麃公の史実の実績のお話をしようかと考えていました。
しかし、史実では秦王政(嬴政)が即位した時に、将軍に任命された事と韓を攻めて3万人を斬首した話くらいしか伝わっていません。
尚、麃公という名前についても謎な部分が多く「麃」という苗字の「公」という名前の人なのか、本名が別にあり「麃公」と呼ばれているだけなのかもよく分かりません。
三国志でも曹操の事を「曹公」と呼ばれたりする事もあるわけです。
同じようなニュアンスで麃公と呼ばれていたのかな?とも考えてしまいました。
それを考えると王騎の副官をしていた騰あたりは、性なのか名なのか?なども分からない存在です。
それよりは、マシかなと思った次第ですが・・・。
キングダムでの麃公
キングダムでは、「本能の極致」と言われる程の、優れた本能型の武将として描かれています。
首都である咸陽から離れた地域で戦っていた為、名前はそれほど鳴り響いていませんでした。
しかし、戦場に入れば秦の六将である王騎も認める程の実力があり、魏軍との戦いでは呉慶を打ち破るなどの活躍を見せています。
春申君を総大将とした函谷関の戦いでは、李牧が兵を割いて蕞(さい)を攻めていたのを本能で読みとっているわけです。
これにより李牧に打撃を与えて、さらに楊端和(ようたんわ)が率いる山の民の援軍が来た事で合従軍を完全に撃退しました。
李牧が龐煖を連れて来ていたため、龐煖に敗れてしまいますが、腕を一本折るなど奮戦しています。
他にも、龐煖の精神的な弱さを見破るなどもしているわけです。
麃公は、合従軍戦である蕞の戦いで戦死しますが、カッコよく散った武将と言えるでしょう。
史実にはない活躍が入っていますが、役どころはかなり良かったと感じます。
惜しい人物を亡くしたとも思った次第です。
ただし、これらの事は史実には無く全てキングダム作者である原泰久先生のオリジナルストーリーでしょう。
ここから先は、麃公の史実の活躍を紹介します
嬴政に将軍に任命される
紀元前246年に嬴政は秦王に即位しています。
嬴政は、王騎、麃公、蒙驁の3人を将軍に任命しています。
ただし、嬴政が即位したのは13歳の時です。
そのため、形式としては嬴政が任命した事になっていますが、実際は呂不韋が推薦したのかも知れません。
13歳の年齢では、政治を見る事も優れた将軍かどうかを判断する事も難しいと感じます。
甘羅(甘茂の孫)が張唐を12歳で説得して、さらに趙と交渉した記録もありますが、それは例外中の例外だと考えてよいはずです。
呂不韋は、嬴政の父親である荘襄王の頃からの功臣で、宰相として絶大な力を握っていました。
嬴政が即位した頃に、政治を動かしていたのは紛れもなく呂不韋だった事でしょう。
紀元前246年は、晋陽で反乱が起きて蒙驁が鎮圧した年でもあります。
麃公は、晋陽の乱に対して出陣した形跡はありませんが、書いてないだけで晋陽を平定しに行った可能性もあるでしょう。
他にも、紀元前246年は鄭国が韓に依頼されて、秦に来た年でもあります。
韓は秦の財政が戦争ではなく、灌漑事業に向けられる事で自国の安全を図ったわけです。
既に、秦は他の6国(韓・魏・趙・楚・燕・斉)を寄せ付けない程の圧倒的な強国となっていました。
韓を攻めて3万人を斬首する
紀元前244年に麃公が韓を攻めて3万人を斬首した記述があります。
紀元前244年は史記の蒙恬列伝によると、蒙驁が韓を攻めて13の城を落としたと記載があります。
麃公と蒙驁が連動して韓を攻めたのではないかと考えられます。
蒙驁が抜いた13城のうち数城は麃公が抜いた城なのかも知れません。
それか野戦で麃公が韓に勝利して3万人の首を斬り、蒙驁が攻城戦で13城を取った可能性もあるでしょう。
どちらにしろ、麃公は韓を攻めて大勝した事は間違いないです。
韓は秦に鄭国を送り込んだ甲斐もなく、秦に攻められてしまったと言う事なのでしょう。
これにより韓は、秦に抵抗できる力を完全に失ってしまったのではないかと思われます。
既に、要地である成皋も取られてしまいましたし、国としては風前の灯のような状態になってしまったはずです。
紀元前241年に楚の春申君主導で、合従軍が結成された時に韓も参戦しています。
しかし、連動していたと思われる龐煖が蕞を攻めた軍勢には、韓は参加していないわけです。
国力が低下しすぎてしまい、蕞まで兵を参戦させる事が出来なかったのではないかと私は考えています。
さらに、韓は秦の属国のような状態になってしまい、秦に奉仕しなければならないがお金が無く韓王の後宮の美女を秦に売り、そのお金で秦に奉仕したという話も残っています。
その美女たちから韓が秦を嫌っている事が発覚して、最後は攻め滅ぼされてしまうというオチまでついています。
尚、韓には韓非子という思想家もいましたが、韓では信任されませんでした。
麃公の最後
麃公の最後ですが、史記や戦国策や諸子百家の書物などには最後は記載されていませんでした。
そのため、史実ではいつ死んだかも分からないような状態です。
信陵君が死んだ事を好機とみて、蒙驁が魏の東部を奪い東郡を設置しています。
これにより魏も壊滅的な打撃を食らった事でしょう。
秦の領地が東の斉を接するようになった話もあるほどです。
しかし、麃公が魏を攻めた時に、参戦した記録はありません。
記録がないと言う事は、韓に対して睨みを利かせていた可能性もあります。
戦後の統治を担当したのかも知れません。
そうしているうちに死んでしまった可能性もあるでしょう。
キングダムの原泰久先生を信じるのであれば、紀元前241年の蕞の戦いの年となります。
麃公の最後は記述がないので分からないと言えます。
キングダムでは人気キャラなので、勿体ないような気もするのですが・・・。
しかし、韓との戦いで活躍した事を考えれば、秦の天下統一に活躍した将軍の一人であるとは言えるでしょう。
子孫がどうなったのかも分からないのが、功績が世に伝わらない原因なのかも知れませんね。
それに比べると、麃公は子孫が誰なのかも分かりません。
三国志や楚漢戦争を考えてみても「麃」が付く将軍が思い浮かばない状態です。
子孫が有名ですと、祖先の功績も宣伝してくれるように思います。
麃公の子孫が没落したのかも記録がなく分からない状態と言えます。