名前 | 楊儀(ようぎ) 字:威公 |
生没年 | 生年不明ー235年 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 曹操→劉備→劉禅 |
一族 | 兄:楊慮 宗族:楊顒 |
年表 | 225年 南征軍に加わる |
227年 北伐軍に加わる | |
230年 長史に任命される | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
楊儀は正史三国志や後漢書、資治通鑑などに登場する人物で、魏延と対立した事でも有名です。
楊儀と魏延は共に能力はあれど、性格が合わず犬猿の仲でした。
諸葛亮の配下として楊儀は側近となりますが、死後に蔣琬が後継者になると楊儀は仕事を干されてしまいます。
楊儀は蔣琬よりも能力は上だと思っており、感情を抑える事が出来なくなりました。
費禕が楊儀の不遜な言葉を上奏した事で、楊儀は配流されますが、そこでも誹謗を繰り返し最後を迎える事となります。
今回は蜀漢の問題児の人である楊儀を解説します。
尚、楊儀は正史三国志の劉彭廖李劉魏楊伝に下記の人物と共に収録されています。
関羽を慕う
楊儀は荊州南郡襄陽県の人であり、兄に楊慮がいます。
楊慮は夭折しますが、神童といってもよい人物であり17歳で百人の弟子がいた記録があります。
楊儀の出身地の襄陽は曹操の領土となっており、楊儀は荊州刺史の傅羣の主簿をしていました。
しかし、傅羣では能力に物足りなかったのか楊儀を満足させる事が出来ず、楊儀は関羽の元に向かいます。
関羽は楊儀が来ると功曹に任じました。
関羽は剛毅な性格をしており、頼ってきた楊儀を突き放す様な事はせず、官位を与えて重用したのでしょう。
関羽が襄陽太守をしていたのが、209年から214年であり、楊儀もこの期間に関羽の配下になったはずです。
楊儀は関羽を慕っていたのではないか?とも考えられています。
劉備が高く評価
楊儀は関羽の元に留まりますが、ある時に益州にいる劉備の元に使いとして行く事になりました。
劉備は楊儀と国家の事や軍事、計策、政治などを話し大いに気に入りました。
劉備は楊儀を荊州には帰さずに招聘し、左将軍曹掾に任じています。
219年に劉備は定軍山の戦いで夏侯淵を破り、漢中王に即位しました。
この時に劉備は楊儀を尚書に抜擢したとあります。
劉備は漢中王になった時に魏延を漢中太守に任命した話は有名ですが、同時に楊儀も尚書に任命し重用しました。
劉巴との対立
劉備は漢中王となりますが、この後に荊州から北上した関羽は呂蒙の策で命を落す事になります。
劉備は関羽の敵討ちと称し、呉に遠征しました。
この時に楊儀は、尚書令で自分の上司にあたる劉巴と対立し、弘農太守に左遷されています。
弘農は魏の領土であり、楊儀は当然ながら弘農に行く事が出来ず、遥任と呼ばれる名目だけの太守として弘農を任された事になります。
楊儀は劉巴と対立した事で、左遷されたというべきでしょう。
劉巴は張飛に対し失礼な態度を取った事があり、性格に問題があり楊儀と対立したとも感じました。
さらに言えば、楊儀は関羽を慕って曹操から劉備陣営に鞍替えした人間ですが、楊儀は劉備に仕えるのを嫌い曹操や劉璋の元に行こうとしています。
それを考えると、性質の上で楊儀と劉巴は合わない部分があったのでしょう。
他にも、法正が尚書令をしていた時代は劉巴と楊儀の二人は尚書で対等でしたが、法正が亡くなると劉巴を後任の尚書令としました。
同僚の出世を楊儀が喜ばず、劉巴と対立したとも考えられます。
左遷からの復帰
劉備は夷陵の戦いで陸遜に敗れ、永安で後事を諸葛亮や李厳に任せ崩御しました。
楊儀を左遷した尚書令の劉巴も222年に亡くなっています。
劉禅が即位すると、諸葛亮が政務を行う事となり、楊儀にも出番が回って来る事となります。
