張咨は正史三国志や後漢書に名前が登場する人物です。
張咨は豫州潁川郡の出身であり、名声があったとも記録されています。
董卓が信任した周毖や伍瓊の推挙により南陽太守になった話があります。
後に反董卓連合が結成されると、長沙太守の孫堅は董卓を討つために北上してきました。
孫堅と張咨の経緯は正史三国志と呉歴で差異がありますが、張咨が孫堅に斬られた事だけは変わりがありません。
今回は正史三国志や後漢書に登場する張咨を解説します。
南陽太守となる
正史三国志の許靖伝によると許靖は周毖と共に董卓の元で人事担当となり、韓馥、劉岱、孔伷、張邈らを太守や刺史に任命した話があります。
この時に張咨も南陽太守に任命されました。
南陽郡は後漢王朝の首都洛陽の南にあり、重要拠点だったとも言えます。
さらには、南陽郡は人口も多く黄巾の乱では、韓忠や趙弘、孫夏が朱儁と戦うなど激戦区でもあったわけです。
それを考えれば、張咨の当時の評判の高さと期待値の高さが分かるような気がします。
後述しますが、張咨は孫堅に斬られ、孫堅に通じていた劉祥が南陽の士民に恨まれ攻撃された話があります。
さらに、劉祥だけでは済まず、劉表が劉祥の子である劉巴にも危害を加えようともしました。
これらを出来事を考慮すると、南陽の人々は張咨の敵討ちをしようとしたわけであり、張咨の人望も高かった様に思います。
張咨の最後
正史三国志の張咨の最後
張咨が反董卓連合に参加したのかはイマイチ分からない状態です。
反董卓連合に積極的だったのが長沙太守の孫堅であり、兵を引き連れて董卓と戦う為に北上してきました。
荊州刺史の王叡は孫堅を見下していた事もあり、孫堅により殺害されています。
王叡を斬った孫堅は、さらに北上し南陽郡まで来ますが、張咨は悠然と構えていたとあります。
この時の張咨は油断しており、孫堅が自分に危害を加えるなど考えもしなかったはずです。
孫堅は牛や酒を持ち張咨を表敬訪問しました。
張咨は孫堅の態度に気を良くしたのか、翌日に孫堅の陣に訪れ酒宴を開いています。
酔いが回って来た頃に、長沙郡の主簿がやってきて、次の様に述べました。
※正史三国志 孫破虜討逆伝より
主簿「先に南陽郡に通知の文書を送っておいたのに、道路は修理されておらず、軍の為の物資も揃っていません。
南陽郡の主簿を捕えて理由を問い正したいと思います」
張咨は主簿の言葉に凍りつき不安が襲いました。
張咨は退出しようとしますが、既に兵が配置されており、外に出る事も出来なかったわけです。
こうした中で、再び主簿がやって来ると、次の様に孫堅に報告を入れる事になります。
主簿「南陽太守は義勇軍を引き留め、賊徒の討伐を引き延ばそうと考えています。
南陽太守を捕え引き出し、軍法に照らし合わせ処分すべきです」
南陽太守は張咨であり、孫堅は張咨を直ぐに軍門に引きずり出すと斬首しました。
これにより張咨は最後を迎える事になったわけです。
正史三国志の話を見るに、孫堅は最初から張咨を殺害し、豊かな南陽郡を手にするつもりだったのでしょう。
この後に袁術が孫堅と合流し、南陽太守になっている事を考えると、袁術が孫堅に命令し、張咨を斬らせた可能性もある様に感じています。
呉歴の張咨の最後
正史三国志の注釈・献帝春秋によると、袁術が上表し孫堅を仮の中郎将に任じたとあります。
孫堅が南陽に到着すると、張咨に檄文を送り食料の援助を求めました。
張咨はこの事について主簿に相談すると、主簿は次の様に答えています。
主簿「孫堅は隣郡の太守であり、この郡で食料を調達してよい理由がありません」
主簿は張咨に孫堅を援助しない様に進言し、張咨もまた主簿の意見に従いました。
呉歴によると、孫堅が南陽までやって来ても、張咨は孫堅と会おうともしなかったとあります。
孫堅は南陽の張咨を無視して北上し、董卓と戦う事も考えましたが、張咨が後ろに控えていれば、後の禍になるとも考えました。
孫堅はここで仮病を使い兵士達を動揺させ、山川の神に祈祷を行うなどの行為に出ます。
さらに、孫堅は側近の者を張咨の元に派遣し、病が重いので張咨に兵を預けたいと述べました。
張咨は孫堅の兵を吸収できると考え、直ぐに5,6百の歩兵と騎兵を連れ、孫堅を見舞いに行きます。
孫堅は寝たままで張咨に会いますが、突如として起き上がると、張咨を怒鳴りつけ、その場で捕えて討ち取ってしまいました。
これにより張咨は最後を迎えたわけです。
献帝春秋や呉歴の記述を見る限りでは、張咨は反董卓連合に消極的であり、それが原因で孫堅に斬られたと見る事も出来るはずです。