エジプト新王国 古代エジプト

アクエンアテンとアマルナ革命

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宮下悠史

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名前アクエンアテン
別名イクナートン、アメンホテプ4世
時代エジプト新王国
在位前1353年頃~前1336年頃
コメント史上初の一神教を実践した。

アクエンアテンはエジプト第18王朝のファラオです。

アマルナ革命と呼ばれる宗教改革を行っており、アテン神を熱烈に信仰しました。

アケトアテンに遷都しアメン神の迫害を行うなど、世界で最初の一神教を行ったともされています。

しかし、民衆に支持されないなど改革は頓挫し、アマルナ改革を優先し国外の勢力を助けなかった事で、ミタンニ王国が衰退しヒッタイトが強力になるなど、古代オリエントの勢力図まで変えてしまいました。

アクエンアテンの時代にエジプトでは大規模な反乱は起きませんでしたが、エジプト第18王朝の衰退を招いたとする評価が強くある状態です。

治世の晩期にはスメンクカーラーやネフェルネフェルウアテンを共同統治王としました。

尚、日本で黄金のマスクで有名なツタンカーメンはアクエンアテンの息子だとされており、妻のネフェルティティはエジプト文明随一の美女とされ、話題には事欠かない人物でもあります。

因みに、アクエンアテンの一神教を見ていたのが、ヘブライ人のモーセだった説もあり、合わせて解説します。

アクエンアテンとアマルナ革命の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。

アメンホテプ4世の即位

アメンホテプ4世(アクエンアテン)がファラオになる前の記録としては、アメンホテプ3世の治世30年の第1回セド祭から使用されたマルカタ王宮から出土したワイン壺の封泥のスタンプが残っており、そこには「真の王の息子」と記録されていました。

アメンホテプ3世とアメンホテプ4世には、共同統治を行ったとする説もありますが、真の王の息子と書かれている事から、共同統治王にはなっていなかったとも考えられています。

多くの研究者は、共同統治を行ったとする確証がないと考え、共同統治は無かったと考えています。

アメンホテプ4世は、アメンホテプ3世が亡くなった事でファラオとなりました。

しかし、アメンホテプ4世は、嫡子ではなく本来はファラオになる人物ではなかったわけです。

アメンホテプ4世には、兄のトトメスがいましたが、早逝してしまった事でファラオの座が回ってきたと言えるでしょう。

さらに言えば、アメンホテプ4世は慣例に従いテーベのアメン神によって即位した事も分かっています。

アメンホテプ4世の名前を記録したスカラベも見つかっており、アメン神により即位した事は確実です。

アメンホテプ4世はファラオになると、カルナックアメン大神殿の中にアテン神の神殿を建設しました。

さらには、各地にアテン神の神殿を建設しており、この頃から心にはアメン神はなくアテン神があったのでしょう。

アメンホテプ4世とアメン神

エジプト第18王朝では初代のイアフメス1世の時代からアテンの名は確認出来ています。

ただし、エジプト第18王朝ではアメン神官団の力が強くなり、政治的な発言権も大きくなっていた事から、ファラオは問題だと感じていました。

大スフィンクスの脇にある神殿の碑には、トトメス4世が「アテン神の名のもとで近東の国を支配する事が出来た」とスカラベに刻んでいます。

トトメス4世がアテン神に感謝している話は、アメン神官団への権勢とみる事が出来ます。

アメンホテプ4世の父親であるアメンホテプ3世が巨大人工池に浮かべた船の名前が「輝けるアテン号」だった事も分かっています。

こうした事情から、アメンホテプ4世にとってみれば、アテン神はなじみ深いものだったのでしょう。

アメンホテプ4世はアクエンアテンと名乗り宗教改革を行い、アメン神を崇拝しますが、一つの説としてアメン神に傾倒していたわけではなく、政治利用しただけとする説もあります。

それでも、アメンホテプ4世がアメン神を崇拝していた事は事実だと言えるでしょう。

アケトアテンへの遷都

(画像はイメージ)

アメンホテプ4世はアテン神を広める為の活動を行いますが、中々に拡がらなかった現実があります。

実際の所なのですが、これまでのエジプト第18王朝の首都はテーベであり、どうやっても、アメン神の聖地ともいえるテーベでは、アテン信仰は限定的だったと言えるでしょう。

