春秋戦国時代

晋『春秋最強国の覇権と弱体化の真相』

2024年6月25日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前晋(春秋)
建国と滅亡紀元前11世紀頃ー紀元前349年
時代西周王朝春秋戦国時代
年表紀元前632年 城濮の戦い
紀元前597年 邲の戦い
紀元前592年 断道の盟
紀元前562年 蕭魚の会
紀元前546年 弭兵の会(2度目)
紀元前506年 召陵の会
紀元前453年 晋陽の戦い
紀元前403年 が諸侯として認められる。
紀元前369年 趙と韓により屯留に遷される
コメント春秋時代の最強国だが覇者体制の変質に問題があった
画像YouTube

晋は西周王朝の時代に建国し、春秋時代には覇者の国として中華最強国だったわけです。

晋は文公の時代から定公の時代まで覇者として維持した実績があります。

春秋五覇という言葉を聞くと、覇者が次々に入れ変わったイメージがありますが、近年の見解では晋が長きに渡って覇者の座を守ったとする見解が強いです。

晋は中原の地を防衛しますが、との間で不戦協定が結ばれると覇者体制の矛盾もあり、晋の公室は弱体化しました。

その代わりに力を持ったのが晋の六卿と呼ばれる6人の大臣達であり、最終的ににより晋は分裂する事になります。

晋の公室は微弱な勢力しか持ちませんでしたが、三晋(韓、魏、趙)から権威を利用され戦国七雄の時代になっても細々と生き残っています。

それでも、晋は最終的には滅び滅亡しました。

今回は西周の時代に建国され春秋時代には覇者となった程の実力国である晋がなぜ衰退し、滅んでしまったのかを解説します。

尚、今回紹介するのは春秋戦国時代の晋であり、三国志の世界を終わらせた西晋とは別なので注意してください。

現在、春秋戦国時代の末期を題材にした漫画キングダムが人気ですが、キングダムの中で趙・魏・韓の三国が登場しており、これが三晋とも呼ばれ晋から分裂した三国となっています。

