名前 | 武安国(ぶあんこく) |
生没年 | 不明(三国志演義の架空のキャラクター) |
勢力 | 孔融 |
年表 | 191年 虎牢関の戦い |
コメント | 呂布と一騎打ちをするも片腕を斬られる。 |
武安国は三国志演義による、架空のキャラクターであるとされています。
反董卓連合軍の戦いで、呂布に戦いを挑み腕を斬り落とされた人物でもあります。
しかし、武安国という名前のインパクトもあり、三国志演義を読んだ方であれば、記憶に残る人物でもある様に思います。
武安国は史実には登場しませんが、元ネタがあるという話を見つけて来ました。
今回は下記の動画を元に記事を書いております。
言ってしまえば、文字起こしにも近い状態です。
三國志演義のちょいキャラである武安国をここまで向き合って、動画を作る事が出来たのは凄い事だとも考えております。
上記の動画で武安国の元ネタが、どの様になっているのか解説した動画となっています。
尚、上記の動画は武安国ファンであれば必見の内容です。
三國志演義の武安国
武安国が登場するまで
何進が宦官に殺害され、袁紹、袁術らが宦官を撲滅しましたが、少帝と弟の劉協(献帝)を保護した董卓が実権を握る事になります。
董卓に対し、袁紹を盟主とする反董卓連合が結成され、汜水関の戦いでは華雄が暴れ回りますが、関羽が華雄を見事に討ち取ったわけです。
連合軍は虎牢関に駒を進め、虎牢関の戦いが勃発する事になります。
虎牢関の戦いでは、董卓が呂布、樊稠、張済、李儒らを従えて虎牢関を守備しました。
孔融の配下である武安国も、虎牢関で呂布と戦う事になるわけです。
武安国の出陣
虎牢関の戦いでは、河内太守の王匡が配下の方悦に命じ、呂布に戦いを挑みます。
しかし、方悦では呂布の相手にはならずに、マッハで討ち取られてしまいます。
続いて、上党太守の張楊の配下である穆順が呂布に一騎打ちを挑みますが、呂布に一撃で討ち取られてしまいました。
そうした中で、北海太守である孔融配下の武安国が呂布に一騎打ちを挑む事になります。
先に紹介した亶夏王朝さんの動画によれば、現存する最も古い三国志演義の版本であると考えられている「嘉靖本」や「李卓吾本」には、武安国の次の言葉があるそうです。
武安国「孔太守(孔融)より御恩を受けて早10年。今こそ命を懸けて報いて見せます。」
これを見ると、武安国が勇ましく出陣した事が分かります。
因みに、現在の三国志演義のベースになっている毛宗崗では、武安国のセリフは無いそうです。
岩波文庫から出版されている、完訳三国志を見て調べてみましたが、確かに武安国のセリフはありませんでした。
武安国の武器
亶夏王朝さんの話によれば、武安国の武器も毛宗崗の三国志演義では、変えられてしまったとの事です。
初期の頃の三国志演義では、武安国の武器は下記の様な記述があるとされています。
「鉄槌には長い柄がついており、総重量は50斤であった。」
関羽の青龍偃月刀が82斤で、荊州四英傑の劉度配下の邢道栄が60斤の重さですが、武安国の武器もかなり重たい部類だと言えるでしょう。
尚、岩波文庫の完訳三国志演義を調べてみると、「柄の長い鉄槌」を使っていた事は記録されていますが、「50斤の重さ」だった事は記載されていませんでした。
呂布との一騎打ち
武安国は柄の長い鉄槌を使い、呂布に一騎打ちを挑む事になります。
この時に武安国は馬を飛ばし勢いよく、呂布に向かって行ったわけです。
呂布と武安国は10数合の打ち合いとなります。
方悦や穆順が一撃でやられている事を考えれば、武安国はかなり善戦したと言えます。
しかし、武安国は呂布に腕を切り落とされてしまい、鉄槌を投げ捨てて走り去る事になります。
周りの兵が一斉に動き、武安国を救出しました。
この後に呂布も退き、曹操が「呂布を虜にすれば董卓を滅ぼすのは容易い。」と述べ話は続きますが、これ以降に武安国は登場しません。
後に孔融が黄巾賊の管亥に攻撃された時に、戦ったのは槍を持った宗宝であり武安国の名前は出てこないわけです。
武安国の強さ
先ほどの話を見ると分かりますが、王匡配下の方悦や張楊配下の穆順は戦死した様ではありますが、武安国の命は助かっています。
さらに、三国志演義最強の武勇を誇る呂布を相手に、10合ほど一騎打ちをした事を考えると、それなりの武勇は持っていたのでしょう。
方悦や穆順などよりは、武芸は達者だとも考える事が出来るはずです。
それと共に、武安国は特別扱いされたのではないか?とも考えられます。
