春秋戦国時代

張儀は六国の連衡を成立させた

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宮下悠史

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名前張儀
生没年生年不明ー紀元前309年
時代戦国時代
コメント六国の連衡を成立させた

張儀は春秋戦国時代の人物であり、に仕えました。

史記の記録では蘇秦と対比する存在として張儀が描かれ、蘇秦が六国の合従を成功させ、張儀が六国の連衡を成功させた事になっています。

張儀は元祖連衡とも呼べるほどの人物です。

ただし、近年の研究では蘇秦は張儀よりも、50年程後の人物だったのではないかと考えられる様になりました。

蘇秦に比べると張儀は年代的な矛盾が少なく、秦の恵文王の時代の人だった事は確実でしょう。

張儀は蘇秦と並ぶ縦横家の代表的な人物ではありますが、楚の懐王に詐術を使ったり、連衡の同盟を結ぶ時も秦の国力を背景とした恫喝外交が多かったと言えます。

司馬遷は張儀列伝の最後で「蘇秦と張儀は危険極まりない人物」として評しました。

今回は張儀の生涯を順を追って解説します。

張儀の生い立ち

史記に張儀列伝のよると、張儀はの人だとあります。

張儀は魏の出身だという事なのでしょう。

の名臣である商鞅范雎が魏にいた話がありますが、張儀もまた魏にいた事になります。

張儀列伝には鬼谷子の元で、蘇秦と共に合従連衡の術を学んだとあります。

蘇秦列伝の記述も鑑みれば、張儀はに行き鬼谷子の元で学んだと言えるでしょう。

張儀列伝によれば「蘇秦は自分の才能が張儀に及ばないと自認していた」とあります。

この記述を見れば、能力的には蘇秦よりも張儀の方が上という事になります。

尚、「及ばないと自認していた話」は史記では他にもあり「李斯韓非子に及ばない事を自認していた」と記録されており、相手を持ち上げる為の手法でもあるのでしょう。

張儀の舌

張儀は学問を学び終えると遊説を始めました。

ある時に、の宰相と酒を飲む機会がありました。

この時に、楚の宰相の壁が紛失する事件が起き、配下の者達は「張儀は貧しく品行方正もよくない。宰相の壁を盗んだのは張儀だろう」と述べ容疑が掛けられたわけです。

張儀は捕えられ何百回も鞭を打たれますが、自分がやったとは言わず、鞭を打つのは中止となりました。

張儀はボロボロになって妻に会うと「貴方が読書や遊説などしなければ、辱めを受ける事も無かっただろうに」と気の毒がりますが、張儀は気にせず舌を見せて「儂の舌があるかみてくれ」と告げると、妻は笑って「ありますとも」と答えました。

張儀は「それなら十分だ」と述べ、気にもしなかったわけです。

楚の宰相に鞭を打たれた話は、張儀のタフさを現わす逸話にもなっているのでしょう。

尚、張儀を鞭うった楚の宰相は昭陽だったとする説もありますが、後に張儀と昭陽が会合を行った時に何の事件も起きておらず、張儀を鞭打った宰相が誰なのか不明です。

張儀と蘇秦

張儀の発奮

史記の張儀列伝によると、蘇秦は張儀よりも先に出世し合従の盟約を成功させていたと言います。

しかし、蘇秦はが合従の同盟を結んだ六国を攻撃し、合従の同盟が崩れる事を心配しました。

ここで蘇秦が秦を釘付けにする為に、目を付けたのが張儀です。

蘇秦は張儀の元に人を派遣し「蘇秦と仲が良かったのだから、蘇秦を訪ねてみればいいのではないか」と告げさせました。

張儀は蘇秦の元に出向きますが、蘇秦は張儀に対しわざと待遇を下げ、漸く会うと召使と同じ食事にするなど低い扱いをしました。

さらに、「其方程の才能がありながら、困窮するのは情けない限り。私は富貴にしてやる事も出来るが、その価値もない」と述べ、張儀を立ち去らせています。

張儀は蘇秦の元に行き出世の糸口にしようと思っていましたが、相手にされなかったと言えるでしょう。

張儀は発奮し「秦に用いられて蘇秦がいる趙を攻撃してやる」と考え、秦に向かいました。

張儀が蘇秦に敵わないと自認

張儀は蘇秦に怒りを覚え、秦に向かいますが、蘇秦の方では家来に「張儀は天下の賢士である。私の及ぶ所ではない。たまたま私が早く栄転しただけだ。其方は張儀を助けてやって欲しい」と告げたわけです。