西周時代の晋

晋の国の建国は西周王朝の周の成王の時代に、唐叔虞が封じられた事により始まりました。

周の成王の弟が唐叔虞であり、周公旦が征伐した唐に封じられたわけです。

初代である唐叔虞の時代の国名は「唐」でしたが、二代目である晋侯燮の時代から国名が「晋」に変わります。

一般的には晋は晋水から名前をとり「晋」に国号を変えたとも言われていますが、異民族により唐が滅び晋に変わったなどの説もあります。

晋は西周王朝とも密接に結びつき、周の共王の時代には王家とも誼を結び、献侯や穆侯の時代には、周の宣王による軍事行動にも参加しました。

西周は幽王の時代に一旦滅びますが、周の平王と携王の二王朝分裂時代には、周の携王を討ち周の二王朝並立時代を終わらせています。

周の東遷において、晋の文侯昭侯の果たした役割は大きいと言えるでしょう。

この頃から晋は鄭や申を圧倒する程の軍事力を持っていたと考えられるわけです。

翼と曲沃の戦い

晋の文侯には成師という弟がおり、昭侯の時代に曲沃に封じられました。

昭侯が暗殺されると、成師は翼に入り晋の君主になろうとしますが、戦いに敗れて曲沃に戻る事になります。

曲沃は大きな邑だった事で、晋は翼の本家と曲沃の分家の間で、長期間に渡り戦いが繰り広げられる事になります。

翼の本家が滅びそうになる度に、周の平王や桓王が虢国に命じて、曲沃の勢力を討たせた事も戦いが長引いた原因でしょう。

晋は数代により戦いが繰り広げられ周王朝への介入が出来なくなり、この間に鄭の荘公が周王室を主導しています。

晋の本家と分家の戦いは、紀元前679年に晋侯緡が曲沃の武公に殺害された事で決着しました。

尚、晋は周に賄賂を贈った事で、晋の君主として認められ公爵に昇進しています。

驪姫の乱

晋の献公の時代になると、晋は周辺の小国を滅ぼし、さらにはや虢国などの同姓の国を滅ぼすなど強勢となりました。

しかし、晋の献公は驪姫を寵愛し驪姫の子である奚斉を後継者にしようとした事で、太子の申生が命を落とし公子の重耳と夷吾が国外に亡命しました。

晋の献公は荀息を宰相として奚斉を後継者と定めましたが、晋の献公の死後に大夫の里克や丕鄭らが驪姫、奚斉、卓子らを討ち取り、荀息は自刃する事になります。

里克や丕鄭らは重耳を迎えて晋公に即位させようとしますが断られた事で、夷吾を主君として迎え入れる事になります。

夷吾が晋の恵公となりますが、不徳の人でもありとの約束を破り里克も処刑するなどしています。

夷吾は即位前は優れた能力を持っていると評判でしたが、晋公になってからは秦の穆公に韓原の戦いで敗れるなどパッとしなかった様に思われがちです。

しかし、実際には晋の恵公は紀元前649年に秦と共に王子帯の乱を平定し、周の襄王の期待に応えるなどの功績もあります。

晋覇の始まり

紀元前637年に晋の恵公が亡くなると、への人質となっていた晋の懐公は秦に無断で晋に帰国してしまいました。

晋の懐公の行動に激怒したのが、秦の穆公であり、にいた重耳を晋に入れようと企てたわけです。

晋の国内では重耳への人気が高まっており、多くの大夫が重耳に味方した事で、重耳は無事に帰国しました。

重耳が晋の文公です。

晋の文公の時代に宋からの救援要請があり、晋と楚の間で城濮の戦いが勃発し、晋軍は楚の子玉を破りました。

晋軍が楚軍を城濮の戦いで破った事で、紀元前632年に晋の文公は覇者として認められる事になります。

春秋五覇という言葉が入りますが、全ての書物で覇者として認められたのは斉の桓公と晋の文公だけです。

尚、晋は文公の時代に覇者となりましたが、覇者体制が盤石というわけでも無く、同盟加盟国の離反もあり紀元前630年に鄭を討ち、紀元前626年には衛を討つ等もしています。

秦や斉も晋を中心とする盟約に参加する事もありはしましたが、晋の襄公の時代から秦とは戦いを繰り返し、斉も会盟に参加しなくなるなどの不安定さがありました。

ただし、晋の霊公の時代である紀元前620年に晋では代理の趙盾が参加した扈の盟では、斉の昭公や衛、陳、鄭などの中原の君主が参加し、晋の覇者体制が維持されている事が分かるはずです。

