春秋戦国時代

魏の安釐王は短絡的な人物なのか

2026年2月11日

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宮下悠史

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名前魏の安釐王
姓・諱魏圉
生没年生年不明ー紀元前243年
在位紀元前276年ー紀元前243年
時代戦国時代
一族父:昭王 弟:信陵君 妹:女(平原君夫人) 子:景湣王
年表紀元前273年 華陽の戦い
コメント短絡的な部分が目立つ

魏の安釐王は春秋戦国時代のの君主です。

弟には戦国四君信陵君がいる事でも有名な人物だと言えるでしょう。

ただし、史記を見る限りでは信陵君を怖れ疑い用いる事が、出来なかった事が記録されています。

魏の安釐王はからの要請があれば、土地を引き換えに范座を捕らえようとしたり、に入朝せず攻撃されたと思えば、国を奉じて従いたい述べるなど短絡的な部分が多く見える人物でもあります。

司馬遷が魏の滅亡について語っており、史記では論者は魏では信陵君を用いなかった為に国が滅んだと述べている話を掲載しました。

信陵君を用いなかったのが誰かと言えば、魏の安釐王以外におらず、前漢の時代の人々は魏の安釐王が信陵君を用いなかったから国を滅ぼしたと考えていた事が分かるはずです。

司馬遷は魏に伊尹がいたとしても国が滅んでいたとし、擁護している様でもありますが、個人的には魏の安釐王は目先の利益を追う傾向が強かった様に感じました。

尚、魏の安釐王には寵愛する如姫がいましたが、如姫の父親の仇を討とうとせず、代わりに信陵君が食客を使って敵討ちをした話があります。

秦の魏への侵攻

史記の魏世家によると、魏の安釐王の元年(紀元前276年)に、の二城を抜いたとあります。

紀元前282年に秦の昭王魏の昭王が会見を行い講和しましたが、魏の昭王が亡くなった事で、同盟は破棄されたのかも知れません。

翌年の紀元前277年に、秦が再び魏を攻めて二城を抜きました。

秦軍は大梁の城下に布陣したとあります。

が魏の救援に現れますが、魏の安釐王は秦に温を割譲し講和しました。

魏の安釐王の時代までに、魏は旧都安邑を含む西部の領地を全て失っており、秦は韓の方が国境を接していましたが、秦の重要人物である魏冄が東方の自らの領地の拡大を考えており、魏が攻撃対象になってしまったのでしょう。

魏は温を秦に与えて講和しましたが、秦の勢いは収まらなかった様であり、魏の安釐王の3年(紀元前274年)に、秦が魏の四城を陥落させ、4万人を斬首したとあります。

魏の安釐王は凡庸な人物とも考えられていますが、西には圧倒的な強国である秦がおり、難しい時代でもあったはずです。

華陽の戦い

魏の安釐王の4年(紀元前273年)に、が魏及びを破り、15万人を殺害し、魏の芒卯を敗走させました。

これが華陽の戦いであり、魏冄、白起胡傷の三将が芒卯や賈偃を破った戦いでもあります。

この頃には、三晋が手を結んで秦と対峙しても、全く敵わない事が分かる事例でもあるはずです。

それと同時に、秦の華陽の戦いでの15万斬首に、魏の安釐王は痛恨の一撃を浴びたとも言えるでしょう。

華陽の戦いの敗北を受けて、段干子は「魏の安釐王に南陽を与えて秦と和睦する様に」と説きました。

しかし、蘇代は「段干子に交渉を任せては、魏の土地が無くなるまで交渉する事になる」と意見を述べ、南陽の割譲に反対した話があります。

今の話は史記の魏世家にある逸話ですが、魏の安釐王が段干子と蘇代のどちらの意見を採用したのかは書かれていません。

しかし、秦本紀にはが南陽を割譲し、和議を結んだとあり、魏の安釐王は段干子の進言を採用したのでしょう。

秦本紀では秦の昭王の34年(紀元前272年)に、秦は魏に韓の上庸を与えた記述があり、後の事を考えると、この時に秦の昭王は太子外を魏に人質に出したのかも知れません。

