政務を執った時代は、蒋琬が病気がちだった事もあり、北伐を実行に移す事が出来なかったわけです。

費禕政権

蒋琬が亡くなると姜維は衛将軍となり、大将軍の費禕と共に録尚書事となります。

この時点で姜維は臣下の中では、費禕に次ぐ権力を持った人物となります。

費禕と姜維では考えが全くの正反対であり、北伐推進派の姜維に対し、費禕は北伐には消極的な立場を取り続けました。

ただし、北伐推進派の姜維が蜀の群臣の中でナンバー2の位置にいるのは、北伐を推進したいと考えている劉禅の意向とする説も存在します。

この年に汶山郡の平康県の蛮族が反旗を翻し、姜維が討伐し乱を平定しました。

蜀の上層部を誹謗し汶山に流されていた廖立が姜維と会った話がありますが、汶山郡の平康県の異民族討伐の時の話だと考えられます。

さらに、姜維は隴西、南安、金城などの地で魏の郭淮や夏侯覇と洮の西で戦いました。

姜維が郭淮や夏侯覇と戦ったのは、北方の異民族が蜀に靡いた為です。

しかし、姜維の作戦は郭淮に読まれ靡いた異民族の多くが郭淮に討たれてしまい、成重山の戦いでは廖化も敗れ姜維は治無戴を連れて蜀に戻りました。

魏では249年に陳泰を雍州刺史に任命し蜀軍に当たらせています。

姜維は再び北伐の軍を興し麹山に二城を築き句安李歆に守らせ、降伏してきた羌族・胡族の異民族たちと共に魏に攻め込もうとしたわけです。

ここでは陳泰の策が上手くはまり徐質や鄧艾の麹城包囲により、兵站も繋げる事が出来ず麹城の戦いは姜維は何も出来ず撤退しました。

姜維は天水の出身であり西方の事に詳しく軍事にも自信があり、羌族を仲間に組み入れれば隴の西側は魏から奪い取る事が出来ると考えていました。

姜維は大軍で北伐をしたいと考えていましたが、費禕は多くても1万程の兵を与えただけだったわけです。

姜維は郭淮や陳泰に敗れてばかりに見えますが、大兵を持つ事を許されず、何も出来ずに撤退する事になったのでしょう。

費禕は諸葛亮でも成し遂げる事が出来なかった北伐を、自分らが出来るわけがないと述べ姜維に大した兵を与えませんでした。

しかし、費禕は253年に魏の降将・郭脩により命を落しました。

これにより姜維は大軍を率いての北伐が可能となります。

北伐を再開

費禕が亡くなった時点で、姜維よりも上の臣下はおらず、必然と姜維が蜀の群臣に対し強い影響力を持つ様になります。

蒋琬や費禕は幕府を開いた話があり、内政に関しても強い権限があったようですが、姜維に対しては幕府を開いたなどの記述が存在しません。

その為、姜維の権限は限定的だったのではないか?とも考えられています。

さらに言えば、既に劉禅は40歳も過ぎており、政務にも影響力を持つ様になったのではないか?とする説もあります。

費禕が亡くなった後に、陳祗が尚書令となり政務の中心となりますが、陳祗もまた北伐を志していました。

陳祗と姜維の時代に、蜀では尚武を尊び北伐の時代に突入する事になります。

253年に姜維は兵を率いて南安を攻撃しますが、陳泰が洛門に到達し南安の包囲を解こうとしました。

姜維の方でも食料が尽きてしまった事で、陳泰とは一代決戦とはならずに撤退しています。

254年に姜維は督中外軍事に任命され、軍事だけではなく内政に関しても強い権限を持つ様になります。

狄道の戦い

254年に、狄道を守備していた魏の県長の李簡が蜀に寝返りたいと書簡を送ってきました。

姜維ら蜀の首脳部は李簡を疑いますが、張嶷が「この手紙は本物だ」と述べた事で、姜維らは李簡の降伏を信じました。

張嶷は病身でありながらも、姜維の北伐に従軍する事となります。

李簡も快く姜維を城内に迎え入れますが、この後の戦いで張嶷は戦死しました。

姜維は襄武にまで進出し、魏の除質を討ち取り、魏軍を大いに破っています。

