古代日本 天皇の治世

纏向遺跡は卑弥呼の都だったのか!?

2023年12月18日

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宮下悠史

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名前纏向遺跡(まきむくいせき)
場所奈良県桜井市
時代崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇(日本書紀)
コメント邪馬台国卑弥呼がいた場所ともされている

纏向遺跡は奈良県桜井市にある弥生時代後期から、古墳時代前期に掛けて存在した遺跡です。

纏向遺跡の時代に、日本で最も栄えていたのが纏向であり、纏向遺跡こそが卑弥呼が都とした場所ではないか?とも考えられています。

考古学の世界では纏向遺跡こそが邪馬台国のあった場所だとも考える人が多いわけです。

しかし、日本書紀の記述を見る限りでは、纏向遺跡は垂仁天皇や景行天皇が都とした場所であり、卑弥呼が都としたとか、邪馬台国だとは書かれていません。

纏向遺跡の時代に、日本で最も栄えた場所は纏向だった事は間違いありませんが、個人的には邪馬台国が纏向遺跡だとは思えない状態です。

今回は纏向遺跡が邪馬台国や卑弥呼と無関係な理由を解説します。

倭国王と纏向遺跡

倭国王は日本で最強の勢力なのか!?

邪馬台国近畿説(大和説)を支持する人々の間で、下記の様な事が頭にあるのではないでしょうか。

卑弥呼は邪馬台国の女王であり倭国王になったのだから、日本列島で最大勢力として君臨したはずだ。

卑弥呼がいた邪馬台国が日本の最強勢力であれば、日本で最も発展している場所を探し出せば、卑弥呼がいた場所が分かるというものです。

邪馬台国の卑弥呼の時代に日本で最も栄えた場所は、纏向遺跡だという事は間違いないでしょう。

纏向遺跡が日本で最も栄えた地域だとする話を否定する人は、邪馬台国九州説、近畿説ともに殆どいないはずです。

そうなると、卑弥呼の時代に日本で最も栄えた場所が纏向遺跡だから、纏向遺跡こそが卑弥呼がいた場所となるのでしょう。

しかし、卑弥呼が倭国王に冊封された経緯を見ると、必ずしも邪馬台国が倭国最強勢力とは言えない理由も存在します。

倭国王は誰が任命したのか

卑弥呼倭国大乱から30カ国ほどを纏めて、魏に朝貢し倭国王に冊封された経緯があります。

魏に朝貢した事で、卑弥呼は倭国王となっているわけです。

卑弥呼を倭国王として任命したのは、魏の皇帝である曹叡もしくは曹芳となります。

決して、倭国の中で諸侯が集まり話し合いにより、卑弥呼が倭国王に選ばれたわけではありません。

日本列島の外にいる中華王朝の魏が卑弥呼を倭国王に任命したに過ぎないという事です。

魏が倭国王に任命するには、下記の条件は必要だと考えられます。

魏に朝貢する

倭国である程度の実力がある

魏から倭国王に冊封されるには、魏に朝貢する必要があります。

魏に朝貢しなければ、認識されず倭国王になる事は出来ません。

邪馬台国九州説に従い邪馬台国が九州にあったとして、さらに大勢力の大和王権が近畿にあったとします。

この場合は、大和王権が纏向を都として大勢力であったとしても、魏に朝貢しなければ「倭国王」に冊封される事はないでしょう。

さらに言えば、邪馬台国の傘下の国であれば、邪馬台国の卑弥呼を出し抜いて「倭国王」に冊封される事は考えられません。

尚、明の時代に南朝の懐良親王が九州で猛威を振るい一時は、九州を統一する程の勢いでした。

明は高圧的な使者を懐良親王に派遣し、懐良親王は倭寇の取り締まりを行うなどし、明から「日本国王」へ冊封されそうになりました。