アメンホテプ4世はエジプト国内や、ヌビアにアテン神の神殿を建設しようとしても、メインになってしまうのは、その都市の主神でした。

歴史が浅い宗教を広めようと思っても、難しいという事なのでしょう。

こうした事情もあり、アメンホテプ4世は新都アケトアテンを建設したと考えられています。

テーベとメンフィスの中間地点に、アケトアテンを建設しました。

新都アケトアテンの名前の意味は「アテンの地平線」であり、現在のテル・アル=アマルナです。

残念に思うかも知れませんが、アケトアテンの中心地とされている場所は、柱は立っているも、殆ど何もないような場所になっています。

アケトアテンの遺跡から人骨が発見されていますが、見つかった子供の骨を調べてみたところ、過酷な労働を強いられていたんじゃないかとも考えられている状態です。

こうした事情もあり、民を酷使し誕生させたのが、アケトアテンだったのではないかともされています。

アクエンアテンの誕生

アメンホテプ4世は治世の4年目で、新都アケトアテンの建設を始めましたが、この頃にネフェルティティを妻としました。

年齢的に考えて、この頃までにアクエンアテンにも妻はいたとされていますが、ネフェルティティを正室としています。

治世の5年目から6年目には、アメンホテプの名を捨てアクエンアテンを名乗りました。

妻のネフェルティティもネフェルネフェルウアテンに改名し、夫婦そろってアテン信仰を熱心に行ったとみる事が出来ます。

アクエンアテンの意味は「アテン神にとって有益なもの」です。

アケトアテンが完成するとアクエンアテンは、アケトアテンで暮らす事になりますが「この先、どの様な事が起ころうとアケトアテンからは出ない」と宣言した話が残っています。

アクエンアテンにとって、アメンホテプの名との決別だけではなく、テーベとの決別を決断したとみる事も出来るはずです。

一神教の始まり

神はアテン神のみ

アクエンアテンはアマルナ改革の胆である一神教を打ち出し、次の様に宣言しました。

アテン神は唯一絶対の神で想像主である。

他の神を崇拝するのは禁止行為とする

アテン神の偶像は存在しない。

ファラオだけがアテン神の司祭であり、アテンと国民の仲介役で神官は存在しない。

アテンは万人に愛を下すものである。対象はエジプト人だけではなく、外人も含まれる。

アクエンアテンは宗教改革を強化したと言えるでしょう。

これが世界最初の宗教改革で一神教の始まりだとも言われている状態です。

アメン神官団の焦り

アクエンアテンの一神教政策に焦りを見せたのが、アメン神官団となります。

アメン神官団は、これまでに様々なアテン神の名を使った信託を出していましたが、神がアテンのみとなれば、まやかしになってしまいます。

こうした意味でも、アメン神官団が焦るのも、当然の成り行きだったと言えるでしょう。

アクエンアテンもファラオとアテン神を合体させる事に意味があり、アテン神以外の他の神が「こういっています」と言われるのも防ぐ狙いがあったと考えられます。

神がアテンだけであれば、別の神の言葉はシャットアウト出来る事になるでしょう。

アクエンアテンは神官勢力から、政治的な発言権を剥奪しようと目論んだとみる事が出来るはずです。

迫害の始まり

アクエンアテンはアテン神が唯一神であり、他の神を認めない姿勢を前面に押し出しています。

他の神や神官団に対する迫害は、アテン神の後期の名前が宣言された時に、始められたとも考えられている状態です。

アメン神の名と図像はピラミッドやオベリスクの頂から小さなスカラベに至るまで、徹底に削り取られました。

父親のアメンホテプ3世の名前も即位名の「ネプマアトラー」となり、アメン神の妻であるムウト女神の名も削られています。

アクエンアテンのアマルナ革命により、アメン神は信仰を完全に禁止されたと言えるでしょう。

さらに、アクエンアテンの迫害はアメン神だけではなく、他の伝統的な神々にまで及びました。

当然ながら神はアテンだけであり、神を複数形にする事も禁じています。

民衆の心を掴めないアマルナ革命

アテン神の信仰はエジプト第18王朝の王族の中では、拡がっていたのかも知れませんが、一般の民衆の間では、ほぼ無名の神様だったと言えるでしょう。

王族と民衆の間で、かなりの温度差がありました。。

アクエンアテンのアマルナ時代であっても、庶民の集落からは、伝統的な神々のアミュレット(護符)などが出土されており、今まで通りの神々を信仰していたとみる事が出来ます。

