陳余は秦末期や楚漢戦争で活躍した武将です。
陳余は賢人として名高い人物であり、同じく大梁出身の張耳とは刎頸の交わりを結んでいます。
しかし、鉅鹿の戦い以降は、張耳と憎しみ合う様になり刎頸の交わりも解消しています。
楚漢戦争では、趙歇を補佐しますが、漢軍を率いる韓信に井陘の戦いで大敗し命を落とす事になります。
尚、陳余と張耳を比べてみると同じレベルに見えるか、生き残った張耳の方が少し上に感じるかも知れません。
しかし、人間性で言えば陳余の方がマシだと言えそうです。
張耳と刎頸の交わりを結ぶ
史記の張耳陳余列伝によれば、陳余は儒学を好んだ話があります。
儒学を好んだという事は、孔子の教えなどにも詳しかったのではないかとも考えられます。
陳余はよく趙の苦陘(くけい)に行ったとする話があります。
普段は大梁にいた陳余がなぜ苦陘に行ったのかは不明です。
ただし、陳余が苦陘に通った事で幸運をもたらす事になります。
苦陘の富豪である公乗氏が陳余を見て「ただモノではない」と思ったわけです。
公乗氏は陳余に自分も娘を妻として嫁がせ、誼を結ぶ事になります。
陳余は公乗氏のバックアップにより豊富な資金を受ける事となり、名士と交わりを結んだ話があります。
陳余が交わりを結んだ人物の中に、張耳がいました。
張耳と刎頸の交わりを結ぶ
陳余が張耳に会いに行った話があります。
陳余が張耳に面会に行った時は、秦の統一戦争が終焉を迎えたわけではなく、魏も滅亡寸前ながら戦国七雄の一角として残っていた時代です。
張耳は戦国四君の一人である信陵君の食客だった事があり、後に漢王朝を開く劉邦は張耳の食客だった事もあります。
陳余は張耳に父として仕え、張耳も陳余を認めた事で二人は刎頸の交わりを結ぶ事になります。
刎頸の交わりというのは、戦国時代に趙の廉頗と藺相如が「お互いの為なら首を刎ねられても後悔しない」とする強固な間柄の事です。
陳余と張耳は刎頸の交わりを結ぶ程に親しくなりますが、秦の統一戦争は阻止する事が出来ず、嬴政(秦王政)は天下統一し始皇帝となります。
始皇帝は天下統一すると、危険人物として張耳と陳余を捕えようとします。
始皇帝は「張耳を捕えた者には千金、陳余を捕えた者は五百金を与える」と懸賞金を掛けたわけです。
張耳と陳余は懸賞金が掛けられた事を知ると、陳に逃亡し門番をして暮らした話があります。
ある時、役人がやってくると陳余を睨みつけて鞭を打った話があります。
この時に陳余は、役人に対して反撃しようとしますが、張耳が足を踏み陳余に合図を送り止めた話があります。
無抵抗な陳余を役人が滅多打ちにし、陳余はケガを負いますが、張耳は次の様に言います。
「最初にお主と儂が誓いあった時に、なんと言ったであろうか。それなのに、取るに足らない役人に侮辱されただけで、犬死しようと言うのか。」
陳余は張耳の言葉に納得した話があります。
張耳と陳余の捜索は激しくなりますが、張耳と陳余は気にもせず、相変わらず門番をして暮らす事になります。
陳勝呉広の乱
紀元前210年に始皇帝が崩御すると、胡亥が二世皇帝として即位します。
胡亥は趙高の暗躍により即位した皇帝であり、即位すると兄の扶蘇や、趙高が恨みを持つ蒙恬、蒙毅など秦の重臣を処刑する事になります。
こうした中で、陳勝呉広の乱が勃発する事になったわけです。
陳勝を首謀者とする反乱軍は、陳にまで到達すると張耳と陳余は陳勝に面会を望む事になります。
張耳と陳余は秦では懸賞金が掛けられる程に、名前が知れ渡っていた為に、陳勝も面会に応じる事になります。
陳勝は陳の豪傑らに、楚王になる様に要請されますが、張耳や陳余は次の様に語っています。
「秦は無道を行っています。将軍(陳勝)は無道な秦を討つために挙兵しました。陳に到着したばかりなのに、王を名乗れば私心を天下に示す事になります。
将軍は秦の咸陽を目指し西進する事を第一とし、旧六国(戦国時代の趙、魏、韓、燕、楚、斉)の子孫を探し王位に就けるべきです。」