姜維は多数の敵を降伏させ、河関、狄道、臨洮の三県の住民を捕えて帰還する事になります。

姜維は成都に戻りますが、姜維の狄道の戦いでの勝利は国に高揚感を生む結果となったのか、蜀の朝廷では北伐が大いに支持されました。

しかし、張翼だけは姜維の北伐に反対意見を述べますが、結局は255年も北伐を行う事になります。

張翼は北伐反対派ではありましたが、姜維の北伐軍に加わりました。

姜維は魏から亡命してきた夏侯覇らと共に再び狄道に出陣しています。

狄道では魏の雍州刺史の王経を多いに打ち破りました。

この時が姜維の全盛期だったとも言えるでしょう。

王経は狄道城に籠城しますが、姜維は王経を包囲しようとし、ここでも張翼は「蛇足になる」と述べて、諫めています。

姜維は狄道城を攻撃しますが、陳泰の援軍が来た事で、またもや撤退しました。

姜維は野戦では勝利を挙げる事が出来るが、城攻めは苦手だったのではないか?とも言われています。

さらに言えば、姜維は自分の意見に異を唱え続ける張翼を罷免する事もなく、使い続けたのは蜀の人材不足の表れだとする指摘もあります。

尚、姜維は鍾題に駐屯しました。

姜維が蜀に戻らず隴西に居続けた事を考えると、蜀は隴西には大きな影響力があったのでしょう。

段谷の戦い

256年に姜維は狄道での功績が認められ大将軍に出世しました。

姜維は成都には戻ってはおらず、遠征先で大将軍となります。

これにより姜維は名実ともに蜀漢の武将のトップになったと言えるでしょう。

この年も姜維は北伐を行う事となります。

姜維は連年の様に魏に兵を進めました。

姜維の予定では鎮西大将軍の胡済と上邽で合流する予定でした。

しかし、胡済は上邽には現れず、集合場所に来なかったわけです。

姜維は段谷の戦いを鄧艾と行いますが、大敗北を喫してしまいました。

段谷の戦いで蜀軍は討ち取られた者や捕虜となったものが数万いたとの記録もあり、姜維は体験した事もない様な惨敗を喫しました。

姜維が大敗北を喫した事で、今までに積み上げてきた信頼なども一気に失ったと言えます。

隴西以西の地でも姜維を支持する者がいなくなり、不安定な状態となります。

降格

段谷の戦いで大敗北を喫した姜維は国家や国民に謝罪し、自ら官位を下げて欲しいと願い出ます。

これにより姜維は後将軍・行大将軍事となりました。

諸葛亮も第一次北伐が失敗した時に自ら降格を願い出ており、諸葛亮にならったとも言えます。

司馬師なども過ちを認め降格した記録もあり、失敗を犯した時に責任を取ることは大事なのでしょう。

呉では252年に孫権が亡くなると、孫亮が幼かった事もあり諸葛恪が政務を行いますが、諸葛亮は第五次合肥の戦いで張特に敗れても降格を願い出る事はありませんでした。

降格しなかった諸葛恪が孫峻が殺害されている事を考えると、姜維が自ら降格を願い出る態度は正しかったと考えるべきでしょう。

ただし、蜀の群臣達の間では決して姜維の評判はよいとは言えず、同じ志を持った陳祗に支えられていた部分も大きかったはずです。

陳祗は協調性を持って政務を行った事で、黄皓が政治に出て来る部分はありましたが、劉禅からも寵愛されていたのが大きかったと言えます。

姜維は陳祗に救われました。

尚、姜維と陳祗が北伐を繰り返す事には蜀の内部でも反対意見は多くあった様で、譙周が仇国論を作成し北伐の無謀さを説いています。

諸葛誕の乱

257年に魏の征東大将軍の諸葛誕が淮南で乱を起こしました。

司馬昭は曹髦と郭皇太后を奉じ、関中の兵を割いて諸葛誕の乱の鎮圧に向かっています。

姜維は好機到来とばかりに、直ちに北伐を開始し駱谷を出て沈嶺に到達しました。

沈嶺の近くには魏の長城があり多数の食料があるのに、守備は手薄な状態だったわけです。

