蔡沢(さいたく)と言えば、爺さんだけど知恵があり名外交官というイメージがないでしょうか?
「この蔡沢は、強き者にのみ、お仕えいたしまするぞ」などの様な名言もあります。
普通で考えれば、生い先短いような人なわけですから、今更、強き者に仕えてどうするの?とも感じるわけですが・・・。
蔡沢ですが、司馬遷が執筆した史記では「范雎・蔡沢列伝」に登場する実在した人物です。
ただし、大半は范雎の事が語られていて、秦の宰相となった范雎が失敗などもあり、心が揺れている時に蔡沢が登場します。
初登場は、秦の昭王の末期の頃となります。
尚、キングダムでは李牧と斉王建を咸陽に連れて来て、秦斉同盟を終結させた立役者になっています。
さらに、嬴政(後の始皇帝)の法治主義を見越したかのように、昌文君を立ち会わせている程の知恵者です。
秦政同盟が終結されたところで、蔡沢は「やるべきことは全てやった」と言わんばかりの死を迎える事になります。
後に、昌文君は呂氏四柱の法の番人の異名を取る李斯を政界に復活させるわけです。
昌平君ではなく、昌文君を立ち会わせる先見の明を持った賢者として描かれています。
キングダムでは、蔡沢はかなり渋い役どころになっていますが、カッコいい役柄でもあると言えます。
ただし、斉秦同盟や春申君率いる合従軍から斉の離脱を図らせた記述は史記にはありません。
ここから先は、史実の蔡沢の活躍を紹介します。
諸侯に認められない蔡沢
蔡沢は、燕の出身で他国で学問をした後に、諸侯を回って仕官しようとしたが、才を認められなかったとあります。
この時代は、諸子百家の時代で、様々な説を述べる遊説家がいたわけです。
自分の説が王様に認められる事になれば、国の大臣となり莫大な財産を築く事も出来た時代でもあります。
昨日まで、浪人だったような人でも、諸侯に認められる事で大金持ちになる事も出来たわけです。
蘇秦や張儀などを中心とした合従策、連衡策などの縦横家も多くいました。
似たような事を蔡沢もやっていたのかも知れません。
蔡沢ですが、秦では宰相になる事が出来ましたが、他の6国(斉・趙・魏・韓・楚・燕)では認められなかったようです。
戦国七雄の中で秦だけは蔡沢を受け入れる度量があったとみるべきでしょう。
司馬遷は、「范雎・蔡沢列伝」の最後の太史公曰くの部分で、范雎や蔡沢が他の諸侯に認められなかったのは、説が悪かったのではなく、他の諸侯の力が無かったからだと説明しています。
つまり、范雎や蔡沢ほどの能力者であっても、秦のような強国でなければ認められない現実があったのでしょう。
キングダムの蔡沢の言葉で「この蔡沢は、強き者にのみ、お仕えいたしまするぞ」という言葉がありますが、背景には強国でないと自分の説を入れるだけの度量がないという史記の言葉への裏返しなのかも知れません。
史実では、老人だった記述も長生きした記述も存在しませんが、実際に長生きしたのであれば、楽毅、廉頗、藺相如、白起など戦国七雄を彩った名将たちを生で見て来た様な人物となるでしょう。
老人だったとすれば、廉頗と年は近いのかも知れません。
唐挙に人相を見てもらう
蔡沢は、諸侯に仕官する事が出来ずに、悩んでいたようで有名な人相見である唐挙に見てもらったわけです。
蔡沢「先生(唐挙)は、李兌(りたい)を見て100日のうちに権力を握ると当てたのは、本当でございますか」
唐挙「そうじゃ」
蔡沢「私もみてもらいたい」
唐挙「先生(蔡沢)の鼻はさそりの如く、肩は高く、顔は大きい、鼻すじつまり膝が曲がっておられる。聖人は相にあらずと言うが、先生の如くであろう」
この言葉については、唐挙は冗談っぽく言ったのか、蔡沢は次のように言っています。
蔡沢「富は自分で得る事にします。分からないのは自分の寿命です。それを教えてもらいたい」
唐挙「先生の寿命は、今年から数えて43年じゃ」
これを聞くと蔡沢はありがとうと言って、その場を立ち去ったそうです。
しかし、車の御者には次のように語ったとされています。
蔡沢「儂は白い米とうまい肉を食べて、馬を躍らせて駆け巡り、黄金の印を懐に入れて、紫の綬を腰に結び、主君と対等に話が出来て富貴の暮らしが43年出来れば、それで十分だ」
蔡沢の出世欲が強さが分かる話にもなっています。
ちなみに、唐挙との最初の話しで出て来た李兌と言うのは、趙の武霊王の家臣だった人物です。
武霊王は、中山を制圧するなど、趙の全盛期を作りあげた人物でもあります。
李兌が唐挙に話を聞いた後に、後継者問題が起きて武霊王は餓死し、公子章が死に、恵文王が名目上の最高権力者となり、李兌が趙の実験を握っています。
