
| 名前 | マリ王国 |
| 建国~滅亡 | 紀元前2900年頃?ー紀元前1760年頃? |
| コメント | 交易都市として栄えた |
マリ王国は古代シリアにあった国であり、交易都市としても栄えていました。
シュメール人が都市国家を建設し争っていた時代に、マリ王国は遥か南方にあるメソポタミア南部のラガシュまで遠征した記録があります。
ただし、アッカド帝国の時代には、マリ王国は属国になってしまいました。
アッシリアのシャムシ・アダドが強勢になった時に、マリ王国は一時的に滅亡していますが、後にヤムハド王国の支援もあり、復興される事になります。
ジムリ・リムはマリの全盛期を築き壮大な宮殿まであった事が分かっています。
しかし、ハンムラビと対立すると戦いに敗れマリ王国は滅亡しました。
尚、マリ王国の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
マリ王国とは
マリ王国と聞くとアフリカのマリを思い浮かべるかもしれませんが、ここで扱うのはアフリカではなく、シリアに存在したマリです。
マリの諸都市はユーフラテス川沿いに位置し、他国の商人から通行税を徴収することで利益を得ていました。
記録によれば、徴収される手数料は銀などの貴金属に限られていたわけではありません。
たとえば、600壺のぶどう酒を運んできた商人が、そのうち30壺をマリで納めさせられたという記録も残っています。
また、マリは商品を右から左へと流す、いわゆる中継貿易によっても利益を上げていました。
ユーフラテス川沿いという立地は、交易都市として発展しやすい環境だったと考えられています。
ただし、マリ周辺のユーフラテス川は流れが変わりやすく、水量も季節によって大きく変動したとされています。
そのため、船を操るには相応の技術が必要だったと考えられます。
さらに、マリではすべての通行に手数料が発生したわけではなく、マリ王が発行する通行許可書も存在していました。
事前に通行手数料を支払うか、あるいは特別な目的でマリ王の許可書を得ることで、ユーフラテス川を通行することができたようです。
初期マリとイシュギ・マリ王の時代
マリが最初に大きく栄えたのは、ジェデム・ナスル期から初期王朝時代末期にかけてであったとされています。
この時代は、メソポタミア南部にシュメール人が存在し、都市国家同士が争っていた時期にあたります。
アッカド帝国が成立する以前のメソポタミア、と言った方が分かりやすいかもしれません。
像が発見されて一躍有名になったイシュギ・マリ王は、まさにこの時代のマリの王でした。
マリは周辺の都市国家、特にエブラと争いを繰り返し、勝ったり負けたりを重ねていたようです。
ラガシュのエアンナトゥム王の碑文には、紀元前2450年頃に「マリがラガシュにまで大遠征した」という記録が残されています。
ラガシュはペルシア湾に近く、メソポタミアの隣国であるエラムにもかなり近い地域です。
マリがそこまで遠征したという事実は、当時のマリが強大な軍事力と行動力を持っていたことを示しています。
アッカド帝国の台頭とマリの従属
一方、メソポタミア南部では、シュメールはルガルザゲシによって統一され、アッカドはサルゴンによって統一されました。
この二人の間で、メソポタミア全土の覇権をかけた天下分け目の戦いが勃発します。
最終的に勝利したのはサルゴンであり、ここにアッカド帝国が誕生しました。
小林登志子先生によると、アッカド帝国のサルゴン王の碑文には次のように記されています。
「サルゴンはダガン神にマリ、イアルムティ、エブラ、さらに杉の山、銀の山という上部地方を奉献した」この記述から、マリはアッカド帝国の支配下に置かれていたと考えられています。
アッカド帝国は最盛期には地中海沿岸にまで勢力を伸ばした大国であり、その規模を考えれば、マリが属国となったことは自然な流れだったと言えるでしょう。
なお、碑文に登場する「イアルムティ」という地名は正確な位置が不明ですが、現在ではハラブ(アレッポ)周辺ではないかと推測されています。
アッカド帝国の崩壊とマリの従属
アッカド帝国は後に気候変動による飢饉に苦しめられ、勢力を縮小し、最終的には山岳民族グティ人によって滅ぼされました。
これにより、マリには独立の機会が訪れます。
しかし、ほどなくしてシュメール人によるウル第三王朝が成立し、マリに対して縁組の要請が届きます。
当時のマリの立場では、強大なウル第三王朝に対抗することは到底できませんでした。