古代エジプトの祝祭では、神々の像が船型の神輿に載せられ、民衆の前に姿をみせる貴重な行事であり、民衆は神々に願い事を祈り希望にしていました。

民衆の楽しみをアクエンアテンは、政治上の理由で奪ってしまった事になります。

多くの方がお気づきの様に、アクエンアテンのアマルナ革命は失敗に終わりますが最大の原因が、民衆の気持ちを考慮せず、行った事にあると考える専門家も多いです。

アマルナ革命とオシリス神

アマルナ革命の最大の失敗の要因が、オシリス神にあるとも言われています。

オシリスはエジプト文明の神の中で、最も重要な神の一柱ともされているわけです。

アクエンアテンの宗教改革により神はアテンだけとなり、冥界の神であるオシリスも存在しない事になってしまいました。

オシリスがいなくなった事で、来世もなくなってしまった事になり、エジプト人には受け入れる事が出来なかったとも考えられています。

死後の世界と来世がなくなった事で、アテン信仰は民衆に支持されず、アマルナ革命の頓挫に繋がったと見られているという事です。

アマルナ革命は世界宗教を目論んだのか

アクエンアテンのアテン神の宣言を見ると、アテンは万人に愛を与える存在であり対象はエジプト人だけではなく、外人も含まれていました。

つまり、アテン神はエジプト人だけではなく、全人類に愛を与える存在だって事になります。

これに関しては、アクエンアテンはエジプトだけではなく、世界宗教を目論んでいたのではないかとも考えられている状態です。

太陽は地球にいれば、何処に行ってもみる事ができ、世界宗教には丁度よかったのかも知れません。

アマルナ革命が古代オリエントの勢力図を塗り替えた

よく言われる所では、アクエンアテンは宗教改革に熱心であり、ヒッタイトに攻められたミタンニ王国やシリア諸国の援軍要請を断ったという事です。

アクエンアテンは国内の事で、手一杯であり外国の事には関心を持たなかったともされています。

アクエンアテンがアテン神を使って世界宗教を考えたのであれば、外国に援軍を送らないのは不自然に感じるかも知れません。

しかし、アマルナ改革で国内が揺れながらも、大規模な反乱が起きなかったのは、ファラオのアクエンアテンが軍権を握っていたからだとも考えられています。

アクエンアテンは、エジプト軍が国外に出れば、国内では何がおきるか分からないと考えた可能性もあるはずです。

アマルナ文書が発見されており、シリアやパレスチナの都市国家の支配者からエジプトに援軍要請の記録が残っており、アクエンアテンは動かなかったのは本当なのでしょう。

当時の古代オリエントの世界はカッシート王国、ミタンニ王国、ヒッタイト王国、エジプト第18王朝で勢力の均衡が起きており、戦いは少なかったと言えます。

地政学的に言えば、バランス・オブ・パワー(勢力均衡)により大規模な戦争が起きにくかったわけです。

しかし、ミタンニ王国はエジプト第18王朝の援助でヒッタイトと戦っていたわけであり、エジプトの援助が無くなれば、結果は見えています。

アクエンアテンがミタンニ王国を助けなかった事で、ミタンニ王国は衰退し弱小勢力になり果てました。

代わりにヒッタイトやアッシリアが勢力を伸ばしたと言えるでしょう。

アクエンアテンの宗教改革は、古代オリエントの勢力図をも変えてしまったわけです。

アクエンアテンの晩年

アクエンアテンの治世9年目以降は分からない事が多くなりますが、母親のティイが娘のバケトアテンを連れて、アケトアテンを公式訪問した記録が残っています。

この頃にはアメン神官団への剥奪をやめスメンクカーラーを共同統治王として、テーベに派遣しました。

アクエンアテンはスメンクカーラーには、アメン神官団との調停役を期待したと考えられています。

敵視していたアメン神官団とは和解の道を探ったとみる事が出来るはずです。

スメンクカーラーは弟とも息子ともされていますが、娘のメリトアテンを嫁がせました。

アマルナ革命が上手く行かず、アクエンアテンにも心境の変化があったのかも知れません。

ただし、スメンクカーラーの治世年を記すワイン壺は治世第一年目のものだけであり、スメンクカーラーの名を記録した記念建造物も殆どなく、共同統治王となるも、短期間で亡くなったと考えられています。

