倭国大乱と卑弥呼の擁立
魏志倭人伝や後漢書によると、倭国では元々は男王がおり、7,80年続いたが桓霊の間に戦乱が起こり何年も争いが続いたとあります。
これが倭国大乱であり倭人たちは、国々に別れて争いを繰り広げました。
桓霊と言うのは後漢の桓帝(在位146年~168年)と霊帝(168年~189年)の事であり、西暦146年から189年までの間に倭国大乱が起きた事になります。
倭国大乱が長く続き国々は争いますが、共同で一人の女王を擁立したとあり、これが卑弥呼となります。
中国側の史書には卑弥呼が何年に倭王になったかの記録がありません。
しかし、朝鮮側の正史である三国史記には173年に「倭の女王卑弥呼が使者を遣わして礼物を持ち交際を求めてきた」とする記述があります。
それを考えると魏の曹叡に朝貢する60年以上も前から卑弥呼は倭王になっていたと言えるでしょう。
これだと卑弥呼が長生きし過ぎているのではないか?と思うかも知れません。
しかし、卑弥呼の後継者とも言える台与は13歳で倭王となっており、卑弥呼が10代で倭王となってもおかしくはないでしょう。
ただし、梁書や北史などでは霊帝の光和年間に倭国大乱と卑弥呼の擁立があった様な書き方をされており、実際の所として卑弥呼が何年に倭王になったのかは不明です。
それでも、卑弥呼は曹叡や曹芳の魏に朝貢したのであり、遅くとも3世紀の前半には倭王になってた事だけは確実でしょう。
鬼道
魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述として、卑弥呼が鬼道を行い人々を惑わしたとあります。
卑弥呼が「人々を惑わした」とありますが、実際には卑弥呼が祭祀を行い人々から求心力を得たのでしょう。
鬼道に関しては魏志倭人伝に詳しい描写が無く何をしたのかは不明ですが、一般的には卑弥呼が呪いや占いの類の事を行ったと考えられています。
魏志倭人伝には倭国の人々が骨を焼いて占った話があり、それを考えれば卑弥呼も占いの名手と言った所だったのかも知れません。
尚、鬼道に関しては正史三国志に張魯の母親も行っていた話もありますし、張魯の五斗米道も道教の一派で鬼道を行ったとされています。
因みに、ちくま学生文庫の正史三国志では、卑弥呼が鬼神崇拝の祭祀者として訳されており、鬼道という言葉は使ってはいません。
弟が補佐
卑弥呼はかなりの年齢になっても、夫はなく弟が国の統治を補佐したとあります。
この記述から分かるのは、卑弥呼は長生きをしており、何かしらの理由で夫を持たなかったのでしょう。
夫を持つ事で神聖さが失われてしまうと考えたのかも知れません。
卑弥呼の弟が政治を取り仕切った様ではありますが、三国史記の記述を元に卑弥呼が10代で即位したとしたなら、最初から弟が政治を補佐したわけではないはずです。
卑弥呼の弟が政治を補佐した記述がある事から、卑弥呼が祭祀王であり、弟が統治王だったのではないかとも考えられています。
姿を見る事が出来ない
卑弥呼は倭王になってから、目通りした者は殆どいないとあります。
卑弥呼の周りには千人の侍女がおり一人の男子が飲食物を運んだり、卑弥呼の言葉や命令などを取り次いでいたとあります。
卑弥呼に飲食物を運んでいた男性が何者なのかは不明ですが、普通に考えれば卑弥呼の弟であり、政治に関して姉に相談していたのでしょう。
卑弥呼が皆の前に姿を表せなかった理由ですが、求心力の低下を危惧した可能性もある様に感じています。
鬼道を行い祭祀を行っている卑弥呼は姿を皆に見せない方が神聖視されると考えた可能性もあります。
戦国七雄を倒し天下統一した秦の始皇帝は、様々な地を巡幸しています。
しかし、始皇帝は皆に姿を見せた事で、只の人間という事が分かってしまい求心力が低下し、これが秦の滅亡に繋がったとする説もあるわけです。
卑弥呼は民衆に姿を見せない事で、求心力を保とうとした可能性は十分にあるはずです。
厳重な警備
卑弥呼は宮室の中で生活をし、そこで完結していた様です。
卑弥呼の住まいの周りには城壁や柵があり厳重に警備されていたとあります。
武器を持った者が警護に当たり、万が一に備えていたのでしょう。
護衛の兵士は常に卑弥呼の宮殿を守るために、存在していた様です。
三韓の馬韓などは城壁が無かった様な話もありますが、倭国は弁韓、辰韓と同様に城壁があった事になります。
