趙括は中国の戦国時代の武将であり、史記や資治通鑑にも登場します。
趙括は趙奢の子で名将と呼ばれた父親を論破しており、周囲の期待も大きかった人物です。
周りからの期待が大きかった事で、趙括自身も自分の事を優れた兵法家だと思っていたのでしょう。
趙括は長平の戦いで廉頗が更迭され、将軍となった事でも有名です。
長平の戦いで白起と趙括は対峙しますが、廉頗のやり方を大幅に変えました。
趙括は兵法書を暗記しているだけの無能とする評価もありますが、そもそも趙括と戦ったのが白起であり、アレキサンダー大王やハンニバル、スキピオなど歴史に名を残す程の将軍でなければ勝てなかったのではないか?とする同情的な声もあります。
尚、三国志の馬騰や馬超などは趙奢の子孫だったとされていますが、趙括の直系になるのかは不明です。
趙奢の子
父親を言い負かす
趙括の父親は趙奢です。
趙奢は徴税官でしたが、平原君の推挙により取り立てられた人物となります。
趙括も兵法を好み父親の趙奢と議論を行いますが、いつも趙括が言い負かせていたわけです。
趙括は名将と言われた趙奢を何度も言い負かせた事で、兵法の大家だと自認する様になります。
趙奢は頭の回転は、かなりよかったのでしょう。
ただし、実戦経験はなく、あくまでも机上の空論だったわけです。
それでも、兵法において趙括が趙奢を論破した事で、趙国内で趙括は噂の人になっていったのでしょう。
趙奢の評価
趙奢は趙括に何度も言い負かされますが、趙括の能力を評価しようとは考えませんでした。
趙奢は戦場は過酷な生死のやり取りの場なのに、趙括が軽々しく戦場を語る事に対し問題視していたわけです。
趙括の名声は日々高まってはいましたが、趙奢は「趙軍を破滅に導くのは趙括だ」と述べた話しもあります。
趙奢は趙括が将軍になる事を願いませんでした。
趙奢は趙括の敗北を早い段階で預言していたわけです。
口先だけで兵法を語っても、立派な将軍にはなれないと趙奢は考えたのでしょう。
それならば趙奢は趙括に戦場に連れて行って見ればよいと思うかも知れませんが、何故か趙奢は趙括を戦場に連れて行く事はしませんでした。
趙奢にしてみれば、戦場に趙括を連れて行っても、兵法を雄弁に語るだけで足手まといとなり、軍内を乱す存在だと考えた可能性もあります。
将軍に任命される
秦の策略
趙の孝成王の時代になると、韓の上党太守の馮亭が趙に降伏し長平の戦いが勃発する事になります。
この時に秦軍の指揮を執ったのが王齕であり、趙の廉頗は局地戦で何度も敗れました。
廉頗は秦軍に勢いがあると考えたのか、防御を固め戦わなくなったわけです。
王齕は守りを固める廉頗を崩す事が出来ず戦いは膠着しました。
こうした中で秦の昭王や范雎らは、廉頗が相手では勝利する事は出来ないと考え、次の噂を趙に流しています。
廉頗は年老いた。
秦軍が恐れているのは、趙括が将軍に任命される事だ。
秦の首脳部は趙括に名声があっても、実戦経験がない事を見抜いており、趙括を将軍にしようと画策したわけです。
趙の孝成王は即位してから日が浅く血気盛んであり、戦おうとしない廉頗に不満があり趙括を将軍に任命する様に決断しました。
孝成王の父親である趙の恵文王であれば「最後に勝てばよい」と考えた可能性もありますが、孝成王は趙括を将軍に任命したわけです。
藺相如の諫言
廉頗が更迭され趙括が将軍になるのに反対したのが、趙の重臣である藺相如です。
この時に藺相如は重病でしたが、趙括が将軍になるのは問題だと考え、趙の孝成王に謁見を望みました。
藺相如は趙の孝成王の前で、趙括を次の様に評価しました。
※史記 廉頗藺相如列伝より
藺相如「趙王様は名声により趙括を用いようとしてはいますが、それは『柱に膠して瑟を鼓す』のと同じです。
趙括は父親の兵法書を読んだだけであり、臨機応変にして的確な対処の術を知りません」
