匡奇城の戦いは北方制圧も視野に入れた孫策と南方への進出を志す陳登との戦いです。
陳登は父親の陳珪と共に、名士、文官などのイメージが強い様に感じています。
それに対し、孫策は父親の孫堅同様に勇猛な人物として名が馳せた人物です。
この二人の勢力が激突したのが、匡奇城の戦いとなりますが、実際には孫策は戦いに参加しておらず、指揮を執ったのでは孫権だったのではないか?とする説や匡奇城の戦いは2度あったのではないか?など色々と言われている状態です。
しかし、実際の匡奇城の戦いは陳登は寡兵でありながらも、陳登の策や勇猛さで呉軍を退けました。
尚、孫策は曹操と袁紹が官渡の戦いで争っている隙に、許都を奪おうと考え、その途上で許貢の食客に殺害されたとも言われています。
江表伝の記述に従えば、孫策は陳登を討ちに北上する時に暗殺された記述もあり、匡奇城に向かう途中で命を落した可能性もあるはずです。
深まる対立
先賢行状によれば、陳登は長江や淮水の流域で人気があり、江南を併呑するという野心を持った話があります。
当時の揚州では孫策が劉繇、厳白虎、陳瑀、許貢、王朗を破るなど、急激に勢力を拡大させていました。
匡奇城の戦いの前にも、孫策は西塞山の戦いで劉勲を駆逐し、沙羨の戦いでは黄祖を破っています。
江表伝によれば、陳登は陳瑀の従兄の子であり、陳瑀が孫策に敗れた恥辱に報いようと考えていたとあります。
陳登は孫策の後方を攪乱する為に、厳白虎の残党に印綬を与えました。
孫盛の異同評によれば、陳登は孫策の重要拠点にくさびを打つ形になっており、両者の対立は深まっていたのでしょう。
孫策の軍が北上
正史三国志の呂布臧洪伝の注釈、先行賢状によると孫策が軍隊を派遣し、匡奇城にいた陳登を攻撃したとあります。
孫策は軍隊を派遣したとは書かれていますが、自ら指揮を執ったとは書かれておらず、孫策は匡奇城の戦いには参加していなかったとも考えられます。
それどころか、江表伝によると、陳登を討つために孫策は北上し、許貢の食客により命を落した事になっています。
それを考えると、孫策は匡奇城の戦いの前に、亡くなっていた可能性すらあるように思います。
それに対し、正史三国志の陳矯伝によれば、次の記述が存在します。
※正史三国志陳矯伝本文より
郡が孫権の攻撃を受け匡奇で包囲され、陳登は陳矯に命じて太祖に救援を要請させた。
陳矯伝の記述に従えば、匡奇城が孫策ではなく、孫権の攻撃を受けた事が分かります。
これに対しては3つの説があり、1つは陳矯伝にある孫権の記述が孫策の間違いだというものです。
2つめの考え方が、孫権は孫策の先鋒隊であり、後詰として孫策の軍がやってくる手筈になっていたというものです。
他にも、匡奇城の戦いは二度あったのではないか?とする説もあります。
陳矯伝の記述だと、何年の事なのか書かれておらず、どれが正しいのかは分からない状態です。
しかし、呂布臧洪伝の注釈・先賢行状伝には、この戦いでの陳登の優れた計略や勇猛さが記録されています。
陳登の覚悟
孫策の軍は匡奇城に向かって進軍しますが、陳登の軍は少なく孫策軍が兵力では圧倒していました。
先賢行状の記述によれば、孫策軍の軍旗が水面を覆いつくしていたとあり、匡奇城から見ればかなりの数だったのでしょう。
さらに言えば、水面という記述から、孫策の軍が水軍を率いてからの侵略だった事が分かります。
こうした中で陳登の部下は「敵軍は我が軍の10倍の兵がおり、抵抗するのは不可能」だと述べ、軍隊を引き揚げて空になった城を与えるべきだと告げました。
陳登の部下は「水に慣れた者が陸に上がれば長くとどまる事は出来ず、やがて退去する」と述べたわけです。
ある意味、楽観論でもありますが、陳登の部下は孫策の軍との決戦を避ける様に進言しました。
しかし、陳登は別の考えをもっており、声を荒げて次の様に述べています。
※先賢行状より
陳登「私は国家の命を受けて、この地の抑えとしてやってきたのである。
馬援はこの地位(伏波将軍)に任命された時に、南方では越の国々を平定し、北方では多くの夷狄を討ち滅ぼしている。
私は凶悪な者どもを撃退してもいないのに、どうして敵の前から逃げる事が出来ようか。
私は命を投げ出し、国家に恩返しを行い正義をもって動乱を鎮める事を願っておる。
天道は正義に味方するものであり、必ずや勝利を得られるはずだ」
陳登は国家への忠義心を口に出し、匡奇城からは退去しない事を宣言しました。
陳登は城門を閉じて城の防備を固めました。
ただし、陳登は自らの軍を弱く見せて戦おうとせず。将兵には声を出させ、ひっそりとして匡奇城に人がいないのではないか?と思わせたわけです。
陳登としては、匡奇城で城を撃退するというよりは、寡兵でも敵の油断を突き戦いに勝利したいと考えていたのでしょう。
尚、陳登の口から馬援の名前が出たのは、この時に陳登自身が馬援と同じ伏波将軍に任命されていたからだと考えられます。
