
| 名前 | 蘇秦 |
| 生没年 | 不明 |
| 時代 | 春秋戦国時代 |
| 一族 | 弟:蘇代、蘇厲 |
| コメント | 最強の縦横家と考えられる場合も多い |
蘇秦は春秋戦国時代に遊説を成功させ、一次は六ヵ国の宰相も兼ねたとも言われている人物です。
鬼谷子の元で学び、合従の祖というべき人物であり、連衡の張儀と対比させられる事も多いと言えるでしょう。
ただし、近年の研究では蘇秦が六国の宰相を兼ねた話や、張儀と兄弟弟子だった話は、創作だったのではないかとも考えられる様になりました。
史実の蘇秦は280年代に活躍し、燕が斉に送り込んだスパイとして、斉を崩壊に導いた人物だとする説が強くなっている状態です。
今回は蘇秦の記録を見ながら、どの様な人物なのか実像に迫ってみました。
蘇秦の挫折と発奮
遊説に失敗
蘇秦は東周の洛陽出身だとされています。
洛陽にいた蘇秦は最初に、斉に行き鬼谷子の元で学んだとされており、ここで知り合ったのが張儀という事になっています。
史記によると、諸国を数年放浪したが成果を挙げる事が出来ず、郷里である洛陽に帰った事になっています。
しかし、戦国策の秦策を読むと、蘇秦は秦の恵文王を遊説しようとしましたが、失敗しお金を使い果たし郷里に帰ったとあります。
史記でも戦国策でも、遊説に失敗し郷里に帰ったと言う設定は同じです。
尚、戦国策では蘇秦は秦の恵文王に『連衡』を説いた事になっています。
蘇秦が嘲笑される
蘇秦はお金を使い果たし、郷里に戻ったわけですが、蘇秦の兄弟や家族たちは、次の様に述べたと言います。
※史記蘇秦列伝より
周の人々は田を耕したり、商工業に励んだりし、二割の利益を追うのが普通だ。
それなのに、お前は根本を捨て、口先の議論ばかりを行っている。
困窮するのは当然だ。
家族や妻たちは、遊説に失敗した蘇秦を嘲笑し、愚か者扱いしたと言ってもよいでしょう。
蘇秦の発奮

家族や妻、親戚にまで馬鹿にされた蘇秦は、部屋に籠り、次の様に述べたと言います。
史記蘇秦列伝より
男として人に頭を下げ学問をしながら、何の栄達もないのであれば、、どんなに読書をしても役には立たない
蘇秦は立身出世を志し蔵書を取り出し、隅々まで読み通し『周書陰符』なる書物を見つけました。
周書陰符は太公望の兵書だとも伝わっており、蘇秦は無我夢中に読みふける事になります。
尚、戦国策では蘇秦は勉強中に眠くなると、錐で腿を指し血は踵にまで流れたとあります。
錐を腿に刺して蘇秦が勉強した話は本当なのかは不明ですが、我武者羅に勉学に励む蘇秦の様子を現わしているのでしょう。
蘇秦は1年もすると揣摩の術を完成させ「これなら世の君主を説得できる」と確信しました。
蘇秦は揣摩の術を使い世の君主を、再び説得する為に遊説を始めるわけです。
蘇秦の遊説の失敗
周の顕王に謁見出来ず
史記の蘇秦列伝によると、蘇秦は実力がどれ程のものなのかを試す為に、周の顕王を説いてみようとしました。
しかし、蘇秦の悪評は洛陽の郷里に満ちていたのか、顕王の側近たちが蘇秦を軽蔑しており、周の顕王への謁見すら許されなかったわけです。
そこで、蘇秦は秦に足を向けました。
秦の恵文王を説得出来ず
戦国策では最初に秦の恵文王への遊説に失敗し、蘇秦は発奮した事になっていますが、史記では蘇秦は秦の恵文王と初対面の様な設定となっています。
