名前 | 黄権(こうけん) 字:公衡 |
生没年 | 生年不明ー240年 |
時代 | 後漢末期、三国志、三国時代 |
主君 | 劉璋→劉備→曹丕→曹叡→曹芳 |
一族 | 子:黄崇、 |
年表 | 214年 偏将軍に任命される |
219年 漢中争奪戦 | |
222年 夷陵の戦いで魏に降伏 | |
239年 車騎将軍に任命される | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
黄権は正史三国志に登場する人物です。
正史三国志では黄権の伝があり、陳寿から主人公の一人として選ばれた人物でもあります。
黄権は劉璋から劉備、曹丕と主君は代えていますが、決して主君を裏切ったわけではなく、むしろ忠義の武将だと言えます。
因みに、黄権は軍事にも明るく軍師と言っても差し支えない存在です。
さらに言えば、黄権は言葉を飾らず相手に対して気を使った発言はしませんが、思った事を正直に伝える誠実さを持っているとも感じました。
黄権は蜀と魏に仕えていますが、正史三国志では蜀書の中に記述があり、蜀の武将として扱われています。
黄権の心は魏に移った後も、何処か蜀にある様な気がしてなりません。
陳寿は黄権の事を「黄権は度量が深くして思慮深い」と評価しています。
正史三国志の黄権伝は蜀書・黄李呂馬王張伝の中にあり下記の人物と共に収録されています。
劉璋に仕える
正史三国志の黄権伝によると、黄権の字は公衡であり、益州巴西郡閬中県の出身だと伝わっています。
黄権は若い頃から郡吏となり、益州牧の劉璋が召し出し主簿となります。
これらを見ると順調に出世を重ねているように見え、黄権は才覚だけではなく名士として家柄も良かったのではないか?とも考えられています。
西暦211年に曹操が漢中を狙っているとの情報があり、劉璋配下の張松は荊州の劉備を呼び寄せ漢中の張魯を討伐すべきだと述べました。
この時に黄権は、次の様に述べ劉璋を諫める事になります。
※正史三国志 黄権伝より
黄権「左将軍(劉備)の勇名は天下に鳴り響いております。
左将軍を招き入れて部将として扱えば、その心を満足させる事は出来ません。
賓客の礼を以って左将軍を招けば、一つの国に二人の主がいる事になってしまいます。
客人が泰山の様に安全であるのならば、主人は卵を積み重ねた時の様に危険なのです。
それならば、ひたすら国境を閉じて黄河が澄んで来るのを待ち、状況の変化に応じて事を起こした方がよいでしょう」
黄権は王累、劉巴などと共に、劉備を益州に招き入れるのを反対しました。
しかし、劉璋は黄権らの意見を却下し法正や孟達に兵を付けて劉備への迎えとしています。
この時に黄権は何度も諫め劉璋は黄権を「煩い奴」と思ったのか、広漢の長に任命しました。
劉璋にしてみれば近くに黄権がいたら、劉備との会見が上手く行かなくなると考え、広漢県の長に任命し遠ざけたのでしょう。
尚、三国志演義では黄権は劉璋を制止する為に衣服に噛みつき、歯が折れてしまった話がありますが、これは事実ではありません。
三國志演義での劉璋と黄権のやり取りで歯が折れてしまう経緯は、春秋戦国時代の燕王喜と将渠のやり取りをモデルにした様に感じました。
劉備に仕える
劉備は益州に入りますが、黄権が予測した通りに、劉備は劉璋に牙を向ける事になります。
劉璋軍は雒城組の劉循、張任などが劉備軍の龐統を討ち取るなどの功績もありましたが、荊州からの諸葛亮、張飛、趙雲などの援軍もあり、全体的には不利で各地で押されていました。
こうした中で黄権は城を堅守しています。
しかし、成都にいた劉璋が簡雍に説得され劉備に城を明渡すと黄権も降伏しました。
この時に、旧劉璋配下の者では董和や李厳なども劉備の配下となったわけです。
劉備は黄権を重用し偏将軍の地位を与えています。
正史三国志の裴松之が残した注釈には、この時の徐衆の評があり、次の様なものとなっています。
※正史三国志 黄権伝・徐衆の評