倭国では人々が争う倭国大乱があり、結果として城壁や柵が必要になったのでしょう。
魏に朝貢
公孫淵の滅亡
魏志倭人伝によると、景初2年(238年)の6月に、倭の女王は大夫の難升米らを帯方郡に遣わしたと記録されています。
一般的には遼東の公孫淵を司馬懿が滅ぼした事で、倭国と魏国の道が開通して卑弥呼が朝貢を行ったと考えられています。
しかし、公孫淵の燕が滅んだのは238年の8月であり、卑弥呼が朝貢したのは239年の6月の間違いではないか?とも考えられています。
尚、魏の曹叡は西暦239年の1月に崩御しており、それを考えると卑弥呼は魏の幼君である曹芳に朝貢した事になるはずです。
ただし、曹芳はまだ幼く政治を任されていた曹爽や司馬懿が政治の中心となっていました。
それらを考慮すれば卑弥呼は朝貢を行っても倭国の使者である難升米や都市牛利は、魏の皇帝との面会は叶わなかったと感じています。
親魏倭王
卑弥呼は難升米と都市牛利に男女の生口(奴隷)合わせて10人と朝貢の品を持ち帯方郡に向かわせました。
帯方郡の劉夏は難升米と都市牛利がやって来ると、護衛を付けて洛陽まで送り届け、魏の皇帝から詔が下されることになります。
これにより卑弥呼が親魏倭王の称号を得る事になり、邪馬台国の卑弥呼が倭国王だと認められた事になります。
さらに、魏では卑弥呼が朝貢した品の10倍以上の返礼品を用意し、倭国に運ばせました。
この時に、銅鏡が100枚ほど卑弥呼に送られており、論争になる部分でもあります。
魏の方でも帯方太守の弓遵や梯儁を倭国に派遣し、卑弥呼を親魏倭王としました。
この時に、卑弥呼に親魏倭王の金印も贈られたのではないか?とも考えられています。
この後にも、卑弥呼は何度か朝貢を行っており、朝貢貿易の旨味を覚えてしまった部分もあるのでしょう。
卑弥呼が魏に朝貢した理由
卑弥呼が魏に朝貢した理由ですが、魏の権勢を背景に国内での戦いを有利に進めたかったのでしょう。
卑弥呼と言えば「倭国の女王」というイメージがあるかも知れませんが、実情を言えば日本列島を統一したわけでもありません。
邪馬台国の南にある狗奴国の卑弥弓呼とは仲が悪く、戦争も行っています。
邪馬台国と狗奴国の戦争で、卑弥呼は苦戦を重ねたのか、魏の帯方郡の張政が邪馬台国と狗奴国の戦いを調停しました。
狗奴国との戦争で卑弥呼側が有利に戦っているのであれば、張政が仲裁する必要もない事から、邪馬台国は狗奴国に苦戦していた様にも見受けられます。
魏志倭人伝では張政が邪馬台国と狗奴国の仲裁を行った後に、卑弥呼が亡くなった話になります。
邪馬台国が狗奴国に勝利したとも書かれておらず、卑弥呼は最後まで狗奴国に勝利出来なかった可能性も高い様に感じました。
卑弥呼の最後
中国の梁書によれば、正卑弥呼は正始年中に亡くなったとあります。
正始が年号として使われたのは、240年から249年であり、卑弥呼と狗奴国の戦争が起きたのが247年となっています。
それを考えると、卑弥呼は248年か249年に亡くなったと考えるべきでしょう。
卑弥呼が亡くなると男性の王が倭国王に即位しますが、国は纏まらず戦争となり卑弥呼の親族で13歳の台与が立つと戦乱が治まったとあります。
卑弥呼の最後の描写は描かれてはいませんが、定説では卑弥呼は248年に亡くなったと考えられています。
卑弥呼と日食
卑弥呼が亡くなったとされる西暦248年9月5日に、皆既日食が起きていた事が分かっています。
卑弥呼は日の巫女であり、皆既日食の責任を取らされて命を落としたとも考える専門家もいます。
ただし、現在では皆既日食は計算で出す事が可能であり、邪馬台国が九州にあった場合は、そもそも皆既日食が見えない事が分かっています。
さらに、邪馬台国が近畿地方の奈良にあったとしても、早朝5時32分に太陽が半分ほど欠けた状態で昇り、 7時12分には元に完全に戻る事も分かっているわけです。
実際に太陽が欠けている状態は、2時間にも満たない事からインパクトが少なく、卑弥呼が日食が原因で殺害されたなどの事はないとする説が有力になってきています。
尚、後述しますが卑弥呼と天照大神の同一人物説においては、日食が一つのキーワードとなっています。
卑弥呼の墓
卑弥呼が亡くなると、大規模な塚が築かれたと言います。
卑弥呼の墓の直系は百余歩、奴婢100人以上が殉葬されたとあります。
邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓が箸墓古墳ではないかとも考えられています。
しかし、魏志倭人伝の記述では卑弥呼の墓の直径は「百余歩」とあり、普通に読めば「歩いて百歩」の距離という事になるはずです。
一歩が50センチと考えれば、百歩で50メートル位の大きさの墳墓が卑弥呼の墓という事になります。
箸墓古墳は全長が280メートルもあり、明らかにサイズが合いません。
さらに、卑弥呼の墓は直径で百余歩とあり、墓の形は丸かったと考えるべきでしょう。
それを考えると卑弥呼の墓の形は円墳だと見る事が出来ます。
箸墓古墳は前方後円墳であり、墓の形も魏志倭人伝の記述と合致しません。
卑弥呼の墓がみやま市の権現塚古墳だとする説があります。
個人的には墓の規模などから考えて、みやま市の権現塚古墳の方が可能性が高い様に感じています。
卑弥呼と同一人物説
卑弥呼に同一人物説が出る理由
卑弥呼は日本書紀や古事記に登場する人物の中で、何人か同一人物ではないか?と考えられています。
卑弥呼に同一人物説が出る理由ですが、日本書紀や古事記に卑弥呼という名前がほぼ登場しないからです。
日本書紀の神功皇后の巻では、卑弥呼と邪馬台国を匂わす言葉は出てきますが、日本書紀の編集者に年表の混乱があったと考えるのが一般的だと言えます。
ただし、個人的には卑弥呼は卑弥呼であり、同一人物説は間違っていると感じています。
天照大神
天照大神と卑弥呼は同一人物ではないか?とも考えられています。
先に紹介した日食の話で卑弥呼が殺害されたと考えるのが、日本神話の天岩戸の話です。
日の巫女である卑弥呼がいなくなった事で、魑魅魍魎の輩が現れる様になり、これを卑弥呼が亡くなった後の男王が立ち国が乱れた状態を指します。
そして、台与が立ち再び国が纏まったのを天照大神が天岩戸から出た事を指すというわけです。
卑弥呼と邪馬台国の話をモデルにして作ったのが、天照大神の話だとしています。
しかし、この話だと卑弥呼が死んだことになっていますが、天照大神は天岩戸に隠れただけで死んではいません。
さらに、卑弥呼の弟が邪馬台国の政治を行った話がありますが、天照大神の弟はスサノオと月読命です。
スサノオは乱暴者でありとても政治が行える様には見えず、月読命は保食神を殺害した事で、天照大神と袂を分かち絶縁状態となりました。
それを考えると、天照大神と卑弥呼が同一人物だと言うのは、無理があると感じています。
倭迹迹日百襲姫命
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と卑弥呼の同一人物説もあります。
第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命は、日本書紀によれば箸墓古墳に葬られたとあります。
邪馬台国近畿説では卑弥呼の墓が箸墓古墳だとされており、卑弥呼と倭迹迹日百襲姫命が同一人物ではないか?とも考えられているわけです。
倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇と欠史八代の時代から天皇には仕えていましたが、特に天皇になった話もありません。
それを考えると、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だと言うのは無理があると感じています。
神功皇后
卑弥呼と神功皇后が同一人物だったのではないか?とする説もあります。
日本書紀の神功皇后の巻で突如として、魏志の引用が記載されており、卑弥呼と神功皇后が同一人物だったのかの様に書き示しています。
しかし、初期の天皇の年齢は100歳超えが多く、史実だとは考えられていません。
日本書紀では100歳超えの天皇も実際に100歳超えで換算してしまった事で、卑弥呼と神功皇后の年代が被ってしまったとも考えられています。
個人的には卑弥呼と神功皇后の同一人物説には無理があり、神功皇后は卑弥呼の時代よりも100年以上後の人物だと考えた方が自然なはずです。
卑弥呼は弟が政治を行った話がありますが、神功皇后は自ら摂政となり政治を行い補佐したのは武内宿禰です。
尚、神功皇后と卑弥呼の同一人物説は、神功皇后の記事の方で記載しました。