張耳と陳余は陳勝に楚王になるよりも、旧六国の子孫を王にする様に進言したわけです。
しかし、陳勝は張耳と陳余の献策を採用せず、自ら王に即位する事になります。
陳勝が大楚(張楚)と号し王になると、陳余は次に様に進言しています。
「大王(陳勝)は魏と楚の兵士を率いて西進しなければなりません。しかしながら、河北はまだ平定されたわけではありません。
私は趙に行った事があり、趙の名士と交わり、地形も熟知していますので、私に兵を与えてくれれば趙を平定する事が出来ます。」
陳勝は陳余の言葉に納得し、趙を攻略させる事に同意します。
ただし、陳余や張耳を完全に信用したわけではなかった様で、陳勝と親しい武臣を将軍に任命し、邵騒を護軍として左右の校尉に陳余と張耳を任命しました。
尚、張耳と陳余は陳勝が自分たちを将軍とせず、校尉にした事を恨んだ話も伝わっています。
蒯通の策
陳勝は趙の平定するために、武臣、邵騒、張耳、陳余を派遣しますが三千の兵しか与えてはいません。
しかし、白馬津を渡り河北に入ると、陳余が趙の豪傑らを説き伏せて兵の数は数万に膨れ上がった話があります。
大軍となった武臣らの河北平定軍は、趙の十城を攻略する事になります。
趙の十城を攻略した武臣は武信君と号しています。ただし、趙の平定は順調とは行かず苦戦していたわけです。
河北平定軍は広陽郡の范陽に至り攻撃を始めようとします。
この時に、後に韓信の参謀となる蒯通が暗躍し、范陽の令に次の様に述べた話があります。
蒯通「あなた様が亡くなると聞きましたので、弔問に来ました。しかしながら、あなたは私の言う通りにすれば生き延びる事が出来ます。
秦の法律は厳しく、あなた様も多くの人を処刑してきました。武信君(武臣)の軍が迫っている以上、あなた様が処刑される事は確実です。
しかし、私を武臣君に派遣すれば、生き延びる事が出来ます。」
范陽の県令は蒯通を武臣への使者として送り出すと、蒯通は次の様に述べています。
蒯通「城を攻めなくても戦わずして降伏させる事が出来ます。現在、河北平定軍は十の城を落としましたが県令は全て処刑しています。
范陽の県令は降伏したくても、処刑される事を恐れ降伏する事が出来ません。范陽の県令には侯の印綬を与えればよいのです。
この事実を燕などに広めれば、降伏する城は増える事になるでしょう。
武臣が蒯通の策を採用すると、趙の三十の城が降った話があります。
蒯通の策により、趙の平定は一気に進む事になったわけです。
武臣が趙王になる
武臣、張耳、陳余の河北平定軍は、戦国時代の趙の首都である邯鄲も手に入れる事になります。
この頃になると、陳勝が秦の首都である咸陽を落とす為に派遣した、周章の軍が秦の章邯により敗れ去る事になります。
さらに、陳勝が疑心暗鬼に陥っており、讒言に惑わされ臣下を処刑した話も伝わっていたわけです。
ここで張耳と陳余は武臣に次の様に述べています。
「我らは三千の兵を率いて河北の平定に乗り出しましたが、あなた様(武臣)が趙王にならなくては、趙は鎮定されません。
陳王(陳勝)は疑い深い人ですから、ここで陳王の元に帰っても誅殺されるだけです。
ここで趙王に即位しなけれが、陳王の兄弟が趙王に即位する事になるでしょう。このタイミングを逃すべきではありません」
張耳と陳余の進言により、武臣は納得し趙王に即位し、張耳を右丞相、邵騒を左丞相、陳余を大将軍に任命しています。
武臣や張耳、陳余の行動に陳勝は激怒し、武臣や張耳の家族を処刑しようとしますが、上柱国の蔡賜が止め次の様に述べています。
蔡賜「まだ秦が滅んでもいないのに、武臣や張耳の家族を処刑するのは第二の秦を誕生させる様なものです。」
陳勝は蔡賜の言葉に納得し、趙に慶賀の使者を派遣し、武臣らの家族は宮中に置き張耳の子である張敖を成都君に封じています。
さらに、趙王になった武臣には西進し秦を討つ様に急かす事になります。
韓広の独立
陳勝に秦を攻める様に言われた武臣ですが、陳余と張耳が進言する事になります。