藺相如は趙括が実戦の経験がない事を危惧し、臨機応変に動く事が出来ず、今の趙括は口先だけの兵法家だと見抜いていたのでしょう。
藺相如は秦の昭王との澠池之会では怒髪天を衝くほどの威勢を見せましたが、この時は重病だったせいか、趙の孝成王の説得に失敗しました。
尚、廉頗と藺相如は刎頸の交わりを結んだ中であり、趙の孝成王からしてみれば、懇意にしている廉頗を藺相如が庇っている位にしか思わなかった可能性もあります。
因みに、藺相如が述べた「柱に膠して瑟を鼓す」は状況の変化に対応する事が出来ないとする諺にもなりました。
母親の諫言
趙括の出陣の日が近づいてきますが、ここで思いがけない人物が趙括の出陣に反対しました。
趙括の母親は、趙の孝成王に次の様に進言しています。
※史記 廉頗藺相如列伝より
趙括の母親「私は妻として趙括の父親である趙奢に仕えました。
父親の趙奢は将軍ではありましたが、自分の手でご飯を盛り部下にお酌をするなど、面倒を見た部下が数十人もおり、友として付き合った者は数百人にものぼります。
趙王様や宗室から下賜された物は軍吏や士大夫らに分け与え、出陣が決まれば家の事は一切振り返る事がありませんでした。
趙括は思いがけず将軍となりましたが、東を向き参朝しても軍吏は一人として仰ぎ見る者がいません。
趙括は王から贈られた品々は家にしまい込み、毎日、田地の物色ばかりを行っています。。
趙王様は趙奢と趙括を見比べてみて、どの様に感じていますのでしょうか。
父と子で、ここまで心の持ち方が違うのです。
趙括を将軍としはなりませぬ」
趙括の母親は趙括が将軍になるのに猛反対したわけです。
しかし、趙の孝成王は趙括の母親の進言を却下しました。
趙括の母親は「趙の孝成王への説得は無理」だと考えると、趙括がどの様な結果になっても「自分達が連座する事は無きように」と伝えました。
趙の孝成王は「趙括が戦いに敗れても処罰しない」と趙括の母親と約束しています。
後の事を考えれば、趙括の母親の言葉が一族を救う事になります。
尚、趙奢は閼与の戦いでは「儂に意見する者は死罪に致す」など厳しい事を言っていますが、普段は部下に対して温情も見せ心を掴んでいたのでしょう。
趙奢は清貧を貫いた様ですが、歴史を見ると父親が清貧を貫き、子が奢侈になるパターンがあります。
大敗北への道筋
大改革
趙括は廉頗と交代し、遂に軍を掌握したわけです。
これが趙括の初陣でもあったのでしょう。
秦でも趙が趙括を将軍にしたと聞くと、総大将の王齕が副将となり、白起が総大将となりました。
趙括は廉頗と変わるや軍令を悉く変更し、軍吏を更迭したとあります。
これが本当なら趙括は敵を前にして、軍内の改革を行った事になります。
勿論、軍令や軍吏を更迭したら、軍内は混乱し機能しなくなったはずです。
趙括は「自分よりも優れている者はいない」と自負していた話しがあり、軍部のベテランたちの意見も退け更迭してしまったのでしょう。
趙括は軍内の大改革を行いました。
結果で言えば、趙括の改革が趙軍を内部から崩壊させたとも言えます。
趙括の気負い
個人的な意見ですが、この時の趙括には気負いもあった様に感じています。
趙括は多くの人から評価されていた様ではありますが、秦の昭王を怒鳴りつけた藺相如や名将と言われた父親の趙奢、母親からは評価されていません。
それらの事は、趙括の耳にも入っており「目にものをみせてやる」という感じだった様にも思います。
さらに、実際の戦場に行ってみたら、思っていたのと違う部分が多々あり、苛立ちもあったはずです。
白起の巧みな采配
秦の総大将となった白起は、趙括が将軍になったと聞くや奇兵を放ち糧道を断つ作戦に出ます。
秦の少数の兵に対し、趙括は自ら軍を指揮し打って出ました。
白起は戦線が伸び切った趙括の軍を二つに分断させる事に成功しました。
