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烏巣の戦い

2023年2月28日

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宮下悠史

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烏巣の戦い(うそうのたたかい)西暦200年
勢力袁紹曹操
兵力1万以上5千
指揮官淳于瓊曹操楽進
勝敗敗北勝利

烏巣の戦いは官渡の戦いの中での一戦であり、袁紹曹操の勝敗を分けた戦いでもあります。

袁紹は淳于瓊と四将に烏巣の兵糧庫を守らせていましたが、許攸が寝返り曹操に烏巣の兵糧庫の位置を知らせました。

曹操は楽進と共に、烏巣を襲撃すると、袁紹陣営では郭図張郃の意見の食い違いもあり、袁紹は中途半端な決断をしています。

烏巣の戦いでは曹操の勇猛さや決断力が光り、淳于瓊が斬られました。

袁紹は烏巣の戦いで兵糧庫が焼かれた事で、大軍の維持が出来ず北方に退却しています。

烏巣の戦いは官渡の戦いの勝敗を決した非常に重要な戦いだったとも言えるでしょう。

兵糧が勝負の分かれ目

袁紹の軍は官渡の戦い前の白馬の戦いや延津の戦いでは、勇将と言われた顔良文醜が討ち取られるなど幸先悪いスタートでした。

しかし、袁紹の軍は兵の多さや物資では曹操を圧倒しており、曹操の軍を最終防衛ラインである官渡まで押し込む事になります。

曹操は食料が不足し、荀彧に許都への撤退を考え打診する手紙を送りますが、荀彧は曹操を励まし踏みとどまらせた話があります。

曹操の軍は食料が不足した話がありますが、袁紹陣営でも食料に関しては、次の話があります。

※正史三国志武帝紀より

袁紹の穀物輸送隊数千台がやってきた。

公(曹操)は荀攸の計略を用いて、徐晃と史渙を派遣し大勝した。

その車を悉く焼き払った。

官渡の戦いと言えば、曹操軍ばかりが兵糧が枯渇していた様に思われがちですが、曹操も荀攸の進言を聞き入れ、徐晃と史渙を使い袁紹の軍の、兵站を切ろうとしていた事が分かります。

徐晃と史渙が袁紹の兵糧を焼いたせいか、正史三国志の袁紹伝には、次の記述が存在します。

※正史三国志 袁紹伝より

袁紹は淳于瓊らに1万余の軍を統率させ、、輸送隊を迎えさせる為に北に派遣した。

袁紹は淳于瓊を北方に派遣し、兵糧を守らせ無事に兵站を繋げたかったのでしょう。

尚、袁紹は淳于瓊の他に、眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡ら四将を北方に向かわせ様とした話があります。

この時に、沮授は曹操軍に淳于瓊らが急襲される事を恐れ、蔣奇も淳于瓊と行動を共にする様にと、袁紹に進言しました。

しかし、袁紹は官渡の曹操の大本営を攻撃する兵が少なくなると考えたのか、沮授の進言を却下し、蔣奇を淳于瓊に同行させなかったわけです。

淳于瓊らは後に烏巣に駐屯し、兵糧庫を守りますが、沮授の進言を却下した事が、烏巣の戦いでの敗北を招いた要因の一つとなるわけです。

許攸の寝返り

袁紹は兵糧庫を烏巣に置き、淳于瓊に守らせました。

袁紹の参謀の一人である許攸は、何度か袁紹に策を進言しますが、却下され袁紹に対し忠誠心を失っていく事になります。

こうした中で、許攸の家族が留守を守る審配に、捕らえられてしまう事件が起きます。

許攸は、家族が捕らえられた事がきっかけとなり、曹操の軍に投降しました。

許攸がやって来ると、曹操は喜びますが、袁紹の策ではないか?とする意見も数多くありましたが、荀攸や賈詡は許攸を信じる様に曹操に進言しています。

曹操と許攸は面会しますが、次の様な逸話が残っています。

※曹瞞伝より

許攸「袁氏の軍は勢い盛んであり、どの様に対処するおつもりでしょうか。

残っている兵糧を教えて貰いたい」

曹操「兵糧はまだ1年の余裕がある」

許攸「その様な事はあり得ません。

本当の事を仰ってください」

曹操「半年の余裕がある」

許攸「足下は袁紹に勝ちたくはないのですか?

