臥竜鳳雛(別名・伏龍鳳雛)と言うのは、三国志の諸葛亮と龐統の事を指します。
在野の士だった時代に呼ばれていた名前です。
臥竜というのは「地に伏した竜」を指して、天に飛び立つ前の龍を諸葛亮に例えたのでしょう。
鳳雛は「鳳凰の雛(ひな)」という意味で、これから鳳凰になるような逸材だと予言しているわけです。
諸葛亮や龐統の活躍を見ていると「地で伏したままで終わった竜」や「雛のまま死んでしまった鳳凰」という感じはしません。
龐統はの活躍時期は短かったわけですが、名前倒れというわけではないでしょう。
司馬徽(水鏡先生)は、「臥竜鳳雛のうち一つでも手に入れば天下を手中に収める事が出来る」と言ったわけです。
しかし、実際の劉備は諸葛亮や龐統の両方がいたのに天下は取れませんでした。
劉備は蜀の国は作る事が出来ましたし、皇帝にはなれましたが、始皇帝、劉邦、劉秀などのように、中国全土を統一する事は出来なかったという事です。
今回は、臥竜鳳雛と呼ばれた劉備がなぜ天下を取れなかったのか?を解説します。
尚、伏龍鳳雛と呼ばれた諸葛亮・龐統に対して、皇帝を名乗ってしまった袁術とか、「馬氏の五常」「白眉」などの馬良や街亭の戦いで敗れた馬謖は、名前倒れかな?とも感じる部分はあります・・・。
余談ですが、諸葛亮を臥龍、龐統を鳳雛、司馬徽を水鏡と名付けたのは、龐統の従兄にあたる龐徳公です。
龐徳公の名前は曹操や馬超の配下として活躍した龐徳に名前は似ていますが、全くの別人なので注意してください。
龐徳公に水鏡と名付けられた司馬徽は、徐庶や向朗,、劉廙、尹黙、韓嵩なども門下生としていた事で有名な人物です。。
個人的には、徐庶や向朗などにも名前を付けてくれたらよかったのに・・・と思ったわけですが・・・。・。
諸葛亮の天下三分の計が基本戦略
諸葛亮は、天下三分の計を劉備に説いたとされています。
三顧の礼により、諸葛亮と劉備が面会をした時に、語ったとも言われています。
これが劉備の基本戦略となったわけです。
北方は曹操が袁紹を倒して強いわけですから、簡単に勝つのは難しいと考えたのでしょう。
さらに、後漢の皇帝である献帝を擁しているのも、朝敵にされてしまうため、対峙しにくいなどもあったはずです。
東の呉の孫権は、孫堅時代からの家臣団もいますし、周瑜、魯粛、呂蒙、張昭などの人材も豊富で敵対しにくいと考えています。
それを考えると、劉表の土地である荊州と劉璋が治める益州の二つを抑えて、天下を三分し魏を滅ぼすと考えたのでしょう。
これが劉備と諸葛亮の基本戦略だったはずです。
この臥竜こと諸葛亮の戦略を劉備は、時間を掛けて実行するように、選んだようにも見えるわけです。
龐統も天下三分の計には、反対した話もないので賛成していたと思われます。
尚、天下三分の計は楚漢戦争で項羽配下の武渉や韓信配下の蒯通が述べている戦略でもあります。
諸葛亮の荊州を取る進言を却下する劉備
荊州を長年にわたって治めていた劉表が亡くなり、子である劉琮(りゅうそう)が後継者となりました。
劉表が死ぬ間際から、曹操に対して降伏するのか?戦うのか?という選択肢を蔡瑁などの重臣たちの間で話し合われていた事でしょう。
結局は、劉琮は降伏する事を決断したわけです。
この時に、降伏するという事を劉備に報告しなかったともされています。
劉備は曹操が目前まで迫ってきている事を知らずに、新野の地を手放し南方に行く事にします。
この時に、劉備は劉琮がいる襄陽を通りかかりました。
劉備は、一目挨拶がしたいと劉琮に願い出たようですが、断られた話もあります。
諸葛亮はこの時に「今、劉琮を攻撃すれば荊州が取れる」と進言しています。
しかし、劉備は「劉表にお世話になったのに、それは信義に反する」と考えてか、諸葛亮の意見を却下しました。
この時は、曹操が迫っている段階でもあり、諸葛亮が魏の曹操から荊州を守るプランがあったのかは分かりません。
しかし、諸葛亮の事ですから、ある程度の敵を撃退するプランはあったはずです。
諸葛亮の第一次北伐などを見ても大胆な奇策を用いたりはしないタイプだと感じています