そこでマリ王アピル・キーンは、「従属国となっても、王家の血筋であれば粗末には扱われないだろう」と判断し、娘のタラーム・ウラムをウル第三王朝へ嫁がせました。
この婚姻により、マリはウル第三王朝の従属国として組み込まれることになります。
ウルナンムはタラーム・ウラムを「エギア(義理の娘)」と呼んでおり、タラーム・ウラムはウルナンムの子であるシュルギに嫁いだと考えられています。
シュルギはシュメール史において英雄的な人物として知られています。
彼とタラーム・ウラムとの間に、後のウル第三王朝第三代王アマル・シンが誕生したと考えられています。
アマル・シンはシュ・シンとの対立の中で亡くなった人物ですが、正統な王位継承者であったため、タラーム・ウラムはウルの宮廷で大切に扱われていたと推測されます。
ただし、シュルギにはタラーム・ウラム以外にも多くの妻がいました。
その数は8人にのぼり、子どもも少なくとも30人以上いたとされています。
ウル第三王朝の王家は非常に大規模であり、王子・王女の数も多かったことが分かります。
また、ウル第三王朝では、王が亡くなると后妃が殉死する慣習が一般的でした。
そのため、タラーム・ウラムも遅くともシュルギが亡くなった頃には、殉死によって世を去ったと考えられています。
ウル第三王朝の崩壊とマリの再興
ウル第三王朝の崩壊後、マリがどのような状況にあったのかについては、詳しいことは明らかになっていません。
しかし、紀元前1850年頃にヤギド・リムという人物がマリを再興したと伝えられています。
ヤギド・リムはアムル人であったとされ、周辺のカトナ王国やヤムハド王国も同じくアムル人の国家だったと考えられています。
ただし、マリ王国を再興したヤギド・リムについては史料が少なく、詳細はほとんど分かっていません。
その後、紀元前1810年頃になるとヤハドゥン・リムが王位に就きます。
この時期のマリ王国はまだ強国とは言えず、メソポタミアのエシュヌンナを宗主国としていました。
ヤハドゥン・リムの時代、南メソポタミアではイシン・ラルサ時代にあたり、イシンとラルサが覇権を争っていました。
マリ王国の一時的な滅亡
一方、北メソポタミアでは名君シャムシ・アダドによって古アッシリアが急速に強大化していました。
シャムシ・アダドが勢いに乗ってマリへ攻め込んだ際、ヤハドゥン・リムは戦上手のシャムシ・アダドを破ったとされています。
マリ側の記録には「ヤフドゥン・リムがナガルの城門の前でシャムシ・アダドを破った年」と記されており、この勝利は確実な歴史的事実と考えられています。
しかし、ヤフドゥン・リムは息子とされるスム・ヤマムによって暗殺されてしまいました。
この暗殺については、シャムシ・アダドが背後で糸を引いていたという説も存在します。
マリでは、ジムリ・リムという人物がヤフドゥン・リムの正統な後継者とみなされており、ジムリ・リムとスム・ヤマムの間で後継者争いが勃発していました。
この混乱を好機と見たシャムシ・アダドが、マリ王国へと攻め込んできます。
その後、ジムリ・リムはヤムハド王国へ亡命し、マリ王国は一時的に滅亡してしまいました。
シャムシ・アダドは長男イシュメ・ダガンをエカラトゥム王に、次男ヤスマフ・アダドをマリ王に据えます。
しかし、この次男ヤスマフ・アダドは問題の多い人物であったと伝えられています。
ジムリ・リムがヤムハド王国に亡命していた一方で、シャムシ・アダドは同じくヤムハドと敵対していたカトナ王国と婚姻関係を結びました。
その一環として、シャムシ・アダドはマリ王ヤスマフ・アダドの正妻として、カトナ王イシュヒ・アダドの娘を迎え入れます。
しかし、ヤスマフ・アダドはこのカトナ王の娘を邪険に扱ったとされ、これが後にシャムシ・アダドの怒りを買う原因の一つになったとも言われています。
マリ王国の再興
ジムリ・リムはヤムハド王国の首都のハラブに亡命しました。
ヤムハド王のヤリム・リムはジムリ・リムを厚遇し娘のシプトゥをを娶らせました。
シャムシ・アダドが亡くなるとアッシリアは混乱しますが、ジムリ・リムはヤムハド王国を後ろ盾にして復権する事に成功します。
尚、ヤムハド王国出身のシプトゥは非常に有能な情勢であり、ジムリ・リムが不在の時には代理人としての役割を見事に果たしました。
マリ王家には女性の初期もいた事があり、シプトゥも読み書きが出来たのではないかと考えられています。
ジムリ・リムもマリ王国の強化に尽力し、アッシリア弱体後にシリア北部の諸王と友好を深めるなどしました。