夷陵の戦いでは馬良が戦死し黄権が魏に降伏するなど、蜀は貴重な人材を多く失いました。
国家の立て直しを委ねられた諸葛亮にとって、稀有な才能を持つ楊儀は、必要な人材だったはずです。
諸葛亮は楊儀を参軍とし、丞相府の事務処理を行わせ、225年の南征にも参加させています。
楊儀の行動を見るに劉備や関羽を慕っており、彼らが亡くなり閑職に追いやられて燻っていた所を、諸葛亮が用いたとも言えるでしょう。
諸葛亮の北伐
楊儀は南征での活躍が大きかったのか、諸葛亮は北伐にも楊儀を随行させています。
建興8年(230年)には長史に昇進し、綏軍将軍の位を付加されました。
綏軍将軍になった事を考えると、楊儀は文武において役職を与えられた事となり、諸葛亮の期待に応え評価も高かったのでしょう。
正史三国志によれば諸葛亮は度々出陣したが、楊儀は常に計画的な部隊編成を行い、軍糧の計算も的確であり短時間で処理したとあります。
軍需物資の調達も楊儀が行い委ねられました。
正史三国志には諸葛亮が楊儀の才覚を愛したとまで書かれています。
しかし、諸葛亮には気掛かりな事がありました。
魏延との対立
楊儀と魏延は対立する事になります。
楊儀と魏延の対立は魏延が傲慢な態度を取り、楊儀が魏延の態度を責めた事から始まりました。
2人が同じ席に着けば、お互いを非難しますし、時には魏延が剣で楊儀を脅し、楊儀な涙を流した事まであったわけです。
呉の孫権が蜀の費禕と董恢の前で、魏延と楊儀の仲の悪さを指摘した事もあり、楊儀と魏延の仲の悪さは隣国にまで鳴り響いていたのでしょう。
魏延の勇猛さは諸葛亮も高く評価しており、諸葛亮は魏延の誇り高い性格を刺激していない様に接していたはずです。
諸葛亮は大人の対応をしていましたが、楊儀は狭量な性格をしており、魏延の態度を見過ごす事が出来ませんでした。
諸葛亮は魏延の勇猛さを頼みとしていたのと同時に、楊儀の事務処理能力も高く評価し、片方を遠ざける事が出来なかったわけです。
楊儀と魏延の対立に諸葛亮は、心を痛めていた事でしょう。
楊儀にとってみれば諸葛亮は自分に活躍の場を与えてくれた恩人でした。
魏延は諸葛亮の事を「臆病」だと述べていた話もあり、恩人の諸葛亮を悪く言う魏延を楊儀が嫌った可能性もあるはずです。
尚、楊儀と魏延の対立が諸葛亮の寿命を縮めたとする説もあり、あながち間違いでもないと感じています。
楊儀と魏延の関係は最後まで、蕭何と韓信の様な関係にはなれませんでした。
五丈原からの撤退
諸葛亮が生きていた時代は魏延と楊儀の対立があっても、争いにまで発展する事はありませんでした。
しかし、諸葛亮は234年の五丈原の戦いで、司馬懿と対峙している最中に亡くなってしまいます。
諸葛亮は亡くなる前に楊儀、姜維、費禕を呼び出し、撤退の指示を与えていました。
諸葛亮は魏延に撤退を任せても指示に従わない可能性があると考え、あえて楊儀に撤退を任せたのでしょう。
楊儀らは撤退しますが、魏延は撤退に反対し、最後には自分が先に兵を引いてしまいました。
魏延の最後
先に帰還してしまった魏延と楊儀が戦う事となります。
楊儀は王平に魏延と戦う様に命じました。
これが南谷口の戦いです。
ここで王平が魏延の兵を叱咤すると、魏延の兵は逃亡してしまいました。
魏延は馬岱に討たれ、魏延の首が楊儀の元に届きます。
楊儀は魏延の首を見ると立ち上がり「この愚か者が。これでも悪さが出来るというのか」と述べ魏延の首を踏みつけたとあります。
楊儀の行動を見るに魏延に対し、かなりの怒りを溜め込んでいた事が分かります。
尚、楊儀が魏延の首を踏みつける行為は明らかにやりすぎであり、楊儀も性格に問題を抱えていた事は明らかでしょう。