蘇秦は秦の恵文王に「秦は四方の防備に適した地であり、山に覆われ渭水があり、東には関・河も存在し、西に漢中、南に巴・蜀、北に代があり、天府の地でもあり、ここなら天下を併合し天下を手中に出来ます」と説きました。
しかし、秦では商鞅を誅したばかりであり、弁舌の士を嫌い蘇秦を登用しなかったと言います。
蘇秦の弁舌を以てしても、秦の恵文王の心を動かす事は出来なかったわけです。
尚、蘇秦と秦の恵文王の会話ですが、商鞅が誅されたのが紀元前338年であり、秦の司馬錯が古蜀を併呑したのが、紀元前316年であり、20年以上の開きがある事が分かるはずです。
こうした事情から、蘇秦の口から秦が巴や蜀を領有しているのはおかしいとする指摘もあります。
蘇秦が趙でも失敗
史記によると、趙では粛侯の弟の公子成が奉陽君となり、強い発言権を持っていたわけです。
奉陽君は蘇秦を歓迎せず、蘇秦は趙でも相手にされませんでした。
ただし、蘇秦と趙の話では戦国策に別の話があり、戦国策では蘇秦は周の顕王や秦の恵文王に遊説を行った話は無く、いきなり趙の粛侯に説いた事になっています。
戦国策では趙の粛侯は蘇秦の言葉に大喜びし、蘇秦を武安君とし宰相に任じました。
戦国策の記述だと、蘇秦はいきなり成功を修め、宰相になっているわけです。
しかし、史記では蘇秦と奉陽君の不和もあり、蘇秦は燕に向かった事になっています。
ここから蘇秦の快進撃が始まる事になります。
六国を合従
蘇秦と燕の文公
蘇秦は燕に行くと、1年ほどで燕の文公と目通りが叶いました。
蘇秦は燕の文公の前で「燕は東に朝鮮、遼東、北に林胡、楼煩があり、西に雲行、九原、南に易水があり、武装兵力何十万」などを説きました。
さらに、燕には棗や栗の収穫があり、民は田作せずとも自給できる「天府の地」だと褒めちぎったわけです。
蘇秦は燕の国が無事だったのは、趙が秦の障壁となり、秦に侵略されなかった事が原因だと告げました。
秦が燕にとって危険な相手だと述べ、蘇秦は趙と合従を結ぶべきだと説きました。
燕の文公は蘇秦に国を任せたいと述べ、資金として車馬や金箔を与え、趙に向かわせる事になります。
史記では蘇秦が燕の文公に認められた事で、出世の糸口をつかんだ事になっています。
蘇秦と趙の粛侯
史記では蘇秦は趙に行くと、既に奉陽君は亡くなっており、趙の粛侯に弁舌を振るう事になります。
今度は燕の文公の使者として趙に来たわけであり、趙の粛侯との面会は容易だったはずです。
蘇秦は奉陽君が亡くなった事で、趙の粛侯を慕う忠義の士らが意見を述べる事が出来る様になったと告げました。
その上で、趙が秦と斉の両方を敵に回せば大変な事になり、北方の燕と結ぶ事の利点を諭す事になります。
蘇秦は六国が合従する事で趙のメリットが大きいと述べ、殷の湯王や周の武王が天子として立った理由を語りました。
それと同時に、連衡を語る者の危険さを述べ、六国の合従の同盟こそが趙にとって最善だと告げたわけです。
趙の粛侯は「国を挙げて、先生(蘇秦)の説に従いたい」と述べ、蘇秦に莫大な贈り物をして合従の約を結びたいと告げる事になります。
蘇秦と韓の恵宣王
蘇秦は韓に向かい韓の恵宣王への謁見が許されました。
韓の恵宣王の前に立つと蘇秦は、韓には成皐、宜陽、宛などの要害の地がある。と告げ、弩や冥山で製造された強力な武器があると韓の強みを伝えました。
交渉する相手に対し、最初に持ち上げる手法は、蘇秦得意のパターンでもあるのでしょう。
蘇秦は韓にとって秦が害になっていると告げ「鶏口となるも牛後となるなかれ」と意見し、韓が秦に仕える事の愚かさを語る事になります。
