春秋戦国時代

聶政事件とは何だったのか

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宮下悠史

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名前聶政(じょうせい)
生没年生年不明ー紀元前397年
時代戦国時代
コメント孝行な刺客

聶政は史記の刺客列伝に登場する人物です。

横山光輝先生の漫画史記にも登場した人物であり、知っている人も多いのではないでしょうか。

の大臣だった厳遂は宰相の侠累と対立しますが、身の危険を感じ他国に亡命しました。

厳遂は侠累を暗殺できる刺客を探しますが、ここで目をつけたのが聶政だったわけです。

聶政の元に行くと厳遂は贈り物をしたり、聶政の母親の長寿を願うなどしました。

厳遂は聶政に心を打ち明けますが、母親の孝行を理由に断られています。

しかし、聶政の母親が亡くなると聶政は再び厳遂の前に出て、刺客となる事を了承しました。

聶政は刺客となり侠累を刺殺しますが、身元が分からななくなるほど自らを傷つけ、壮絶な最後を迎える事になります。

聶政の姉の栄が名乗り出た事で、聶政の名は後世に知れ渡る事になりました。

今回は聶政事件とは何だったのかについての解説です。

尚、史記の刺客列伝には,聶政以外では下記の人物が収録されています。

曹沫専諸豫譲荊軻

韓の黎明期:首都・陽翟の変遷と厳遂・侠累の権力闘争

紀元前403年、の分裂(三家分晋)によって公認され、戦国七雄の一角として名乗りを上げたのが「」です。

その最初期の緊迫した政治秩序を象徴するのが、天下一の刺客と名高い聶政(じょうせい)を巻き込んだ、厳遂(厳仲子)と宰相・侠累(きょうるい)の凄絶な権力闘争です。

文献史学および法制史の観点から戦国初期の制度論を精査すると、新興国家である韓が直面していた
凄まじい統治インフラの過渡期が浮かび上がってきます。

歴史的な事実として、韓の首都の変遷を正しく精査する必要があります。

の三氏が独立した当初、韓の中心拠点(本拠地)であったのは、現在の河南省禹州市にあたる陽翟(ようてき)でした。

陽翟は古い夏王朝の伝承が残る極めて肥沃な盆地であり、新興の韓にとっては経済・軍事インフラの要でした。

その後、韓は東方への進出(領土拡張)を図る地政学的戦略に基づき、紀元前375年(文侯の時代)に隣接する古強国であった「鄭(てい)」を攻め滅ぼし、その首都であった新鄭へと遷都を断行したのです。

したがって、聶政の暗殺事件が発生した紀元前397年(烈侯の時代)の時点においては、「新鄭に遷都した」のではなく、未だ鄭を滅ぼす前の段階であり、景侯以来の首都である『陽翟』が、韓の最高権力の中枢として機能していたというのが現実です。

濮陽(衛の首都)の出身でありながら、韓の朝廷で大官(厳仲子)にまで登りつめた厳遂(げんすい)と、韓の王族の末の叔父であり、宰相(相国)の地位を独占していた侠累(韓傀)には衝突がありました。

『戦国策』において「厳遂は主君に重んぜられたが、侠累の過ちを容赦なく直言したため対立した」と記録されているこの政治的対立の本質は、単なる「個人の仲の悪さ」という感情論ではありません。

当時、独立したばかりの韓の朝廷では、旧来の王族・貴族勢力を維持しようとする保守派(その筆頭が宰相の侠累)と、他国から優秀な人材を招いて法制化と中央集権化を急ごうとする客卿(その代表格が厳遂)の間で、次代の政治の主導権を巡る、極めて冷徹な利害衝突が静かに進行していたのです。

後ろ盾であった先代の景侯が紀元前400年に亡くなり、烈侯が即位したことで、宮廷内のパワーバランスは一変しました。

自らの法的・政治的イデオロギー(直言)が新主君に受け入れられず、宰相の侠累による凄惨な逆襲・排除を察知した厳遂が、身の危険を感じて朝廷を剣を抜いて出奔(亡命)せざるを得なかった背景には、こうした新興国家特有の過酷な事実が存在したのではないでしょうか。