動画の内容にもある様に、武安国のモデルになった人物がいた説を紹介します。
白起の子孫説
武安君が由来
動画内で紹介されていた白起の子孫説となります。
白起は戦国時代に活躍した武将であり、斬首した人数は100万人を超えるとも考えられており、名将中の名将とされる人物です。
秦の昭王の時代に、秦の領土拡大に大きく貢献した将軍でもあります。
萬姓統譜なる資料があり、それによれば「武安」という姓が存在していた話があります。
武安の姓の由来は、白起が「武安君」に封じれらた事が由来になっているそうです。
漢代には武安恭なる人物がおり、千乗侯の爵位を賜わっています。
それを考えると武安国の「武安」は姓であり、「国」が名前という事になります。
しかし、この説の弱点として武安国の事を「安国」と記載されている部分もあります。
動画内でも、それを考えると武安国の姓は「武安」ではなく、「武」が姓である可能性が高いとされています。
武安が姓でも問題はないと思う。
個人的な意見なのですが、正史三国志で関羽を裏切った傅士仁がいますが、楊戯の季漢輔臣賛では「士仁」と記載されているわけです。
それらを考慮すると、個人的には武安国の姓が「武安」であったとしても、「安国」と記載されてもいい様な気がします。
新の王莽が二文字の名を禁じた事で、三国志の世界では極端に一字名が多い状態です。
諸葛亮は「諸葛」が姓で「亮」が名ですし、司馬懿は「司馬」が姓で「懿」が名前となっています。
それを考えると、武安国も「武安」が姓で「国」が名でも自分では問題ないと思いました。
ただし、動画内では演義の最古本である嘉靖本では「武 安国」であり、武が姓だった事になっています。
余談ですが、戦国時代で武安君に封じれらた人物は趙で匈奴を大破した李牧や、戦国七雄のうちで秦を除く六国の同盟を締結させた蘇秦などがいます。
白起、李牧、蘇秦と名のある人物に付けられたのが武安君でもあります。
武松がモデル説
水滸伝の武松が武安国の元ネタだとする説です。
水滸伝の武松は、14番目の好漢であり、渾名も合わせると「行者の武松」と呼ばれています。
動画内では武松と武安国の3つの共通点が指摘されています。
・姓が同じ武である。
・片腕を斬り落とされている
・青州に関わりがある
青州に関してですが、武安国の主君である孔融は、青州刺史を務めたり、北海太守になった事。
他にも、孔融は青州楽安郡の千乗県に封地を持っていた事が挙げられます。
武松も水滸伝で梁山泊に入山するまでは、魯智深や楊志らと青州の二龍山にいました。
それを考えると三国志演義の著者は、水滸伝の豪傑である武松に被るキャラクターを想像し、呂布が武安国を破る事で、呂布の強さを引き立てる狙いがあったとも考えられます。
水滸伝でも武松はかなり強い部類に入り、呂布が武松をモデルとした武安国を打ち負かしたとあれば、かなりのインパクトがある事になるでしょう。
ただし、武松は武安国の武器である鉄槌を得意とした記述はなく、どちらかと言えば肉弾戦を得意とした様な人物です。
孔子の子孫説
武安国が孔子の子孫説です。
元和姓簒によると、孔姓の事が書かれており、孔姓の由来が殷王帝乙の系譜だとされています。
動画内を見て貰いたいのですが、孔子の子孫を見て行くと、「武安国」の名前が出て来る事になります。
しかし、解説を見ると孔武、孔安国の二人の人物を指すと言う事が記載されていました。
孔融も孔子の子孫だとされていますが、武安国が孔子の子孫だとする設定は無理があるのでしょう。
参考文献に対して
亶夏王朝さんのブログである、亶夏王朝府に武安国の参考文献が記載されていました。
萬姓統譜 (四庫全書本)/卷133 - 维基文库,自由的图书馆
元和姓纂 (四庫全書本)/卷06 - 维基文库,自由的图书馆
これを見ると、中国語のサイトも記述されている事が分かります。
多くの三国志の記事を書く方が、日本語の書籍を頼りにして書くのに対し、これは凄い事だとも思いました。
亶夏王朝さんに関しては、私も注目しており、もっと世の中に知られてもいいのではないか?と個人的に思っています。
コーエーテクモゲームズの三国志
三国志14 | 統率68 | 武力83 | 知力34 | 政治33 | 魅力27 |
コーエーの三国志の武安国は武力だけが突出して高い数値となっています。
武力が80台と言うのは、片腕を斬られて敗れたとはいえ、呂布と10数合も一騎打ちを繰り広げた事が原因だと思われます。
それと、武安国という名前のインパクトもある様に感じました。