懐良親王は冊封される使者が到着する前に勢力が衰えてしまいましたが、近畿に室町幕府の足利義満の勢力がいたにも関わらず、日本国王に冊封されそうになっています。

それを考えれば、魏から倭国王に冊封された勢力が日本最強だとは限らず、倭人のトップに立つ存在とは限らないはずです。

つまり、邪馬台国の時代に纏向遺跡にいた勢力が日本で最強であったとしても、魏に朝貢しなければ倭国王に冊封される事はないと考えるべでしょう。

当時の纏向遺跡の勢力が日本列島の政治、文化の中心地であったとしても、魏に朝貢し認識して貰えなければ倭国王になる事はできないという事です。

日本書紀に纏向遺跡の記述がある

邪馬台国に関しては古事記や日本書紀などにはなく、あくまでも陳寿が著した正史三国志魏書東夷伝の中に書かれているだけです。

正史三国志魏書東夷伝は別名として、魏志倭人伝の名前が付けられています。

日本書紀の第11代垂仁天皇の2年に次の様に記述されています。

※日本書紀より

冬十月 纏向に都を造り珠城宮と呼んだ。

垂仁天皇の記述を見る限りだと、纏向遺跡は垂仁天皇が都とした場所になるわけです。

垂仁天皇の前の崇神天皇は瑞籬宮を本拠地とした記述があり、纏向遺跡からは非常に近いと言えます。

ただし、纏向遺跡の様な巨大遺跡が直ぐに出来上がるものでもなく、築造が始まったのが垂仁天皇の時代なのか、ある程度完成したのが垂仁天皇の御世だったのかは不明です。

垂仁天皇の後継者になったのが、景行天皇となります。

日本書紀の景行天皇の4年に下記の記述が存在します。

※日本書紀より

冬十一月一日。天皇は美濃からお帰りになった。

纏向に都を造られた。これを日代宮という。

日本書紀の記述を見る限りでは、纏向遺跡は邪馬台国ではなく、大和王権の垂仁天皇と景行天皇が都とした場所になっているわけです。

日本書紀を見ると、纏向遺跡は邪馬台国の場所を示すのではなく、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の御世がいつ頃なのかが分かる事になります。

日本書紀では神功皇后の巻の所で卑弥呼らしき人物の事が若干ぼかしながらも記述されており、日本書紀の編集者たちも卑弥呼と邪馬台国に関してはよく分かっておらず、混乱が見受けられます。

尚、纏向遺跡と関係が深いとも考えられている箸墓古墳は、日本書紀では倭迹迹日百襲姫命の陵墓だと記録されています。

邪馬台国や卑弥呼と纏向遺跡を関係づける事は、日本書紀の記述を無視する事にも繋がるわけです。

纏向遺跡を考える上で重要なポイント

纏向遺跡を考える上で重要なポイントになるのが、下記の二点だと言えます。

大和地域の遺跡や墳墓・出土遺物が邪馬台国として相応しい内容になっているのか。

纏向遺跡には箸墓古墳など大型の墳墓が存在するが、邪馬台国と年代的に合致するのか。

纏向遺跡を上記の2点から総合的に判断し、纏向遺跡が邪馬台国なのか?を判断するのが重要と言えます。

つまりは、卑弥呼の時代と纏向遺跡の時代が合致した。

纏向遺跡こそが邪馬台国だ!と直ぐに考えてはいけないという事です。

さらに言えば、邪馬台国の所在地は北九州と大和が二大勢力であり、北九州と大和の出土物を比較する事も大事となります。

纏向遺跡は大遺跡群の一部

纏向遺跡は奈良盆地の東南部にあり、東西約2キロ、南北に約1.5キロほどの範囲で存在しています。

弥生時代の大型集落が低地部に存在したのと比べると、山の麓の方に近い位置にあると言えます。

纏向遺跡は単独の遺跡だと考えられやすいわけですが、実際には立花、柳本、黒塚東遺跡や乙木、佐保床遺跡など古墳時代初頭の遺跡と共に南北に五キロほど連なっている状態です。

