春秋戦国時代

趙の成侯は難局の時代を生き抜いた

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宮下悠史

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名前趙の成侯
姓・諱趙種
生没年生年不明ー紀元前350年
在位紀元前375年ー紀元前350年
時代戦国時代
一族父:敬侯 子:粛侯
コメント邯鄲が陥落する事もあった。

趙の成侯は春秋戦国時代の君主です。

趙の成侯は即位時には、公子勝との争いがあり、三晋のなどとは戦ったりもしましたが、の脅威が迫れば講和したりもしています。

外交など戦局が難しい時代でもあり、晋の孝公を屯留や端氏に遷すなどもしました。

趙の成侯の時代に首都の邯鄲が落城したりしますが、返還もされたりしています。

群雄割拠により政局が難しい時代でしたが、国を損なわず生き抜いたと言えるでしょう。

趙の成侯の即位

趙の成侯は趙の敬侯が亡くなると、の君主となりました。

しかし、趙の成侯の即位は、一筋縄ではいかなかった様であり、史記の趙世家では公子勝との争いが記載されています。

公子勝がどの様な人物なのかは不明ですが、当然ながら趙家に関わる人物なのでしょう。

それでも、公子勝の乱は長期化せず、短期間で終り趙の成侯が当主として認められたようです。

尚、史記の趙世家には趙の成侯の2年に大雪が降ったと記録されています。

衛の73郷を取る

史記の趙世家によると、趙の成侯の3年(紀元前372年)に大成午が宰相になったとあります。

趙の成侯の宰相となった大成午が、どの様な人物なのかはイマイチ分かっていません。

同年にが衛を攻めて73郷を奪った記述もあります。

しかし、衛がを攻撃し薛陵を取ったとする記述もあり、衛への進出を考えていた趙の成侯が、衛が斉を攻めた隙に、衛を攻撃したのかも知れません。

さらに言えば、この年が衛の声公が亡くなった年でもあり、喪中を狙って趙の成侯が攻撃命令を出した可能性もあるはずです。

同年にが趙の藺を破った記述もあり、魏は魯や衛と同盟しており、魏の武侯は覇者体制を維持しようと考え、衛を助ける為に趙の藺を攻撃した可能性もあります。

趙韓同盟と敵対勢力

趙の成侯の4年(紀元前371年)に、趙はと戦い高安で破ったとあります。

当時の秦の君主である秦の献公魏の武侯の後援により、即位しており同盟を維持していた魏の武侯の為に、と戦ったのでしょう。

紀元前370年には趙は鄄でと戦い、が趙を懐で破ったとあります。

同年に趙に成侯は鄭を取りに与えたとあり、趙は魏、斉、衛などと敵対し、韓とは良好な関係だったのでしょう。

韓では紀元前374年に韓の哀侯が韓厳により殺害される事件が起きており、韓の懿侯が即位していましたが、韓厳は前の本拠地である陽翟に首都を遷したと考えられています。

新鄭には韓の親魏派が幅を利かせていましたが、韓の懿侯は趙と結び、趙の成侯は兵を出し新鄭の新魏派閥を一掃し、韓の懿侯に与えたとされています。

後述しますが、紀元前370年は魏の武侯が亡くなった年でもあり、魏では混乱があり趙は新鄭を陥落させる事が出来たのでしょう。

韓は趙の成侯にお礼として、長子を与えました。

当時の趙は韓とだけは、良好な関係を築いていたのが分かる記述でもあります。

魏の後継者問題に介入

紀元前370年に魏の武侯が亡くなると、では後継者を決めていなかったのか魏罃(魏の恵王)と公子仲緩の間で後継者問題が勃発しました。

魏の後継者問題を好機だと考えたのが、趙の成侯と韓の懿侯です。

は濁沢で魏を破り、魏の恵王を包囲しました。

趙の成侯は韓の懿侯と共に、公子仲緩を支持しています。

さらに、趙の成侯は韓の懿侯と謀り、晋の孝公を新絳から屯留に遷しました。

屯留は趙の邑であり、趙の成侯は自邑に晋の孝公を拉致したとも言えます。

趙は斉と抗争をしながらも、韓と共に周に侵攻し、東周王朝を二つに分けてしまいました。

趙の成侯と韓の懿侯は、晋の公室や東周王朝の権威を魏に利用されない為の、措置として行ったのでしょう。

魏の恵王は趙や公子仲緩の軍を破るなどしていますが、晋や東周王朝の権威を利用できなくなり、趙や韓が有利に事が進んだとみる事が出来ます。

ただし、が趙との戦いを選択しており、圧倒的な有利な状況とは言えませんでした。

趙韓の意見のずれ

趙とは魏と敵対していましたが、趙の成侯はを滅ぼし、その土地を分ければよいと考えていました。

これに対し、韓の方では魏の領地を魏の恵王と公子仲緩で分ければよいと考えていたわけです。

趙の成侯としては魏を滅ぼし、土地を分けて、晋と東周王朝の権威を利用できるものもおらず、衛に侵攻したかったのでしょう。

しかし、韓の方としては南方と北方を閉じられた状態であり、魏を弱体化させ土地を奪う必要がありました。

こうしたと魏に思惑の違いにより、紀元前366年に魏の恵王と韓の懿侯の間で和睦が成立し、韓は撤退に移る事になります。