主君(劉璋)に対し忠義を尽くして諫言し、城を堅守した黄権の行動は主君に仕える礼に適っている。
周の武王は車を降りて比干の墓土を高くし、商容の郷里を表彰した。
これらの忠賢の者を表彰する行為は、何が大切だと考えているかを、はっきりと示す為である。
先主(劉備)が黄権に将軍の地位を与えたのは立派な事ではあるが、それでもまだ軽すぎる。
高き操とし忠義を讃え善行を為す者の心を激励するには、不十分だと言える。
徐衆は劉備が黄権を好待遇で迎えた事は認めましたが「まだまだ待遇が不十分」だと述べたわけです。
黄権の劉璋への態度は世間からも大きく評価されていたのでしょう。
逆に、劉備に内通していた法正や孟達などが、臣下としての態度ではないと断じられていたのとは、対照的だと言えます。
因みに、徐衆の評で名前が挙がった比干と商容は、司馬遷が書いた史記にも登場し、殷の紂王を諫めた人物として有名です。
漢中を支配
西暦215年に曹操は漢中の張魯を討伐しました。
張魯の弟の張衛も陽平関の戦いなどで奮戦しますが、結局は破れ張魯も巴西に逃亡する事になります。
張魯が巴西にいる事を知った黄権は、劉備に次の様に進言しました。
※正史三国志 黄権伝より
黄権「漢中の地を失ってしまいますと、三巴の力が弱まってしまいます。
これでは、蜀の地を弱める事になるはずです。」
劉備は黄権の進言を聞くと、黄権を護軍に任じ諸将を率いて張魯を迎えさせたとあります。
しかし、張魯は閻圃の進言もあり、南鄭に引き返し曹操に降伏しました。
張魯が曹操に降伏した事で、黄権は蜀の地に戻る事になります。
この後に劉備は漢中の地を手に入れる為に、法正、張飛、馬超、張飛らと北上しますが、この中には黄権の姿もあったわけです。
漢中争奪戦と言えば、法正と黄忠の活躍により、定軍山の戦いで夏侯淵を斬った事が有名だと感じます。
しかし、漢中争奪戦では黄権も手柄を立てており、杜濩、朴胡、袁約を撃破したとあります。
尚、この時に王平が魏から蜀に移る事になります。
因みに、漢中争奪戦では、次の記述も存在します。
※正史三国志 黄権伝より
漢中を支配する事が出来たのは、全て黄権がもともと立てた計略にそったものであった。
上記の記述を見ると、黄権が漢中争奪戦においての作戦立案において大きく貢献した事が分かるはずです。
漢中争奪戦と言えば、作戦立案は法正がやったと思われがちですが、実際には黄権も大きく関わっていたのでしょう。
法正は漢中争奪戦の最大の山場でもある定軍山の戦いにおいて、夏侯淵を討つタイミングを見計らい黄忠に攻撃させた事で、中心人物だと考えられがちなのではないかと感じました。
夷陵の戦い
呉の討伐を決定
劉備は漢中王に即位し、益州牧も兼任する事になり、黄権は治中従事となります。
しかし、関羽が樊城の戦いで破れ、呉の呂蒙に討たれ荊州を取られてしまいました。
西暦221年に劉備は帝となりますが、この時に黄権も張裔、楊洪、殷純、糜竺、諸葛亮らと共に劉備が帝位に就くように勧めています。
蜀漢の皇帝となった劉備は「関羽の敵討ち」と称し、呉に出兵する事になります。
劉備の呉討伐においては多くの臣下が反対した話もありますが、劉備は実行し黄権も軍に同行しました。
黄権は呉への討伐軍に参加してはいますが、劉備の呉討伐に関しては賛成だったとも反対だったとも記録がなく分からない状態です。
しかし、呉への出兵が黄権にとってのターニングポイントとなりました。
ここにおいて夷陵の戦いが勃発する事になります。
魏軍への備え
黄権は呉に侵攻する時に、劉備の次の様に意見しました。
※正史三国志 黄権伝より
黄権「呉の人々は勇敢であり好戦的な上に、水軍は流れにそって下流に降っていきます。
我が軍は進むのに難しく、退くのにも難しくなるでしょう。
私を先鋒に命じ敵の力量を試させてください。
陛下は後詰となるのが宜しいかと存します」
しかし、劉備は黄権の意見を聞かず、黄権は鎮北将軍に任命し、江北の軍を指揮させ龐林らと共に魏軍への備えとしました。