韓の権力交代期における政治的タイムライン

​紀元前400年には韓の景侯の崩御にともなう烈侯の即位、そして紀元前397年には侠累(きょうるい)暗殺事件が発生します。

このわずか3年間という過渡期は、天下一の刺客・聶政の運命を決定づけた、戦国初期における最も濃密な政治的タイムラインです。

文献史学および古代の礼制(制度論)の観点から当時の社会を冷徹に精査すると、この「3年」という数字が如何に生々しい実態に裏付けられていたかが浮かび上がってきます。

まず、聶政の母親が亡くなってから「葬儀と喪服の期間(三年喪)」を経て事件を起こすまでのタイムラインが「3年しかないから不可能である」とする見解は、古代中国における「暦と礼制の数え方」を誤認しています。

​儒教的な伝統(周礼)に基づく「三年喪」の本質は、現代の満何年という計算とは異なり、足掛け3年(実質は25ヶ月、あるいは27ヶ月)を意味します。

つまり、母親が亡くなった年を「1年目」とし、翌年を「2年目」、その次の年の忌明け(喪が明けるタイミング)を迎えた時点で「3年目が終了した」とみなされるシステムです。

​したがって、紀元前400年の景侯崩御の直後に厳遂が亡命し、斉の屠殺場に隠れていた聶政と出会ってお土産(百金)を贈り、その直後に母親が亡くなったとすれば、紀元前397年の挙兵(侠累暗殺)までの約2年半という実質的な期間は、古代の礼制インフラのスケジュールと完璧に合致する事実なのです。

厳遂の諸国巡遊の本質:亡命者が張り巡らせた「任侠」

の朝廷を出奔した厳遂は、濮陽(衛)から斉へと諸国を旅し、侠累を暗殺するための「刺客」を追い求めました。

『史記』刺客列伝において、彼が「個人的な怨恨なのか、国を憂う政治的意図なのか」のミクロな動機をあえて司馬遷が詳細に記さなかった理由は、それが個人の感情論を超えた、戦国時代における『任侠(じんきょう)』という裏の地政学的ネットワークを浮き彫りにするためです。

​当時、諸国を流浪する亡命貴族(厳遂など)は、単に「綺麗なやり方では排除できないから暗殺者を募る」と考えていたわけではありません。

彼らは自らの財力(百金などの軍資金)を用いて、各国に潜在する「己を知る者のために命を捨てる無頼の徒(義侠の士)」をリストアップし、公式な法的ルート(外朝)を完全にブロックされた状況下で、一撃で敵を排除するための「非公式な軍事力(刺客)」を構築していたのです。

​厳遂が斉において「韓出身の聶政が、勇敢でありながら屠殺者として身を隠している」という情報を即座に入手し、面会を望んだ一連の動線は、政治における冷徹なサバイバル戦略に他なりません。

厳遂(厳仲子)は、諸国を流浪した末に斉の地で天下一の刺客・聶政を発見しました。

刺客探索のインテリジェンス:なぜ「屠殺(とさつ)場」に英雄が隠れるのか歴史的なファクトとして、聶政が殺人を犯して斉に亡命し、市場の「屠殺者(市井の肉売りの)」の中に身を隠していた事実は、当時の地政学的サバイバルとして極めて合理的でした。

​古代中国の戦国時代において、市場の屠殺業(獣を解体する職分)は、日常的に刃物を扱い、解剖学的な生体構造(肉体の急所)に精通しているため、潜在的に高い武勇や戦闘技術を有する者が集まる「無頼・任侠のコミュニティ」の温床でした。

同時に、多くの人間が往来する市場は、他国からの亡命者や「指定手配犯」が身元を隠匿して生計を立てるのに最適な空間だったのです。

​厳遂は、各国の任侠ネットワークや市井の情報通から地道な情報収集を重ねた結果、「屠殺場の中に、明らかに凡庸な肉売りではない、圧倒的な覇気を放つ男(聶政)が潜伏している」という確実な証拠を掴み、狙いを定めて面会を求めたのです。

​厳遂は聶政の元を訪れ、彼の母親の長寿を祝う名目で百金(黄金百鎰)という莫大な財貨を提示しました。

​当時の諸侯の大臣(宰相クラス)であった厳遂が、一介の市井の流亡者にすぎない聶政に対し、自らへりくだって巨額の「百金」を差し出した真の狙いは、「士は己を知る者のために死す」という、命の契約を結ぶための絶対的な誠意(投資)でした。