魏延が独断で行動した時に、楊儀と魏延の両方が劉禅の元に「謀反を起こした」と上表しましたが、成都にいた董允と蔣琬が「楊儀の言葉が正しい」と述べました。
蔣琬がこの後に楊儀を救援する為の兵を出しますが、魏延よりも楊儀の方が人望があったから、楊儀を庇ったわけではないと感じています。
董允や蔣琬にとってみれば、楊儀も性格に問題はあるが、魏延の様な軍事行動はしないだろうと考えたのでしょう。
後継者になれず
楊儀は五丈原から撤退し漢中に戻りました。
楊儀は全軍を率いて撤退し、軍令違反の魏延を誅するなど、功績は極めて大きいと思っていたわけです。
さらに、楊儀は諸葛亮が亡くなったのであれば、後継者は自分だと考えていました。
ここで楊儀は占いが得意な趙正に周易で吉凶を占って貰うと「家人」と出た為、不機嫌になった話があります。
家人では家庭内の役割であり、後継者になれるとする結果が出なかった事になります。
諸葛亮は楊儀の能力は評価しましたが、短気で狭量な性格を知っており、自分の後継者を蔣琬と定めていました。
劉禅にも蔣琬を自分の後継者にする様に、諸葛亮が上表していた話が残っています。
楊儀は成都に戻ると中軍師(筆頭軍師)に任じられますが、劉禅はそもそも戦場に出る事もなく、劉禅の筆頭軍師になっても基本的にやる事はありません。
楊儀がなった中軍師は位ばかりが高く、率いる兵士もなく暇を持て余す事となります。
楊儀は再び閑職に追いやられてしまったとも言えるでしょう。
諸葛亮も自分だったら楊儀を扱えるが、他の者では扱うのが困難だと考えたのかも知れません。
楊儀と蔣琬
諸葛亮の後継者は蔣琬となったのですが、楊儀は納得がいきませんでした。
劉備が生存中に楊儀は尚書でしたが、蔣琬は尚書の見習いである尚書郎でしかなかったわけです。
劉備が亡くなり諸葛亮が政務を行うと、共に丞相参軍長史となりますが、蔣琬が成都に残ったのに対し、楊儀は諸葛亮に随行し激務を行い北伐を支えました。
楊儀は年齢や官位も蔣琬よりも上であり、自分は蔣琬以上の才能を持っていると自負していたわけです。
楊儀は蔣琬に対しての嫉妬というべき感情を抑える事が出来ず、怨みと罵りの念は顔や声に現れ外に出る様になります。
当時の人々は楊儀の言葉の節度の無さに恐れをなし、いう事を聞こうとしなかったとあります。
楊儀は感情が溢れ、しまっておく事が出来なくなってしまったのでしょう。
楊儀の最後
楊儀は怒りを抑える事が出来なくなっていましたが、後軍師の費禕は楊儀の元を訪れ慰めたりしていました。
楊儀は費禕に対し、恨みつらみをぶちまけた上で、次の様に述べています。
※正史三国志 楊儀伝より
楊儀「丞相(諸葛亮)が亡くなった時に、儂が魏国に味方していたら、ここまで落ち目になっていたであろうか。
後悔先に立たずとなってしまった」
楊儀は費禕に対し、思っていた事をぶちまけたのでしょう。
それだけではなく、魏への寝返りの言葉すらも吐いてしまったわけです。
楊儀は本気で言ったのか、感情が高ぶって言ってしまったのかは定かではありません。
費禕は何を思ったのか、楊儀の言葉を劉禅に上奏しました。
建興13年(西暦235年)に楊儀は解任され、漢嘉郡に流される事になります。
楊儀は漢嘉郡に流されますが、楊儀は大人しくなる事もせず、上書してまで誹謗を繰り返し、その内容は余りにも苛烈でした。
これにより楊儀は逮捕・収監する様に軍の役人に命令が下りました。
楊儀は自分が捕まると知ると、自刃する事になります。
これが楊儀の最後であり、楊儀が亡くなると妻子は蜀に戻ったと伝わっています。
楊儀の評価
楊儀を陳寿は、次の様に述べています。
※正史三国志 劉彭廖李劉魏楊伝より
楊儀は実務能力の高さで出世し、禍を引き寄せ咎を受けたのは自分のせいであろう
陳寿は楊儀の実務能力の高さを認めつつも、狭量な性格故に無残な最期を迎える事になったと言いたかったのでしょう。