過去に劉璋は諫言する黄権を外に出し、劉備に益州を奪われた事がありますが、今度は劉備が同じ様に黄権を外に出してしまったとも言えます。
この当時の劉備陣営のおいて最も軍略に明るいと思われるのが黄権であり、こうした人材を劉備は自ら外してしまった事になるはずです。
魏に降伏
孫権は陸遜に命じて蜀軍を防がせました。
蜀と呉の夷陵の戦いでは、陸遜の大規模な火計により劉備軍は壊滅する事になります。
陸遜は長江の流れに沿って蜀軍を打ち破った事で、南にいた劉備の軍勢は後退し、魏に備える為に北にいた黄権の軍は孤立する事になりました。
この時には呉軍により道路は遮断され、黄権は蜀に帰る事が出来なくなっていたわけです。
黄権は蜀への帰還は不可能だと考え、黄権は龐林や配下の者達と共に魏に降伏しました。
夷陵の戦いで劉備は完膚なきまでに敗れ去り、黄権は結果として魏に移る事になります。
黄権が私を裏切ったのではない
劉備は戦いに敗れ永安にいたわけですが、担当官吏が法をたてに取り黄権の家族を逮捕したいと劉備に述べた事があります。
蜀の法律では他国に降った者に対し、家族が処罰される法律になっていたのでしょう。
しかし、劉備は次の様に述べて、黄権の家族を逮捕する事を許しませんでした。
※正史三国志 黄権伝より
劉備「私が黄権を裏切ったのであり、黄権が私を裏切ったのではない」
劉備は黄権の家族を処罰せず、依然と同じ待遇で扱ったと記録されています。
劉備に取ってみれば「黄権の言う事を聞いていれば、こんな事にはならなかった」というのが頭にあったのでしょう。
袁紹が官渡の戦いで敗れた後に、田豊を殺害してしまった事と比較すると、劉備の人間性の高さが分かる逸話でもあります。
尚、劉備の黄権に対する態度は裴松之も称賛しており、漢の武帝が李陵の一族を処刑した事と対比し「二人の君主の得た者。失ったものの差は大きい」と述べています。
余談ですが、劉備が永安にいる時に、馬忠で面会した話があり「黄権を失ってしまったが馬忠を得た」と喜んだ話があります。
劉備が黄権に匹敵する才覚があると判断した馬忠は、南征において活躍を見せる事になります。
曹丕と黄権
黄権は魏に降伏したのであり、魏の皇帝曹丕に謁見しました。
この時に、曹丕は黄権に次の様に述べています。
※正史三国志 黄権伝より
曹丕「其方が逆臣の立場を捨てて善良なる臣下となったのは、陳平や韓信に追従する行為なのか」
曹丕は劉備を逆賊扱いし、楚漢戦争で項羽の配下から劉邦の配下に移った陳平や韓信と同じ行動なのか?と問うた事になります。
曹丕の言葉からは、蜀ではなく魏に仕えるのが正しき道だと述べた事になるでしょう。
これに対し黄権は次の様に述べました。
黄権「私は劉主から過分なる待遇を受けておりました。
それ故に呉に降伏する事は出来ず、蜀に帰る道もなく、魏に帰順しただけの事です。
敗軍の将は死を免れる事が出来れば幸運であり、どうして個人を慕う様な事が出来までしょうか」
黄権は魏へ降伏した心情を正直に曹丕に伝えた事になるでしょう。
曹丕は黄権の受けごたえに感心し、鎮南将軍に任命し育陽侯に封じ侍中の官を加え自分の車に同乗させた話があります。
劉備は黄権を鎮北将軍に任命したのに対し、曹丕が鎮南将軍に任命したのは面白いと感じました。
悪い噂
魏に降伏した蜀の人で「黄権の妻子が処刑された」と述べた者がいました。
この時に漢魏春秋によれば、曹丕は詔を出して喪を発表する様に命じたとあります。
しかし、黄権は蜀にいる妻子が劉備に処刑されたとは思えず、次の様に述べています。
※漢魏春秋より
黄権「私と劉備や諸葛亮は誠実さを持ち親しんだ仲でした。
劉備や諸葛亮なら私の本心を知っているはずであり、情報自体が疑わしくまだ事実だと決まったわけではありません。
もう少し後の知らせを待たせてください」
黄権は劉備や諸葛亮が自分の妻子に手を掛ける事はないと信じていたわけです。
実際に、劉備や諸葛亮が黄権の妻子を処刑した事実はなく、黄権の妻子は処刑されてはいませんでした。
曹丕のドッキリ