長城の守備兵は姜維がやってきた事を知ると、恐れおののきます。

姜維の軍に対し魏の大将軍・司馬望が対応し、隴右より鄧艾も駆け付けました。

司馬望や鄧艾は決戦を避けて、長城に陣を張る事となります。

姜維は前進して芒水に駐屯し、全ての山を利用して布陣しました。

それに対し司馬望と鄧艾は渭水に沿って防衛の姿勢を見せ砦を築く事になります。

姜維は司馬望と鄧艾に戦いを挑みますが、応じる事はありませんでした。

司馬望や鄧艾にとってみれば、諸葛誕の乱を鎮圧するまでの時間稼ぎをすればよいわけであり、無理して姜維に勝つ必要はないと考えていたのでしょう。

258年になると諸葛誕の乱は鎮圧され降将の文鴦や唐咨らは赦されました。

諸葛誕の乱が失敗に終わった事を知ると姜維は撤退しています。

尚、この年に陳祗が亡くなり、姜維は蜀の朝廷の中で誰からも支持されない様な状態となってしまいました。

陳祗の後に政務の中心となったのが諸葛瞻と黄皓であり、北伐反対派の面々でもあったわけです。

諸葛瞻は諸葛亮の子ではありましたが、父親とは違い北伐には反対でした。

漢中防衛体制の変更

正史三国志には姜維が漢中の守備に関して、進言した記録があります。

劉備定軍山の戦い夏侯淵を破り漢中を奪取した時に、漢中太守になったのが魏延です。

魏延と劉備は外敵を防ぐ為に、大量の兵士を漢中に配置し敵が攻めて来ても撃退出来る様にしていました。

魏の曹爽が興勢の役で蜀に攻めてきた時にも、王平が魏軍を破る事が出来たのも魏延が築いた防御施設のお陰でした。

しかし、姜維は次の様に考え漢中の守り方を変える様に進言しています。

※正史三国志 姜維伝より

姜維「これまでは諸陣営を交錯させ守備する戦法を取ってきました。

この守備体制は周易の『門を幾重にも設けた』という趣旨と同じではありますが、敵の防御には相応しい体制であっても、敵を蹴散らし殲滅する事は出来ません。

そこで、敵が攻めてきた場合は諸陣営は全て武器を取りまとめて兵糧を集め、兵を退き漢・楽の二城に撤退し敵の平地へ侵入をさせない様にします。

さらに、関所の守を厳重にするのです。

有事の際には両城から遊撃隊を放ち敵の虚を突くようにします。

さすれば、敵は関所を攻撃しても抜けず、野にある食料も得る事が出来ず、千里の彼方から食料を運ぶ事も出来ず、自然と疲弊していくのです。

敵が撤退する時に、二城から兵を一斉に出撃させ、遊撃隊と力を合わせ敵を打ち破ります。

これこそが敵を殲滅する為の策となります」

姜維の計画は実行に移され、督漢中の胡済を漢寿まで後退させ、監軍の王含に楽城の守備を任せ、護軍の蔣斌に漢城を守らせました。

さらに、西安、建威、武衛、石門、武城、建昌、臨遠において全ての防御陣地を構築しています。

姜維の発言を見ると、守りながら攻める策にも聞こえますが、実際には蜀の国力が疲弊し、大軍を配置して守る事が出来なくなった苦肉の策ではないか?とも考えられます。

黄皓との対立

262年に姜維は再び北伐の軍を興し侯和に向かいますが、再び鄧艾に敗れ沓中に撤退しました。

鄧艾に何度も敗れた事で、姜維の面目は潰れて行く事となります。

蜀の大臣の多くは益州や荊州の出身でしたが、姜維の出身地は涼州の天水であり、支持基盤を持たなかった人物でもあります。

姜維と共に蜀に降った梁緒、尹賞、梁虔らも既に、この世の人ではありませんでした。

鄧芝も姜維の能力を高く評価していましたが、251年に亡くなっています。

さらに、魏に出兵しても鄧艾や陳泰、郭淮らに阻まれ中々勝つ事が出来ない状態でもありました。

姜維と長年に渡り戦場を駆け巡った廖化であっても「戦争を止めなければ、自分の身を焼く」と述べた話が伝わっています。