趙の成侯としては、やきもきしたと思われますが、韓が撤退してしまった以上は、魏と戦いを続けるのは難しかったのでしょう。

趙の成侯としても、魏との戦いを切り上げ、との戦いに専念する事になります。

趙は斉と阿下で戦い、翌年の紀元前365年には衛の甄を奪取しました。

秦の脅威

と韓が和睦した事で、は孤立したかに思えましたが、魏が宋を攻撃した事で、も宋を狙っており、再び魏、韓の関係が悪化する事になります。

こうした中で、秦の献公は中原に兵を向けました。

の動きに対し、魏と韓は連合し洛陰の戦いが勃発しますが、秦軍が勝利しています。

さらに、紀元前364年の石門の戦いでは秦が大勝し、魏軍6万が斬首されました。

石門の戦いでは趙の成侯は魏に援軍を出しています。

趙世家では魏の為に「石阿」を救援した事になっていますが、石門の間違いではないかと考えられています。

秦の脅威が迫った事で、趙、魏は団結したと言えます。

しかし、今度は韓が孤立し、分裂した東周王朝を動かし、秦に神籬を贈らせ、秦への接近を試みました。

秦は魏の少梁に紀元前363年から連年に渡り攻撃を加えましたが、この時に趙の成侯は魏に援軍を送っています。

しかし、戦いは不利だった様であり、魏の公孫座が捕虜になっています。

この直後に趙が不穏な動きを見せた為か、趙と魏の関係が決裂し、魏が趙を澮の戦いで破り、皮牢を取られました。

魏と対立した事で、紀元前362年に趙の成侯は韓の昭侯と、上党で会見を行っています。

趙は韓と共に兵を出し秦を攻撃しますが、秦との戦いは不利だった様であり、魏との講和に向かう事になります。

竹書紀年によると魏の恵王と韓の昭侯が巫沙で会見を行い、魏は楡次、陽邑を趙に贈り、趙の成侯は魏に中牟を贈りました。

秦の驚異の前に、紀元前361年までには、三晋は纏まったと言えるでしょう。

紀元前360年に三晋は東周王朝を動かし、秦の孝公に神籬を送っており、秦を懐柔しました。

秦にとっても趙、魏、韓が束になって掛かって来られると、勝てるとは考えていなかったのでしょう。

秦と三晋講和が成立した事で、魏はを攻撃しますが、趙の成侯は魏の為に兵を出しています。

晋の孝公を端子に遷す

紀元前361年に魏は大梁に遷都しますが、これが原因でと対立しました。

魏と韓が対立し、韓がと結びつく事になります。

この頃のは国力が疲弊していたのか、竹書紀年によると、紀元前358年に韓に屯留や長子などを割譲しています。

韓は過去に長子を趙に贈りましたが、返して貰った事になるのでしょう。

屯留に関しては、過去に晋の孝公を移した趙の邑でしたが、韓に譲りました。

尚、史記の趙世家には君を端氏に封じたとあり、趙の成侯は晋の孝公を端氏に遷した翌年に、韓に屯留を譲ったという事なのでしょう。

この頃の趙はめだった動きをしておらず、趙の成侯は紀元前358年に葛孽で魏の恵王と会見を行い、紀元前356年には斉の威王や宋公(宋の桓公?)と平陸で会見を行い、とも阿で会見を行っています。

紀元前355年にはから良質な樽木が贈られた事で、檀台を造営しました。

魏は趙の成侯に樽木を送り懐柔しようとしたのでしょう。

邯鄲の落城と返還

との戦いで勝利し屈服させ、紀元前356年には魯、衛、宋と中原諸国を来朝させる事に成功しました。

しかし、紀元前354年にが魏を攻撃し、少梁を陥落させました。

竹書紀年によると、この年に魏を中心とする同盟から衛が離脱し、趙の成侯はすかさず兵を繰り出し、衛の漆富丘を攻略し築城を行っています。

魏の恵王は衛を攻撃し、その後にの邯鄲を包囲しました。

趙の成侯は籠城戦を強いられる事になったのでしょう。

この時の魏の将軍は龐涓だったと伝わっています。

趙の成侯は窮地に立たされ、に助けを求めました。

斉では田忌孫臏に援軍を向かわせますが、孫臏の囲魏救趙の策により、斉の援軍は魏の本国に向かった話があります。

趙の成侯は魏の猛攻の前に邯鄲が落城する羽目になりましたが、疲弊した魏軍は桂陵の戦いで、斉軍に敗れました。

楚の軍も北上しており、景舍や昭奚恤の活躍が戦国策に記述されています。

紀元前351年に秦の商鞅が魏を攻撃し固陽を攻略するなど攻勢に出る事になります。

この年に魏の恵王は趙に邯鄲を返還し、趙の成侯と漳水の畔で会見を行いました。

紀元前350年には秦と魏が講和しますが、秦は趙の藺を攻撃した記録が残っています。

趙の成侯の最後

史記の趙世家によると、趙の成侯はその25年に亡くなったとあります。

趙の成侯は紀元前350年に世を去った事になるのでしょう。

趙の成侯が亡くなると、太子語と公子緤が位を争った話があり、太子語が勝利し、これが趙の粛侯です。

趙の成侯の死後に後継者争いが勃発しており、趙の成侯は突然死だったのかも知れません。

先代:敬侯成侯次代:粛侯

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