蘇秦が韓の恵宣王に述べた言葉は「鶏口牛後」の諺にもなりました。
蘇秦の言葉を聞いた韓の宣恵王は嘆息し、秦に仕える愚かさを悟り、国を挙げて蘇秦に従いたいと告げる事になります。
蘇秦と魏の襄王
蘇秦は魏の襄王に面会すると、魏には長城や陳、汝南、許、召陵などがあり、小国と言われても、人口の密集地帯だと告げました。
魏は楚にも劣らぬ国力があると述べると、連衡を語る者達は「無駄に不安を煽っている」と意見しました。
蘇秦は越王句践が呉王夫差を破った例などを挙げ、連衡を行い秦に仕えれば、必ず領地を要求されると見解を伝える事になります。
六国が合従出来れば、秦の禍を避ける事が出来ると述べ、盟約を結ぶ様に促しました。
魏の襄王は蘇秦の言葉に納得し、国を挙げて仰せに従いたいと述べる事になります。
蘇秦と斉の宣王
蘇秦は斉に行くと、斉の宣王の前で弁舌を行いました。
ここでも、蘇秦は斉には南に泰山、東に琅邪、西に清河、北に渤海があり、四塞の国だと述べる事になります。
さらに、斉の首都の臨淄は戸数七万戸の大都市であり、臨淄だけで多くの子卒がおり、栄えた都市だと、ここでも褒めちぎっています。
その上で蘇秦は斉の宣王の為を思えば「秦に仕えるのは恥」とも述べました。
秦と斉の間には韓や魏がおり、秦は斉が攻めにくい国なのに、斉が秦に仕えるのは群臣の考えが間違っているからだとしています。
斉の宣王は蘇秦の言葉に感じ入り「謹んで国を挙げ、ご意見に従いたい」と述べました。
蘇秦と楚の威王
蘇秦は楚に向かい、楚の威王と会見を行いました。
楚の威王との会見で、蘇秦は楚は天下の強国であり、西には黔中、巫郡、夏州などがあり、その土地は方五千余里、武装兵百万など、持ち上げる発言をしました。
楚は覇者になれる地であり、楚に対抗できる国が見当たらないのに、秦に仕えるのは問題だと指摘する事になります。
蘇秦は楚が合従に加われば、韓・魏・趙・斉・燕の音楽や美人は楚の後宮に集まり、燕や代の駱駝や良馬も手に入ると伝えました。
合従が成功すれば、楚の威王が天下の主となるなど伝えた上で、連衡なら秦が天下の主になると述べました。
連衡論者は秦に土地を割かせようとするが、これは「仇を養い讎に奉ずる」ものであると説く事になります。
楚の威王は蘇秦の言葉に心を動かされ「秦は巴・蜀の地を取り、漢中を併呑しようとしている」とし、蘇秦の意見に従いたいと告げました。
蘇秦は楚の威王が合従に加わった事で、六国の合従が成立した事になります。
蘇秦の凱旋
富貴の身になると

史記によると六ヵ国の合従に成功させた蘇秦は、合従の同盟の長となり、六ヵ国の宰相になったと言います。
蘇秦は六ヵ国の同盟を成し遂げ、趙に戻る途中に故郷である洛陽に寄る事になります。
故郷に蘇秦は凱旋したと言ってもよいでしょう。
蘇秦には諸侯から贈られた車馬や荷物が多く、王者の行列と間違われる程であり、郷里の洛陽では噂の人となっていました。
周の顕王は驚き恐れ、蘇秦の為に使者を派遣し郊外に出迎える事になります。
過去に蘇秦の事を馬鹿にした妻や一族のものたちは、蘇秦を仰ぎ見る事も出来ず、這いつくばり食事の給仕を行いました。
蘇秦は笑って嫂に「昔はあんなに威張っていたのに、どうしてこんなに恭しくしてくれるのか」と訪ねると、嫂は「貴方様が位が高く金持ちであるからです」と応えました。
ここで、蘇秦はため息を着くと、次の様に述べた話があります。
※史記蘇秦列伝より
