段干朋は斉の桓公和(春秋五覇の斉の桓公とは別人)や斉の威王に仕えた人物です。
段干朋は史記にも名前があり、実在した人物になるのでしょう。
秦、魏と韓が争った時や魏の龐涓が趙の邯鄲を攻めた時などに、進言した内容が史書に残っています。
段干朋は史書の記録を見る限りでは戦略家と言った印象であり、段干朋の進言により戦国時代中期の態勢である秦・斉二強時代を作ったとも言えそうです。
燕を取る様に進言
斉の桓公和の五年(紀元前380年)に、秦と魏が韓を攻撃し、韓は斉に援軍を求める事になります。
斉の桓公は群臣に「直ぐに助けるべきか。急がずにゆっくり助けるべきか」と問います。
史記によれば鄒忌が「助けない方がよい」と述べたのに対し、段干朋は次の様に述べました。
段干朋「韓を助けなければ、韓は魏に屈し入朝してしまう事でしょう。
韓を救援するべきです」
段干朋は韓を助ける様にと進言しました。
ここで田臣思(田忌)は「魏、秦、韓が争っている隙に、燕を攻撃するべきだ」と述べました。
田忌の考えでは韓は趙と楚に援軍を依頼するだろうから、戦国七雄の魏、秦、韓、趙、楚が争っている隙に、斉は弱い燕を攻めるべきだと説いた事になります。
斉の桓公は田忌の意見を採用し、燕を攻撃し桑丘を攻め取る結果となりました。
これを見ると段干朋や鄒忌よりも田忌の策の方が優れている様に思うかも知れません。
しかし、この後に斉は諸侯の軍に攻められた記録があり、抜け駆けした斉に恨みが集中し攻められた可能性もあります。
それを考えると、一概に段干朋の策が田忌の策に劣っていたとも言えないはずです。
この話から暫くは段干朋の名前は史書から登場せず、どの様な功績があったのかはよく分かっていません。
しかし、斉の威王の時代である紀元前353年に再び段干朋の名前が登場します。
趙への援軍
史記の田敬仲完世家によれば、斉の威王の26年(紀元前353年)に魏が趙を攻め首都の邯鄲を包囲したとあります。
魏は戦国七雄最強国であり、趙の成侯は単独では魏を撃退出来ないと判断したのか、斉に援軍を求めました。
斉の威王は軍議を開きますが、ここでも宰相の鄒忌は「趙を助けるべきではない」と援軍を出すのに反対します。
しかし、段干朋は「趙を助けなければ不義であり、田斉にとっても不利になる」と進言しました。
斉の威王は段干朋の意味が分からず、理由を問うと次の様に答えています。
段干朋「魏が趙の邯鄲を手に入れても斉にとっては利益はありません。
しかし、斉が趙を助ける構えを見せ、趙の郊野に布陣すれば、趙は魏は戦う理由がなくなり、魏でも損害は出なくなります。
それよりも、我が軍が南の襄陵(魏地)を攻撃すれば、魏は邯鄲の攻撃を続け疲弊する事になるでしょう。
ここで邯鄲が抜かれたとしても、疲弊した魏を討てば利益を得る事が出来るはずです」
段干朋は魏を助けるにしても、邯鄲に向かうよりも魏の襄陵を攻撃した方が多くの利益を得られると進言した事になります。
史記の孫子呉起列伝の話だと、孫臏が田忌に囲魏救趙の策を授けた事になっていますが、史記の田敬仲完世家には孫臏の名前は登場せず、段干朋の策だけが記載されている状態です。
ここで公孫閲が暗躍し、鄒忌の為に田忌を将軍となる様に策を弄しました。
魏の龐涓は邯鄲を抜きますが、斉の田忌に桂陵の戦いで破れています。
この時点で段干朋の策は大成功に終わったと言えるでしょう。
さらに、史記の田敬仲完世家によれば「ここにおいて斉は諸侯の中で最も強大となり、自ら王と称し天下に号令した」とあります。
それを考えると段干朋の働きはかなり大きかったと言えるでしょう。
ただし、個人的には斉が秦と共に諸侯の中で極めて強大になったのは、斉が魏に馬陵の戦いで勝利し、秦の孝公の時代に商鞅が魏を破った後だと感じています。
斉に関しては、史記や戦国策などを読んでみると、時代の整合性が上手く取れていないと感じる部分が多々あり、謎が多いと言える状態です。
それでも、段干朋が斉の功臣だという事は間違いないでしょう。