「陳勝の言葉に従って西進し、秦を討ってはなりません。秦を滅ぼせば陳勝は趙に兵を派遣し、趙を滅ぼすつもりでいます。
趙は燕に兵を派遣し、領土を拡大する事に専念すべきです。」
武臣はこの言葉に従い、韓広を燕に派遣し、李良には恒山郡を鎮定させ張黶(ちょうえん)には上党を平定させる事にします。
武臣や張耳、陳余らが予想外だったのは、燕の攻略に向かった韓広が燕で独立してしまった事です。
韓広は燕の豪傑らの要請により、燕王になる事になります。
武臣、張耳、陳余らが陳勝に対して行った事を、韓広がやった事になります。
武臣らは燕を攻撃しますが、途中で武臣が燕の将軍に捕らえられるなどの事もありました。
しかし、張耳や陳余の配下の者が機転を利かす交渉を行った為に、武臣は釈放される事になります。
尚、武臣らも韓広を処罰する事は出来ず、韓広の家族を燕に届けています。
武臣の死
韓広は燕で独立しますが、趙の運命を左右する事になったのは恒山郡の攻略に向かわせた李良です。
李良は井陘を超える事が出来ずにいました。
秦の将軍である王離が井陘を既に塞いでいた為です。
王離と李良は面識があったとも言われ次の様な書簡を送っています。
王離「趙に背き秦の為に働いてくれるのであれば罪は問わず尊貴な位を与えるであろう。」
王離の書簡に対して、李良は返信をしませんでしたが、自分の率いている兵だけでは秦軍に対処する事が出来ず、武臣らに助けを求める事になります。
しかし、李良は武臣に面会に行く途中に武臣の姉の行列に出くわしました。
李良は頭を下げますが、武臣の姉は酒に酔っていた事もあり「殊勝な者である。褒めてつかわす。」と述べる事になります。
李良は屈辱を味わい、李良の進化は李良の心の内を察し次の様に述べています。
「将軍(李良)は元々は趙王(武臣)よりも身分は上でした。
それなのに、趙王の姉は車から降りて将軍に接する事はありません。私に趙王の姉を追いかけて誅殺させてください。」
李良は追撃を許し、武臣の姉を討ち取り趙の首都である邯鄲を急襲する事になります。
李良の襲撃を受けた武臣と邵騒は討ち取られていますが、張耳と陳余は趙の人が情報を伝えた為に窮地を脱する事に成功します。
武臣よりも張耳や陳余の方が人望があったのでしょう。
趙歇を即位させる
李良の乱から逃れた張耳と陳余の元には再び数万の兵が終結する事になります。
この事からも張耳と陳余の名が知れ渡っていた事が分かるはずです。
しかし、李良や秦の軍と戦う将軍がいません。
ここで張耳と陳余の部下が進言する事になります。
「お二人(張耳と陳余)は他国の人間なので、趙で民の上に立つ事は難しいはずです。
戦国時代の趙の王族を探し出し、趙王に即位させ正義を示せば、人々からの支持が得られる事でしょう。
この言葉に従い、張耳と陳余は趙王家の後裔である趙歇を探し出し、即位させる事になります。
趙歇、張耳、陳余は邯鄲と鉅鹿の境にある信都県を本拠地にします。
李良が信都県に侵攻してきますが、陳余が兵を率いて李良の軍を撃破しています。
ただし、戦国時代に趙の首都であり堅城として名高い邯鄲は、秦の将軍である章邯に城壁は破壊され住民は河内に移されています。
章邯は張耳や陳余が邯鄲に籠城される事に、危機感を覚えたのかも知れません。
張耳と陳余は邯鄲が破壊された事を知ると、恐怖した話が伝わっています。
鉅鹿の戦い
趙歇、張耳、陳余は、鉅鹿の城に籠城する事になり、王離が鉅鹿を包囲する事になります。
これが鉅鹿の戦いです。
張耳は陳余に恒山郡に行き、兵を集める様に陳余に依頼する事になります。
この頃から張耳と陳余の間に、隙間風が吹き荒れたのではないか?とも考えられています。
張耳が丞相として取り仕切り、軍事の最高責任者である陳余に対して、越権行為を行う様になったとも言われています。
陳余は張耳に対して不信感を抱いたのかも知れませんが、陳余は恒山郡に行き数万の兵を得る事に成功しました。
陳余が鉅鹿に戻ってくると、既に城は王離の軍に包囲されており危機的な状況にいたわけです。