この頃にはアクエンアテンの母親のティイや妻のネフェルティティや、娘の何人かは亡くなっていたとも考えられています。

アクエンアテンの晩年は寂しいものだった可能性も残っています。

スメンクカーラーが亡くなると、次の共同統治王となったのが、ネフェルネフェルウアテンです。

アクエンアテンの妻のネフェルティティやスメンクカーラーとは同一人物説があります。

アクエンアテンの晩年にはネフェルネフェルウアテンが共同統治王になったのは、確実なのでしょう。

アクエンアテンの最後

アクエンアテンのお墓は当然ながら本拠地のアケトアテンに造られ、境界碑には、次の文章が刻まれていました。

※古代エジプトうんちく図鑑様より

もし、私や家族、家臣がアケトアテンの墓に葬られない事態が起きるとしたら、

それは私が治世第四年に聞いたことより悪いことである。

それは私が治世第三年に聞いたことより悪いことである。

それは私が治世第一年に聞いたことより悪いことである。

それはアメンホテプ3世とトトメス4世が聞いたことより悪いことである。

同じ事の繰り返しの言葉ですが、如何にアケトアテンのお墓に入りたいかが分かるのではないでしょうか。

アクエンアテンは治世17年目を最後に記録が、途絶えており、この頃に亡くなったと考えられています。

アクエンアテンは最初はアケトアテンに葬られたと考えられていますが、後にアケトアテンが放棄されると、王家の谷に運ばれました。

アケトアテンが放棄されたのであれば、ファラオの遺体も移動する必要があったという事なのでしょう。

尚、アクエンアテンの遺体には顔が削られたりしており、死後の最大の罰を受けたのではないかと考えられています。

さらに、アクエンアテンは後に存在自体を消されてしまいました。

アクエンアテンの改革は否定されたとも言えるでしょう。

因みに、アクエンアテンが没するとネフェルネフェルウアテンの短い時代が続き、この後にツタンカーメンの時代となりました。

この頃になると、エジプト第18王朝の終わりが見えて来たと言ってもよく、ツタンカーメンの時代にアマルナ革命も完全に終焉に向かいました。

アマルナ美術とアクエンアテン

アクエンアテンを見て、どの様なファラオに思ったでしょうか。

アマルナ革命を見ると、過激な人だと思った人も多い様に感じています。

今までのエジプトの壁画と言えば、ナルメルのパレッドに代表される様な、敵を打ち倒すようなものが多かったわけです。

しかし、新都アケトアテンに遷都した頃になると、娘をあやしたり、夫婦仲がよかったり、娘の死を悲しむなど、日常の姿が描かれる様になりました。

より普段の人間らしい姿が描かれる事になったとみる事が出来ます。

アケトアテンでは芸術様式が大きく変わっており、優美、自然主義、穏やかな印象のアマルナ芸術(美術)が誕生したと言えるでしょう。

アクエンアテンとモーセ

一つの説として、アクエンアテンが宗教改革を行った時のエジプトには、ヘブライ人がおり、この中に指導者となるモーセがいたとする説があります。

モーセがアクエンアテンのアマルナ革命をみていた事になるでしょう。

ヘブライ人は自分達の宗教に一神教を取り込み、これが後のユダヤ教に繋がったとしました。

アクエンアテンのアマルナ革命とは、同じ一神教で偶像も禁止するなど、似ている部分はあります。

しかし、モーセがエジプトにいたとする考古学的な資料は発見されておらず、これを証明するのは、不可能に近いと言えるでしょう。

アクエンアテンの一族

父親アメンホテプ3世
母親ティイ
兄弟スメンクカーラー
配偶者ネフェルティティ、キヤなど
メリトアテン
メケトアテン
アンケセナーメン
ネフェルネフェルウアテン・タシェリト
ネフェルネフェルウラー
セテプエンラー
息子ツタンカーメン

アクエンアテンとアマルナ革命の動画

アクエンアテンとアマルナ改革を題材にしたゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画の参考文献は、YouTubeの概要欄を確認してください。

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