張儀はに行く道中で謎の人物に出会い、金銭や必要なものを援助して貰いました。

謎の人物は理由を告げず援助をし続け、遂に張儀は秦の恵文王と謁見するまでとなり、客卿の位に立つ事になります。

ここで張儀の世話をした謎の人物は張儀に別れを告げました。

張儀は恩返しができると思っており不思議がり尋ねると「貴方様を知っているのは私ではなく蘇秦様です」と事情を告げる事になります。

張儀は全てを悟り「この程度の事は既に学んでいたはずだったが、私は悟る事が出来なかった。蘇秦殿がにいるのに、私に何が出来るというのだろうか」と語った話があります。

張儀の「してやられた感」が半端ないと伝わる逸話にもなっています。

蘇秦が合従で六国を率い、張儀は秦の抑えとなった話となります。

ただし、蘇秦列伝では犀首(公孫衍)がを欺き、蘇秦の合従が崩壊した話があり、これが真実だとすれば張儀は秦を抑える事が出来なくなってしまった事になるのでしょう。

尚、呂氏春秋では張儀を助けたのは、蘇秦ではなく昭文君なる人物となっています。

張儀の檄文

張儀は蘇秦には感謝しましたが、過去に鞭打ちを命令したの宰相に対しては恨んでいました。

楚の宰相に対して、張儀は次の様な文面を送りつけています。

※史記張儀列伝より

張儀「過去にお前に従い酒を飲んだ時に、お前は私が壁を盗んだとして鞭を打った。

今度は儂がお前の城を盗むから、お前はしっかりと自分の城を守っていろ」

張儀は秦で用いられた事から、楚の宰相に対し檄文を送りつけた事になります。

張儀と司馬錯の議論

史記の張儀列伝によると、巴と蜀が争い、どちらも危急をに告げ援軍を求めて来たと言います。

さらに、も秦に侵攻してきました。

秦の恵文王は決断が出来ずにおり、張儀と司馬錯が議論を行う事になります。

張儀は先に韓を討つべきだと進言し、司馬錯は巴蜀の地を制圧する様にと進言しました。

ここで張儀は中原への進出を進言し、東周王朝を屈服させ、の地を取るようにと進言する事になります。

張儀は僻地の巴や古蜀を平定するよりも、東周王朝にいう事を利かす方が重要だと説きました。

これに対して、司馬錯は「国を富ませる事が先決」と説き、殷の紂王や夏の桀王の如き混乱している巴や古蜀を討った方がメリットは大きいとしたわけです。

秦の恵文王は司馬錯の意見に従いました。

天下の縦横家の張儀の意見よりも、司馬錯の進言を秦の恵文王は優先させた事になるでしょう。

尚、秦は古蜀と巴を陥落させ、国土は大きく拡大しより強力となりました。

張儀列伝には蜀王の位を落し蜀侯とし、陳荘を蜀の宰相にしたとあります。

魏の蒲陽を取るも返還

史記の張儀列伝によると、紀元前328年に張儀が公子華と共に、蒲陽を降したとあります。

秦軍は戦いに勝利しましたが、張儀は秦の恵文王に蒲陽をに返し、の公子繇を魏への人質とする様に進言しました。

張儀は魏の恵王の前に行くと「秦は魏に手厚いのだから、返礼の意を示さなければらない」と進言する事になります。

魏の恵王は魏の上郡と少梁を秦に贈りました。

秦の恵文王は張儀の功績を認め宰相に任命し、重用する事になります。

張儀列伝によれば、この時に少梁の名を夏用に改めたと言います。

尚、紀元前328年に秦はと戦っており、秦が蒲を魏に返還し公子繇を人質としたのは、趙と魏を同時に相手にしたくなかった部分もあるのでしょう。

張儀の活躍

張儀がの宰相になってから4年目には従来公と称し、秦の恵文王は「王号」を称しており、東周王朝の下から正式に離脱したと言ってもよいでしょう。

既に斉の威王や魏の恵王は王を名乗っており、秦の恵文王も「王」となりました。

さらに、張儀は将軍となり陝を攻略する事になります。

紀元前323年には齧桑での宰相と会見を行いました。

過去に張儀は楚の宰相を恨んでいたはずですが、齧桑の会で何事も起きておらず、張儀が楚の宰相を恨んでいたというのは、説話だった可能性があります。

それでも、張儀が軍事、外交、政治と様々な分野で活躍しているのが分かるはずです。

張儀が魏の宰相となる

張儀が恥じ入る

齧桑での会合が終わり、に戻りますが宰相の位を罷免させられました。

ただし、張儀が宰相の罷免されたのは、秦の恵文王の信用を失ったわけではなく、の宰相になる為です。

張儀の役目は魏を秦に服従させる為でした。

魏が秦に臣従させる事が出来れば、諸侯は次々に秦に服従するとも考えており、実行に移したわけです。

しかし、魏の恵王は張儀の思った様には動かず、秦の恵文王は魏を攻撃し、曲沃と平周を取りました。

秦の恵文王は張儀を厚遇していましたが、張儀としては魏を思った様に動かす事が出来ず恥じていたと言います。

張儀列伝では魏の襄王(恵王?)が亡くなり、魏の哀王が即位すると、張儀は魏の哀王を上手くコントロール出来ず、秦が再び魏を攻撃し勝利した事になっています。

しかし、魏世家では魏の恵王が亡くなり、魏の襄王が即位すると、張儀は秦に戻ったとする記述があります。

この辺りは、史記の張儀列伝と魏世家で差異が出ており、どちらが正しいのかは不明です。

魏と連衡

史記の張儀列伝によると魏の哀王(襄王)に、張儀は連衡を説く事になります。

張儀は魏の領土は方千里に足らず、兵卒は30万に過ぎないと述べ、険阻な山や川もなく首都の太梁に到達するのは容易だと伝えました。

蘇秦は六国を合従させた時に、相手を持ち上げた上で交渉に入りますが、張儀は相手国を下げた上で、交渉に持ち込み連衡を成功させたといえます。

張儀は相手を下げた上で、が生き残るためには、秦に仕え連衡が最適だと述べる事になります。

さらに、合従論者は大言壮語が多く、信頼に足るものがないと伝えました。

張儀の言葉により、魏は連衡を選択する事になります。

魏が秦に仕える事になると、張儀は秦に帰ったとあります。

しかし、魏は3年もすると、秦を裏切り合従に加わった事で、秦は曲沃を討ち、魏は再び連衡に戻りました。

司馬遷は張儀列伝を作成するに辺り、張儀が魏王の哀王に連衡を説いたのが、紀元前317年の事として考えていた様ですが、この年に蘇秦の合従が崩壊したとも考えていた様です。