纏向の地は桜井市だけに留まらず、天理市の方にも広がっており大遺跡群を形成しているのが実情となります。

さらに、纏向遺跡は複数の河川にまたがって存在していた事が分かっています。

因みに、纏向遺跡の南には芝遺跡があり、纏向遺跡と重なる部分も存在します。

芝遺跡からは弥生中期、後期、庄内期の遺構も見つかっており、これらを考えると何もない場所に突如として纏向遺跡が誕生したわけではない事も分かるはずです。

纏向遺跡の最盛期は庄内式の期から布留式の初期となります。

纏向遺跡は無防備な都市

纏向遺跡が北九州の吉野ケ里遺跡の様な弥生時代を代表する集落と決定的に違っている点があります。

吉野ケ里遺跡は弥生時代の遺跡として有名ですが、二重の環濠があるなど環濠集落となっており、敵からの攻撃を想定して造られています。

それに対して、纏向遺跡には環濠で周りを囲った様な遺跡ではなく、防御性を重視していない事が分かります。

纏向遺跡には大規模な水路遺構はあっても、環濠を持たない都市だとも言えるでしょう。

纏向遺跡は環濠集落の様な閉鎖的な場所ではなく、むしろ開放的な都市だった事になります。

尚、卑弥呼倭国大乱を経て魏に朝貢し倭国王に冊封されており、戦乱の地域にいた事となります。

卑弥呼は倭国王に冊封されてからも狗奴国との戦いは終わっておらず、卑弥呼が狗奴国との戦いで押され気味になった場合は、首都防衛戦も想定しなければならないはずです。

しかし、纏向遺跡を見ると防備が余りにも弱く、これで首都防衛が出来るのか?という疑問まで湧いてきます。

纏向遺跡を卑弥呼の都だと考えた場合に、余りにも防備に無頓着過ぎると言えるでしょう。

大規模な王宮が見つかっていない

纏向遺跡では王の宮殿と考えらえる様な建物が見つかってはいません。

ただし、纏向遺跡の整然とされた柱の跡は多くの方が知っている様に感じています。

近年では纏向遺跡の大型の建物や柵などの遺構が注目されましたが、これが大規模な宮殿かと言えば話は別です。

纏向遺跡にも大型の建物の跡らしきものは見つかっていますが、主柱の半数以上が失われており、建物の全体像に関しては不明な点が多いと言えます。

さらに、建物を囲む柵は他の遺跡の柵と比べたりすると整然とされていない部分もあります。

それを考えると纏向遺跡には王宮がまだ眠っている可能性もある事になるはずです。

箸墓古墳群

纏向遺跡には箸墓古墳が存在しており、箸墓古墳こそが卑弥呼の墓ではないか?とも考えられています。

纏向古墳群としては石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳が存在しています。

この中でホケノ山古墳以外は、埋葬物の内容が明らかになっていません。

纏向にあるホケノ山古墳に関しては、3世紀前半に建造されたと考えられています。

考古学でも古墳完成時に埋葬された土器が明らかにならないと、正確な時代は測定する事が出来ない状態です。

ホケノ山古墳らと箸墓古墳を比較すると、古墳の規模や葺石において外表部の格差があり、断絶性が見られるとする見解もあります。

纏向遺跡周辺の古墳群において、箸墓古墳に先立つ大型墳墓の実態は未だに明確になっていません。

纏向遺跡と土器

纏向遺跡を発掘して分かったのが、様々な地域から多くの土器が見つかったという事です。

纏向遺跡からは近畿では見られない様な形状の土器が見つかった事で話題になりました。

纏向遺跡に多数の地方からの土器が見つかったという事は、他地域と交流があり、他地域の者も纏向遺跡にやってきたと考える事が出来るはずです。

纏向遺跡の時代には日本列島の各地との交流が盛んになっており、その中心にいて栄えたのが纏向だとも考えられます。

纏向遺跡から発掘された搬入土器の出身地の割合は下記の様になっています。

地域割合
伊勢・東海系49%
北陸・山陰系17%
河内系10%
吉備系7%
近江系5%
関東系5%
播磨系3%
西部瀬戸内海系3%
紀伊系1%

上記のグラフを見ると分かる様に、伊勢・東海系の土器が多数を占めている事が分かるはずです。

発掘当初は古墳にも影響を及ぼしたとされる吉備地方の土器が多数を占められると考えられていました。

しかし、発掘が進むにつれて多くが伊勢・東海系の土器だという事が分かったわけです。

土器を見る限りでは、纏向遺跡の勢力は西方ではなく東方と多くの取引があった事が分かります。

現時点では纏向遺跡からは北部九州系の土器は確認されていません。

纏向遺跡と西方地域の交流は吉備・山陰までと考えた方が良さそうです。

魏志倭人伝を見ると、卑弥呼は伊都国に邪馬台国の監察機関である一大卒を設置していた記録があります。

邪馬台国九州説も近畿説も伊都国の場所は現在の糸島市だと考える場合が多く、九州から出る事はありません。

一大卒は倭の諸国を畏れさせたわけですが、九州で何かあった場合は邪馬台国の本国が対応しなければならなかったはずです。

それを考えると、九州ともっと交流があってもおかしくはないか?と考えられます。

しかし、外来土器の出土を考えると東方に偏っており、纏向の勢力が九州にまで影響力を与える事が出来ていたのかは不明な部分もあります。

