名前 | 劉繇(りゅうよう) 字:正礼 |
生没年 | 156年ー197年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
一族 | 父:劉輿(劉方) 兄:劉岱 子:劉基、劉鑠、劉尚 |
年表 | 193年 揚州刺史に任命される |
194年 揚州牧、振武将軍に任命される | |
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劉繇の字は正礼であり、青州東萊郡牟平県の出身だと記録されています。
劉繇の先祖を辿ると前漢の斉の孝公に行き着くとされています。
劉備などは中山靖王劉勝の末裔を名乗っていますが、本当に血が繋がっているのか分からない部分もあります。
それに対し、劉繇は列記とした子孫であり、後漢王朝でも名が通った一族です。
劉繇は揚州刺史になってからが有名であり、袁術の攻撃を防ぎ、孫策と戦いますが結局は敗れました。
三国志演義を見ると孫策や周瑜ばかりが目立ち、劉繇はやられ役に思うかも知れませんが、史実の劉繇は男気があり、かなり頑張った人物だとも感じています。
尚、劉繇の兄に劉岱がいた事が分かっています。
兄の劉岱は反董卓連合に参加したり、青州の黄巾賊と戦った事でも有名です。
劉繇は正史三国志の呉書に劉繇太史慈士燮伝があり、下記の人物と共に収録されています。
劉氏の家系
先に劉繇は斉の孝公の子孫だと言いましたが、斉の孝公は漢の高祖劉邦の孫にあたる人物です。
劉繇の時代になるまでには、王莽の新も間に含まれており、数百年は経っています。
しかし、劉繇の家は衰える事無く、権力を持ち続けたのでしょう。
劉繇の伯父である劉寵は四度も三公となり、八度の九卿の位を歴任した政界の大物だったとも言えます。
劉寵の影響力のお陰か劉繇の兄の劉岱は侍中、兗州刺史を歴任するなど、エリートコースを突き進む事になります。
叔父を助ける
劉繇が19歳の時に、叔父の劉韙が賊に捕らえられる事件が起きました。
劉繇の一族は権力も財力もあり、盗賊が目を付けたのかも知れません。
この時に方法は不明ですが、劉繇は賊から劉韙を取り戻した話があります。
19歳の若者だった劉繇が誘拐事件を解決した事もあり、一気に有名となります。
これを見る限りだと、劉繇が機転が利く人だという事が分かるはずです。
こうした事もあり、劉繇は孝廉に推挙され、郎中となり下邑県令に任命される事になります。
ただし、劉繇が仕官出来たのは叔父の一件とは、そもそも関係がなく名士なので仕官出来て当たり前とする考えもあります。
因みに、劉繇は仕官はしましたが、上司の郡太守と合わず結局は辞職しました。
劉繇も嫌な上司の下で働きたいとは思わなかったのでしょう。
辞職と再仕官
劉繇は官を辞しましたが、世間は劉繇を放っておかなかったのか、青州済南の行政監察として再仕官しました。
この国の済南相は法を無視して賄賂を貪っていましたが、宦官である中常侍の養子であった事から、咎められる者がいなかったわけです。
宦官は普通は子孫が出来ませんが、出世した宦官は養子をとる事を許されていました。
宦官は皇帝の側におり、悪い事を言われてしまえば、讒言され首が飛ぶ事も考えられ、誰も取り締まる事が出来なかったのでしょう。
しかし、劉繇は恐れる事無く、済南相の汚職を上奏し、罷免させています。
この時の劉繇は一歩間違えれば、死地に入るわけであり、勇気ある行動だと言えるでしょう。
それと同時に後漢王朝が「まだ腐りきってはいない」と実感したのかも知れません。
茂才に推挙される
平原の陶丘洪は劉繇の話を聞き、茂才に推挙するべきだと青州刺史に勧めました。
しかし、青州刺史は「前年に劉岱を推挙したばかりで、今年もまた劉繇を推挙すれば依怙贔屓したと思われる」と難色を示します。
青州刺史は世間体を気にし、劉繇の推挙を見送らせようと考えました。
陶丘洪は引き下がらず、劉岱と劉繇を推挙する事は「二匹の龍や名馬を手に入れる」のと同じであり、素晴らしい事だと述べます。
陶丘洪の熱弁もあり、後に劉繇は中央に招かれ、司空掾、侍御史になる話が来ました。
しかし、劉岱は中央に行くのを断わった話があります。
当時は霊帝が亡くなり宦官が大将軍の何進を暗殺し、董卓が実権を握っています。
劉繇の兄である劉岱が反董卓連合に身を投じている事からも、劉繇は中央で仕官はしたくは無かったはずです。
むしろ、兄の劉岱が反董卓連合に参加し、劉繇は都にいたら処刑されてしまった可能性もあるでしょう。
江南への避難
劉繇は戦乱を避けて江南に避難したとあります。
江南に移動するまでの間に、劉繇が何をしていたのかは不明です。
ただし、兄の劉岱が反董卓連合に参加し、その後で袁紹と公孫瓚の間で板挟みとなり、程昱の策で危機を脱した話があります。
史実は不明ですが、劉繇は劉岱と行動を共にしていたのではないか?とも考えられています。
劉岱は青州の黄巾賊と戦って敗れ戦死しましたが、これにより劉繇も居場所を失い江南に避難した様に感じています。
ただし、劉繇の江南への移動に関しては、移動した事実だけしか書かれておらず、背景は不明です。
尚、劉繇が江南に移動したのは、趙昱を頼ったのではないか?とする説もあります。