尚、張儀が連衡を成功させた最初の相手が魏となります。

張儀と楚の懐王

商・於の六百里の地

張儀は秦の宰相となりますが、ではが合従の同盟を結んでおり、何とかしたいと考えていました。

秦の恵文王は張儀を楚に向かわせると、楚の懐王は上等の宿に泊まらせるなど厚遇し、自ら教えを請う事になります。

張儀は「楚が斉との盟約を断てば、商・於の六百里の地を献上し、秦・楚で婚姻関係を結びたい」と述べました。

楚の懐王は喜び了承し、楚の大臣らは祝いの言葉を述べますが、陳軫だけは「斉と関係を断っても商・於は得られずに終わる」と進言する事になります。

陳軫の言葉に楚の懐王は耳を傾けず、張儀の言葉を信じ、陳軫の諫言を却下しました。

楚の懐王は斉との盟約を断ち、張儀は秦に戻りますが、わざと車から落ちた事にし、参内しなくなります。

張儀が朝廷に出ない事をみた楚の懐王は「斉と断絶したのか疑っているに違いない」と考え、勇士に斉王を罵らせました。

斉王は激怒し盟約の符節を折り秦と結び、秦斉同盟が成立しました。

ここで張儀は参内し、楚の使者に「お礼に六里の地を献上致す」と述べますが、当然ながら使者は「商・於の六百里の地」を要求する事になります。

張儀は譲らず、使者は楚に帰って楚の懐王に報告する事になります。

秦としては、斉と楚が同盟を結んでいる事が厄介なのであり、楚が孤立すれば「商・於の六百里の地を与える必要はない」と考えたのでしょう。

丹陽・藍田の戦い

張儀の話を聞いた楚の懐王は激怒しますが、ここで陳軫が再び懐王を諫め「これならに土地を割譲し、共にを攻撃した方がマシ」としました。

しかし、楚の懐王は陳軫の進言を却下し、将軍の屈匄や逢侯丑に出撃させ秦を攻めさせたわけです。

秦では樗里疾や魏章に出撃させ、丹陽・藍田の戦いの戦いで楚軍を大いに破りました。

丹陽・藍田の戦いでは秦は8万の敵を斬首した記録もあり、秦軍の圧勝だったのでしょう。

楚の懐王は張儀に対する怒りに我を忘れ、漢中をも失う事になりました。

張儀が釈放される

秦の恵文王は黔中の地を得たいと考え、楚の懐王に武関の外の地と交換を打診しました。

しかし、楚の懐王は張儀を恨んでおり「張儀と黔中の地を交換したい」と述べる事になります。

秦の恵文王は黔中の地が欲しく、張儀をに行かせたいと考えていましたが、張儀を楚に向かわせれば処刑されるのも同然と考え、伝える事が出来なかったわけです。

張儀の方ではは強国で、楚は弱く、自分は楚の靳尚と親しく、靳尚は楚の懐王が寵愛する鄭袖に気に入られていると伝えました。

張儀は楚に向かいますが、楚の懐王は直ぐに張儀を捕らえる事になります。

靳尚は鄭袖に張儀の助命を依頼しました。

鄭袖としても、張儀が処刑され秦と楚の講和があり、秦が美女を懐王に贈られては困る部分もあり、張儀の助命嘆願に動いたわけです。

楚の懐王は張儀を許しました。

張儀と六国連衡

張儀と楚の連衡

史記の張儀列伝によると、張儀が許された頃に、蘇秦が亡くなったと記録されています。

張儀は釈放された後もに残り、楚の懐王に連衡を勧める事になります。

楚の懐王に張儀はの領土は天下の半ばを占めていると述べ、険要の地と百万の軍がいると告げました。

張儀は秦の強さを語り、虎と羊では勝負にならないと述べ、合従では国が亡ぶと言い蘇秦の事も「詐欺」だ伝えています。

屈原は張儀の連衡に猛反対しますが、楚の懐王は張儀の申し入れを受けました。

楚の懐王と張儀の話ですが、最近の研究では蘇秦は斉の湣王の時代まで生きており、張儀が楚の懐王に説得した内容は創作だと考えられています。