尚、搬入土器を見る限りだと伊勢・東海系の次に多いのは北陸、山陰系であり纏向の勢力と出雲地域との関係も興味深い所でもあります。

日本神話を見ると越国から出雲に侵略したのが八岐大蛇だとする説や、大国主が翡翠の女神である越国の奴奈川姫と関係を持った話が存在しています。

土器を見ると山陰と越国の関係も見えて来るわけです。

日本全国から多くの土器が集まったとなれば、倭王となった卑弥呼がいた邪馬台国は纏向にあったと想像する人も多い事でしょう。

しかし、先にも述べた様に纏向遺跡があった場所は日本で最も繁栄した場所だと考えられますが、それが邪馬台国だとは限らないという事です。

金属製品から見る纏向遺跡

纏向遺跡からは鉄製品、青銅製品など金属器の出土は非常に少ないと言えます。

青銅製品の出土数では弥生時代の唐古・鍵遺跡よりも少ないのが現状です。

鉄製品に関しても鍛冶関連の遺物を除けば微量と言ってもよいでしょう。

纏向遺跡からは漢鏡や大陸産青銅器の出土がされておらず、中国との関係は極めて薄いと見る事が出来ます。

纏向遺跡が邪馬台国だと考えた場合に、中国の青銅器の出土がないのはマイナス要因だと見れます。

ただし、朝鮮陶質土器や馬具の一部だと思われるもの、半島南部の骨鏃とよくにた木製の鏃が発見されました。

中国の魏と邪馬台国は交流があったはずですが、金属器などの遺物は非常に少ないと言えます。

纏向遺跡の鉄器生産技術

纏向遺跡では鉄器制作に関わる鍛冶関係の遺物の出土が10カ所ほどあり話題になりました。

ただし、鉄器生産は小規模であり、鉄鏃の様な小型のものがメインとなっています。

尚、纏向遺跡の鍛冶で使用された技術の中には、福岡県の博多遺跡群で出土するものと共通点がある事が分かりました。

さらに、数は少数ですが朝鮮半島南部の陶質土器も発見され、朝鮮半島から北九州を経て纏向の地に伝播されたとも考えられています。

因みに、記紀を見ると神武天皇は神武東征を行い大和の地に入ると、大和の有力者である媛蹈鞴五十鈴媛と結婚しました。

媛蹈鞴五十鈴媛は名前に「たたら」が入っている事から、媛蹈鞴五十鈴媛は大和の大製鉄所の令嬢だったのではないかとする説もあります。

ただし、大和の地域では九州に比べると、鉄の導入はかなり遅かったと言えるでしょう。

纏向遺跡の鉄器生産技術は九州に比べると、普及はしていなかったとみる事も出来ます。

尚、九州の勢力であっても倭人弁韓の鉄を取りに行っていた現実もあります。

これらを考慮すると纏向遺跡の時代は、弥生時代からの基盤を元に、九州や朝鮮半島の技術が被さってきた段階にあったとみる事が出来るはずです。

纏向遺跡は古墳造営の為の都市だった!?

一つの説として纏向遺跡は周辺の大古墳群を造営する為の都市だったのではないか?とする話があります。

エジプトのピラミッドを建設する為の都市があった様に、日本にも古墳を造営する為の都市があったとしてもおかしくはないと考えた説でもあるのでしょう。

ただし、纏向遺跡の庄内期の段階では、大型古墳は存在しておらず、不明な部分も多いです。

それでも、庄内式の末期の頃になると箸墓古墳の造営が始まるとも考えられており、纏向遺跡が箸墓古墳の造営に影響を与えた事は間違いないでしょう。

【結論】纏向遺跡は邪馬台国ではない

纏向遺跡が邪馬台国だったのか?ですが、個人的には違っていると感じました。

纏向遺跡の出土遺物を見ても金属器や大陸系の遺物の発見は極めて少なく、それでいて東方の土器が多いと言えます。

同じく大和にある唐古・鍵遺跡でも北部九州はおろか大陸との関係を示す遺物の出土が殆どありません。

さらに、邪馬台国と深い関係にあったはずである伊都国や奴国などの北部九州の国々との接点は見えて来ないわけです。

大陸系の遺物があっても微量しかない事も纏向遺跡が邪馬台国ではない事を物語っている様に感じています。

大陸系遺物の少なさは中国の魏と邪馬台国の間で交流が本当にあったのか?とも考える事が出来るはずです。

卑弥呼がいた3世紀において、大陸と纏向遺跡の接点は殆ど見つける事が出来ないと言ってもよいでしょう。

三角縁神獣鏡が近畿で多く見つかっている事から、近畿に邪馬台国があったとする考えもあります。

ただし、三角縁神獣鏡自体が中国で見つかってはおらず、本当に中国から下賜されたのか?という疑問もある状態です。

尚、纏向遺跡に関しては4世紀になると衰えていった事が分かっています。

大和地域と大陸に関しては、5世紀になると大きな関わり合いを持っていた事は間違いありません。

倭の五王が中国の南朝の宋に朝貢した話もありますが、大阪平野や奈良盆地には巨大古墳が誕生し、当時の中心地が近畿にあった事は間違いないでしょう。

古市古墳群や百舌鳥古墳群は倭の五王とも関係が深いと考えられています。

5世紀の遺跡を発掘すれば、以前には見られなかった様な半島系の土器なども見つかっており、大和や河内の辺りが交流の中心にあったとみる事も出来ます。

5世紀には大和王権の勢力が間違いなく倭の中心にあり、対外貿易をも担っていたはずです。

考古学的な遺物で考えても、邪馬台国が纏向遺跡だというのは無理がある様に感じました。

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