それを考えれば、ある程度の勝機はあったのかな?と感じました。
劉琮の兵士を奪い取り、曹操と対峙し、呉の孫権に援軍を依頼するとか、合肥当たりを攻めてもらう作戦が頭の中にあったのかも知れません。
臥竜鳳雛を得ても天下が取れなかったポイントの一つに、目の前に荊州と言う大きな獲物がいるのに、信義を考えて見逃した事も理由の一つだとも考えられます。
赤壁の戦い後に荊州を得ているが・・・
劉備は南方に逃げて、途中で魯粛と出会います。
劉備は孫権と連合して、赤壁の戦いに挑む事になったわけです。
ただし、正史三国志では赤壁の戦いで勝利したのは、周瑜や魯粛、黄蓋、程普などの呉の将軍たちの力が多きかった事が書かれています。
その後、劉備は荊州に自分の領土を持つ事になります。
孫権から借用している形となり、荊州をえたわけです。
ただし、荊州の北部にある、襄陽などの辺りは曹操の支配下ですし、荊州を完全に制圧したとは言えませんでした。
もしもになってしまうのですが、諸葛亮が劉琮を攻撃するように進言した時に、劉備が言う事を聞いていれば、荊州の全てを得ていたのかな?と考えた事もあります。
しかし、当時の状況では曹操が迫ってきている事もあり、難しいような気もします。
諸葛亮の劉琮攻撃の進言を劉備が聞いていたら、どうなっていたのかは興味があります。
劉備は入蜀で龐統の言う事を聞かなかった
荊州を得た後で、劉備の配下には龐統も入る事になりました。
ここにおいて、臥竜鳳雛の二人を劉備は配下にする事になったわけです。
「臥竜鳳雛の一人でも手に入れば天下が取れる」と言うのに、両方とも配下に加える事に、劉備は成功しました。
司馬徽の言葉を信じるのであれば、「これが天下が取れないわけがない」と言う事になります。
荊州を得た劉備は、周瑜が病死するなどの幸運な事もあり、益州に侵攻する事になります。
この時に益州を収めていたのは、劉璋だったわけですが、既に家臣の一部からは愛想を尽かされています。
張松や法正などの家臣は、既に劉備が蜀に入る事を願っていたわけです。
さらに、劉備は益州を手に入れる野心がありました。
その頃の劉璋は、北方で曹操が勢力を伸ばし、張魯が治める漢中を取りそうな勢いで危機感を覚えています。
張魯を破り、漢中を併合し曹操の軍が益州に攻め込んでこないか?を心配したわけです。
そこで、張松や法正は巧みに劉璋を説き、劉備を蜀に入れて曹操を防がせようと進言しました。
劉璋は、これを信じて劉備を蜀に招く事にしています。
そして、劉璋と劉備は会見する事になったわけです。
龐統が劉璋を捕らえる様に進言する
龐統は会見の場で、劉璋を捕らえる様に劉備に進言したわけです。
劉璋を力づくで捕らえてしまえば、劉備の入蜀は一気に片付くという考えです。
前漢の時代に劉邦は項羽を倒したわけですが、名将である韓信が謀反を起こすという噂が入ってきました。
その時に、劉邦は陳平の策に従い、韓信を呼びよせて捕らえてしまったわけです。
楚王だった韓信は、一戦も交えずに、劉邦によって捕らえられてしまいます。
もちろん、劉邦は一戦もせずに楚の土地を韓信から取り上げる事に成功しました。
同じ方法を使い龐統も会見の場で劉璋を捕らえてしまい、益州を一気に平定してしまおうと考えたのでしょう。
しかし、劉備は「他国に入ったばかりで、恩愛や信義がまだ表れていない」といい断ったわけです。
ここで劉備が、龐統の言う事を聞いていれば、下手な血を流さずに、劉備は蜀の地を手に入れる事が可能とも考えられます。
ただし、劉備は劉璋から得た資金を使い益州の名士を懐柔した話もあり、劉備のやり方が正しかったと考える専門家もあいます。
上策があるのに、次策を取る
劉備と劉璋は会見が終わると、劉備は北を目指す事になります。
劉備も益州を取る気があるわけですが、劉璋のために漢中の張魯討伐に出かけた振りをしたわけです。
ここで龐統は劉備に3つの策を授ける事になります。
上策・軍を反転させて精鋭を選んで劉璋がいる成都を急襲する
次策・白水関にいる楊懐、高沛を理由を付けて呼び寄せ斬り捨てて軍隊を奪う