張儀は楚が連衡に参加すると、に向かいました。

韓が連衡に参加

張儀列伝によると、韓王に張儀が連衡を説く事になりますが、年代的に紀元前311年だと考えられており、韓の襄王に説いたと考えられています。

張儀は韓の襄王に、は食糧が不足しやすく土地が九百里しかなく、兵力もせいぜい30万がやっとだと告げました。

ここでも、張儀は韓を下げる様な発言をしたわけです。

張儀は合従論者の甘い言葉に騙されるとロクな事にはならないと告げ、の強大さを語りました。

さらに、成皋の道を塞げば、韓は分断出来ると恐怖を煽る事になります。

韓の襄王も張儀の連衡への参加を約束しました。

韓を従える事に成功した張儀は秦に帰ると、秦の恵文王は張儀を五邑の領主として功績に報い、武信君の号を賜わる事になります

秦の恵文王は張儀をに向かわせました。

斉が連衡に参加

張儀は斉の湣王の前に立つと、弁舌を振るいました。

張儀は斉の湣王の前でが強国だと認めながらも、世間の論者は百代の利益を顧みていないと告げる事になります。

しかし、ここで張儀は過去に斉と魯が戦い魯が三度勝ちながらも国が危うくなったと言い、も秦に二度勝利しながらも、国が危うくなったと話しました。

戦いに勝ったにも関わらず、国が危機に陥るのは、が強かったからだと述べる事になります。

張儀はと秦は婚姻関係にあり、が宜陽を献じ、は河外を献じたと告げ、斉の湣王の連衡への参加を求めました。

斉の湣王は連衡への参加を認める事になります。

ここでは、張儀列伝の記述を元に斉の湣王としましたが、張儀が連衡を成功させたとされる紀元前311年の段階の斉王は斉の宣王だと考えられています。

秦から遠く離れた斉の地では、年表のズレが生じており、年代を追うのが難しくなっている状態です。

張儀は斉を後にすると、趙に向かいました。

趙が連衡に参加

張儀は趙の武霊王と会見を行う事になります。

張儀は趙の武霊王に現在の秦は巴蜀を攻略し、漢中も併呑したと伝えました。

張儀得意の秦の強国アピールをしたと言ってもよいでしょう。

その上で、蘇秦が諸侯を惑わし、最終的に車裂きの刑に処せられたと告げました。

さらには、韓や魏が秦の藩臣となり、も魚塩の地を秦の献上したと述べ、連衡が成され様としていると述べます。

を攻撃すれば、趙は滅亡の危機に瀕すと言い連衡を勧めました。

趙の武霊王は趙の粛侯や奉陽君の話などをした後に、連衡への参加を了承しています。

尚、ここでも張儀は蘇秦を悪く言っています。

司馬遷は張儀列伝の最後で、張儀が蘇秦を悪く喧伝し自説を述べていると話しており、張儀の連衡交渉の事を指すのでしょう。

張儀はに向かいました。

燕が連衡に参加

張儀は燕の昭王と面会すると、燕の昭王が頼りにしているのは、趙だと言い当てました。

しかし、張儀は趙襄子が代王と婚姻関係を結ぶも、酒宴に誘きよせて殺害してしまった事を告げ「とても信用出来る国ではない」と述べる事になります。

その上で、現在の趙は河間の地を割き、に臣事していると告げました。

張儀はが国を保つには、秦に仕えるのが正解であり、趙の禍を防げると伝えました。

燕は秦とは国境を接していませんでしたが、張儀の言葉に燕の昭王は動かされ、恒山の麓の五城を献上し、連衡への参加を伝える事になります。

既には連衡に参加しており、秦と六国の連衡は成立しました。

張儀の連衡政策について

張儀の連衡政策を見ると分かる様に、最初に相手の欠点を述べた上で、合従論者を否定し秦の強大さをアピールするわけです。