この出来事を、唐挙が見事に当てているわけです。
釜と鍋を盗まれる
唐挙に人相を見てもらった後に、趙に行くわけですが、追い払われてしまい、さらに韓と魏に行く時には、釜と鍋を盗まれたとあります。
釜と鍋を盗まれたと言うと、范雎は食事用に釜や鍋を担いで旅をしていたのか?と思うかも知れません。
しかし、ここでいう釜と鍋は装飾品とか貴重な物であったのではないかとする説が多いです。
唐挙の話しだと御者がいる事が分かっていますので、全くの貧乏人ではなく、ある程度の財産は持っていたのではないかと考えられます。
ただし、趙で追い払われている事から孔子の弟子である子貢ほどの、莫大なる財産があったわけではないかと思います。
しかし、盗賊などに襲われた苦難の旅であったのかも知れません。
史記に困窮したような事が書いてあるので、釜や鍋を盗まれた事を指している可能性もあるでしょう。
范雎を宰相から降ろす
蔡沢が活躍する時代ですが、長く王様をやっていた秦の昭王の末期の頃です。
秦の昭王は、即位した当時は魏冄(ぎぜん)が宰相をやっていて白起などの武将を登用する事で勢力を拡大しています。
しかし、実権は魏冄や大后、華陽君、高陵君、涇陽君らにあったようです。
范雎は、それを昭王の説く事で信任を得られる事になります。
魏冄らは、それにより職務を説かれて自分の領地で暮らす事になっています。
范雎ですが、遠交近攻策を昭王に説き、実践する事で秦は領土を大きく拡大しています。
長平の戦いでは、白起が趙括を破り趙軍40万を生き埋めにしたほどです。
しかし、白起の功を妬んだ范雎が、趙と講和した事で白起とは不和となります。
その後、白起は秦の昭王により自害させられているわけです。
范雎ですが、自分が推挙した鄭安平や王稽が失態を犯し立場を悪くしていました。
秦の法律では失敗した者を推挙した者も責任が問われる事になっていますが、昭王が范雎を可愛がっている事からもみ消しています。
しかし、范雎としては、心が穏やかでありませんでした。
この情報をキャッチしたのが、蔡沢だったわけです。
范雎を怒らせる
蔡沢は、普通に范雎と面会を申し込んでも会ってくれないと思ったのか、怒らせる事を考え出します。
蔡沢は、人を使って「燕から来た蔡沢は、優れた知恵を持っていて、秦王にあったら直ぐに范雎の位を奪ってしまう」と宣伝したわけです。
これを聞きつけた范雎は、「儂は五帝三代の歴史、百科の学説全て知っておる。蔡沢を論破してやる!」と言い呼びつけています。
蔡沢は、范雎と面会しますが、ここでも不遜な態度を取ります。
不遜な態度を取って、相手の興味を引くと言うやり方は、范雎が宰相になる前に、秦の昭王に使った方法と同じです。
范雎も昭王と面会する時に、「ここには、王様はおらんらしい、太后と穣公(魏冄)がいるだけだ」とわざと聞こえるように言っています。
自分が使った技と、同じ技を使われたのにも関わらず、范雎は引っ掛かってしまいます。
この後に、蔡沢の話しを范雎は、耳を傾けて聞くわけですが、同じ匂いを感じたのかも知れません。
范雎に出処進退を語る
范雎に対して、蔡沢は出処進退について語っています。
秦の商鞅、呉の呉起、越の文種を例にしています。
秦の商鞅は、秦の孝公に用いられて法治主義を採用し、東では魏を打ち破り大きく領土を広げたかが、秦の孝公が亡くなると、次代の恵王により車折の刑に処せられています。
さらに、楚の悼王に宰相に任じられた呉起も法を整えて戦には勝ち楚を強大にしたが、悼王が亡くなると呉起を恨む貴族に殺されている。
越の文種は、越王句践が呉王夫差に対して恨みを晴らすのに、范蠡と共に活躍しましたが、句践が夫差を打ち破り覇者となると、讒言する者がいて粛清されているわけです。
つまり、引退するべき時に、引退しないと、いつ処刑されるか分からないと范雎に説いたわけです。
さらに、范蠡は粛清される前に、句践の元を去り陶朱公と名を変えて、商人となり莫大な富を作りあげた事を称賛しました。
これを聞き范雎も引退を決意するわけです。
蔡沢を推薦する
范雎ですが、いきなり引退すると言わずに、最初に蔡沢を秦の昭王に推挙します。
蔡沢は、昭王に献策したわけですが、大いに気に入ってしまうわけです。
昭王は、蔡沢を客卿に任命しました。
これを見た范雎は昭王に病気を理由に引退を申し出ます。
昭王は留任を希望しますが、重病だと言い宰相を免じられたわけです。
後任の宰相として、昭王は蔡沢に決めました。
これにより蔡沢は、秦で宰相となったわけです。
ただし、蔡沢をそしる者があったようで、数カ月で宰相の位を病気だといい辞退したとあります。