厳遂は、聶政が「老母への極めて強い孝心」によって動いている男であることを見抜いていました。

だからこそ、まずはその母親の生活を金銭的に完全に担保することで、後顧の憂いを無くし、将来的に「自分のためにその命を盾として差し出してもらう」ための、極めて高度な政治的・心理的アプローチを仕掛けたのです。

しかし、​聶政は「老母が健在であるうちは、我が身を他人に捧げることはできない」としてこの大金をきっぱりと拒絶しました。

このプロセスからも、「義侠の士としての己の『信義』を安売りしない」という、張り詰めた思いがあったことが読み取れます。

任侠の本質:『士は己を知る者のために死す』にみる、聶政の信義

聶政は、​斉の市場において屠殺業に身を置きながらも、前漢の文帝期に語られるような黄老思想的な隠遁とは一線を画し、老母の崩御を契機として厳遂(厳仲子)の元へと馳せ参じました。

聶政は「志を捨てて屠殺業を営んでいた」とされますが、その本質は「出世への執着(出世欲)がなかったから」などではありません。

​当時、殺人を犯してから斉へと亡命していた聶政にとって、大官に登りつめて名を揚げるという本来の「士(さむらい)」としての志は、直面する逮捕のリスクおよび、老母と姉(栄)の生活を守るという絶対的な使命のために、一時的に隠さざるを得ないものでした。

​諸侯の大臣であった厳遂が、自らの元へ何度も足を運び、巨額の百金を差し出して自らの価値を認めてくれたことに対し、聶政が激しい衝撃を受けた理由はここにあります。

まだ何の大功も立てていない自分を、ただその武勇と義侠心のみを基準に「知己(本当の理解者)」として遇してくれた厳遂に対し、聶政の心の中では「士は己を知る者のために死す(武士は自分を本当に理解し、評価してくれる主君のためにこそ、その命を盾として捧げる)」という、古代中国における絶対的な任侠(信義)がこの瞬間に完璧に構築されたのでしょう。

​聶政の母親が天寿を全うし、姉の栄も他家に嫁いだことで、聶政の身を縛っていた身内の扶養は完全に解消されました。

​この瞬間、彼は濮陽(衛の首都)にいる厳遂の元へ単身で赴くという決断をします。

​聶政の行動は、突発的なパニックや社会への逆恨みなどではなく、かつて老母の生存を理由に拒絶せざるを得なかった厳遂からの命の契約(百金の誠意)に対し、全ての障害が取り除かれた今、自らの信義に基づいて完璧に義務を履行しにいくという、極めて理性的かつ強固な意思に基づいています。

彼は自分の命を無駄に投げ捨てるのではなく、「自分を最も高く評価してくれた人間の仇討ち(侠累の暗殺)」という、明確な目的のために正しく最高値で売却しにいったのです。

​濮陽における密談

​老母の崩御にともなう『三年喪』を完遂し、かつて自らの価値を最大値で認めてくれた知己・厳遂(厳仲子)への報恩のために、衛の首都・濮陽へと馳せ参じた聶政。

歴史的な事実として、厳遂が亡命先として身を置いていた衛(えい)の首都・濮陽(ぼくよう)と、暗殺のターゲットである侠累(きょうるい)がいるの首都・陽翟、そして聶政が潜伏していた斉(せい)の首都・臨淄(りんし)の地政学的空間戦略を正確に精査する必要があります。

① 韓・衛・斉の空間:なぜ「濮陽(ぼくよう)」での密談が可能なのか

​衛国は、当時すでに大国となった、韓に囲まれた極めて脆弱な小国(緩衝地帯)でしたが、その首都である濮陽(現在の河南省濮陽市)は、黄河の水運インフラに面した交通の要衝でした。

地理的な位置関係として、濮陽から韓の首都・陽翟までは西南方向へ一直線の距離にあり、馬車や単身の徒歩であれば「数日以内(極めて近距離)」で隠密に国境を越えることが可能な位置にありました。

​厳遂が斉の臨淄からわざわざ韓の目と鼻の先である濮陽に戻り、そこに聶政が合流したプロセスは、単なる「旅の帰宅」などではなく、韓の中央(侠累の監視網)の死角を突きつつ、即座に暗殺部隊を陽翟へと射出するための、最前線の前線基地として濮陽が選ばれていたという事実に他なりません。