蘇秦「同じ一人の人間でありながら、富貴になれば親戚も怖れ、貧賤となれば侮られる。
ましてや、他人であれば猶更であろう。
仮に私が洛陽の城郭の近くに、肥えた田土を二頃もあったりしたら、果たして六国の印綬を帯びる事が出来ただろうか」
蘇秦は尊貴な身分になった時の、人間の態度の違いに驚くと同時に、自分が裕福な生活であれば、とても今の様な身分にはなれなかったと告げた事になるのでしょう。
それでも、蘇秦は一族に対し千金を出し施した話があります。
恩に報いる
蘇秦は趙から燕に行った時に、百銭を借り旅費としましたが、富貴になった事で百金にして返しました。
他にも、過去にお世話になった様々な人々に報いるなど、恩を返しました。
しかし、蘇秦の従者の中で一人だけ褒美を貰えない者がおり、その者は自ら進んで申し出る事になります。
蘇秦は次の様に告げました。
※史記蘇秦列伝より
蘇秦は「お前の事は忘れたわけではない。しかし、燕に行く道中の易水の畔で何度も私を捨てて去ろうとした。
あの時の私は困窮しており、深く恨んだものだ。
お前を後回しにしたが、今日はお前にも褒美を取らす事に致す」
蘇秦は過去に恨んでいた人物に対しても、恩賞を与え報いました。
蘇秦と司馬遷
史記の蘇秦を見ると、富貴になった後は様々な人に恩返しをしている事が分かります。
秦の范雎は秦の昭王の宰相となるや魏斉に対し復讐していますし、張儀も権力を握ると楚の宰相に恨みを晴らすべく檄文を送りつけました。
こうした暗さが蘇秦には見当たりません。
さらに言えば、史記では張儀に対しても、発奮させ秦に仕えさせる様に裏で手助けを行っています。
張儀は蘇秦に恩を感じ「蘇秦がいるなら、私に何が出来るというのだ」と述べた話が残っています。
司馬遷が生きた時代の事として張儀列伝の最後で「世の人は蘇秦を憎んでいる」と書き残しています。
蘇秦列伝の最後に司馬遷は「一人彼(蘇秦)だけに悪名を被らせない様にさせた」と書いてあり、蘇秦に対し好意的に描いたのでしょう。
司馬遷は時として本文と、評の部分で正反対の評価をしたりしますが、蘇秦に関しては世間のイメージと反対の部分を蘇秦列伝に多く掲載したと感じました。
六国の合従の話は真実なのか
史記における六国合従成立と崩壊
史記によると蘇秦は六国の合従を成立させると、趙に戻りました。
趙の粛侯は蘇秦に封邑を与え武安君とし、合従の約定を秦に通達したとあります。
秦は合従の同盟を怖れ、15年に渡り函谷関から出兵しなかったとあります。
この話が真実であれば、蘇秦は15年間の平和をもたらした事になり、髙い業績がある事が分かるはずです。
しかし、秦は犀首(公孫衍)に命じて、斉と魏を欺かせ趙を討ち、合従の盟約を破ろうとしました。
斉と魏が趙を討つと、趙王は蘇秦を責めたとあります。
蘇秦列伝では趙王とあるだけであり、誰なのかははっきりとしませんが、趙の粛侯の15年後の趙王であれば、武霊王となるのでしょう。
蘇秦は恐れ燕に行き、斉に報復したいと述べ、趙を離れると合従の盟約は解消されたと言います。
これが史記における六国合従の始まりと終わりであり、蘇秦は活動場所を燕に遷す事になります。
蘇秦の六国合従の問題点
近年の研究では、蘇秦の合従の盟約が、説話に過ぎず実在しなかったのではないかとも考えられる様になりました。
司馬遷は史記の蘇秦列伝の最後の部分で「蘇秦の事績を論じる者には異説が多く、時代の異なる類似の事件も蘇秦のものにされてしまった」と記録しています。