キングダムでは、呂不韋は蔡沢の事を「先生」と言っていますが、呂不韋よりも蔡沢の方が遥かに先輩の宰相だったわけです。
呂不韋が蔡沢の事を先生と言うのも頷ける話です。
さらに、蔡沢は昭王が亡くなると、孝文王に仕え、荘襄王に仕えて、最後は始皇帝(嬴政)に仕えています。
周の国を取る
史記によると、蔡沢は宰相に任命されて、東の国では、周の国をそっくり手にいれたという記述があります。
西周が滅んだのは、西周君が諸侯を伊闕に集結して秦に攻撃を掛けた紀元前256年のはずです。
この時に、赧王は秦の庇護下に入っていますが、直ぐに亡くなったようです。
東周が滅びたのは、荘襄王の時代の紀元前249年となります。
范雎が宰相を辞めなければいけない結果となった、王稽の諸侯との内通が発覚したのが、254年である事から、既に西周は滅んでいる事になっています。
そのため、范雎の宰相時代に西周は滅亡しているわけです。
さらに、荘襄王の時代になった時には、宰相は呂不韋がしているわけですので、記述が上手く合致していません。
それを考えると、東周を取るように呂不韋に進言したのは、蔡沢だったのかも知れません。
史記の記述は、どこかでズレがある場合もあり、分かりにずらい所もあります。
しかし、周を取る献策は蔡沢が進言した可能性もあるのでしょう。
※注意・ここでいう西周は周王朝が天下を運営していた西周王朝とは別。周の東遷後に東周が東周と西周に分裂した西周を指す
燕の太子丹を人質とする
蔡沢と言うと、キングダムでも燕にいたイメージがあるかも知れません。
出身地が燕というのも、あるわけですが・・・。
実際に、蔡沢は燕に外交官の使者として行き、太子丹を秦への人質として来させているわけです。
趙・魏・韓の三晋を攻めたい秦は、遠くの燕と交わりを結びたかったのでしょう。
ここでも遠交近攻策が生きていたのではないかと考えられます。
ただし、燕の太子丹は、秦王政に冷遇された為、怒って燕に逃げ帰っています。
太子丹は、2度人質に渡り秦に人質になっている説もあります。
これに関しては、張唐の記事の最後の方で記載しました。
しかし、後に始皇帝に荊軻という刺客を送り付ける燕太子丹を、秦の人質にしたのは蔡沢だと言う事です。
太子丹が嬴政に刺客を送るまでは、読めなかったのでしょう。
蔡沢の死
蔡沢の最後ですが、史記にも記録がなくて分かっていません。
蔡沢の事をヨボヨボの爺さんだと思っている人も多いかと思います。
この根拠についてですが、唐挙の占いによる「43年」という言葉から来ているのでしょう。
さらに、昭王・荘襄王・孝文王・秦王政の4代に仕えた事から年寄りに思われてしまうようです。
しかし、昭王の後期に秦に仕えていて、孝文王は即位3日で死去して、荘襄王は3年で死去しています。
そのため、始皇帝の代で死んだ事は間違いないですが、老人だったという証拠もないのではないかと思います。
唐挙に、人相を見てもらった時が40歳であれば83歳で爺さんになっているはずです。
しかし、20歳だった場合は、63歳となり、ヨボヨボの爺さんというわけには行かないでしょう。
当時は、今ほど栄養が取れずに60代でもヨボヨボだった可能性はありますが・・・。
それでも、漫画キングダムの蔡沢の死は全てをやり通した後に、死んだみたいな感じもあり、カッコよく感じます。
北斗の拳のラオウではありませんが、「わが生涯に一片の悔いなし」と言えるような死が描かれていました。
自分も死ぬとしたら、ああいう感じがいいと思いますw
突発的な死もあるわけで、死に方が選べないのは残念に感じるところではあります・・・。
困窮しなければ発奮出来なかった
范雎・蔡沢列伝の最後の、太史公曰くの部分で司馬遷は、【困窮にしなければ、この二人は発奮する事が出来ただろうか】と最後に述べています。
范雎は、袋叩きにされて便所に放り込まれ小便を掛けられるなど、ハードに痛めつけられています。
それに比べると、蔡沢の方は諸侯に相手にされなかったのと、釜と鍋を盗まれたりする事で済んでいます。
それを考えれば、蔡沢はマシな方だと思いますが、やはり理不尽な状況が起きた時に、発奮する事は大事だと思っています。
会社などでも、怒られ役になっていたり、人から軽く見られてしまう人もいることでしょう。
実際に、私も軽く見られてしまう人物ですが、何とか発奮して頑張ろうと思っています。
蔡沢ほどの能力は無くても、意地を見せてやろうと企んでいます。
自分の場合は、企んだだけで終わっている事も多いわけですが・・・・。
それでも、困窮に陥っても希望を捨てずに頑張りたいと思いました。