​② 単独行動の合理性:兵站および密告リスクの排除

​厳遂が「車馬や精鋭の壮士(暗殺の補助部隊)を何でも揃える」と提示したのに対し、聶政はそれを完全に拒絶し、自ら単身で陽翟に乗り込むという極めて過酷な選択肢を選びました。

​聶政のこの考えは、現代の軍事における「隠密作戦」の核心を突いています。

衛から他国である韓の宰相(王の叔父)を暗殺しにいく際、大人数の武装集団(車馬や壮士)を動かせば、国境の警備に即座に察知され、外交的な大問題(衛の滅亡リスク)へと発展します。

さらに、人数が多くなればなるほど、利害関係によって動く人間が混ざり、恐怖や買収によって事前に侠累側へと寝返り、計画を密告する裏切り者が発生する確率が跳ね上がります。

もし事前に情報が漏洩すれば、暗殺が失敗するだけでなく、後ろ盾である厳遂自身が確実に族滅に追い込まれます。

​聶政が「私一人で十分である」と言い放った真の狙いは、単なる武勇の誇示などではなく、情報を共有する人間を自分1人に限定することで、裏切りと漏洩のリスクを極限までゼロにし、確実に侠累を殺害するという、暗殺者としての冷徹極まりない作戦の最適化だったのです。

役所直登暗殺の地政学:史記・戦国策における聶政の「隠密性(ステルス)」の解体と文献学的リアリズム

​衛の濮陽から単身で国境を越え、の初期首都・陽翟(ようてき)へと侵入した刺客・聶政は、ついに宰相・侠累(きょうるい)の暗殺を断行しました。

司馬遷の『史記』には、聶政は剣を携えながらも、あたかも公務を帯びた役人や一般の参入者であるかのように「何事もないかのように堂々と役所の門をくぐり、ずけずけと階段を直登して宰相の座所に達した」と記録されています。

当時、韓の宰相であり王の叔父であった侠累の周囲には、当然ながら多数の武装した衛兵や護衛が配置されていました。

しかし、聶政があまりにも日常の風景に溶け込んだ「無為(自然)」の態度で直進してきたため、衛兵たちは彼が暗殺者であることの識別に一瞬の遅れを生じさせてしまったのです。

衣服に剣を隠して智伯の仇討ちを狙ったものの、殺気や挙動不審さによって趙襄子に即座に看破された予譲の事例と比較した時、聶政の特異性は「単身で堂々と正面から突破した」という、圧倒的な度胸と実戦格闘技術の融合にあるのです。

​また、『史記』における侠累と『戦国策』における韓傀(かんかい)の描写の差異は、極めて重要な検証ポイントです。

史記では、役所の奥座敷に座っていた侠累に対し、聶政が階段を直登して一瞬で刺殺を完了した、文字通りのピンポイント暗殺として描かれます。

一方、​戦国策の記述では、韓の烈侯も同席する公式な外交・祭祀の場(東孟の会)において、多数の護衛が取り囲む中、聶政が突如として「群衆の中に踊り込んで強襲した」と描写されます。

侠累は恐怖のあまり韓の烈侯の肉体に抱き着き、烈侯を肉盾にすることで聶政の刃を防ごうと試みましたが、聶政は烈侯をも負傷させながら侠累を刺殺したと記録されています。

​司馬遷が『史記』を編纂する際、これら双方のソースを精査した上で、前者の役所直登ルートを本紀・列伝の主軸に据えた理由は、それが「士は己を知る者のために死す」という個人の信義が、国家の最高防衛(宰相の警護)を文字通り単身で無力化したという、任侠の本質を最も純粋に証明する事実であったからであると考えられます。

聶政による侠累暗殺

『戦国策』の記録によると、事件の舞台となったのは、韓の烈侯や宰相の侠累、そして多数の武装した護衛兵が一堂に会する公式の祭祀・外交空間でした。

​聶政がこの厳重な警戒網を突破して突如として強襲した際、恐怖した侠累がとっさに「韓の烈侯の肉体」に抱き着いた一連の行動の本質は、
単なる「怯みを期待したから」などではありません。