廖化であっても北伐には反対であり、蜀が魏を滅ぼす無謀さを指摘しており、姜維が大臣や将軍達からも支持されていない事が分かります。

こうした中で黄皓の権限が大きくなり、黄皓は閻宇を姜維に変えようとしました。

姜維の方でも黄皓を廃する様に劉禅に進言しています。

しかし、劉禅は董允も黄皓を嫌っていたが、黄皓は召使に過ぎないと述べ姜維の進言を却下しました。

劉禅は黄皓を姜維の元に派遣し詫びを入れさせ仲直りさせようとしますが、姜維は身の危険を感じたのか「沓中で屯田をしたい」と述べ成都から外に出ました。

黄皓との対立や群臣たちとの間に、隙間が出来てしまい姜維は成都に戻れなくなります。

姜維は蜀が滅亡するまで成都に帰還してはいません。

漢中防衛ラインの崩壊

263年に姜維は次の様に劉禅の上表しました。

姜維「聞く所によれば鍾会は関中で兵を集め大戦の準備を整えているとか。

張翼と廖化を派遣し、二人に諸軍を指揮させ、陽安関の入り口と陰平橋を守らせるべきです。

その様にすれば、危険は未然に防げるはずです」

姜維は蜀の代表的な将軍である廖化と張翼に防備を固めさせた方がよいと述べた事になるでしょう。

しかし、劉禅の傍にいる黄皓が鬼神や巫女の言葉を信じ「敵は攻めては来ない」と進言しました。

これにより劉禅は郡臣を集めた会議すら開かず、群臣も姜維の進言を知ることがなかったわけです。

これにより蜀の対応は後手に回る事となります。

鍾会が駱谷に向かい、鄧艾が沓中に到達すると漸く蜀の朝廷では事の重大さに気付きました。

劉禅は右車騎将軍の廖化を沓中に派遣し姜維への援軍とし、左車騎将軍の張翼、輔国大将軍の董厥らを陽平関の入り口に向かわせました。

張翼と董厥が陰平に到着した時には、魏の諸葛緒が建威に向かった事を知ります。

張翼と董厥は諸葛緒を警戒し、陽平関の守備に向かわなかったわけです。

こうなると姜維が漢中の守備を変えた事が裏目に出てしまいました。

敵の侵入を許した状態で兵を配置しても遅すぎるからです。

1カ月程が経過すると、姜維は鄧艾に敗れ陰平に退きました。

鍾会は漢と楽の二城を包囲し、陽安関も攻撃を受けると蜀での待遇に不満を持っていた蒋舒はあっさりと、魏の胡烈に降り、傅僉は戦死しています。

鍾会は楽城を攻めましたが落とす事が出来ず、陽安関が陥落した事を知るや長駆して、進撃してきました。

姜維と廖化は陰平を維持するのは難しいと考え後退し、張翼と董厥は漢寿まで到達しました。

ここで姜維、廖化、張翼、董厥は出会い剣閣に籠城する事になります。

剣閣の戦い

姜維が剣閣に籠ると鍾会は城を囲みました。

これにより剣閣の戦いが勃発しています。

鍾会は10万を超える大軍を擁していましたが、道が狭く大軍を繰り出す事も出来ず姜維の守備に手を焼きました。

姜維としても剣閣が抜かれるような事になれば、蜀の滅亡が見えて来るわけであり、必死に防戦したのでしょう。

姜維は蜀の最終防衛ラインが剣閣だと考えたはずです。

剣閣を落せない鍾会は、姜維に対し次の手紙を送りました。

鍾会は姜維をお互いが異なる国に仕える事にはなったが、春秋時代の呉の季札や鄭の子産の様に友好を結びたいと伝えたわけです。

鍾会としては姜維を懐柔し戦いを終わらせたかったのでしょう。

しかし、姜維は鍾会の手紙に返信もせずスルーを決め込みました。

姜維は蜀に対する高い忠誠心を持っており、鍾会に降伏しようなどとは微塵も思わなかったはずです。

鍾会は姜維の防備が固く兵站も困難な事で撤退も考える様になります。

しかし、鄧艾が陰平から景谷道を通り道なき道を進み、剣閣を超える事に成功しました。

鄧艾は綿竹の戦いでは、蜀の諸葛瞻と諸葛尚を破り劉禅を降伏させています。