西暦223年に劉備が白帝城で亡くなった話が、魏に入ってきました。
この時に魏の臣下達は祝賀の言葉を述べましたが、黄権は劉備の死を祝おうとはしなかった話があります。
黄権にとっては劉備は信頼できる人であり、元主君である劉備の死を祝おうとは思わなかったのでしょう。
曹丕は黄権の器量を知っていましたが、劉備の死を祝おうとしない態度を見て悪戯を思いつきます。
曹丕は黄権を驚かせてやろうと考え、黄権の元に側近を送り「出頭せよ」と勅命を下しました。
さらに、黄権が到着するまでの間に、何度も催促の使者を出します。
この時は馬に乗った使者が多く道路に出た事で、道路が入り乱れた話まであります。
曹丕は劉備の死を喜ばなかった黄権の態度を不快に思い「自分が黄権に対し怒っている」と思わせたかったのでしょう。
今でいう「ドッキリ」を黄権に仕掛けた事になります。
黄権の属官や侍従などは恐れおののきますが、黄権だけは立ち振る舞いや顔色も普段通りだったとあります。
黄権は曹丕に呼び出されても、驚く事もなく普段通りであり、曹丕のドッキリは失敗に終わりました。
黄権の沈着冷静さが分かる逸話でもあります。
どの国家が正当か
黄権伝の注釈の蜀記によれば、魏の曹叡が「天下は三国鼎立状態だが、どの国家が正統であろうか」と黄権に問うた話があります。
黄権は次の様に答えました。
※蜀記より
黄権「天文に従い正統性は見極めるべきです。
近頃、螢惑が心星に留まりました。
この時に文皇帝(曹丕)が崩御されましたが、呉と蜀の君主には何もなかったと聞いております。
これこそが証拠となります。」
普通であれば皇帝の曹叡の事を鑑みて「漢から正式に禅譲が行われた魏が正統です」と言っても良さそうなものですが、黄権は正直に思っている事を述べたのでしょう。
黄権の人柄が分かる逸話だと感じました。
司馬懿に高く評価される
黄権は魏の益州刺史となり、江南尹にまでなったと伝わっています。
司馬懿も黄権の事を高く評価した話があり「蜀にはあなたの様な人材がどれ程いるのだろうか」と問うた話があります。
黄権は司馬懿の問いに対し、次の様に答えました。
※正史三国志 黄権伝より
黄権「明公のご愛顧が、そこまで深いとは思いませんでした」
この時の黄権は笑って答えたと言われています。
司馬懿は諸葛亮に手紙を送っており、次の様にも述べています。
司馬懿「黄公衡(黄権)は快男子であり、いつも足下の事を賛美し話題にしております」
諸葛亮と司馬懿という三国志の二大巨頭にも黄権は評価されたというべきでしょう。
黄権の最期
黄権は239年に車騎将軍となり儀同三司に昇進した話があります。
黄権が魏に移ってからの功績は不明ですが、車騎将軍になったと言う事は、魏の将軍位の中で大将軍、驃騎将軍に次ぐ役職となります。
それを考えると黄権はかなり出世したと言えるでしょう。
劉備陣営から魏に移った武将としては徐庶なども有名ですが、徐庶よりも黄権の方が遥かに出世しました。
因みに、239年の1月に魏の皇帝である曹叡が亡くなっており、この時は曹芳の時代になっていたはずです
しかし、黄権は翌年である240年の4月に没する事になります。
黄権が車騎将軍になった事を考えれば、絶頂期で黄権は亡くなったとも言えます。
黄権は景侯と諡されました。
楊戯の季漢輔臣賛には黄権に対し、次の様な言葉が述べられています。
鎮北将軍(黄権)は鋭敏な頭脳の持ち主であり、策略は筋道が通っていた。
軍を指揮すれば悪者を打ち破り任務を遂行し素晴らしい功績を挙げた。
しかし、東の地を任され晩年は不遇であった(魏に移った事を指す)。
本来の希望を満たす事が出来ず、異国を彷徨う事になったのである。
黄公衡を讃う
楊戯は蜀の人間であり、黄権が魏に移ったのは不幸だったと述べた事にもなります。
黄権が亡くなると子の黄邕が後を継ぎますが、黄邕には子が無かった事で断絶したとあります。
尚、黄権が蜀に残した子では黄崇がおり、綿竹の戦いで諸葛瞻と共に戦いますが、鄧艾に敗れ亡くなっています。