慶舎は、司馬遷が書いた史記の趙世家にも名前があり、史実でも確認が取れる実在した人物です。
キングダムでは本能型の優れた武将と言う事になっています。
「沈黙の狩人」の異名と取り李牧が相手でも、模擬戦で勝利した事もありますし、桓騎を翻弄するなど秦を苦しめていますが、最後は李信に討ち取られています。
しかし、これは史実ではありません。
史実の慶舎ですが、どこで死亡したのかも記録がありませんし、史記では2行しか実績が書かれていない将軍なわけです。
今回は、史実の慶舎がどのような人物だったのか解説します。
尚、当たり前ですが、慶舎が本能型の武将だったという記述もありません。
これに関しては、キングダムのオリジナル設定で、麃公にしても本能型の武将だったという記述はないわけです。
慶舎と楽乗で信梁軍を破る
史記の趙世家では、紀元前256年の趙の孝成王の10年に慶舎と楽乗で、秦の信梁軍を破ると記述があります。
ただし、どこで慶舎と楽乗が信梁軍を破ったのかは記載がありません。
前年に当たる紀元前257年は、秦が趙の首都である邯鄲を王齕(おうこつ)が攻めていましたが、落とす事が出来ずに撤退した年でもあります。
王齕は、邯鄲に猛攻を仕掛けましたが、平原君を中心とした趙の守りが堅く手こずっているうちに、魏の信陵君、楚の春申君が援軍としてやってきて、秦を打ち破ったからです。
趙は、長平の戦いで白起に40万も生き埋めにされてしまった事から、野戦を挑むだけの兵の余裕はなかったと思われます。
そのため、秦の信梁軍は、王齕と連動して別方面で趙を攻めたが、慶舎と楽乗の軍が城を守り切り、撤退する所を追撃して勝利を収めたのかも知れません。
当時は通信機能も発達していませんので、王齕が撤退するタイミングとタイムラグが起きてもおかしくはないからです。
その関係で1年のずれが生じて、邯鄲の戦いの敗北を知り撤収したところを追撃された可能性もあります。
ただし、王齕と信梁が同一人物だとする説もあり、同一人物説を取るのであれば、邯鄲の翌年も秦の王齕は趙を攻めたが、慶舎と楽乗に敗れた事になります。
この辺りは、記述が一行しかないので、想像に任せる以外に慶舎の実績を探る事は出来ません。
趙は紀元前260年の長平の戦いで、趙の名将廉頗が更迭され、趙括が白起に趙軍40万を失う大敗北を喫しています。
邯鄲籠城戦では、秦軍を撃退したからと言って、趙は苦しい立場であり、その中での慶舎の勝利は賞賛する事だと考えています。
その後、暫く慶舎に記録は途絶えます。
追記
紀元前256年は、秦の将軍である摎が趙から20県を奪い9万人を斬首した年でもあります。
それを考えると、秦は邯鄲に攻め寄せた次の年も摎に命じて、趙を攻撃させたのかも知れません。
さらに、西周君や赧王は諸侯と同盟を結び、秦に害を与えようとした記録もあります。
摎は、西周を攻撃しようとすると、西周君や赧王は土地を全て秦に献上して、周王朝は事実上の滅亡を迎えています。
それらを考えれば、秦は趙や諸侯に対して、多方面に軍を展開し、勝利を収めた部分もあれば、慶舎や楽乗と対峙し敗れた軍もあったのでしょう。
しかし、慶舎の記録は史記にもありますし、信梁軍を破ったのは事実だと考えられます。
※注意・ここで言う西周は周の東遷後に東周が東西に分裂した西周を指す。周の東遷前に天下を運営していた西周王朝とは別。
黄河の橋を守る
悼襄王の5年である240年に突如として、慶舎の記録が再び出て来ます。
この16年間の間に、慶舎が何をしていたのかは一切不明です。
史記の趙世家によると、東陽と河外の兵士を率いて黄河の橋を守ったとあります。
これだけでは、何のために守ったのかすら意味が分かりません。
多分ですが、秦に対して慶舎が黄河を境界線にして、天然の地形を利用して守りを固めたと言う事でしょう。
さらに、傅抵を平邑に配置したと記述があります。
尚、前年となる悼襄王の4年である紀元前241年は春申君が合従軍(楚・趙・韓・魏・燕)を率いて、秦の函谷関を攻めた年でもあります。
紀元前241年は函谷関の戦いがあり、一大決戦が行われたとも考えられます。
連動したかのように、趙の龐煖が秦の蕞(さい)を楚・趙・魏・燕の精鋭を率いて攻めたが抜けなかった年です。
蕞の戦いは、龐煖率いる合従軍の精鋭部隊が、秦の咸陽間近まで攻めたが、春申君が函谷関で敗れた為に、龐煖が撤退したとも考えられます。