ここで趙括は秦軍を突き破る事を考えますが、失敗すると塁壁を築き防禦を固めています。
趙括率いる趙軍は兵站が途切れているにも関わらず守りを固めてしまったわけです。
秦の昭王の方では何としても趙軍を倒すという意気込みを見せ、秦の昭王は自ら河内に行き15歳以上を徴兵するなど勝負を決めに来ました。
趙括の最後
糧道を断たれた趙軍ですが、46日間も生き延びた話しがあります。
しかし、趙括の軍中では人間同士が食べ合うという地獄絵図が展開されました。
趙括自身も援軍が来ない事を悟り、自ら指揮を執り秦軍に突撃を仕掛けたわけです。
趙括率いる趙軍は何とか、秦の包囲を突破しようと試しますが、結局は突破する事が出来ず趙括も戦死しました。
史記の記録では趙括は弓で射殺された事になっています。
趙括は最後を迎えたのですが、降伏した趙軍45万は穴埋めとなりました。
これにより長平の戦いは結着が付き、40万を超える兵士を失った趙は大損害を被ったわけです。
趙括の子孫
趙の孝成王は趙括の母親との約束を守り、趙括が失敗しても罪を咎めませんでした。
しかし、別説では趙の孝成王は罪を問いませんでしたが、趙の国内での趙括へのバッシングは酷く趙括の一族は困難を伴ったともされています。
趙括の一族は、こうした事もあり姓を趙から馬に変えたとも伝わっています。
趙氏が姓を「馬」としたのは、趙奢が趙の恵文王から馬服君に任命されており、馬服君の「馬」をとり馬姓としたわけです。
後漢王朝の創始者である光武帝を支えた馬援や三国志の馬騰や馬超は、趙奢の子孫だとされています。
しかし、馬援、馬騰、馬超らが趙括の直系の子孫なのかは不明であり、趙奢の別の子の子孫なのかも知れません。
趙括が戦死した時点で、趙括に子がいたのかも不明です。
趙括の評価
世間一般的には趙括は口先だけの無能と言ったイメージが強いです。
しかし、長平の戦いは決してワンサイドゲームではなかったとする説もあります。
後年の白起の言葉で「長平の軍を破ったものの、士卒で戦死した者は、半ばを超え国内の壮士は貧しくなった」と述べています。
それを考えれば、趙括の突撃も全くの無意味といったわけでも無かったのでしょう。
趙括の最後の突撃でも、秦軍の被害は大きかった可能性もあります。
他にも、趙括は自ら軍隊を指揮しており、身体能力も高かった可能性があります。
楚漢戦争での項羽や曹操の子である曹彰、「関羽、張飛が蘇っても敵わない」と言われた北魏の楊大眼なども白兵戦を行ったり陣頭で指揮を執った話があります。
これら前線で指揮を執った将軍を見ると、素手で猛獣を倒した話があったり極めて高い身体能力を持っていた事が分かります。
それを考えれば、趙括も身体能力は高かった可能性もある様に感じました。
長平の戦いでは廉頗は趙括と交代させられていますが、交代時に混乱もなく廉頗は素直に軍権を引き渡した様に思います。
廉頗は趙の悼襄王の時代に楽乗と交代される命令が出されると、楽乗を攻撃し打ち破った上で魏に亡命しました。
それを考えると、廉頗は趙括の事を認めていた部分はあったのかも知れません。
尚、趙括が前線に出すぎてしまったのは父親の趙奢や母親、藺相如に対し「功績を挙げ見返してやろう」とする気持ちもあった様に感じています。
春秋時代に楚の子玉も蔿賈に悪く言われた事を気にし「蔿賈の口を塞いでやりたい」と晋の文公に戦いを挑み敗れたのと、似たような想いがあったのではないでしょうか。
さらに言えば、趙括が弁が立った事を考えれば、趙括は街亭の戦いで敗北した馬謖や、呉の丞相で第五次合肥の戦いで張特に敗れた諸葛恪に性格的には近い様に感じています。
趙括の初陣の相手が白起で相手が悪すぎたとも言えますが、理論だけでは英雄になれないとする例にも感じました。
趙括は頭の切れがよく抜群の作戦を立てる事が出来ても、自在に兵を動かす様な統率力が不足していたのかも知れません。