揚州刺史となる
劉繇は江南に避難しますが、ここで揚州刺史に任命されました。
江南に避難していた劉繇が一気に、刺史にまでなってしまったわけです。
もちろん、劉繇は軍勢を持っていなかったはずであり、刺史の印綬と権威だけを持ち、揚州を平定しなければならなくなります。
史書には劉繇が揚州刺史に、任命された事だけが記録されており、何年の事なのかは不明です。
しかし、192年に揚州刺史の陳禕が亡くなっており、後任に劉繇が陶謙か趙昱の推挙により、193年に揚州刺史になったとも考えられています。
劉繇は職を辞するたびに出世していますが、この辺りは名族としての威光もあったのかも知れません。
曲阿を本拠地とする
劉繇は揚州平定の為に動く事になりますが、揚州刺史が州府とする伝統がある寿春には袁術がおり、入る事が出来ないのは明白でした。
こうした中で、呉景と孫賁が劉繇を快く迎えています。
因みに、呉景は孫堅の妻である呉夫人の弟であり、孫賁は孫堅の兄の子です。
当時は孫堅も戦死し、この世にいませんでしたが、孫堅の勢力は袁術に吸収されていました。
呉景と孫賁は袁術と距離を取りたいと考え、劉繇に近づいたのかも知れません。
劉繇は曲阿を本拠地とし、配下の于糜、樊能を横江津に駐屯させ、張英を当利口に配置し袁術に備えています。
尚、曲阿の劉繇の元には呉の初代丞相となる孫邵や、圧倒的武勇で孔融を救い劉備の援軍を呼び寄せた太史慈、人物鑑定で有名な許劭などが集まってきました。
さらには、是儀、笮融、薛礼なども劉繇の配下となります。
袁術との戦い
劉繇は曲阿から着実に地盤強化に努めますが、袁術は呉景を丹陽太守とし、孫賁を豫州刺史としました。
これにより今までは味方だったはずの孫賁、呉景が、袁術側に回ってしまい敵対する事になります。
劉繇は袁術の息が掛かってしまった孫賁と呉景を追放しました。
これにより袁術と劉繇の間に亀裂が生じ、戦いに生じる事となります。
袁術も汝南袁氏出身の名門でもありましたが、劉繇も皇族の地が流れる人物であり、名族同士の戦いとなります。
劉繇は後漢王朝から任命された揚州刺史ではありましたが、袁術は恵衢を独自で揚州刺史に任命し戦わせています
劉繇と恵衢は互角の戦いを繰り広げ、劉繇は健闘したわけです。
後漢王朝の朝廷も劉繇の奮戦を認め揚州牧、振武将軍に任命し、万の兵士を率いる事が出来る様になり、揚州の一大勢力に成長しました。
このまま数年の時が立てば、劉繇は袁術を討てる立場になっていた可能性もあるでしょう。
孫策に敗れる
劉繇は奮戦しますが、袁術は孫策に出陣の許可を出す事となります。
孫策は孫堅の子であり、弟の孫権、断金の交わりを結んだ周瑜、旧孫堅軍の程普、黄蓋、韓当、朱治らが従いました。
孫策は三国志でもきっての軍事能力を兼ね備えており、牛渚の戦いで于糜と樊能が敗れ、下邳国相の笮融や彭城国相の薛礼も、孫策に敗北しています。
劉繇の軍は兵力で上回っていたにも関わらず、一気に劣勢に立つ事となります。
この時に、劉繇は配下の太史慈を大将として、孫策と戦わせる意見も出ましたが、許劭の反対もあり実現しませんでした。
劉繇は太史慈の能力は認めてはいましたが、軍勢を指揮した経験がなく危ぶんだとも考えられています。
劉繇は連敗を重ね本拠地の、曲阿を放棄しました。
笮融の乱
劉繇は南に向かい会稽太守の王朗を頼ろうとしますが、許劭は西に行き曹操や劉表と連携し袁術と戦う事を勧めました。
劉繇は許劭の意見を採用する事になります。
孫策の軍は西から攻めて来たわけですが、西から来る孫策軍を避けて西に移動する事になったわけです。
劉繇は上手く孫策を回避し西行しています。
劉繇よりも先に笮融が豫章に入ると、諸葛玄と朱皓が豫章太守の座を争っていました。
笮融は諸葛玄と朱皓の両方を殺害し、劉繇に反旗を翻す事になります。
劉繇は一度は笮融に敗れますが、再び兵力を集結され笮融を討ち取る事に成功しました。
劉繇の最後
劉繇は彭沢を本拠地としました。
豫章太守に華歆がなった事で、豫章郡は安定を見せる事になります。
劉繇は再び袁術や孫策と戦うだけの気構えがあったのかも知れません。
しかし、劉繇は病により最後を迎える事になります。
この時の劉繇の年齢は42歳だったと伝わっています。
劉繇は孫策と敗れ笮融の乱もあり、心身共に消耗してしまい、病により亡くなってしまったのかも知れません。
実際に戦いの後に亡くなる人物は多く、劉繇も戦いによる疲労が元で亡くなってしまったと感じました。
劉繇の評価
劉繇ですが、正史三国志の評の部分で、陳寿は次の様に述べています。
※正史三国志より
劉繇は立派な行いをし、善悪を正しく判断する様に心掛けた。
しかし、混乱の時代にあっては、遠方の地で自立する事に対しては長じていなかった。
陳寿は劉繇の人間性を評価しつつも、群雄としての評価は並だと考えたのかも知れません。
個人的には劉繇は、かなり頑張ったとは思いますが、戦争の天才である孫策には適わなかった印象です。
それでも、劉繇は三国志を彩る群雄の一人だと言えるでしょう。
尚、作家の宮城谷昌光氏は、歴史短編小説「三国志外伝」の主人公の一人に、劉繇を選んでいます。