張耳は陳余に王離の軍に攻撃を仕掛ける様に要請しますが、陳余は動く事はありませんでした。
秦の正規軍である王離率いる30万の軍に陳余が突撃を掛けても、犬死する事は目に見えていたからでしょう。
秦軍に攻撃をしようとしない陳余に張耳は苛立ち、張黶と陳澤を陳余の陣に使者を送り責める事になります。
張黶と陳澤は、陳余に秦軍を攻撃する様に要請しますが、陳余は次の様に答えています。
「私が軍を進めようとしないのは、私が死ねば趙王や張君(張耳)の仇を討つ者がいなくなるからだ。
私がここで秦軍に突撃を掛けても犬死するだけであり、無益な事である。」
張黶と陳澤は、それでも秦の軍に攻撃を掛ける様に願った為に、陳余は張黶と陳澤に5千の兵を与えています。
張黶と陳澤は五千の兵を率いて秦軍に攻撃を仕掛けますが、いとも簡単に敗れ亡くなっています。
張黶と陳澤が敗死した後も、鉅鹿には諸侯の兵が集まり、遂には秦軍と同じ程の兵数にまで達しました。
しかし、諸侯の軍は鉅鹿を見守る事しか出来ず、戦う者はいません。
張耳の子である張敖も、代で兵を集め鉅鹿に帰ってきますが、秦軍を攻撃しようとはしなかったわけです。
ここで楚の項羽が鉅鹿に到着する事になります。
陳余は項羽に鉅鹿の城を攻撃する様に依頼すると、項羽は配下の黥布らが秦軍に攻撃を掛ける事になります。
さらに、項羽も船や食料を焼き払った上で、秦軍に攻撃する事になったわけです。
この時の楚軍は一人で秦軍十人を相手にする程の奮闘をし、章邯や王離を撃破する事になります。
項羽の活躍により鉅鹿は救われる事になったわけです。
刎頸の交わりの解消
鉅鹿の城は救われますが、張耳は自分を助けてくれなかった陳余の事を恨んでいました。
三国志で夷陵の戦いにおいて、自分を助けてくれなかった陸遜を孫桓は恨んでいましたが、戦いの後に孫桓は陸遜を許しています。
しかし、張耳は陳余を許す事はありませんでした。
城から出てきた張耳は張黶と陳澤の事を確認すると、陳余はありのままに話しますが、張耳は陳余を疑い信じなかったわけです。
陳余は張耳が自分を信じない事で、印綬を張耳に押し付けると張耳は困惑し、陳余は厠に行く事になります。
陳余が厠に行っている隙に、張耳の賓客が次の様に述べています。
賓客「天が与える物を取らないのは、その咎めを受ける。陳余が将軍の印綬を譲ろうとするのに、受け取らないのは天の意思に背く事です。」
この言葉を聞くと張耳は印綬を身に着けて、陳余の兵を支配下に置く事にしました。
厠から戻ってきた陳余は、張耳が印綬を辞退しなかった事を恨み、親しい部下の数百人を連れて去り、漁師になってしまいます。
ここにおいて、張耳と陳余の刎頸の交わりは解消される事になったわけです。
陳余と張耳の刎頸の交わりは、戦国時代の廉頗と藺相如の様には行かなかった事になります。
項羽が秦を滅ぼす
項羽は鉅鹿の戦いで、勝利すると秦の首都である咸陽を目指す事になります。
しかし、楚の劉邦の軍が先に、秦の子嬰を降伏させ咸陽を落としていたわけです。
項羽の軍師である范増は、劉邦を危険視しており、鴻門の会で処刑しようとしますが、張良、樊噲らが機転を利かせた事で窮地を脱しています。
項羽は咸陽に入ると、最後の秦王である子嬰を処刑し、諸侯を分封する事になります。
この時に、張耳は恒山王となり、趙歇は僻地である代に移されています。
陳余の食客だった人物が項羽に次の様に述べた話があります。
食客「張耳と陳余は一心同体であり、陳余は趙において功績を立てております」
この言葉を聞くと項羽は、陳余に南皮に近い三県を与えられる事になったわけです。
しかし、張耳は「王」となり、陳余は「侯」の身分だった事に不満を覚える事になります。
さらに言えば、張耳と陳余の最初の志は、自ら王になる事ではなく、秦を打倒し戦国七雄の時代に大梁を首都としていた魏を再興する事であり、栄達を望む張耳に対して不快感もあったのでしょう。
代王となる
