馮亭は司馬遷が書いた史記にも名前があり、中国の春秋戦国時代の人です。
馮亭は韓の上党太守となりますが、秦に上党を割譲するのを拒み、趙に降伏した人物でもあります。
馮亭は単独では秦を退ける事は出来ないと考えて、趙の協力を得る為に趙に降伏しました。
秦は自分が領有出来ると思った上党を得る事が出来なかった事から激怒し、ここから戦国時代最大の決戦と呼ばれた長平の戦いが勃発しています。
今回は長平の戦いの原因を作ったとも言える馮亭を解説します。
尚、資治通鑑・胡三省注によれば馮亭の先祖は、畢公高の子で馮城に封じられた事が始りだとされています。
畢公高は戦国七雄の魏の始祖でもあり、馮亭と子孫を辿ると繋がります。
馮亭は秦と戦いましたが、馮亭の子孫である馮無擇、馮去疾、馮劫は秦に仕えました。
前漢の馮唐や馮奉世なども、馮亭の子孫だとされています。
上党太守となる
秦は韓の野王の城を陥落させ、韓の領土を南北に分断させる事に成功しました。
韓の北部の広域である上党郡は、韓の首都の新鄭から切り離された格好となります。
韓の首脳部は秦により切り離されてしまった北部の、上党郡を領有し続ける事は出来ないと考え、上党郡を秦に割譲する事で和議を結ぼうとしました。
この時の上党太守が靳黈であり、韓の桓恵王は公子の韓陽を派遣し、上党を秦に明け渡す様に命じています。
しかし、靳黈は主戦派であり、例え勝てなくても上党の全てを以て、秦と決戦を行うと主張しました。
靳黈の言動に困った韓の首脳部は、韓の上党太守である靳黈を解任し、新しい上党太守として馮亭を任命します。
この時点で馮亭の役割と考えれば、上党に入り上党を秦に明け渡せばよいだけでした。
しかし、馮亭は上党を秦に明け渡そうとはしなかったわけです。
馮亭の策
馮亭は秦に上党を明渡すのではなく、趙に降伏する事を考えました。
馮亭は上党の民に次の様に述べています。
馮亭「鄭(新鄭・韓の首都)への道が断たれ、秦兵は迫っているのに韓は助ける事が出来ない。
上党をあげて趙に降伏し、趙が上党を貰い受ければ秦は怒って趙を攻めるはずだ。
趙は秦に攻められれば韓と親しみ、韓と趙が一つになれば秦にも対抗する事が出来る」
馮亭は自分が趙に降伏すれば、韓と趙の間で合従の盟約が行われ、秦と対峙する事が出来ると考えたのでしょう。
馮亭の策では秦に上党を明渡すよりも、趙に降伏した方が韓に取っても利益があると考えたはずです。
馮亭は趙に使者を派遣し降伏を打診すると、趙の平陽君は「受け取らない方がいい」と述べますが、平原君と趙禹は「受け取った方がいい」と意見しました。
趙の孝成王は平原君と趙禹の意見を採用し、平原君を上党に派遣し上党を貰い受けています。
しかし、ここで馮亭の想いもよらぬ事になってしまった様で、趙は上党を貰い受けますが、韓と趙の間で合従の盟約が行われなかったわけです。
ただし、趙が上党を貰い受けた事で、秦の矛先は韓から趙に向かい、馮亭の策は韓の為にはなったと言えます。
平原君は上党に到着すると馮亭に恩賞や爵位を与え華陽君とする事と告げますが、馮亭は平原君に会わず、次の様に述べました。
馮亭「私は三つの不義を犯す事が出来ない。
国主(韓の桓恵王)から地を預かりながら、命がけで守り通す事が出来なかった事。これが一つ目。
本来は秦に土地を割譲しなければならない所を、国主の命令に背いた事。これが二つ目である。
それにも関わらず国主の土地を自らの食邑にしてしまったら、3つ目の不義を行う事になる」
この時の馮亭は涙を流したとあり、かなりの苦悩があったのでしょう。
秦末期に項羽に降伏した章邯も降伏する時に、項羽の前で涙を流した話があり、馮亭と章邯は似た様な心境だったのでしょう。
馮亭も章邯も、主君を裏切るつもりはなかったが、成り行きで思いがけぬ事になってしまい涙が出てしまったと感じました。
馮亭の最後(東周烈国志)
この後に、秦の王齕が趙を攻撃し、趙側では廉頗を総大将にして反撃した事で、長平の戦いが幕を開ける事となります。
王齕はよく攻めますが、廉頗がよく守ると言った状態が続きます。
普通で考えれば、馮亭も軍に参加していたと考えるべきでしょう。
秦の昭王と范雎は趙に間者を大量に送り、趙の将軍を趙括とするべく情報操作しました。
趙の孝成王は藺相如や趙括の母親の反対があったにも関わらず、趙括を将軍にしてしまいます。
結果として、趙括は白起に敗れ趙兵40万を失う大敗北を喫しますが、東周烈国志(清代の小説)に馮亭の長平の戦いでの動きと最後が記録されているので紹介します。
尚、漢書・馮奉世伝や資治通鑑にも、馮亭が長平の戦いで戦死した事が記録されています。
趙括は廉頗に代わり将軍となるや、廉頗の軍令の全て改めようとしますが、馮亭は反対しました。
しかし、趙括は馮亭の言う事を聞かなかったわけです。
趙括は名将と呼ばれた趙奢であっても、言い負かす程の兵法の知識と弁舌を持っており、馮亭の意見は心に響かなかったのでしょう。
白起が攻撃しわざと敗走すると、趙括は自ら追撃を行おうとしますが、馮亭は次の様に諫めました。
馮亭「秦人は詐術を得意としております。これを信じて追撃してはなりませぬし、大将自ら追撃を行うなどやってはならぬ事です」
馮亭は血気に盛る趙括をまたもや諫めますが、ここでも趙括は聞き入れなかったわけです。
趙括は秦軍を追撃しますが胡傷、蒙驁、王賁、王翦らが現れ交戦を行うと、趙兵は次第に消耗してきました。
趙括は兵の疲れを察知し、水草のある場所で陣を布こうと考えます。
この時にも馮亭は、次の様に述べました。
馮亭「軍の気とは鋭気です。
我が方は利は失いましたが、まだまだ十分に戦う事が出来ます。
敵の包囲を突破し本営に辿り着く事が出来れば、趙軍の力を結集して戦う事が出来るのです。
この場所で陣を布いてしまったら、腹背を苦しませる事となり脱出が出来なくなります」
馮亭は趙軍は疲れてはいるが、まだ戦えると判断し、秦の包囲を切り崩そうと進言したわけです。
ここでも趙括は馮亭の進言を却下し、結果として趙軍は秦軍に包囲され軍は壊滅し、趙括も討死しました。
趙軍の大敗北が決まった時に、蘇射が馮亭に一緒に逃げようと誘いますが、馮亭は次の様に答えています。
馮亭「私は三度諫言したのに、趙括に三度も却下され、この様な事になってしまった。
これは天命である。逃げる必要はない」
馮亭は言い終わると自害しています。
東周烈国志は小説ではありますが、馮亭の最後はこの様な感じだったのかも知れません。
さらに言えば、趙軍は白起により45万の兵が生き埋めにされるのですが、この状態を史実の馮亭が知ったのかは不明です。
それでも、馮亭の最後は「上党を以て趙に降伏したのは正しかったのか」とする念はあったと感じています。