紀元前270年に秦はを攻撃し、剛と寿の地を奪っており、魏冄の領地としました。

秦の太子外が無くなる

魏の安釐王の9年(紀元前268年)に、が魏の懐を陥落させたとあります。

翌年である紀元前267年には、秦の太子外が魏に人質となっていましたが、亡くなったとあります。

秦本紀では悼太子がで亡くなったと記録しています。

秦と魏は講和し秦の昭王は太子外を魏に人質に出しましたが、秦が魏を攻めた事で、魏の安釐王により殺害されてしまったという事なのでしょうか。

それか、秦の方で太子外を始末して欲しいと思ったのか、太子外を外に出したのかも知れません。

翌年である紀元前266年に秦が魏の邢丘を抜いたとあり、太子外を殺害した事で、さらに攻撃した様にも見受けられます。

しかし、この後の展開を見ると魏の安釐王と秦の昭王の間で講和が結ばれた様でもあり、秦は太子外の死で激怒したわけでもなさそうです。

太子外が亡くなった後に、秦世家では突如として秦の昭王が魏の宰相の魏斉やの重要人物である如耳が、孟嘗君や芒卯に及ばないと述べ、中旗に窘められる話が挿入されています。

楚に彭城を取られる

紀元前266年には秦に攻められた年でもありますが、魏世家ではと楚に攻められた事も記述されています。

魏の安釐王はに何度も援軍を求めますが、秦の昭王は動かなかったわけです。

ここで唐雎が自薦し、魏の安釐王は秦に向かわせました。

この時の唐雎は90歳を超えていた話があり、魏の安釐王はダメ元で使者にしたのかも知れません。

唐雎は秦の昭王の前で弁舌を振るい説得に成功しました。

秦の昭王は唐雎の説得により、魏を救援する兵を出し、安定させたとあります。

ただし、史記の六国年表の方では、紀元前266年にが魏を討ち彭城を取った事になっており、魏の昭王の時代に切り取った旧宋国の領土の多くを楚に奪われた事になります。

紀元前266年は魏の安釐王にとってみれば、何とか危機は脱しましたが、散々な年だったと言えるでしょう。

それでも、秦と講和が成立した為か、魏の安釐王はを攻撃し、魏の旧領を奪還しようとしますが、無忌に韓が滅びれば魏が秦に滅ぼされると諫められています。

尚、史記の魏世家では、無忌が魏の安釐王を諫めた内容が、魏の安釐王の時代の大半の記述となっています。

魏の安釐王の酷い性格

紀元前266年の出来事として、が魏の安釐王に使者をやり、70里の土地を献上する代わりに、宰相の范座を殺害する様にと述べて来ました。

この年は趙の恵文王の末年であり、趙の恵文王が画策したとは考えにくく、趙の孝成王が主導したのか、別の年だったのかも知れません。

ここで魏の安釐王は趙の申し出を了承し、范座を捕らえようとしたわけです。

趙の依頼とはいえ、呆気なくの宰相を捕らえようとする魏の安釐王は、薄情な性格だと評価される出来事でもあります。

范座は信陵君に助けを求め、信陵君が魏の安釐王に対し取り成した事で、范座は釈放されました。

信陵君が趙を救う

では魏冄が宰相を免じられ、范雎が秦の昭王の信任を得ました。

遠交近攻の策が用いられる様になり、最初のターゲットはに定められる事になります。

韓はに禍を転嫁する事に成功し、長平の戦いが勃発しますが、趙の孝成王が廉頗を解任し、趙括を将軍とした事で白起に大敗北を喫しました。

長平の戦いの後に邯鄲籠城戦が勃発しますが、ここで趙の援軍要請もあり魏の安釐王は晋鄙を将軍として、への救援に向かわせる事になります。

しかし、秦の昭王が魏の安釐王に釘を刺すと、魏の安釐王は晋鄙を北方の鄴に軍を停止する様に命令しました。

趙の平原君の夫人は魏の信陵君の姉でもあり、平原君は何度も信陵君に書簡を出し、魏に安釐王を説得する様に依頼する事になります。

平原君の夫人が信陵君の姉だという事は、母親違いではあるのかも知れませんが、安釐王とも兄妹の関係となるはずです。

平原君は魏の安釐王にも使者を派遣し説得を試みたはずですが、魏の安釐王は秦を怖れ動かなかったのでしょう。

尚、魏の安釐王は新垣衍を平原君の元に派遣し「趙の孝成王が秦を帝として尊べば秦は兵を退く」と言われますが、新垣衍は魯仲連により非が明らかとなり、趙は秦との戦いを継続しました。