劉禅の降伏により蜀は滅亡しました。

ここで姜維の元には様々な情報が錯綜しますが、劉禅の勅命を受けて姜維は鍾会に降伏しています。

この時の姜維は武器を投げ出し甲を脱ぎ鍾会の元に出頭したとあります。

蜀軍の兵達は怒りに震え刀を抜いて石を叩き割りました。

蜀の将兵の態度を見るに姜維は剣閣守備兵をよく纏め上げ、士気が高い状態を保っていた事が分かります。

姜維と鍾会

姜維は降伏しましたが、鍾会は「どうして降伏が遅れたのか」と聞きます。

すると姜維は堂々とした態度で涙を流し「今日ここでお会いしたのが早すぎると思っていました」と述べます。

鍾会は姜維の態度を見て立派な人物だと感じました。

鍾会からしてみれば、姜維はかなり見所がある人物として映ったのでしょう。

鍾会は姜維を手厚くもてなし、印綬、節、車蓋をみな返しました。

さらに、鍾会は外出する時も姜維を同じ車に乗せ、座にある時は同じ敷物に座る等、かなりの好待遇を見せます。

鍾会には野心があり、姜維は使えると判断したのでしょう。

鍾会は長史の杜預には、次の様に述べています。

※正史三国志 姜維伝より

伯約(姜維)は中原の名士と比べると公休や太初であっても彼には遠く及ばない。

公休は諸葛誕の事で、太初は夏侯玄であり、鍾会の姜維に対する評価の高さが分かります。

魏は人材が豊富でしたが、それでも姜維に匹敵する様な人材はいないと述べた事にもなります。

姜維の蜀復興計画

鍾会は姜維を高く評価したわけですが、姜維も鍾会と接しているうちに野心がある事に気が付きます。

姜維は鍾会を利用し、騒乱状態を作り蜀を復興させようと考えました。

漢晋春秋によれば、姜維は鍾会に諸葛誕や毌丘倹の反乱を鎮圧したのは、鍾会の功績だと述べもてはやしました。

さらには、晋の政道が隆盛になった事や蜀を平定した事など、民は鍾会に期待し、主君の司馬昭は軍略の才を畏怖していると伝えています。

姜維は鍾会の功績が極めて大きいと伝えました。

その後に、鍾会は高い功績を挙げたが韓信や文種の様になる可能性を述べています。

劉邦項羽を打ち破るのに最大の功績を挙げた韓信を処刑していますし、越王勾践も春秋五覇の一人にまで押し上げた文種を殺害しました。

それでいて、姜維は鍾会には范蠡や張良の様に身を落して、隠遁者の如く振る舞う様に勧めたわけです。

姜維は口では庶民になる様な事を進めましたが、内心では鍾会が范蠡の様に陶朱公を名乗り商人になったり、張良の様に浮世離れした暮らしが出来るとは思わなかったはずです。

鍾会は姜維に「とてもできない」と伝え、さらには「できる事は他にもあるはずだ」と伝えました。

姜維は「それ以外の方法であれば、あなたの才知と能力で出来る事であり、老人を煩わせるまでもない」と述べます。

姜維は自分の事を老人と述べていますが、蜀の滅亡時には姜維の年齢も既に60を超えていたわけです。

蜀に仕えた頃の姜維は髪も黒く凛々しき人だったかも知れませんが、この時には髪の毛も白髪となっていたのかも知れません。

ここにおいて蜀を復興したい姜維と独立して王となりたい鍾会の野心が合致しました。

劉禅への密書

華陽国志にも姜維は鍾会をそそのかして、魏から来た諸将を誅殺した後で、鍾会を殺害しようと考えたとあります。

鍾会を討ち魏の兵士を悉く生き埋めにして、姜維は蜀を復興するつもりだったわけです。

姜維は劉禅に密書を送りました。

※華陽国志より

陛下(劉禅)は数日間だけ屈辱に耐えてくださいませ。

臣が危うい社稷を安んじ、光を失った日月を再び明るくするつもりです。

劉禅は鄧艾により厳重に管理されていたはずであり、本当に密書が届けられたのかは不明ですが、姜維は一か八かの策で蜀を復興しようと考えていた事だけは間違いないでしょう。