下策・撤退して白帝に帰り荊州に向かいながら策を考える
この時に劉備は、上策があるのに、次策を取ったわけです。
楊懐、高沛を斬り捨てて軍勢を奪うと、成都に進軍しています。
上策は電撃作戦で、劉璋の不意を衝いて襲撃してしまい、蜀を奪ってしまおうという作戦です。
それに対して、次策は自分の軍隊を増やした上で、城を落としながら進む策となっています。
夷陵の戦いでも劉備は、関羽の復讐戦に燃えている割には、電撃作戦を取っていません。
劉備は電撃作戦のような事を不安視し、嫌う性質だった可能性もあります。
ただし、この後に劉備は成都に向かいますが、ここでは連戦連勝だったわけです。
それを考えれば、劉備の取った次策は全くの見当違いでもなかったのでしょう。
龐統の上策よりも次策の方が効果が高かった可能性もあります。
龐統が戦死する
劉備は、快進撃を続けたわけですが、雒城を攻撃させる大将として龐統を向かわせたわけです。
雒城は、劉璋の子である劉循(りゅうじゅん)と文武両道と言われ、劉璋に忠義が厚い張任が守っていました。
龐統は雒城を攻撃しますが、陥落させる事が出来ません。
劉備は、龐統が城を落とせないからと言って、咎めるような事はしなかったようです。
しかし、龐統は城を落とせなくて焦ってしまったのか、自ら前線に出て指揮を執ったわけです。
この時に、流れ矢に当たってしまい、龐統は絶命してしまいました。
これが龐統の最後です。
しかし、よく考えてみれば、劉備と劉璋が最初に会見をした時に、捕らえていれば、そもそも龐統は死ななかった可能性もあります。
さらに、益州の劉璋配下で内応していた、張松は劉備に加担している事がバレて斬られているわけです。
これを考えると、龐統の進言に従って、さっさと劉璋を捕らえるなど、電撃作戦を行っていれば、龐統や張松は死なずに済んだのかも知れません。
ここに臥竜鳳雛がいても天下が取れない理由があった可能性もあるのではないでしょうか?
尚、三国志演義では龐統は落鳳坡で命を落とした事になっています。
諸葛亮の反対を押し切り夷陵の戦いで敗北
劉璋は馬超が劉備に降伏した事を知ると、戦意を失い降伏しています。
その後、劉備は黄忠や法正の活躍もあり、漢中を支配下に治める事に成功しています。
定軍山の戦いでは、黄忠が活躍して魏の夏侯淵を斬る大金星を挙げています。
しかし、関羽が呂蒙や陸遜にだまし討ちのような事をされてしまい、荊州の地を失ってしまいます。
諸葛亮の天下三分の計は、荊州と益州を手に入れて、呉と同盟を結び魏に対抗するプランでした。
それが崩れて荊州を孫権に奪われてしまったわけです。
劉備と関羽は三国志演義では桃園の誓いで義兄弟の契りを結んだ仲であり、復讐の為に孫権を討つと言い出します。
ここで力強く諫言したのは、趙雲でした。
しかし、諸葛亮も劉備を止めたわけですが、劉備は結局、聞く事をせずに出陣して、夷陵の戦いで呉の陸遜に大敗しています。
この時も、劉備は諸葛亮の意見を聞かずに敗北してしまったわけです。
ただし、諸葛亮が劉備を強く止めなかったのは、天下三分の計を説いた時に、荊州・益州を取って魏に対抗すると言ってしまったからなのかも知れません。
ここで諸葛亮が強く劉備を止めた場合は、劉備は諸葛亮に「お前が荊州・益州を取って魏に対抗すると言ったんだろが!」と言われてしまう事は、目に見えていたからだった可能性もあります。
諸葛亮は理知的な人なので、何を言っても無駄だという予想が出来ていのかも知れません。
ただし、諸葛亮が後に「法正であれば止める事が出来た」という発言もあり、法正が臥竜鳳雛(諸葛亮・龐統)以上に蜀のキープレイヤーだった可能性もあるでしょう。
実際に、法正が死んでから蜀は、諸葛亮が南征で成功したくらいしか、戦いでは勝つことが出来なくなってしまったからです。
それを考えれば「臥竜鳳雛を手に入れる事が出来れば天下は取れよう」ではなく、「法正を手に入れる事が出来れば天下は取れよう」に変わってしまうわけですが・・・。
臥竜鳳雛がいても劉備が天下が取れなかったのは何故?