なぜ本当の事を仰らない」

曹操「先の言葉は戯れじゃ。

本当はひと月ほどしか残っていないのじゃが、どうすればよいだろうか」

許攸「公は単独で袁紹の軍と対峙しておられ、外部からの救援もなく、糧食は既に底をつく日も近い。

これは危急の時ではありますが、袁氏の輜重は1万余台あり、故市の烏巣に置かれており、駐在の防備は固められていません。

軽装の軍で烏巣を急襲し、不意をついて烏巣の兵糧庫を焼き払えば、3日以内に袁紹を破る事が出来ます」

曹操は許攸の言葉を聞くと大いに喜び、曹操の軍師とも言える荀攸や賈詡も許攸の言葉を信じる様に述べています。

曹操は烏巣襲撃の準備を始めました。

曹操と許攸は最初は「コント」の様な事をやっていたわけですが、勝機を見いだせなかった曹操に幸運が舞い降りたとも言えるでしょう。

烏巣への移動

曹操は曹洪に本陣を任せ、猛将の楽進と共に烏巣を目指しました。

ここで曹操は袁紹軍の旗指物を用いて、兵に声を出させぬ様に枚(ばい)を咥えさせ。薪の束を持ち夜中に間道を通って烏巣を目指す事になります。

しかし、曹操の本営から烏巣までの間に、袁紹の兵に会えば、全員が次の様に述べました。

曹操軍の兵士「袁公は曹操に輜重がある後方を攻撃される事を恐れ、兵を派遣して防備を固めさせる事にしたのです」

曹操の軍は袁紹軍の振りをして、烏巣を目指した事になるでしょう。

この話を聞いた者も疑わず、平然としていた話があります。

袁紹の軍では「もう少しで勝利する事が出来る」と考えており、軍にもゆるみが出ていたのでしょう。

郭図と張郃

正史三国志の張郃伝によると、袁紹の本陣でも曹操が烏巣の兵糧庫を狙っている情報が入りました。

曹瞞伝の記述によれば、曹操の軍は袁紹の軍を偽り、烏巣を目指していたわけであり、結局は袁紹に情報が洩れてしまったのでしょう。

ここで武将の張郃が、次の様に進言しています。

※正史三国志 張郃伝より

張郃「曹公が指揮する兵は精鋭であり、出撃すれば淳于瓊の軍を打ち破る事になります。

淳于瓊が敗北すれば、将軍(袁紹)の事業はこれまでとなるでしょう。

急いで兵を引き連れ、淳于瓊の軍を救援するべきです」

張郃は袁紹に烏巣に急いで援軍を派遣する様に要請しました。

これに対し、郭図は次の様に述べています。

郭図「張郃の計略は間違っております。

今の状況なら敵の本陣を攻撃した方がマシです。

今の状態から見れば、曹操は本陣が攻撃されれば、軍を返すに違いありません。

これが救援しなくても解決するやり方です」

郭図は曹洪が守っている官渡にある曹操の本営を攻撃すれば、曹操は本営に兵を戻すから自然と烏巣の包囲は解かれると主張しました。

郭図の策は戦国時代の斉の孫臏と魏の龐涓桂陵の戦いでの、囲魏救趙を彷彿させる策でもあります。

郭図は戦いに芸術性を求めたのかも知れません。

しかし、張郃は次の様に述べ反対しました。

張郃「曹操は本陣は堅固であり、これを攻撃しても陥落させるのは困難です。

もし淳于瓊が捕らえられてしまえば、我々は全て捕虜となってしまいます」

張郃は曹操の本営を落すのは難しいと主張し、あくまでも烏巣の淳于瓊救援を主張したわけです。

張郃の名将としての本能が、烏巣が勝負の分かれ目だと判断したのかも知れません。

袁紹の判断ミス

袁紹郭図張郃のどちらの策を採用するのか、決断を迫られました。

張郃伝の記述によれば、袁紹は軽装の騎兵を派遣し、烏巣の淳于瓊を救援させる事にします。

さらに、袁紹は重装歩兵を率いて曹操の本陣を攻撃させる事にしました。

正史三国志の袁紹伝によると、この時に袁紹は張郃と高覧に曹操の軍を攻撃させたとあります。

ここが不思議な記述であり、袁紹は何故か烏巣の救援を主張し、曹操の本営への攻撃に反対した張郃を大将としたわけです。

張郃が仮に曹操の本営を攻撃し、打ち破ってしまったなら、張郃は自らの策を自ら論破する事にもなってしまいます。

張郃伝の記述だと「袁紹は重装歩兵」で太祖(曹操)の軍を攻撃した」とあるだけで、張郃や高覧が大将になった記述がありません。

しかし、魏の武帝紀には、袁紹が張郃と高覧に本陣を攻撃させた記録があります。

張郃が自ら反対したのに、曹操の本営を攻撃する大将になってしまったのは、張郃が指揮する部隊に重装歩兵が多かったのが原因なのかも知れません。

さらに言えば、陳寿自身も曹操の本営に攻撃するのに反対した張郃に、本営を攻撃させるのは何処かおかしい?と感じ、張郃伝では郭図が讒言し曹操に降った事だけを記載した可能性もあります。