姜維は蜀の復興を諦めてはいなかったわけです。

姜維の最後

鍾会と姜維にとって、最も邪魔だったのが蜀を滅ぼした鄧艾だったはずです。

鄧艾は蜀を滅ぼした功績を笠に着て、王の如く振る舞っていました。

鄧艾の態度は姜維や鍾会にとってみれば、願ったりかなったりであり、鄧艾を弾劾し逮捕しています。

鍾会は成都に至り鄧艾を追い出すと、勝手に益州牧と称し反旗を翻しました。

鍾会が独立すれば魏との戦いとなりますが、鍾会の予定では姜維の五万の兵を預け戦う予定だったわけです。

しかし、鍾会が姜維以外の将兵を信用する事が出来ず、将兵を成都に閉じ込めました。

ここで将兵たちの怒りが姜維や鍾会に向かいます。

姜維と鍾会は兵士達の怒りを鎮めることが出来ず、鍾会が謀反する事を魏の将兵が知ってしまったわけです。

兵士達の暴動が起こり鍾会や姜維に斬りかかって来ると、姜維は鍾会と共に数人を斬りますが、数の暴力には勝てず討たれてしまいました。

姜維は鍾会と共に最後を迎えたわけです。

世語によれば姜維が亡くなった時に、腹を割くと、その胆は一升ますほどの大きさがあったと書かれています。

胆力がある姜維の逸話となるはずです。

鍾会の乱では蜀の張翼も討たれました。

鍾会の反乱が失敗した理由ですが、魏の最高権力者である司馬昭が鍾会を信用しておらず、賈充を漢中に派遣しており焦った鍾会が反乱した為とも言われています。

鍾会は地に足がついていない状態で、姜維と共に反乱を起こし命を落したとも言えます。

姜維は最後を迎えましたが、妻子も処刑されたとあります。

姜維の評価

孫盛の評価

孫盛の晋陽秋によれば、孫盛は永和の初年(345年)に安西将軍の桓温度に従い蜀征伐に向かったとあります。

桓温の成漢征伐に孫盛も同行したという事なのでしょう。

ここで孫盛は蜀の古老たちに会ったと言います。

孫盛は蜀の古老たちが姜維が蜀の復興を目指したが、失敗し滅びた話しになると残念がっていたと聞きます。

ここで孫盛は、孔子の言葉を引用し次の様に述べています。

孔子は「苦しむ必要のない事を苦しめば、名は辱められ、いるべきではない所にいれば、我が身は危うくなる。

屈辱を被った上に危険が迫れば、死期は直ぐにでも訪れる」と述べているが、これは姜維に当てはまる言葉だ。

鄧艾が江由へ侵入した時に、軍勢は少数であったにも関わらず、積極的に綿竹の戦いに参加し、忠誠を振るう事も出来ず、

消極的には五将を指揮して蜀の君主を護衛し、今後の謀を立てる事も出来ずにいた。

しかも、魏に帰順したり叛逆に与したりと、中々訪れない好機を掴み鍾会の恩情も裏切ろうと考えていた。

疲弊した国力で何度も三秦(関中)の地を攻めてみたり、滅亡した国で道理に外れた成功を収めようと考えた。

これは愚かな事ではなかろうか。

孫盛の姜維に対する評価は極めて低い事が分かります。

孫盛は綿竹の戦いや劉禅の護衛をしなかった事を批判していますが、姜維が綿竹の戦いに関して、どれ程に知っていたのかは不明です。

剣閣の戦いでは姜維の前には、鍾会がいましたが鄧艾の軍に対し兵を割くべきだと孫盛は考えたのでしょう。

尚、蜀の滅亡は西暦263年であり、孫盛が蜀にいったは80年以上も後です。

孫盛の発言に異を唱えたのが裴松之となります。

裴松之の評価

孫盛は姜維に対し痛烈に批判しましたが、裴松之は孫盛の評価は妥当とは言えないと述べています。

裴松之は姜維の剣閣の防備は非常に優れており、鍾会も撤退を考えた程だったとする記述に注目しました。

裴松之は姜維の剣閣守備隊の防備は完璧だったが、抜け道を通った鄧艾の軍に諸葛瞻が敗北し、成都の蜀首脳部が自滅したと述べています。

実際に裴松之も姜維が鄧艾の軍に対応しようとすれば、鍾会の軍に追撃される事は目に見えていると感じました。

劉禅を姜維が護衛すると言っても、剣閣と成都では距離がかなりあり難しい訳です。

一般的には姜維の蜀復興計画は無謀だと言われていますが、裴松之は魏の将兵が皆殺しにされ、兵権を姜維が握れば蜀の復興は可能だと考えました。