晋覇の危機

城濮の戦いが終わると、晋との間で直接対決は暫くの間は起きませんでした。

楚の成王は晋の文公を高く評価していた事もあり、戦争に発展しなかったのでしょう。

紀元前618年になると楚の穆王による中原進出が行われ、鄭、陳が屈服し、紀元前612年には蔡も晋の会盟に参加しなくなりました。

斉も魯を攻撃し、晋は魯の救援要請に動きますが、斉からの賄賂により攻撃を中止してしまった事で、魯と斉の盟約が結ばれ、魯も晋の会盟から離脱する事になります。

これだけを見ると晋の覇者体制は解体に向かった様に思うかも知れませんが、中原の宋、衛、曹の諸国は晋の体制から抜けておらず、晋はこれらの国と共に鄭を攻撃しました。

鄭は晋の覇者体制に復帰しますが、鄭は直ぐに楚に鞍替えし、紀元前597年には晋と楚の間で邲の戦いが勃発しています。

晋軍の総大将は荀林父でしたが、晋軍は纏まりが悪く、楚の荘王に大敗北を喫しました。

楚の荘王が強大になり、覇者の座が晋から楚に移った様に思うかも知れませんが、邲の戦いの後に晋は宋、衛、曹と会盟を行っており、晋は盟主の座に居続けています。

ただし、紀元前594年に宋が楚に降るなどもあり、晋の覇者体制が危機的状況にあった事は間違いないでしょう。

晋覇最後の輝き

が強勢となり北上を始めると斉と魯の関係が乱れました。

魯は紀元前592年の断道の会盟で晋の覇者体制に復帰する事になります。

断道の盟は晋・魯・衛・曹・邾の間で行われました。

晋は紀元前589年に魯、衛の要請により、斉と鞍の戦いが勃発しました。

晋は郤克を派遣し、衛、曹と共に斉を打ち破り魯の救援に成功しています。

晋は紀元前588年に同盟傘下の国々と共に鄭を攻撃していますが、この中に宋も含まれており、紀元前588年の段階で宋も晋の同盟下にあった事が分かるはずです。

この頃の晋は鄭、陳、蔡などの楚の下に置かれた諸侯の奪還に動いています。

紀元前562年に晋は蕭魚の会を行っており、複雑な経緯はありましたが、鄭は晋の傘下となりました。

この時代は晋の悼公の時代であり、晋の覇権は全盛期に比すものであり、晋の悼公が名君だとする理由になっているのでしょう。

この後も晋と楚の対立は続きますが、呉が強大となり楚と争った事で、楚は北上を断念せねばならず、晋楚対立は下火となって行きました。

晋覇の終焉

晋の平公の時代である紀元前546年に宋の向戌の仲介により、2度目の弭兵の会が行われ晋・の講和が実現しました。

弭兵の会による世界が平和になったと思うかも知れませんが、晋楚講和が晋の公室の弱体化を招く事になります。

晋の覇者体制の元では傘下の国々は莫大な貢納物を晋に収める代わりに、晋が国内の紛争や外敵に対し軍隊を動かし守ってくれていたわけです。

しかし、晋と楚が講和を行い戦争が無くなってしまえば、晋の傘下の国々は莫大な貢納物を納めるだけの存在になってしまいます。

晋は紀元前506年に斉・魯・宋・蔡・衛・陳・鄭・許・曹を集めて召陵の会を主宰し楚に対する決議をしましたが、これが晋が主宰する最後の会盟となりました。

これが晋の定公の時代の事です。

紀元前504年には晋の覇者体制から鄭が離脱し、紀元前503年には衛、鄭が斉との同盟を締結しています。

紀元前500年には魯も斉の傘下に入りました。

この時点で晋の覇者体制はほぼ崩壊したと言えるでしょう。

紀元前497年に晋の国内では范氏・中行氏の乱があり、長期化した事で覇者として振る舞う事は不可能となってしまったわけです。

紀元前497年を以って、晋の覇者体制は終焉を迎えたと言えるでしょう。

晋覇崩壊は何をもたらしたのか

晋と楚の講和により中原諸国はの脅威は無くなりましたが、各国では後発の分族に領地を与える事が出来ない問題に悩まされる事になります。

戦争が無ければ戦利品を獲る事が出来ず、恩賞問題も出て来るわけです。

こうなると晋の覇者体制に組み込まれていた国同士での戦争も起きる様になります。

紀元前504年に鄭は許を滅ぼし、紀元前488年に魯は邾を滅ぼし、紀元前487年に宋が曹を滅ぼしました。

晋の覇者体制下にあった国々が争い弱い者は強き国に滅ぼされている事が分かるはずです。

紀元前482年に呉が主催する黄池の会があり、晋の定公が参加し呉王夫差と長の座を争ったとあります。

晋と呉のどちらが会盟の長になったのかは資料により異なり不明ですが、晋も呉も衰退し、呉は紀元前473年に越により滅ぼされました。

越王勾践も春秋五覇の一人に加えられる事があります。

六卿の強勢

晋では六卿と呼ばれる大臣が存在し、入れ替わりはありましたが、最終的に智氏、范氏、中行氏、韓氏魏氏趙氏で固定される事になります。

六卿は戦争になれば中軍、上軍、下軍の指揮を任され戦争を行い、中軍の将が正卿であり、晋公を除けば最も尊貴な立場でした。

六卿は最終的に世襲制で固定され、晋の外交をも司る事になります。

