朱霊は正史三国志に登場する人物です。
正史三国志に朱霊の伝はありませんが、徐晃伝の最後に書き加えられている状態です。
それを考えると、陳寿は朱霊を魏の五大将軍である張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃らに次ぐ猛者だと考えていたのかも知れません。
ただし、正史三国志の朱霊の記述は極端に少なく、実績に関しては九州春秋や魏略による所が多いです。
朱霊は最初は袁紹に仕えていましたが、曹操の人柄に惚れ込み志願し曹操配下となります。
曹操配下として朱霊は活躍しましたが、何故か曹操からは嫌われ部隊を于禁に取られてしまう事件も起きています。
それでも、朱霊の名声は徐晃らに次いだとあり、後将軍にまで出世しました。
記録だと朱霊は190年頃から戦場にいた記録があり、石亭の戦いを考えると40年近く戦い続けた事になります。
今回は魏の五大将軍の次の猛者とも言える朱霊を解説します。
袁紹に仕える
正史三国志によると朱霊は清河の出身だとあります。
後の記録を考慮すると、朱霊は冀州清河郡鄃県の出身となるのでしょう。
正史三国志の本文では朱霊は「袁紹の将軍であった」と記述があるだけであり、朱霊の前半生は分からない部分が多いです。
袁紹時代の逸話としては徐晃伝の注釈・九州春秋に頼る事になります。
朱霊が袁紹に仕える様になった経緯は不明ですが、朱霊は冀州の出身であり、袁紹が韓馥から冀州を譲渡された時に、沮授、田豊、審配、張郃らと共に配下となったのかも知れません。
もしくは袁紹が董卓から渤海太守に任命された時に、袁紹の名声を聞きつけ配下となった可能性もある様に感じています。
史書に残る朱霊の最初の主君が袁紹だったわけです。
季雍の乱
九州春秋によると、清河の季雍が鄃県で袁紹に反旗を翻し、公孫瓚に味方しました。
袁紹が冀州を韓馥から譲り受けたばかりの頃は、公孫瓚の勢力が袁紹を上回っており、季雍は公孫瓚に鞍替えしたのでしょう。
公孫瓚は季雍に援軍を出し鄃県の守備を固めさせました。
袁紹は朱霊に季雍の討伐を命じる事になります。
季雍と朱霊は共に清河の出身であり、鄃県出身の朱霊なら季雍を説得できると考え、袁紹は朱霊を派遣したのかも知れません。
この時に鄃県の城内には、朱霊の家族がいました。
家族よりも任務
朱霊は季雍打倒の為に動きますが、公孫瓚は朱霊の家族を城壁の上に立たせたとする記録があります。
公孫瓚が立たせたとは九州春秋にありますが、実際には季雍が朱霊の家族を城壁の上に立たせたのでしょう。
季雍は朱霊に「味方しなければ家族の命はない」と伝えました。
この時に、朱霊は涙を流し次の様に述べています。
※九州春秋より
朱霊「男児が身を投げ出し人に仕えたからには、二度と家族を考慮しない」
朱霊は怯むことなく、城攻めを行っています。
季雍は朱霊の猛攻に持ちこたえる事が出来ず、捕虜となりました。
ただし、この時に朱霊の家族は全て殺されたわけです。
この時の朱霊がどの様に思ったのかは記録がありませんが、戦いに勝っても嬉しさはなかったと感じています。
それと同時に朱霊は家族や一族よりも、任務を優先させる人だという事も分かるはずです。
曹操に仕える
曹操は陶謙征伐を行いますが、この時に袁紹は曹操への援軍として朱霊を派遣したとあります。
朱霊は三陣営の兵を指揮させ、曹操を援助しました。
これがどの曹操の陶謙討伐を指すのかは不明ですが、董卓が長安遷都後に関東の地で袁紹派と袁術派が争っており、その時の事ではないかと考えられるはずです。
この戦いで朱霊は功績を挙げたと正史三国志に記録されています。
袁紹から派遣された将軍たちは役目が終わると、袁紹の元に帰還しますが、朱霊は次の様に述べ曹操から離れようとはしませんでした。
※正史三国志 徐晃伝より
朱霊「私は多くの人物を見てきたが、曹公の様な方に出会った事がない。
曹公こそが真の名君であり、出会ったからには、ここを去る理由はない」
朱霊は袁紹の元には帰らず、そのまま曹操に仕えました。
過去に鮑信などは曹操を高く評価しましたが、朱霊もまた曹操を高く評価し配下になる事を決断したわけです。
朱霊の部下達も全員が朱霊と行動を共にしています。
この辺りは朱霊の人望の厚さもあると感じました。
尚、正史三国志の記述では、朱霊の具体的な功績が記録されておらず、次の記述があるだけです。
※正史三国志 徐晃伝より
朱霊は後に優れた将軍となり、名声は徐晃に次いだ。
後将軍にまで昇進し、高唐亭侯にまでなった。