それを考えれば、行き違いがあり姜維の策は成功しなかったが、決してダメな計略ではなかったと評価しました。

裴松之は斉を復興させ強大な燕を撃破した田単が、たとえ失敗したとしても、それは決して暗愚ではないと述べています。

裴松之は姜維を擁護しました。

郤正の評価

郤正は蜀の滅亡後に劉禅と司馬昭の「蜀の事を思い出されますかな?」の言葉で有名な人物です。

その郤正も姜維に関しては論文を書いて語っています。

郤正の言葉によると姜維は郡臣の上に立つ位ではあったが、粗末な家に住み余分な財産を持たなかったとあります。

さらに、別棟に妾を置く事も音楽を楽しむ事もせず、あてがわれた衣服をまとい、備え付けの車と馬を使用し飲食も節制していたと言います。

しかし、姜維は倹約家でもなく、国家から支給されたものは、右から左へ使い果たしました。

財産を残さなかったのは、諸葛亮と姜維の共通点でもあるはずです。

郤正は姜維を見て貪欲な者や不潔な者を激励しようとしたり、自分の欲望を抑えようとしたわけでもないとしました。

姜維が贅沢をしなかったのは、それだけで十分だったのであり、多くを求める必要はないと考えたからだとしています。

姜維としては蓄財や散財よりも魏を打倒する事の方が比重が遥かに大きかったのでしょう。

さらに、郤正は人の議論は常に成功者を称え失敗者をけなし、高いものをさらに持ち上げ、低いものをさらに抑えつけるものであると言います。

成功者を褒め称え敗者をけなす方向性は、今の世の中にも通じる所でもあるはずです。

姜維は身を寄せる場所がなく、その身は殺害され一族は根絶やしにされた事を理由に非難を浴びせ、再評価しない事に対し疑問を投げかけています。

郤正は春秋の価値基準と比べても、建前とは違っており、姜維は学問を好み倦む事もなく、清潔で質素、自己抑制した人間は、当時の模範だと讃えました。

それでも、孫盛は郤正の姜維への評価はおかしく忠、孝、義、節に反した行動をしたと述べ、春秋時代に晋の平公に仕えた小人物の程鄭と似たようなものだと述べています。

孫盛は先に述べた様に、姜維に関しては、かなり評価が低いと言えます。

陳寿の評価

陳寿は正史三国志の蔣琬費禕姜維伝で、蔣琬費禕は諸葛亮の定めた規範を受け継いだと批評はありながらも評価しています。

それに対し、姜維は文武両道の才能があり、功績を挙げる事を志したが、外征を繰り返した事で最後は自分自身が破滅したと述べました。

陳寿は老子の言葉を出して「大きな国を治めるのは小さな魚を煮るのに似ている」と述べています。

老子は大きな国では小さな魚を煮る時の様につつき回したり、法令で民に干渉する事を戒めています。

陳寿は蜀が小国だと述べ、何度も民の生活を乱す様な行動(戦争)をしてもよいのだろうか?と問いかけています。

陳寿は姜維の志は評価しながらも、戦争を繰り返した事に対しては国力を消耗させたとする評価をしたわけです。

干宝の評価

干宝は姜維は蜀の相となりながら、君主が恥辱を受けた蜀の滅亡では死なず、鍾会の乱の時に死んだと述べました。

姜維の事を干宝は残念がり、姜維は死ぬことが難しいのではない。死に方が難しいのである。と見解を見出しています。

干宝は昔の壮烈な士は危機に挑んで命を投げ出し、節義を貫き平然と死に赴いたとあります。

志士たちは命を惜しまなかったのではなく、実際に命が永遠でない事も知っていたし、死に場所を得られない事を恐れたと結びました。

干宝の姜維の「死ぬことが難しいのではない。死に方が難しい」というのは、姜維をよく現わしている言葉だと言えます。

姜維は国を衰退させた不忠の者だとする評価もありますが、個人的には結果は蜀の衰退に繋がったにしろ国の為を思って行動したのだと感じています。

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宮下悠史

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