これは、戦国時代における極めて冷徹な政治的防衛です。

かつての貴族たちに襲撃された軍事思想家・呉起(ごき)が、非難を恐れる貴族たちの心理を突いて「楚の悼王(とうおう)の遺体」に
抱きつき、結果として王の遺体を傷つけた貴族たちが後に新王(楚の粛王)によって一族もろとも族滅に追い込まれた例があります。

​つまり侠累は、「自分を刺せば、主君である韓の烈侯をも傷つけることになる。

さすれば貴様(聶政)だけでなく、後ろ盾の身内までもが国家逆賊として族滅されるぞ」という、法的なリスクを聶政に突きつけることで、刃を防ごうと試みたのです。

しかし、聶政の覚悟はそのような次元を遥かに超えていました。

聶政は烈侯をも負傷させるほどの圧倒的な覇気と殺撃を以て、侠累を刺しますが、韓の烈侯も負傷しています。

​侠累を討ち取った後、目的を完遂した聶政の周囲には、当然ながらパニックに陥った数百人の衛兵たちが一斉に殺到しました。

聶政は直轄軍の包囲網を突破するかの如き凄まじい武勇を振るい、「その場で衛兵たちを次々と撃破し、少なくとも十数人から数十人をその剣で討ち取る」という、圧倒的な局地戦闘を行いました。

聶政の最後

多勢に無勢であり、自らの肉体の限界を察知した瞬間、聶政は世界史において最も凄絶かつ合理的な情報隠匿を断行します。

​聶政は自らの剣で、「自らの顔面の皮を削ぎ落とし、両眼を抉り出し、さらに腹を掻き切って自らの腸を掴み出して自刃した」のです。

これは、自らの身元(素性)を完全に破壊し、の中央朝廷による捜査を完全に無力化するための、冷徹極まりない安全保障戦略でした。

​自分の死体が市場に晒され、千金の賞金を懸けて素性を捜査されたとしても、顔がなく肉体が破壊されていれば、自分が「韓の軹出身の聶政」であることは絶対に発覚しません。

身元が割れなければ、斉にいる最愛の姉(栄)や、自分を「知己」として最大値で評価してくれた主君・厳遂への追及を、自らの死を以て完全にシャットアウトできる。

これこそが、「士は己を知る者のために死す」という戦国初期における任侠の究極の到達点だったのでしょう。

刺客列伝のクライマックスにおける信義:姉・栄の烈女たる言顕

聶政のその凄絶な死の直後、死線を超えての朝廷(直轄支配)のど真ん中へと姉・栄が単身で乗り込んできました。

栄は遺体が自身の弟であると宣言し、自害を遂げます。

顔面の皮を剥がれて名前が「不明」のまま晒されていた聶政の遺体の前に、なぜ姉の栄が自らの逮捕・刑罰リスクを無視して現れたのでしょうか。

周囲の群衆(市衆)が「この男は宰相を殺害し、韓王が千金を懸けて素性を捜査している指定手配犯である。なぜ自ら名乗り出て罪に連座しようとするのか」と驚愕して引き止めたのに対し、栄が言い放った言葉は、古代中国における「士」の思想の神髄を突いています。

弟・聶政が斉の屠殺場に身を落としていたのは、老母の扶養を最優先し、姉である自分が未だ他家に嫁いでいなかったため、一族に迷惑が及ぶことを防ぐためでした。

しかし、老母が天寿を全うし、すべての障害がクリアになったからこそ、聶政は自分を「知己」として最大値で遇してくれた厳遂(厳仲子)の信頼(信義)に応えて命を売ったのです。

栄は、「弟が自らの顔を剥いで自害したのは、残された私(姉)への刑罰の連座をブロックするためである。

しかし、もし私が自分の生存を優先して沈黙を守り続ければ、弟のこの命を賭けた偉大な『信義』は、誰のものかも分からぬまま歴史の闇に永遠に埋没されてしまう」ということを見抜いていました。

​栄が「弟の名を天下に顕彰することこそが、残された私の義務である」と叫び、大声を天に放って悲慟しながら聶政の遺体の傍らで自害した一連の事実は、自らの命と引き換えに、弟の無名の死体を「天下一の義侠の英雄」へと歴史的に昇華させた、極めて強固な意思の表明だったのです。