劉備は夷陵の戦いで、陸遜に大敗した後に、白帝城で亡くなってしまったわけです。
これを見ると、劉備は臥竜鳳雛の両方を得ていたのに、天下を取る事が出来ませんでした。
司馬徽の「臥竜鳳雛のうち一つでも手に入れたら天下は取れる」という言葉は実現しなかった事になります。
この理由ですが、所々で劉備が諸葛亮や龐統の進言を却下したのもあるのかな?と考えた所があります。
今回は、劉備が臥竜鳳雛(諸葛亮・龐統)の言う事を聞かなかったところを中心にピックアップしたわけですが、肝心な部分で進言を却下しているのも分かったのではないでしょうか?
実際に、今なら簡単に荊州が取れるとか、上策があるのに次策を取るとか、そのために龐統が戦死してしまうなどもあったように思ったわけです。
しかし、これは諸葛亮や龐統の意見よりも、劉備の考えの方を評価する人も大勢います。
入蜀は、信義なき戦いでもあったわけですが、劉備は名士や民から評価されるまで待つ姿勢がよかったと評価する人もいます。
歴史にIFがないので、諸葛亮や龐統の言う事をちゃんと聞いていれば、どうなったのかは自分にも分かりません。
ただし、敵が魏の曹操となれば、そう簡単には天下は取らせてくれないのではないかと考えています。
実際に諸葛亮は、劉備亡きあとに最高責任者となったわけですが、南征では成果を挙げましたが、北伐になると司馬懿や曹真などを相手に苦戦しているからです。
それを考えれば、臥竜鳳雛を得る事が出来れば天下は取れるという言葉は、過大評価だったのかな?とも感じました。
ただし、諸葛亮は最高責任者ではなく、「軍師」という立場であれば、天下を取れる程の活躍が出来たのかな?とも感じています。
人には、ナンバーワンが向いている人もいれば、ナンバー2が向いている人もいるからです。
それか、臥竜鳳雛の一つだけを手に入れれば天下は取れたが、二人揃えてしまうと、天下は取れなくなるのでしょうか・・・。
この辺りは、謎という他ないでしょう。
臥竜鳳雛の矛盾
臥竜鳳雛の一人でも得る事が出来れば天下を取る事が出来るとされていますが、これについて疑問を持った人はいないでしょうか?
「それじゃ蜀に諸葛亮が仕えて、魏に龐統が仕えた場合はどうなるの?」という疑問です。
もちろん、蜀に諸葛亮、呉に龐統が仕えるなどでも構いません。
それを考えると、臥竜鳳雛の一つでも得る事が出来れば天下は取れるという言葉は、矛盾した言葉になってしまうのではないでしょうか?
これに関しては、論争するだけ屁理屈のような事になり、下らない話になりそうなので、この辺にしておこうと考えています・・。
劉備は死ぬ間際に、臥竜鳳雛を得ても天下が取れなかったけど、これは俺の責任かな~とか思ったのかも知れません・・。
尚、龐統は人物鑑定が好きで、多くの人物を実際の力よりも上として評価した話があります。
それを考えると、司馬徽や龐徳公も諸葛亮や龐統の事を実際よりも上の人物として臥竜鳳雛の名を与えたのかも知れません。