朱霊が魏の五将軍である徐晃の次に評価されるまでの将軍になった事が記載されているわけです。
しかし、正史三国志には、この簡略な記述で終わっており、この先は魏略の記述に詳細が掲載されています。
袁術討伐
袁術は袁紹の助けを求め長子の袁譚と合流を果たそうとします。
この時に、曹操は劉備、朱霊、路招らを袁術討伐に派遣しました。
袁術は病死し、劉備は朱霊と路招をを都に還しますが、劉備は徐州で反旗を翻しています。
曹操が自ら劉備を討伐し、劉備は袁紹の元に逃げ延びました。
後に曹操が朱霊を恨んだ話がありますが、劉備を残して帰還してしまうなど、物足りなさがあったのかも知れません。
尚、三国志演義では劉備に言われて朱霊と路招だけが帰還してしまい、後に劉備が反旗を翻し曹操は激怒し二人を処刑しようとしました。
しかし、三国志演義では荀彧が朱霊と路招を庇った事で事なきを得ています。
この後に、袁紹と曹操の間で官渡の戦いが勃発し、曹操が勝利しました。
曹操の忠告
袁紹の死後に袁譚、袁尚が後継者争いを起こし曹操が介入しました。
曹操は審配が守る鄴を陥落させ冀州を平定しています。
正史三国志の注釈魏書によると、曹操は新たに編入した兵五千と騎馬千頭を以って朱霊に許南を守らせたとあります。
曹操は朱霊に、次の様に忠告しました。
※正史三国志 注釈・魏書より
曹操「冀州の兵らは勝手気ままに振る舞う事を許されてきた。
ここ最近は厳しくしてはいるが、不満を持っているようである。
其方の名には威厳がある。
道義に従って寛大に扱う様にせよ。
そうしなければ変事が起きるだろう」
曹操は朱霊に人々を寛大に扱う様に命じたわけです。
袁紹が恩徳を持ち冀州を治めた事で、今の状態で厳格な行いをすれば反乱が起きると考えたのでしょう。
この時に、北方にはまだ袁煕と袁尚が健在であり、曹操は冀州の民衆による反乱を恐れたと考える事が出来ます。
程昂の乱
曹操は朱霊に忠告したわけですが、朱霊が従わなかったのか程昂が乱を引き起こしました。
魏書には朱霊が陽翟につくと、中郎将の程昂が乱を起こしたとあり、朱霊は曹操の忠告を守らなかったのかも知れません。
ここで朱霊は即座に行動し、程昂を斬りました。
朱霊は曹操に報告しますが、曹操からの手紙の内容を考えると、朱霊は「曹操様の言う事を聞かずに厳格に扱ってしまい乱が起きた」と報告したのかも知れません。
曹操は朱霊の報告を受け取ると、自分で手紙を書き次の様に述べました。
※正史三国志・注釈魏書より
軍中で危険を引き起こす場合は、外部に敵国がおり内には悪事を起こす計画があるものだ。
この様な時に予期せぬ返事が起こりやすい。
過去に光武帝配下の鄧禹は軍の半数を引き連れ征西したが、馮愔と宗歆の難があり、後にはたったの24騎を引き連れ洛陽に帰還している。
しかし、鄧禹はこの事件により威厳を損なったであろうか。
送られた手紙は心が籠っており、責任を負う発言が多くあるが、必ずしも言っている通りではなく、卿(朱霊)の責任であると断定はできない」
曹操は光武帝に仕えた鄧禹を引き合いに出し、程昂の乱は朱霊に責任とは言い切れないと述べたわけです。
曹操の手紙から分かるのは、朱霊の曹操への報告は自分への責任を多く伝えたという事です。
曹操も朱霊に罪を問わなかったのでしょう。
赤壁の戦い
208年に北方を平定し終わった曹操が南下を始めますが、劉表が亡くなり孫権との間で赤壁の戦いが勃発しました。
呉の大都督の周瑜と曹操の戦いとなりますが、赤壁の戦いの本戦には朱霊は参加しなかった様です。
この時に、朱霊は于禁・張遼・張郃・李典・路招・馮楷らと共に、趙儼に統括されました。
赤壁の戦いは曹操は一族を中心とした陣営で望んでおり、朱霊は後方にいたと考えるのが妥当でしょう。
しかし、赤壁の戦いで曹操は呉に敗れ天下統一する事は出来ませんでした。
曹操に恨まれる
于禁伝に朱霊が曹操に恨まれていた話しがあります。
朱霊は曹操に慕って配下になった人物であるにも関わらず、何故か曹操に恨まれたわけです。
曹操が嫌っていた人物として孔融や婁圭、許攸がいましたが、朱霊もまた曹操から疎まれていた話しがあります。
劉備の離反や程昂の乱など、何かしらの「わだかまり」が曹操と朱霊の間にあったのかも知れません。
朱霊は将軍から于禁配下の一部隊長になりました。
于禁は厳格な人物でもあり、朱霊が降格されても于禁に対し文句を言った人が皆無だった話があります。
朱霊が于禁の下になってしまったのが、いつ頃かの記載がなく、どのタイミングで将軍位を剥奪されたかのかは不明です。
