春秋戦国時代

韓の桓恵王の治世の末年には首都の近辺しか領地がなかった

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宮下悠史

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名前韓の桓恵王
姓・諱韓然
生没年生年不明ー紀元前239年
在位紀元前272年ー紀元前239年
一族父:釐王 子:韓王安
コメント新鄭付近の領地以外は全て奪われた

韓の桓恵王は春秋戦国時代の君主です。

韓の桓恵王が即位したばかりの頃は、魏冄がの宰相を務めており、遠くのなどを攻めていた事で韓は無事でした。

しかし、范雎が用いられると遠交近攻の策により、韓は危機的な状況となります。

韓の桓恵王の時代に秦に攻め込まれますが、上手く禍をに転嫁させ長平の戦いが起きました。

趙は長平の戦いで、45万の兵を失う大敗北を喫しています。

韓は一時的に上党郡を奪還するなどもしていますが、韓の桓恵王の末年には、新鄭の近辺にしか領地はありませんでした。

韓の桓恵王は秦に抗う事は出来なかったと言えそうです。

ただし、既に100年以上前から秦は韓を国力で圧倒しており、どうしようもない部分もあったと考える事が出来ます。

尚、韓非子が韓王に法治国家として国を治める様に説くも用いなかった話がありますが、この時の韓王が桓恵王だった可能性もあるのではないでしょうか。

ただし、中原の大都市は独立性が強く桓恵王が韓非子を用いていれば、都市は自立し滅亡を速めた可能性もあるはずです。

燕を攻撃

史記の韓世家によると韓の桓恵王の元年(紀元前272年)にを攻撃したとあります。

韓が遥か遠くの国である燕を討つのも変な気もしますが、楚世家にはが三晋を助けて3万の兵を出し燕を討ったとあります。

何故か趙世家や魏世家には燕を討った記述がありませんが、、楚と共に燕を討ったのでしょう。

当時の情勢を考えると、韓の西にはしか国がなく、東には魏、南には楚、北には趙がいました。

韓の桓恵王は秦を攻撃するわけにはいかず、当時の秦はを攻めようと狙っていた部分もあり、韓としては斉を攻撃するわけにもいかなかったのでしょう。

こうした中で三晋で燕を攻める計画が持ち上がり、韓の桓恵王も便乗したのではないでしょうか。

ただし、燕は遠方の国であり、韓にとってはメリットは少なかったはずです。

遠交近攻と長平の戦い

では范雎が用いられ、魏冄が解任されました。

秦の昭王から信任を得た范雎は遠交近攻を説き、秦は近くの国を攻める様に方針転換する事になります。

魏冄は遠方のなどを攻撃していましたが、范雎は近くの国を攻める様に進言したわけです。

秦の遠交近攻の策に最も恐怖したのが、韓の桓恵王だったのではないでしょうか。

当時のは南北に長い領地を持っていましたが、秦は白起に命じて中間地点の野王を陥落させました。

韓の桓恵王は北方で孤立した上党を保持する事は難しいと考え、秦に割譲しようとしますが、上党太守の靳黈は徹底抗戦の構えを見せる事になり、桓恵王の命令に従わない事態となります。

韓の桓恵王は靳黈を更迭し、馮亭を上党の太守としますが、馮亭はに降伏してしまいました。

ここにおいて、秦は趙を攻撃し長平の戦いが勃発したわけです。

長平の戦いでは趙の廉頗が解任され趙括が将軍となりますが、白起に敗れ趙は45万もの損害を被る事になります。

韓の桓恵王は上党を手放した事で、秦からの損害は最小限となりましたが、長平の戦いの結果を見て恐怖した事でしょう。

上党を奪還

史記の韓世家の韓の桓恵王の17年(紀元前256年)に、の陽城と負黍を抜いたとあります。

韓世家には書かれていませんが、この頃に信陵君春申君らの援軍もあり、邯鄲籠城戦が終わりました。

趙の孝成王平原君は信陵君と春申君により救われた事になっていますが、韓の桓恵王もを助けた可能性があります。

韓世家の記録だと後年に秦が韓から上党を奪った記述があり、何処かのタイミングで韓の桓恵王は秦から上党を奪還していたのでしょう。

邯鄲籠城戦の後に、秦軍は鄭安平が趙に降伏するなどし敗走したはずであり、韓は上党郡を秦から奪還してもおかしくはないはずです。

尚、韓世家では韓の桓恵王の22年(紀元前251年)に、秦の昭王が亡くなったと記述されています。

韓の滅亡の足跡

史記の韓世家によると、韓の桓恵王の24年(紀元前249年)に、秦がの城皋と滎陽を抜いたとあります。

は三川郡を設置しました。

この頃の韓の領地も縦に長い領土となっており、再び南部の首都新鄭と北方の上党郡が切り離されてしまったと言えます。

韓の桓恵王の26年(紀元前247年)には、秦が韓の上党郡を悉く抜きました。

紀元前247年は信陵君の合従軍を率いて蒙驁を破った年ですが、韓は秦から土地の割譲は出来なかったのでしょう。

信陵君は秦の離間策により早い段階で、魏の安釐王により失脚させられています。

さらに、韓は秦に13の城を落され、この時には南陽などは保持していましたが、首都の新鄭周辺しか土地はなくなっていた事でしょう。

紀元前241年の春申君龐煖が主導する合従軍(楚、趙、魏、燕、韓)が結成した時には、韓の桓恵王も兵を出しました。

函谷関の戦いでは韓軍の名前がありましたが、龐煖が精鋭を率いた蕞の戦いでは趙、楚、魏、燕の軍勢だけであり、韓軍の名前は存在せず、この時点で韓は弱小過ぎて、兵を龐煖に預ける事が出来なかったのかも知れません。

この頃には、韓の滅亡の足音が聞こえて来た事でしょう。

韓の桓恵王の最後

史記の韓世家によると、韓の桓恵王はその34年に亡くなったとあります。

韓の桓恵王は紀元前239年に世を去りました。

韓王安が後継者となります。

韓王安の時代には滅亡しますが、韓の桓恵王の末年には、新鄭の周辺しか領土があり、との国力は差は10倍では済まなかった事でしょう。

韓は韓非子を用いなかったから滅びたという人もいますが、国力の差は大きく韓非子を用いても挽回は難しかったとみるのが妥当です。

既に桓恵王の末年には、秦は滅ぼそうと思えば、いつでも韓を滅ぼせる状態でした。

尚、韓の桓恵王が亡くなった年には、既に秦王政が君主として即位していました。

ここから10年も満たずに韓は滅亡するわけです。

先代:釐王桓恵王次代:韓王安

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