過去には六卿の范氏が呉との交渉を行ったり、周王朝との交渉を担った記録が残っています。

他にも、智氏が斉との交渉を行い郤氏が魯との交渉を行うなど、晋の六卿と諸侯は深く結びついて行ったわけです。

勿論、諸侯は大国の政治を動かす立場にある晋を使って勢力を拡大したい思惑があり、六卿に対して賄賂を贈ったりもしていました。

さらに、六卿の方でも晋の国力を背景に、諸侯に対して賄賂を要求したりもしていたのでしょう。

叔向、晏嬰、季札の逸話で晋の公室の弱体化と韓、魏、趙の徳義を褒め称えた話しがあり、韓、魏、趙は諸国に対し傲慢に振る舞わなかった可能性もあるはずです。

韓などは韓起が韓厥が清貧を貫いた事で資金が不足している事を叔向に述べた話しがあり、韓あたりは同盟国からの収奪は少なかったと考える事も出来ます。

たたし、晋の六卿はそれぞれが諸侯と繋がり自己の利益の為に邁進する様になり、晋政多門と言った状態となり、国として動きにくい状態となった事実だけは残っています。

六卿は晋の公室への諸侯からの貢物も横領する様になり、晋の公室は日ごとに弱まり、六卿の勢力は拡大していく事になります。

晋の平公の時代の晋との講和は晋の公室の弱体化を招く結果になったとも言えるでしょう。

晋は公族に土地を与える事も出来なくなり、晋の公室は弱体化に向かいました。

晋の出公は公室の復権を考え動きますが、六卿に敗れ逃亡するなどの事件も起きています。

晋の公室は六卿を制御できない状態に陥りました。

三晋の誕生

晋の正卿が趙鞅から智伯に代わると、智伯は自勢力拡大の為に鄭やを攻撃し、趙襄子は代を滅ぼし領有しました。

智伯と趙襄子は対立し、紀元前453年に智伯は韓や魏と共に、趙襄子が籠る晋陽を囲む事になります。

晋陽の戦いでは韓と魏が趙に寝返った事で勝敗は決し、智伯は滅びました。

紀元前453年の晋陽の戦いを以って、六卿の中での生き残りが確定し、戦国時代に突入したとされる事も多いです。

春秋戦国時代は春秋時代と戦国時代に分けられますが、453年を以って春秋と戦国の分かれ目とする見解は多いと言えるでしょう。

韓、魏、趙の三国は晋の公室とは比べ物にならない様な領土を持ち、晋の公室は首都の絳と曲沃の二都市を領有するだけになっていました。

尚、智伯に代わり趙襄子が晋の正卿となりますが、趙襄子は政治力を発揮する事は無く、晋は分裂に向かう事になります。

韓・魏・趙は晋から分裂した国であり、三晋と呼ばれたるする事も多いです。

三晋分裂

趙襄子が紀元前425年に亡くなると、趙では後継者争いが勃発し、魏の文侯が晋の正卿となりました。

魏の文侯は絳に近い安邑を本拠地としており、晋の公室の権威を最大限利用しようと考えます。

紀元前416年に晋の幽公が盗賊に襲われて亡くなり、晋の混乱を魏の文侯が平定し、晋の烈公を立てました。

紀元前404年に魏の文侯は正卿の立場を利用し、周の威烈王の命によりと連合し斉を打ち破る事になります。

周の威烈王は紀元前403年に、韓、趙を諸侯として認め、これにより韓、魏、趙は晋の家臣ですらなくなったと考えられる事も多いです。

しかし、三晋の韓・魏・趙は「侯爵」を与えられており、晋の公室は「公爵」であり、依然として晋の下に置かれたとする見解もあります。

尚、司馬光の資治通鑑では紀元前403年を以って春秋時代と戦国時代の分かれ目としました。

魏・韓・趙は独立国になったかの様に思われがちですが、実際には魏の文侯や武侯などは晋の公室の権威を利用しており、晋の配下としての立場を取ったと言えるでしょう。

晋の公室は権威だけが残り、権威を魏に利用される存在になっていたわけです。

それと同時に晋の覇権を戦国七雄の魏が受け継ぐ形になったとも言えるでしょう。

晋の公室の権威を利用する形で、魏は最強国にのし上がりました。

晋の滅亡

魏の武侯が亡くなった時に、では魏の恵王と公仲緩の間で後継者争いが勃発しました。

魏の後継者争いにが介入し、晋の孝公を絳から屯留に遷してしまったわけです。

これにより魏は晋の公室の権威を利用する事が不可能となり、さらに韓は周を東周と西周に分裂させています。

晋の孝公が亡くなると、晋の静公が後継者となりますが、史記によれば趙、魏、韓により、その地は分割され晋は滅亡したとあります。

春秋時代の最強国である晋は最後の状況もよく分からず、寂しく滅亡したと言えるでしょう。

晋の歴代君主一覧

西周時代

唐叔虞ー晋侯燮ー武侯ー成侯ー厲侯ー靖侯ー釐侯ー献侯ー穆侯ー殤叔

翼と曲沃の対立時代

文侯昭侯ー孝侯ー鄂侯ー哀侯ー小子侯ー晋侯緡

曲沃ー桓叔ー荘伯ー武公

春秋戦国時代

献公ー奚斉ー卓子ー恵公ー懐公ー文公ー襄公ー霊公ー成公ー景公ー厲公ー悼公ー平公ー昭公ー頃公ー定公ー出公ー哀公ー幽公ー烈公ー孝公ー静公

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細