陳余は恒山王になった張耳を襲撃するために、斉の田栄を頼る事になります。
田栄は田儋や田横と共に挙兵しましたが、項羽に従って関中に入る事はせず、独立勢力となっていたわけです。
陳余は配下の張同と夏説を田栄に使者として送り、趙王だった趙歇が僻地の代の王となり、張耳が常山王に就任するなど項羽の分封は不公平だと指摘します。
田栄も斉の王族であった人物であり、陳余に納得し兵を貸し与える事になります。
陳余は田栄に兵を借りると、張耳を急襲する事にしたわけです。
趙の地を支配するのは、張耳ではなく趙歇である事は明らかであり、多くの人々の支持を得た事で陳余の軍は大軍となり、信都にいる張耳を攻撃しました。
陳余が多くの人々に支持された事もあり、張耳は呆気なく敗れ劉邦の許に逃亡する事になります。
陳余は張耳を倒すと、代から趙歇を迎え趙王に立てています。
趙歇も陳余の事を信頼した様で、陳余は代王になります。
陳余は代は腹心である夏説に治めさせ、自身は趙歇の元で政務を助ける事になります。
彭城の戦い
劉邦の軍師である張良は、項羽に書簡を送り「斉と趙は連合し楚を滅ぼそうとしている。」と連絡を入れています。
張良の目的としては、項羽が東方の斉などに目をやっている隙に、三秦の王である章邯、董翳、司馬欣らが治める秦の地を、劉邦の支配下に置くためです。
項羽が斉に遠征に行っている隙に、劉邦は項羽の本拠地である彭城を急襲し占拠しています。
この時に陳余は、張耳の首を寄越せば劉邦に味方する事を約束しています。
劉邦は張耳の首を送る訳にも行かず、似ている人物の首を陳余に渡す事になります。
陳余は劉邦に味方しますが、劉邦は斉から引き返した項羽に大敗する事になったわけです。
この時に、張耳が生きている事を陳余が知り、漢とは断絶する事になります。
彭城の戦いが終わると、魏豹が劉邦に反旗を翻すなど、項羽が再び優勢になります。
しかし、劉邦は名将である韓信を用い魏豹の討伐に成功します。
陳余の最後
魏を攻略した韓信は、代を攻める事になります。
韓信の軍には、張耳も同行していたわけです。
陳余に代わり代を治めていた夏説は、韓信の軍に敗れました。
夏説は閼与で捕えられています。
韓信の軍がやって来る事を知ると、陳余は20万の大軍で井陘で決戦を挑む事になります。
これが井陘の戦いです。
陳余の配下である広武君の李左車は、3万の奇兵を使い間道から漢軍の後ろに回り込み、糧道を断つ事を進言します。
余談ですが、李左車は戦国時代の趙の名将である李牧の子孫だと伝わっています。
しかし、陳余は堂々と正面から決戦を挑む事を主張し、李左車の意見を退けています。
張耳の方も陳余が猪武者であり正面からの突撃を好む事を知っており、韓信に進言しました。
韓信は背水の陣などの奇策を使い、陳余の軍を破る事になります。
これにより陳余は斬られ、趙歇も捕虜となります。
陳余が李左車の進言を断わり、正面から戦ったのは、陳余が儒教を好み策謀や奇計を嫌った為とも言われています。
陳余が井陘の戦いで敗れたのは、楚漢戦争版の「宋襄の仁」だとも考える人もいます。
韓信が趙を平定する事に成功すると、劉邦は張耳を趙王としました。
尚、陳余が亡くなったのは紀元前205年ですが、張耳も紀元前202年には亡くなっています。
陳余と張耳は貧しかった頃は、大志を持ち仲は良好でしたが、出世した時には仲違いしました。
漢の蕭何と曹参も地方の役人だった頃は、仲がよかったが侯の身分になるや仲違いした話もあり、尊貴な身になれば考え方も変わるのかも知れません。
ただし、蕭何と曹参は仲違いしてもお互いを認め合っていたのか、蕭何が亡くなると曹参が宰相となり、曹参も蕭何の事を認めていた話もあります。
その点が、張耳と陳余の違いとなるのでしょう。
尚、楚漢戦争は陳余の死後も続き、張良、韓信、蕭何、陳平などの優秀な人材を揃えた劉邦が、項羽を垓下の戦いで破り勝利しています。
劉邦は天下統一後は皇帝となり、漢王朝を樹立する事になったわけです。