『戦国策』夏育・孟賁(もうほん)記述の文献批判

また、『戦国策』では栄が「孟賁や夏育よりも優れている」と言ったと記述されていますが、これは文献学において「後世の記述家による創作(加筆)」と断定されています。

なぜなら、歴史のタイムラインに明確な時代錯誤が存在するからです。

聶政と姉の栄がの陽翟で壮絶な最期を迎えたのは、紀元前397年(烈侯の時代)です。

栄が引き合いに出したとされる古代中国の伝説的な豪傑・孟賁は、秦の武王に仕えた猛将ですが、彼が歴史の表舞台で活躍し、王の崩御の巻き添えで処刑されたのは紀元前307年です。

​つまり、聶政の事件から約90年後(約1世紀先)の未来に生まれる高名な豪傑の名前を、紀元前397年の時点で栄が知っていることは不可能です。

したがって、これは戦国時代の末期や前漢初期に『戦国策』を編集した書記官たちが、聶政の一族の圧倒的な武勇を分かりやすく強調するために、後世の有名な豪傑(孟賁・夏育)の名前をセリフの中に加筆した残骸である、と考えられています。

史記や戦国策では、「この話を聞いた、衛の人々は、『聶政に才覚があっただけではない。姉もまた烈女である』と噂した」とされています。

戦国策では「聶政の名が後世に知れ渡ったのは、姉が誅伐を畏れず、その名を揚げたからだという」という記述で物語が終わります。

また、史記では司馬遷自身が「姉に忍従の志がなく、自らの屍を晒すのも恐れず、千里の道を旅してまで辱めを受けるのも恐れないと知っていたら、聶政は必ずしも厳遂の許には赴かなかっただろう」と述べています。

これは、任侠における悲劇の相互不一致(パラドックス)を冷徹に突いたものです。

聶政の生存戦略(直登暗殺と顔面剥離の自刃)の真の狙いは、自らの身元を完全に破壊することで、残された姉の生存を担保することにありました。

すなわち、「自分の死を以て、姉を完全に隠匿する」ことが、彼の契約履行の前提だったのです。

​しかし、姉の栄の側における信義は、「弟の偉大な名声が歴史の闇に埋没することを防ぎ、自らの命を以て天下に顕彰する」ことにありました。

司馬遷が描いたのは、「弟は姉を守るために顔を剥いで死に、姉は弟の名を守るために名乗り出て死んだという、お互いがお互いを守ろうとした『信義の最高値の衝突』が、結果として一族の完全な絶滅を招いてしまった」という、人間の道徳が孕む凄絶な宿命です。

それと同時に司馬遷は「厳遂はよく人を見抜き、有用の士を得た」とも述べています。

その後、厳遂(厳仲子)が他国の宰相(侠累)を暗殺した首謀者である以上、韓の烈侯が彼の「追捕(身柄拘束の要求)」を国際社会にアナウンスしたのは当然ですが、当時はすでに「三家分晋」によって既存の国際法(周の礼制)が完全に崩壊していた戦国初期です。

厳遂が逃げ込んだや斉などの大国が、韓の要求を拒絶してしまえば、韓の主権は国境の外側には届きません。

だからこそ、厳遂のその後の足跡は歴史の闇に消えて「記録がない」とされているのです。

二百二十余年のタイムライン:なぜ唐突に「秦の荊軻(けいか)」へとジャンプするのか

​また、『史記』では聶政の章の後に「その後、二百二十余年を経て荊軻の事件が起きた」として、一気に時代がジャンプしています。

司馬遷がこの巨大なタイムラインの跳躍を列伝に組み込んだ理由は、戦国初期の「個人の暗殺(聶政)」から、戦国末期の「国家の命運を賭けた巨大外征(荊軻)」への、暗殺劇が持つリスクの巨大化の潮流を証明するためだと考えられています。

紀元前397年の聶政の事件は、あくまで「国内の朝廷における権力闘争(客卿vs伝統王族)」の範疇でした。

しかし、それから220年が経過した紀元前227年、刺客列伝の最後を飾る荊軻が断行した「秦王政(のちの始皇帝)暗殺未遂事件」は、秦という圧倒的な軍事力によって滅亡寸前に追い込まれた「燕(えん)」という国家が、東アジアの統一を力ずくでブロックするために仕掛けた、国家主導の最終防衛戦略へと進化していたのです。

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