別人が行った出来事までもが、蘇秦の実績にされてしまった事を司馬遷は述べているのでしょう。
後述しますが、史記の蘇秦列伝では蘇秦は斉の湣王の時代まで生きた事になっています。
しかし、張儀列伝の張儀は六国の連衡を行う際に、楚の懐王や趙の武霊王に「蘇秦の死」について触れています。
張儀の連衡は秦の恵文王が亡くなる紀元前311年に頓挫しますが、張儀列伝の記述を見る限りでは、蘇秦は紀元前311年以前に亡くなった事にならなければいけません。
さらに言えば、蘇秦と関係が深い斉の湣王が斉王になったのが、紀元前300年だと考えられており、蘇秦は紀元前311年以降も生きていた事になってしまうはずです。
残念に思うかも知れませんが、蘇秦が六国を合唱した話は虚構だったのではないかとも考えられる様になりました。
それと同時に、蘇秦が活躍したのは、斉が燕の楽毅により崩壊状態にされる紀元前280年代だったのではないかとする説が、強くなってきています。
尚、史記は東方にあり秦から離れた燕や斉の記録は、混乱が多く見受けられる状態です。
蘇秦の活躍した時期は紀元前280年代
呂氏春秋は紀元前239年に完成しました。
呂氏春秋の中に国を滅ぼすのに用いた人物が書かれており「夏の桀王は羊辛を用い、殷の紂王は悪来を用い、斉は蘇秦を用いて国を滅ぼした(一部抜粋)」とあります。
斉は蘇秦を用いたとあり、紀元前284年に燕の楽毅による合従軍で、斉の湣王が亡くなり斉が壊滅状態になった事を指すと考えられています。
さらに、戦国時代末期に完成したとされる荀子でも、斉の蘇秦や楚の州侯が国を滅ぼしたとする記述が存在しています。
説苑の君道や尊賢には、燕の昭王と郭隗による「隗より始めよ」の人材優遇策では、鄒衍、楽毅、屈景と共に蘇子も燕にやってきた事になっています。
説苑では蘇氏が燕の昭王に仕えて、斉を滅ぼした話となっているのが特徴です。
これを考えると、説苑の蘇子は蘇秦の事ではないかとも考えられるわけです。
説苑で蘇秦を蘇子としたのは、伝文では蘇秦になっていましたが、史記の六国合従の話と時代が合わない事を考慮し、蘇秦を蘇子としたのではないかとされています。
こうした事情から、蘇秦が活躍したのは、趙の粛侯の時代から50年程下り、紀元前280年代だと考えられる様になりました。
蘇秦が十城を取り戻す
史記の蘇秦列伝によると、秦の恵文王の娘が燕の太子の妻になったと言います。
燕の文公が亡くなると、燕の易王が即位しました。
この時に、斉の宣王が燕の喪中に付けこみ、燕を討ち十城を奪ったとあります。
蘇秦は奪われた十城を取り戻す為に斉に行き、十城を取り返して帰ってきました。
しかし、燕の易王に讒言する者があり、蘇秦は冷遇されそうになりますが、巧みな言葉で元の位に戻る事になります。
この事に関しては、燕の易王の方で記事にしてあります。
尚、説苑では蘇秦が燕の昭王の時代に燕にやって来た事になっており、これが真実であれば、蘇秦が燕の十城を取り戻した話は単なる説話という事になるはずです。
ただし、蘇秦は燕の為に動いており、若き日の蘇秦が燕の易王の時代からいたとしても、ありえない事ではないかと感じました。
実際に燕の易王の元年は紀元前332年ともされていますが、この時点での斉は威王の時代です。
蘇秦列伝では斉王が宣王となっており、宣王の治世の始まりが紀元前319年とも考えられています。
この辺りは、記述に混乱があるとも感じており、年代を特定するのは難しいと言えるでしょう。