尚、袁紹は長男の袁譚に烏巣が淳于瓊に襲われている事を知ると、次の様に述べた話も残っています。

袁紹「奴め(曹操)が烏巣の淳于瓊を攻撃しようとも、我が軍が曹操の本営を落せば、奴は帰る場所を失う」

袁紹が袁譚に語ったとする言葉を見ると、袁紹はあくまでも実力で正々堂々と勝利を得たかったとみる事も出来るはずです。

実際に袁紹は沮授田豊の持久戦を却下したり、官渡の戦いでも許攸や張郃の後方を襲ったり、許都に襲撃し献帝を迎え入れる策などを却下した話があります。

袁紹としては、大戦で曹操を打ち破り、天下に名を轟かせたかったのかも知れません。

ただし、この時点では曹操軍の兵糧は1カ月程しかなく、袁紹が1カ月耐えれば、必然と勝利出来る状態でもありました。

袁紹は自分の欲望に心が曇った部分もあると感じています。

烏巣急襲

曹操は烏巣の近くまで来くると、淳于瓊は異変に気が付きました。

ここで淳于瓊は曹操の兵が少ないと判断し、営門の外で迎え撃つ事になります。

淳于瓊は過去には霊帝の元で曹操や袁紹と共に、西園八校尉に任命された人物であり、自分の采配に自信があったのかも知れません。

しかし、曹操や楽進が率いる兵は精鋭であり、淳于瓊は結局は、営門に籠る事になります。

曹操は楽進と共に5千の兵で、淳于瓊の軍を攻撃しました。

曹操軍の中で袁紹が援軍に出した騎兵が近づいてくる事を知る者がおり「兵を分けて防がせる様に」と進言した話があります。

しかし、曹操は怒り「賊軍が背後まで近づいたら申せ」と述べ、取り合いませんでした。

曹操は袁紹の援軍が到着する前に「淳于瓊の軍を破り兵糧を焼く以外に勝利はない」と考えていたのでしょう。

さらに言えば、袁紹の援軍が近づいてきている事から、兵たちを死地に追いやり必死にさせたとも言えます。

曹操と楽進は烏巣の戦いで奮戦し、遂には淳于瓊の軍を破り、袁紹軍の兵糧庫を焼き払いました。

これにより烏巣の戦いは、曹操軍が勝利したわけです。

張郃が降伏

正史三国志の武帝紀や袁紹伝によると、曹洪が守る曹操の本営を攻撃中だった張郃や高覧らは、烏巣の淳于瓊が敗れた事を知ると曹操に降伏したとあります。

守将の曹洪は張郃らの降伏を疑いますが、荀攸の言葉で降伏を受け入れました。

袁紹は張郃や高覧が曹操に降伏した事を知ると、軍は総崩れになり、袁紹は袁譚と共に黄河を渡り北に逃げた事になっています。

武帝紀や袁紹伝の記述を見ると、烏巣の戦いが終わり兵糧が焼かれても、袁紹はまだ軍を保っていた事になります。

袁紹としては、一か八かで全軍で曹操の本営を攻撃し、落とすというのも選択肢の一つだったのかも知れません。

しかし、曹操の本営を攻撃していた張郃や高覧が降伏した事で、その望みも断たれ北に撤退したと見る事も出来るはずです。

ただし、正史三国志の張郃伝によると、烏巣の戦いで淳于瓊が斬られた時点で、袁紹の軍は総崩れとなり北方に撤退し、郭図の讒言により張郃が曹操に降伏した事になっています。

淳于瓊が斬られた時点で袁紹の軍が崩壊したのか、張郃が降伏した事が引き金となり、袁紹の軍が崩壊したのかは、記述に差異があり、どちらが正しいのかは不明です。

戦後

烏巣の戦いで淳于瓊楽進に斬られたとも、許攸の言葉で曹操が処刑したともありますが、結論で言えば淳于瓊は、ここで世を去りました。

淳于瓊配下の四将である眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡らは斬首されています。

袁紹配下の沮授は徹底の最中に捕虜となり、後方の獄に捕らえられていた田豊逢紀の讒言により命を落す事になります。

烏巣の戦いが決め手となり、曹操は官渡の戦いで袁紹を破る事になりましたが、結論から言えば、曹操は防衛戦争に勝利しただけであり、袁紹から領地を切り取るなどは出来ていません。

袁紹の方では戦いに敗れた事で、領地の河北四州で反乱が多発し、忙殺される事となります。

こうした中で202年に袁紹がこの世を去り、袁譚と袁尚による後継者争いが勃発し、曹操が介入した事で袁氏は没落していきます。

こうしてみると、烏巣の戦いだけでは袁紹と曹操は形勢が逆転したわけではありませんが、曹操の河北平定の一手にはなったとは言えそうです。

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