しかし、信陵君が魏の安釐王の寵姫である如姫を動かし、安釐王の兵符を奪い、侯嬴や朱亥の活躍もあり、晋鄙を殺害し春申君と共に趙を救いました。

信陵君は魏の安釐王を欺いて趙を救ってしまった事もあり、魏に戻りませんでした。

秦本紀に魏は秦に攻められ6千人を斬首され、さらに川に落ちて亡くなった者が2万いたと記録され、寧新中も奪われたとあります。

信陵君が趙を救った行為は、魏の安釐王にとってみれば、散々な結果になってしまったと言えそうです。

魏の安釐王の屈辱

紀元前256年にが西周を滅ぼしました。

周の赧王も亡くなり、これが東周王朝の滅亡となります。

秦本紀によると、紀元前254年に天下の諸侯が秦に入朝したとあります。

しかし、が遅れて入朝しなかったとあり、魏の安釐王は何らかの理由で、秦への入朝を拒んだのかも知れません。

秦の昭王に命じて魏を攻撃し、呉城を取りました。

秦に恐怖したのか、魏は国を挙げて秦に任せ、その命令を奉じたとあります。

魏の安釐王にとってみれば、かなりの屈辱でもあったのでしょう。

魏はの後継国的な部分もあり、国民感情的にも秦に従いたくは無かったはずです。

尚、秦の昭王は紀元前251年に世を去り秦の孝文王が立ちますが、三日で亡くなり、荘襄王が立ち呂不韋の時代が始まる事になります。

魏の安釐王と信陵君

涙の再開

史記の魏公子列伝では、信陵君が趙にいる事から、は魏への攻勢が強まり、魏の安釐王が憂えた話になっています。

魏の安釐王は信陵君に帰還を求めたとあります。

しかし、史記の魏世家や秦本紀を見ると、に攻められた以降は、特に秦と魏で戦いが起った記録がありません。

それらを考慮すると、魏の安釐王は秦に対し屈辱感が強く晴らしたいと思っていましたが果たせず、信陵君に天下の声望が集まっており、信陵君の力を必要としたのではないでしょうか。

魏の安釐王は信陵君が魏に戻って来て会った時には、お互いに涙を流した話があります。

安釐王は信陵君を上将軍に任命し、合従軍結成の為に動く事になります。

紀元前247年に、信陵君はの合従軍を率いて、秦の蒙驁を破り函谷関まで攻め寄せました。

天下無敵の秦軍を2度に渡って破った信陵君の名声は、さらに高まる結果となります。

しかし、魏の安釐王は信陵君を怖れました。

尚、信陵君が五カ国連合軍を率いて秦を攻撃した時に、魏の太子増(景湣王)は秦に人質となっており、身の危険に晒される事になります。

太子増の為を思って口添えしてくれた者がいた事で、危害を加えられませんでしたが、魏の安釐王の短絡的な人柄を示す逸話の一つにもなるはずです。

結局は疑う

秦にとって信陵君は脅威であり、秦は魏の安釐王との離間策を実行する事になります。

この時に秦王政は、政務を執れる様な年齢ではなく、呂不韋が中心となり行われたのでしょう。

魏の安釐王は信陵君を疑い上将軍を解任しました。

魏の安釐王は信陵君との涙の再開がありながらも、結局は疑ってしまったと言えます。

この後に、信陵君は失意となり酒浸りとなりますが、魏の安釐王が信陵君を見てどの様に思ったのかは定かではありません。

魏の安釐王の最後

史記の魏世家によると、魏の安釐王はその34年に亡くなったとあります。

魏の安釐王は紀元前243年に世を去ったのでしょう。

同年に信陵君も亡くなりました。

魏の景湣王が即位する事になりますが、いきなり秦の蒙驁に攻められ20の城を失っています。

秦は東郡を設置し、は20年持たず滅びる事になります。

先代:昭王安釐王次代:景湣王

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