蘇秦が斉に赴く
史記によると、蘇秦は燕の文公の夫人と密通したとあります。
文公の夫人は、燕の易王の母親でもあります。
燕の易王は蘇秦と母親の関係を知りながらも、蘇秦を益々厚遇しました。
しかし、蘇秦はいずれ誅殺されるのではないかと考え、易王に「私が燕にいても燕を天下に重からしめる事は出来ませんが、斉にいれば燕に重きをなす事が出来ます」と述べ、斉に出すべきだと進言しています。
燕の易王は「先生の心のままにお願いします」と述べ、蘇秦を斉に送り出したわけです。
斉の宣王は蘇秦を重用し、客卿にしています。
斉の宣王が亡くなると、湣王が立ちますが、蘇秦は葬式を丁重に行わせ孝道を明らかにし、客殿を高くするなど、王者としての威勢を現わす様に進言しました。
斉の湣王は蘇秦の言葉を喜んだわけですが、蘇秦の狙いは斉を財政的に疲弊させようとした事にありました。
戦国時代に韓が鄭国を派遣し、秦を土木工事に向かわせ、財力を削ごうとした話がありますが、似た様な事を蘇秦もやった事になります。
蘇秦は斉の湣王の寵臣になったとみる事も出来るはずです。
尚、蘇秦が燕の文公の夫人と密通した話ですが、史記にのみ確認できる話であり、出典が何処にあったのかも不明です。
蘇秦と蘇代
燕の易王が没すると、燕王噲が即位し、斉の攻撃により燕は荒れ果て、燕の昭王が即位する事になりました。
燕王噲の時代に燕を攻撃したのは、現在では斉の宣王だと考えられています。
燕の昭王は復興の為に全精力を注ぐ事になりますが、蘇秦は燕の為に斉で活動を行ったとも考えられています。
戦国縦横家書の発見により、史記の蘇代や蘇厲の活躍が、蘇秦のものだったのではないかともされています。
斉の湣王の時代の話で、孟嘗君が秦の昭王の招きで秦に行こうとした話がありますが、史記では蘇代が孟嘗君を諫めた話があり、孟嘗君も秦に行くのを止めました。
この時に、孟嘗君を止めたのは蘇代ではなく、蘇秦であり、秦と斉が手を結び強大になるのを危惧し、孟嘗君を諫止したともされています。
孟嘗君は後に秦で捕らえられそうになり、鶏鳴狗盗により斉に逃げ延びたわけですが、孟嘗君が最初に秦に行こうとする時点では、どうなるのかは分かっておらず、蘇秦が孟嘗君を止めたとも考えられるわけです。
他にも、漁夫の利の話などもありますが、これらも蘇秦の逸話ではないかともされています。
蘇秦の最後
史記の蘇秦列伝には、蘇秦の最後も描かれています。
蘇秦は斉の大夫と斉の湣王の寵を争っていました。
こうした中で、蘇秦は刺客に刺される事になります。
蘇秦は己の最後を悟ると斉王に「私を車裂きの刑に処し、市場で見せしめとし『蘇秦は燕に内通した謀叛人』と宣伝しますように」と伝える事になります。
斉の湣王は蘇秦が亡くなると、蘇秦が言った様に実行しました。
すると、蘇秦を刺した刺客が自ら自首して来たので、捕えて誅殺した話になっています。
蘇秦は最後まで策を使い世を去りました。
蘇秦の話を聞いた燕では「斉が蘇生(蘇秦)の為に敵討ちをしたやり方は、なんと辛辣な事であろうか」と評したとあります。
しかし、蘇秦列伝では蘇秦が世を去った後に、蘇秦が燕の為に行動していた事が露見し、斉は燕を恨み恐れたと言います。
蘇秦列伝では蘇秦が亡くなった後に、弟の蘇代と蘇厲が兄の成功を見て、遊説を始めた話しになっています。
尚、蘇秦が亡くなった年代については、斉が楽毅により壊滅的な打撃を受けた紀元前284年よりも前だったと考えられています。