マリ王国の人口調査
ジムリ・リムはマリ王国を取り戻してから5年目に人口調査を実施しました。
人口調査が可能であったという事実は、マリ王国が安定していた証拠であると考えられています。
この人口調査では遊牧民も対象とされましたが、定住しない遊牧民の把握は難しく、調査は必ずしも成功しなかったようです。
しかし、定住を希望する遊牧民に対しては耕作放棄地を与えるなど、人口調査の時期に土地の再分配を行っていたことが分かっています。
こうしたメリットがあったため、一定数の遊牧民が定住民へと移行したと考えられます。
マリ王国と全盛期

前にも述べたように、マリは交易に適した地域でした。
ジムリ・リムの治世下でマリは強国となり、北はハブル川上流、南はユーフラテス川中流のヒート付近まで勢力を拡大しています。
さらにジムリ・リムは、対立していたヤムハド王国とカトナ王国の調停にも成功しました。
これは、ジムリ・リムがヤムハドだけでなくカトナからも妻を迎えていたことが背景にあると考えられています。
婚姻関係を通じた外交は、当時の国際関係において非常に重要な手段でした。
また、マリに建てられた王宮は近隣に響き渡るほど華麗であったと伝えられています。
後にはウガリトの王が「マリの王宮を見てみたい」と語ったとも言われ、その壮麗さは広く知られていたようです。
マリ遺跡からは、ブランコを使った豊穣儀礼が行われていたことが分かっています。
興味深いことに、ギリシア本土でも同様にブランコを用いた豊穣儀礼が存在しており、両者の間には何らかの文化的な繋がりがあったのではないかと考えられています。
また、ジムリ・リムは「世界で最初に氷室を作った」と主張しています。
しかし、これについてはウル第三王朝のシュルギが最初であるという異説も存在します。
真相は不明ですが、マリは過去にウル第三王朝に臣従していたため、その時期にメソポタミア南部から氷室の技術が伝わった可能性も指摘されています。
他にも、マリ王国はミノア文明を代表するクレタ島の勢力とも交流があったと考えられています。
マリ王国の滅亡
エラムがエシュヌンナを攻撃しますが、マリ王国はバビロン第一王朝と共にエラムに味方しました。
紀元前1765年頃にエラムはバビロンに侵攻し、マリ王国はヤムハド王国やカトナ王国と共にバビロンに味方し、エラム人を退けました。
この後にハンムラビがラルサを滅ぼしますが、マリ王国のジムリ・リムは援軍を派遣しています。
ラルサ滅亡後にハンムラビはエシュヌンナを攻撃しますが、マリ王国はエシュヌンナに味方しますが、エシュヌンナは滅亡しました。
その後に、ハンムラビはエカラトゥムやアラハドも支配下に入れ、マリ王国に攻め込んで来ました。
ジムリ・リムは応戦しますが、戦いに敗れマリ王国は紀元前1760年には都市も破壊され滅亡する事になります。
マリ王国の全盛期を築いたジムリ・リムでしたが、マリ王国の滅亡まで味わう事になりました。
マリ王国は滅びましたが、マリという都市自体は存続しました。
紀元前13世紀、アッシリアが再び強大化した時代には、このマリは軍事植民地として利用されています。
しかし紀元前7世紀になると新バビロニアに占拠され、さらにセレウコス朝の時代には、マリは無名の小村へと衰退していったと伝えられています。
おわりに
マリからは大量の文書が発見されており、いわゆる「マリ文書」として知られています。
そのため、マリ王国に関しては得られる情報が非常に多く、古代メソポタミア史の中でも特に資料が豊富な地域の一つとなっています。
マリ文書は2万枚以上にのぼり、その内容の大半は行政文書で、およそ1割ほどが手紙であるとされています。
王宮の運営、外交、軍事、経済、宗教儀礼、地方行政など、当時の社会を具体的に知ることができる貴重な史料です。
とはいえ、マリ文書はまだ全体の4分の1ほどしか公刊されておらず、未解読・未公開の資料が多数残されています。
今後の研究によって、さらに新しい歴史像が明らかになることが期待されています。
マリ王国の君主
・イブルル・イル
・イトゥル・シャマガンー
・ラムギ・マリ
・イシュトゥプ・イルム
・イディ・イルム
・トゥラ・ダゴン
・プズル・イシュタル
・ミラガ
・ヤギド・リム
・ヤフドゥン・リム
・スム・ヤマム
・ヤスマフ・アダド(アッシリア)
マリ王国の動画
マリ王国のゆっくり解説動画です。
この記事や動画の参考文献はYouTubeの概要欄に記載してあります。