読み方 | 武安君(ぶあんくん) |
コメント | 戦国時代を代表する名臣・蘇秦、白起、李牧が任命される |
武安君は中国の戦国時代を代表する三人(蘇秦、白起、李牧)の名臣が任命された役職(称号)です。
最初に任命されたのは合従軍の元祖とも言える蘇秦となります。
蘇秦は初めて趙、燕、魏、韓、楚、斉と秦以外の六国同盟に成功した人物です。
二人目に武安君に任命された記録があるのは秦の白起であり、斬首した兵の記録は100万に到達したとする記録もあり、秦の天下統一に大きく貢献しました。
最後に武安君に任命されたのが趙の李牧であり、戦国時代末期に秦に対し連勝し趙の国を守った名将です。
今回は戦国時代の三人の名臣が、任命されたとされる武安君について述べてみたいと思います。
尚、三国志演義に孔融配下で呂布に敗れた架空武将・武安国がいますが、元ネタは武安君から来ているのではないか?とする説があります。
因みに、武安君に任命された蘇秦、白起、李牧はいずれも悲劇的な最後を迎えました。
武安君の意味
戦国時代を代表する名臣が任命された武安君ですが、どの様な役職なのか?に関しては二つの説に別れます。
中国には武安という地名の土地があり、与えられた封地に因んで武安君と名付けられた説です。
つまり、功績を立てた蘇秦、白起、李牧の三人に武安の土地が与えられ、武安君となったと考えられるパターンとなります。
しかし、白起が武安に封じられたのであれば、最後の武安君である李牧は白起が封じられた土地を手にした事となり、時代背景を考えても整合性が取れなくなる問題があります。
白起の頃よりも秦の領土は増えていますし、逆に趙は大幅に領土を減らしており、その状態で秦の白起が封じられた土地を趙が奪い返し李牧が封じられるとは考えにくいです。
武安君に関するもう一つのパターンが大きな功績を立てた「称号」としての意味で「武安君」と名付けられた説があります。
意味としては「武を安んずる」と言った処でしょうか。
個人的には武安君は後者の「称号」や「尊称」的な意味合いが強いと感じました。
武安君に任命された人物
蘇秦(合従の元祖)
蘇秦は合従の元祖ともいうべき人物であり、戦国七雄の秦以外の六国の同盟を成功させた人物です。
戦国時代に合従策を唱える者は多くいましたが、六国の同盟に成功したものは蘇秦だけだと言えます。
蘇秦は燕の文公に認められた事で日の出を見る事となります。
蘇秦は六国の宰相を兼ねた話がありますが、この時に趙の粛侯から武安君に任命されています。
史記を書いた司馬遷の時代では、蘇秦を憎む者が多かった話がありますが、蘇秦は貧しい身から立身出世を果たしました。
それを考えると、蘇秦は極めて優秀な人物だったと言えるでしょう。
尚、蘇秦は鬼谷子の元で学んだとされる張儀の連衡と比較される事も多いです。
ただし、蘇秦と張儀は同時代の者ではないとする話もあり、蘇秦に話には謎が多いとも言えます。
因みに、蘇秦の最後は斉で刺されて命を落としました。
白起(史上最強の名将)
白起は秦の昭王の時代に戦場を駆け巡り多くの勝利を掴んで来た人物です。
白起が斬首した数は100万を超えるとも言われており、史上最強の名将と評価される場合もあります。
白起に関しては、中国の歴代名将トップ10にも入れる人は多いと感じました。
白起は鄢・郢の戦いで楚の頃襄王から首都の郢を奪った後に、武安君に任命された話があります。
尚、白起は趙括を長平の戦いで破り趙兵40万を生き埋めにした事でも有名です。
しかし、最後は范雎との確執もあり、秦の昭王から死を命じられて自刃しました。
李牧(北方の名将)
趙の廉頗が魏、楚に亡命し、龐煖が蕞の戦いで秦を破る事が出来ず、鄴の戦いでも救援に間に合わない事がありました。
こうした中で秦の攻勢が強まると幽穆王は、李牧を大将軍に任命し秦軍と戦わせています。
李牧は宜安の戦い、肥下の戦い、番吾の戦いなどで秦軍を破ると、趙の幽穆王は李牧を武安君としました。
李牧は秦軍を破りましたが、趙では大飢饉、大地震などもあり国は衰退し、秦の王翦、楊端和、羌瘣に攻撃されています。
この戦いで李牧と司馬尚が将軍に任命されて戦いますが、趙は一枚岩ではなく、郭開や韓倉、悼倡后、春平君らに讒言され、李牧は処刑されてしまいました。
李牧と司馬尚に代わり顔聚と趙葱が将軍となりますが、趙の首都邯鄲は落城し、幽穆王は捕虜となります。
最後に武安君となった李牧は紀元前229年に亡くなっています。
これより先は、武安君に任命された人物は確認する事が出来ませんでした。
余談ですが、王齕が趙の武安君を破り皮牢を取ったとする記述があり、李牧以前に趙に武安君に任命された人物がいた可能性もあります。