名前 | 韓忠(かんちゅう) |
生没年 | 生年不明ー184年 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
年表 | 184年 黄巾の乱 |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
韓忠は後漢書の朱儁伝などに名前が登場し、黄巾党の一因として宛城に籠った人物です。
張角が黄巾の乱を引き起こすと、韓忠は南陽黄巾賊として戦う事となります。
韓忠は最初は張曼成の配下でしたが、張曼成が亡くなり、後継者の趙弘も亡くなると頭目に立てられました。
韓忠は朱儁に攻撃されると、降伏を願い出ますが許されず、結局は打ち破られています。
韓忠は捕らえられてしまいますが、南陽太守の秦頡に斬られ最後を迎えました。
三國志演義でも韓忠は趙弘や孫仲と共に宛城を包囲されますが、降伏を許されず朱儁や劉備に攻められ矢に当たり最後を迎える事となります。
今回は南陽黄巾賊の頭目にまでなった韓忠を解説します。
頭目に立てられる
南陽黄巾賊の張曼成が亡くなり、後継者の趙弘も朱儁に斬られる事態となります。
頭目の張曼成や趙弘が亡くなっても、黄巾賊の士気は衰えてはいなかった様であり、韓忠が総大将に選ばれました。
黄巾賊は頭目が斬られても、別の頭目を立てて官軍と戦う体制を取ります。
朱儁にしてみれば黄巾賊の大将を斬っても、次の頭目を立てられるだけであり、城を陥落させるか黄巾賊に壊滅的な打撃を与える必要があると考えた事でしょう。
韓忠としても10万を超える兵力を擁していた話しもありますが、武装度が低く訓練が行き渡っていなかったのか、1万8千しかいない朱儁に容易く勝てる様に状態でも無かったはずです。
10万を超える韓忠の軍に、1万8千の朱儁の軍が包囲する形成となります。
朱儁の策に引っ掛かる
朱儁は土山を築き、韓忠が籠る城内の様子を調べました。
朱儁は城の西南を派手に太鼓を打ち鳴らし攻撃すると、韓忠の兵の大半が西南に向かってしまいます。
朱儁の西南への攻撃は韓忠を釣る為の囮作戦であり、韓忠は引っ掛かったと言えます。
朱儁の策に引っ掛かる辺りは、韓忠が兵法に暗い事が分かるような気がしました。
朱儁は韓忠の兵が西南に集中した事を確認すると、自ら精兵五千を率いて東南を攻撃します。
朱儁の攻撃部隊の中には孫堅もおり、陣頭で戦い城に乗り込む活躍を見せています。
韓忠は朱儁や孫堅の猛攻により、多いに敗れました。
因みに、東西が逆ですが、朱儁は兵法三十六計にもある声東撃西の計を使った事になります。
呉楚七国の乱の時に呉王濞が、周亜夫に声東撃西の計を使いましたが、周亜夫には通用しませんでした。
この辺りは韓忠と周亜夫の統率力の違いとも言えそうです。
降伏を許されず
韓忠は内城に籠りますが、朱儁に降伏を願い出る事となります。
朱儁配下の張超、秦頡、徐璆らは、韓忠の降伏を許す様に進言しますが、朱儁は次の様に述べました。
朱儁「兵は形が同じであっても、勢いは異なったりするものだ。
昔、秦と項羽が戦った時は、民には決まった主がおらず、それ故に自分に味方する者を褒賞し仲間を増やしたのである。
しかし、現在の状況を見るに海内は統一されているのに、黄巾だけが乱を起こしている。
降伏を受け入れてしまえば善を勧める事は難しいが、逆にこれを討てば悪を懲らしめる事が出来る。
今、降伏を受け入れてしまえば、賊共はさらに謀反の意思を抱かせる結果となり、賊たちは有利だと感じれば、自ら進んで戦う事となるだろう。
賊は不利だとみれば、降伏を願い出る事になるだけだ。
それだけでは敵をのさばらせ、禍を長引かせてしまい良計とはとても言えない」
朱儁は天下が混乱していた秦末期の項羽の状態を例に出し、韓忠の降伏を許さなかったわけです、
朱儁は韓忠が籠る、宛城に攻撃を仕掛けてきました。
しかし、韓忠は朱儁の攻撃を寄せ付けず、撃退する事に成功します。
韓忠は降伏が許されなかった事で、10万の兵と共に必死で防戦したはずです。
韓忠の最後
朱儁は土山に登り韓忠が籠城する城内を観察しました。
朱儁は韓忠らを死地に追い込んでいる事を悟ります。
城内の観察が終わると、朱儁は包囲を解き、韓忠は城から打って出ますが、朱儁に急襲され大敗を喫する事となります。
韓忠の兵は総崩れとなり退却しますが、朱儁の追撃により1万余りの兵が討ち取られました。
韓忠は朱儁に降伏する事となります。
韓忠は降伏しますが、官軍では黄巾賊に対する怒りが積もっていました。
秦頡は韓忠を見ると、いきなり殺害してしまったわけです。
これにより韓忠は最後を迎えました。
尚、韓忠が殺害された事を知った黄巾賊たちは「自分達も殺される」と思ったのか、孫夏を立てて乱を継続しています。
再び黄巾賊は宛城に籠りますが、朱儁は孫夏を急襲し討ち取り、これにより南陽黄巾賊は壊滅しました。