古代オリエント

ナプラヌムはメソポタミアの南部で活動を行った

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宮下悠史

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名前ナプラヌム
生没年不明
時代メソポタミア文明
ラルサ
コメントラルサ王朝の初代

ナプラヌムはラルサ王朝の初代とされている人物です。

ウル第三王朝の行政文書の中でナプラヌムの名があり、ナプラヌムがメソポタミアの南部に実在した事は間違いなさそうです。

ただし、ウル第三王朝に仕えたナプラヌムとラルサ王朝を建国したナプラヌムが同一人物かは分かっていません。

それでも、ラルサ王名表を見る限りではナプラヌムがラルサ王朝の初代という事になっています。

ナプラヌムはラルサ王朝の初代とはされていますが、ラルサ王は名乗っていなかったと考えられています。

尚、ナプラヌムを初代とするラルサ王朝はイシン・ラルサ時代の主役の国の一つだと言えるでしょう。

ウル第三王朝に仕える

ナプラヌムは元々、ウル第三王朝の第5代王イッビ・シンの時代に、王朝に仕える立場にありました。

彼がラルサの基礎を築いたことから、ラルサはアムル人系の王朝としての性格を持つことになります。

イシンおよびラルサの歴史を紐解く際、ウル第三王朝時代からの連続性を理解することが重要です。

両都市の興隆は、ウル第三王朝の衰退と密接に関わっており、その成り立ちを解説する上では王朝末期の社会情勢から遡る必要があります。

ウル第三王朝におけるナプラヌムの地位

ラルサ王朝の創始者とされるナプラヌムは、当時の支配体制であったウル第三王朝において、非常に厚遇されていたことが記録から確認されています。

行政文書には、ナプラヌム本人だけでなく、その息子や甥にまで家畜が下賜(かし)された記録が残っています。

これらの記録から、ナプラヌム個人だけでなく、彼の一族全体がウル第三王朝の官僚あるいは軍事的な枠組みの中で重要な役割を担い、王朝を支えていた可能性が高いと考えられています。

ナプラヌムの名が登場する時期や、その人物の同定については、歴史学的な議論が存在します。

ウル第三王朝の第2代王シュルギの治世末期から、行政文書にその名が登場し始めます。

ラルサを建国したナプラヌムと、ウル第三王朝の文書に登場するナプラヌムが、「同一人物である」とする説と、「同姓同名の別人である」とする説の双方が存在します。

これは、当時のアムル人社会において一般的な名前であった可能性や、活動期間の長さに基づいた議論です。

ラルサ王朝の初代がナプラヌムなのに対し、イシン第一王朝の初代はイシュビエッラになっています。

ラルサ王名表において、ナプラヌムはラルサ王朝の初代王として位置づけられています。

ウル第三王朝の最後の王であるイッビ・シンの治世2年から、21年間にわたり在位したと記録されています。

しかし、王名表には具体的な実績の記載がなく、王としての具体的な活動内容は不明な点が多いのが現状です。

ウル第三王朝時代の行政文書には、ナプラヌムという名の人物に関する約20年間(シュルギ王44年~シュシン王6年)の記録が存在します。

記録によれば、ナプラヌムはメソポタミア南部に拠点を置き、王から牛や羊などを下賜される立場にありました。

イッビ・シン王の治世下では、ナプラヌムの息子であるイリバムブが、ウルから定期的に家畜の支給を受けていたことが確認されています。

これらの史料を巡っては、以下の点において複数の解釈が存在します。

行政文書に記された「王朝から恩恵を受けていたアムル人のナプラヌム」と、後にラルサ王として記された人物が同一であるかについては、同姓同名の別人と考える説もあり、慎重な検証が求められています。

息子であるイリバムブは、ラルサの第2代王として即位した形跡はありません。

王朝の始祖に関する議論: ラルサ王朝の実質的な形成については、ヤムヌムなどの他の人物を起点とする視点もあり、初期の王朝成立過程には不明瞭な部分が残っています。

ナプラヌム次代:ヤムスム

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