しかし、朱霊は武勇に優れた人物であり、実力主義の曹操は再び朱霊を将軍としたのでしょう。
蒲阪津を渡る
曹操は張魯討伐をすると宣言しましたが、関中の諸将は「張魯討伐は表向きに過ぎず自分達が討伐されるのではないか」と不安になります。
関中で不穏な動きが起こり遂に馬超と韓遂を中心に乱が起きました。
曹操は関中平定の為に動きますが、この軍の中に朱霊もいたわけです。
潼関の戦いが勃発しますが、この時に徐晃が曹操に蒲阪津から渡河する様に進言しました。
徐晃は蒲阪津に向かいますが、この軍の中に朱霊もいたわけです。
徐晃や朱霊は無事に蒲阪津を渡り防御陣地を設置しました。
涼州勢の梁興が夜襲を仕掛けてきますが、徐晃や朱霊が対処し撃退しています。
潼関の戦いでは賈詡の離間の計により馬超と韓遂の仲違いもあり、曹操が大勝しました。
朱霊も潼関の戦いでの勝利に大きく貢献したと言えるでしょう。
尚、三国演義では馬超討伐を最後に朱霊は登場しなくなります。
西方で戦う
曹操は夏侯淵に西方を任せ鄴に帰還しますが、朱霊はそのまま西方に留まり、夏侯淵と共に隃麋・汧の氐族を討った記録があります。
さらには、南山の劉雄も打ち破りました。
曹操が張魯討伐を行いますが、武都方面で朱霊は張郃と共に氐族を撃破しました。
漢中は結局は、劉備の手に落ちますが、朱霊は順調に功績を挙げたとも言えます。
高唐侯
曹丕の時代になると、朱霊は鄃侯に取り立てられました。
鄃県は朱霊の家族が殺害された場所でもありますが、朱霊の出身地でもあります。
朱霊の鄃侯就任は故郷に錦を飾る結果にもなった事でしょう。
曹丕は朱霊を重用し領土も増したとも伝わっています。
帝位に就いた曹丕が朱霊を鄃侯に封じた記録が残っています。
※正史三国志 注釈魏書より
将軍(朱霊)は先帝(曹操)の建国を助け、何年にも渡り軍事面で輔弼した。
その威光は方叔・邵虎よりも上位に位置し、功績は絳侯や灌嬰をも超える程だ。
書物の中で賛美されている者であっても、これ以上のものはない。
朕は天命を受け四海の内に君臨しているが、国家に功績があった将軍、重臣には福禄を共有し伝承したいと思っている。
今、鄃侯に取り立てる事にする。
富貴を得て故郷に帰らないのは、夜間に刺繍をした衣服を着て道を歩くようなものである。
もし希望する場所があれば遠慮せずに行って貰いたい」
朱霊は曹丕に感謝し「高唐が念願の場所でございます」と述べ、曹丕は朱霊を高唐侯に封じました。
朱霊は故郷よりも高唐を希望した事になります。
朱霊は高唐亭侯となりました。
尚、曹丕の詔勅の中で方叔・邵虎、絳侯、灌嬰の名前が出ている事が分かります。
方叔・邵虎は西周王朝の時代に周の宣王に仕えた人物であり、絳侯は周勃の事であり灌嬰と共に漢王朝を守った功臣です。
王朝を救った様な功臣と比較される辺りは朱霊の功績の大きさの由縁でもあるのでしょう。
先に述べた様に朱霊は後将軍に任命された記録が正史三国志にあり、この頃には後将軍に任命されていたはずです。
魏書における朱霊の記述は、ここで終わりますが、曹丕の時代になっても朱霊は戦場に立ち続けました。
226年に曹丕が崩御し曹叡が後継者となります。
石亭の戦い
呉の孫権と周魴が示し合わせ策を用いて曹休をおびき寄せました。
これにより石亭の戦いが勃発する事になります。
曹休は包囲され陸遜、全琮、朱桓、朱然らの攻撃を受けますが、後方から賈逵が助けにやってきました。
満寵伝の記述を見る限りでは、曹休を助けようとした人物の中に、朱霊もいた事が分かります。
朱霊は呉軍と遭遇しますが、満寵伝の記述によると敵は後方に退いたとあります。
これを考えれば曹休の命を朱霊が救ったとも言えるでしょう。
ただし、これが朱霊の最後の記述となります。
助かった曹休ですが、怒りと罵りの言葉を助けたはずの賈逵にぶつけ憤死した逸話が残っています。
賈逵もまた亡くなりました。
朱霊も年齢的に考えて、石亭の戦いが終わった頃に亡くなってしまったのかも知れません。
朱霊の最後に関しては記録がなく不明です。
朱霊は威侯の諡が贈呈されました。
尚、朱霊は190年頃から戦場に出ていたとも考えられ、この時には老齢になっており引退した可能性もある様に感じています。
243年に魏では曹芳の時代になっていましたが、曹操時代の功臣を曹操の霊廟に祀りました。
朱霊は曹操に疎まれていた様な話もありますが、下記の人物と共に祀られる事になります。
曹操の霊廟に祀られた人物の中で、唯一朱霊だけが正史三国志で立伝されませんでした。