張儀の言葉は大国であるに裏打ちされた恫喝外交でもあったのでしょう。

司馬遷は「張儀のやった事は蘇秦以上に酷い」と言っていますが、楚の懐王に行った詐術だけではなく、こうした恫喝外交も指すのでしょう。

張儀は楚の懐王を騙し、懐王は最後は秦の昭王により幽閉され、秦で最後を迎えました。

秦末期になると、項梁項羽が義帝に「懐王」と名乗らせ、反秦のシンボルとしていますが、秦の昭王だけではなく、張儀が懐王に行った詐術もあり、天下の人々は懐王に対し同情的だったのでしょう。

さらに、張儀の恫喝外交は連衡を成功させましたが、天下の評判はよくなく、秦が滅亡する遠因を作ったと言えるのかも知れません。

尚、張儀の連衡は紀元前311年の1年間の間で交渉を成立させた事になっていますが、科学技術も発展していない時代に1年でこれほどの事が出来るのか?と疑問視されている状態でもあります。

張儀最後の策

張儀は六国の連衡が成立すると、からに向かいますが、この途中で秦の恵文王が亡くなり、秦の武王が即位する事になります。

秦の武王は太子だった頃より、張儀を嫌っていたと言います。

秦の武王は怪力の持ち主であり、体育会系の思考の持ち主であり、張儀の様な人間を「口だけの男」と判断し嫌っていたのかも知れません。

張儀と秦の武王の仲が上手くいっていない事が知れ渡ると、諸侯は連衡に背を向け合従に戻ったとあります。

秦の群臣らの讒言もあり、張儀は誅されると恐れ、秦の武王に「自分がに行けば、は自分を恨んでいるから魏を攻撃する」と述べ、魏に向かわせる様に進言しました。

秦の武王は張儀の言葉に納得し、魏に向かわせる事になります。

時代的に考えて、この時の斉王は斉の宣王だった事でしょう。

張儀が魏に入ると、斉は魏を攻撃し魏の襄王は恐れますが、張儀は配下の馮喜を斉に向かわせました。

馮喜が斉の宣王を説得し、斉は兵を退く事になります。

張儀は宰相になったのか

史記の張儀列伝によると、張儀はの宰相になって亡くなった事になっています。

しかし、史記の魏世家の方では秦と魏が臨晋で会合を行い、張儀、魏章らが魏に入った事が記録されている状態です。

この時に魏の宰相の田需が亡くなり、では張儀、公孫衍、孟嘗君の誰かが宰相になるのではないかと恐れた話があります。

楚の宰相の昭魚と蘇代が話をし、張儀、公孫衍、孟嘗君の誰かではなく、魏の太子が宰相になるのが都合よいとしました。

蘇代は魏に行き魏の襄王を説得し、魏では太子が宰相になった話があります。

魏の襄王の後継者は魏の昭王であり、魏の昭王が宰相になったのでしょう。

魏世家では、この翌年に張儀が亡くなった話があり、張儀は魏の宰相になっていない事になります。

張儀列伝と魏世家で話が違っており、張儀が魏の宰相になったのかは不明です。

張儀の最後

史記の張儀列伝によると、張儀はの宰相を1年やり亡くなったと書かれています。

先にも述べた様に魏世家では、宰相にならず魏の太子が宰相になった翌年に亡くなった事になっています。

張儀の死は紀元前309年になるのでしょう。

張儀の行いは人に褒められるようなものではなかったのかも知れませんが、天授を全うしたと言えそうです。

尚、司馬遷は張儀列伝の最後で蘇秦と張儀の事を「危険極まる人物」と評しました。

司馬遷は蘇秦と張儀を危険人物としましたが、能力の高さも認めており、畏怖の意味もあり髙く評価していたのでしょう。

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