馬援は後漢王朝を建国した光武帝配下の光武二十八将にも数えられる名将です。
因みに、陳登が伏波将軍に任じられたのは、曹操と呂布との間で起きた下邳の戦いで功績があったからです。
下邳の戦いで呂布は滅びますが、この戦いが終わったのが199年の2月ごろであり、匡奇城の戦いが起きたのが199年の2月以降だという事が分かります。
最初の勝利
陳登は匡奇城の城壁に登り敵を見ると「攻撃する好機」だと判断した話があります。
陳登が匡奇城に人がいない様に見せた事で、孫策の軍に油断が生じてしまったのでしょう。
陳登は部下の将兵に命令を出し、夜の間に武器の整備を行わせ、夜明けに南門を開き軍を率いて敵軍の陣営に至りました。
匡奇城の兵は歩兵や騎兵に呉軍の背後から襲わせたとあります。
呉軍は楽勝ムードだったのか、敵軍の襲来に驚き船に戻る事も出きなかったとあります。
陳登は自ら陣太鼓を打ち鳴らし、混乱につけ込み兵を放ちました。
陳登は孫策の軍を散々に打ち破り、敗れた敵兵は船を置きざりにして逃走したとあります。
匡奇城の兵は追撃を行い万単位の敵兵を討ち取りました。
敵軍は万単位の兵を失った事に激怒し、退去して陳登の軍に攻撃を仕掛けてきます。
援軍要請
呉の大軍を相手に、匡奇城の守備兵だけでは持ちこたえる事が出来ないと判断した陳登は、功曹の陳矯を曹操の元に派遣しました。
陳登は曹操に援軍要請をしたわけです。
匡奇城の戦いで、陳登が陳矯を曹操に派遣した記述に関しては、正史三国志の陳矯伝と先賢行状の記述が重なります。
陳矯伝の記述に従えば、孫権の攻撃を受けた匡奇城で城主の陳登の命令で、陳矯は曹操の元に向かい次の様に述べた事になります。
※正史三国志 陳矯伝より
陳矯「我が軍は小さくはありますが、地形の上で有利な国でもあります。
救援して外藩にして頂ければ、呉の人々の計画を挫く事が出来ます。
そうすれば徐州の地方は永久に安定しますし、武勇の評判は遠方まで轟き、仁愛は豊かに流れ、まだ服従していない国々は遥か遠くより仰ぎ従い、影の如くより沿って参ります。
さすれば、徳を高め威光を養う事になるでしょう。
これこそが帝王の業というものです」
陳矯の言葉が巧みだったのか、曹操は陳矯を高く評価し、自分の元に止めて置こうとしました。
しかし、陳矯は辞退し、次の様に述べています。
陳矯「本国が危急を告げ、私を使者として駆けつけたのです。
たとえ、申胥の功績がなかたっとしても、あえて弘演の義信を忘れ得ましょうか」
陳矯は曹操に匡奇城に戻る事を告げました。
陳矯の口から出た申胥(申包胥)は楚の臣下であり、呉の重臣となっていた伍子胥の友人です。
伍子胥は楚の平王を恨み、呉に亡命し後に呉王闔閭と共に、楚を攻撃し滅亡寸前まで追い詰めています。
楚は滅亡寸前となりますが、申包胥は秦への援軍の使者となり、秦の哀王に誠意を見せ援軍を引き出し、呉軍を破ったものです。
弘演は無道な君主であった衛の懿公に仕えますが、衛の滅亡後に誠意を見せた事で、春秋五覇の斉の桓公の心を掴み、衛の国は復興しました。
陳矯も誠実さと義信により、匡奇城に戻りたいと述べた事になるでしょう。
曹操は陳矯の言葉に感じ入る部分があり、救援の軍を出したわけです。
ただし、当時の曹操は北方で公孫瓚を滅ぼした袁紹との戦いが、近づいてた時期でもあり、匡奇城に多くの兵は出せなかったはずです。
それでも、陳矯を評価し陳登が呂布討伐で活躍した事もあり、匡奇城への援軍を了承したのでしょう。
戦いの結末
匡奇城の方では陳登が策を弄する事になります。
陳登は密かに兵を城から十里の地点に陣営を多く作りました。
十里の外に作った陣営では、芝や薪を多く用意させ二束ごとでに山にさせ、それらを十歩ずつ離し、縦横に設置しました。
夜になると柴や薪に火を点け、火は山に燃え移る事となります。
このタイミングで匡奇城内から万歳を唱えました。
呉軍から見れば、大軍が到着した様に見えた事で大混乱に陥りました。
陳登は敵が混乱し逃走を始めた事を知ると、兵を出し首級一万を挙げたとあります。
これにより匡奇城の戦いは、陳登の勝利に終わったわけです。
匡奇城の戦いに関して
先賢行状の記述に従えば、呉軍はいいところなく敗れたという事なのでしょう。
ただし、先賢行状の記述に従えば、呉の軍勢は数万の軍を失う大敗北になった事になります。
しかし、この後に孫策が亡くなっても、呉の軍勢は黄祖を攻めたり、山越の討伐を行っており、先賢行状の陳登の記述は、話を盛り過ぎている様にも感じました。
それでも、国淵伝にある様に、倒した敵の数を盛るのが普通であり、匡奇城の戦いの記述は、それに従い数を10倍にしたのでしょう。
ただし、正史三国志に書かれている事もあり、匡奇城の戦いは陳登が孫策の軍を破った事だけは間違いなさそうです。
尚、匡奇城の戦いを指揮した呉軍の将が孫権だとする記述もあり、孫権が後に圧倒的有利にも関わらず、張遼に大敗した姿を見ると、ありえない事でもない様に感じています。