秦の攻撃が失敗に終わると合従軍は、反転して斉を攻めて饒安を抜いています。
これらを考えると、合従軍は解散してそれぞれの国に戻ったが、秦に対しての備えとして慶舎を配置したのかも知れません。
それか合従軍の趙軍にあって、殿を務めたのが慶舎の可能性もあるでしょう。
先ほど、お話ししたように傅抵は、平邑に配置された記録があります。
平邑は、斉の首都である臨淄の南方にあり、かつては趙の恵文王の時代に藺相如が兵を率いて進軍した記録もあります。
それを考えれば、斉への備えとして平邑に傅抵を配置した可能性もあるでしょう。
慶舎も秦軍の殿を任されたとすれば、登場しなかった16年間の間に、幾つもの戦場を駆け抜けてベテラン将軍になっていたのかも知れません。
それが評価となり黄河の守備を任された可能性も十分にあります。
慶舎の最後
慶舎の最後ですが、史実では全く記録がないので分かっていません。
キングダムでは、黒羊丘で信(李信)に討ち取られて死亡した事になっています。
しかし、史記にも戦国策にも、諸子百家の書物にも、黒洋の戦いは記録がありません。
そのため、キングダムのオリジナルの戦いになるはずです。
それを考えると、慶舎がいつ死んだのかは全く分かりません。
尚、慶舎の最後の記録である紀元前240年は、秦でハレー彗星が観測された記録が残っています。
慶舎も秦に近い黄河の付近にいたわけですから、ハレーすい星を目撃した可能性は十分にあります。
彗星というのは、三国志の諸葛亮が自分の死を予言したように、縁起がよいものではなかったはずです。
ハレーすい星を慶舎は目撃した事で、自分の死が近いのでは?と思った可能性もあるでしょう。
実際に、この年に亡くなったのは、秦で長く将軍を務めた蒙驁(もうごう)、嬴政(始皇帝)の祖母にあたる夏后、陰陽家の鄒衍(すうえん)などがいます。
しかし、慶舎の死は確認する事が出来ませんでした。
尚、紀元前228年に秦の王翦、楊端和、羌瘣が趙の首都邯鄲に進撃し、趙の幽穆王が東陽に逃亡した話があります。
それを考えると、趙の幽穆王は慶舎を頼って逃走したが、慶舎は趙の幽穆王を守る事が出来ずに、結局は、趙の幽穆王も慶舎も捕らわれたのかも知れません。
この辺りは想像でしかものを言う事が出来ない状態です。
慶舎の子孫が三国志などで登場していれば面白いかな?とも思ったのですが、三国志で「慶」を性とする将軍はいないようです。
そのため、慶舎は死だけではなく子孫がどうなったのか?も分からない人物です。
尚、慶舎の「慶」は斉の有力貴族である慶氏と関係があるのかも知れません。
後に、燕の太子丹の希望により秦に派遣された荊軻は、斉の慶氏の出身だと言う説もあります。
それを考えると、慶舎と荊軻は先祖は斉の慶氏の出身だった可能性もあるでしょう。
慶舎は名将と呼べるのか?
史実の慶舎が名将と呼べるか?を考えてみたのですが、やはり名将とは言えないようです。
史実では、趙に三大天という役職はありませんが、あったとしても三大天には入れなかったでしょう。
ただし、司馬尚も三大天に入れるのか?と言われたら、史実の実績では難しいと言えますが・・・。
慶舎は戦いに敗れ去った記録はありませんが、そもそも総大将として戦った記録が楽乗と共に信梁軍を破った記録しかないわけです。
1回の戦いに勝利しただけでも、名将と呼ばれる人はいますが、慶舎の場合は規模が小さすぎてしまい名将とは呼べないと考えています。
戦国七雄の名将と言えば、白起、王翦、李牧、廉頗、楽毅などを挙げる事が出来ますが、これらの人物と比べると、慶舎は大きく見劣りがするとも感じました。
さらに、趙は燕などに対しては、領土を奪っているわけですが、秦に対しては不利な戦いを強いられています。
慶舎の最後の記録を見ると、秦方面の司令官だった事が分かります。
それらを考慮すると、秦を相手に苦しい戦いを強いられていたのかも知れません。
ただし、趙の孝成王の時代は、廉頗が燕と戦い60万の敵を破った記録があります。
その戦いに慶舎も参加した可能性はあると感じます。
しかし、如何せん史実の内容が少なすぎてしまって、どうなったのか不明な部分が多すぎると感じました。
これを考えれば、キングダム作者の原泰久先生の頭の中の膨大な頭脳は凄まじいと思いました。
2行で片付けられてしまう将軍に命を吹き込み、本能型という個性も出してしまうからです。
キングダムの壮大なドラマを見ていると、つくづく凄いと感じずにはいられません。