名前 | 楊大将(ようたいしょう) |
登場 | 三國志演義 |
勢力 | 袁術 |
コメント | 三國志演義における袁術の軍師 |
楊大将は三国志演義に登場する架空のキャラです。
ウィキペディアの楊弘の項目を見ると、楊大将のモデルが楊弘だったかの様な記述もあります。
※ウィキペディアの記述は、書き換えられてしまうので注意が必要
しかし、史実の楊弘を見ると、袁術の死後に登場する事はあっても、袁術に策を進言した記録はありません。
それらを考慮すると、史実の楊弘とは全く別のオリジナルの活躍をするのが、楊大将だとも言えるはずです。
今回のお話は三国志演義がベースとなっています。
劉備討伐を進言
孫策は江東、江南の大部分を制圧すると、袁術に伝国の玉璽の返還を求めました。
この時に、袁術は皇帝になろうとする野心を持っており、玉璽の返還を拒んだわけです。
袁術は楊大将、張勲、紀霊、橋蕤、雷薄、陳蘭ら30名ほどの群臣を集めて協議しました。
袁術は孫策は自分が貸した兵で江東を制圧しながら、玉璽を返せと言うのは無礼だと発言します。
袁術は孫策の態度を咎めようとしますが、楊大将は次の様に述べました。
楊大将「孫策は長江の要害を頼みとし、兵士は精鋭が揃っており、食料も豊富です。
迂闊に孫策に手を出してはなりませぬ。
孫策よりも先に劉備を討伐すべきであり、劉備を破ってから孫策に矛先を向けても遅くはありません。
私が計略により、劉備を虜にしてご覧に入れましょう。」
楊大将は策を以って、劉備を捕えると宣言したわけです。
この劉備を捕える策を提案する辺りは、三国志演義における袁術の軍師は楊大将だと感じました。
尚、楊大将のモデルとされる楊弘は、最終的に孫策に身を寄せようとしており、孫策と戦わずに劉備と戦うのを勧める辺りは、羅貫中が親孫策派と考えられる楊弘を意識したのかも知れません。
楊大将の策
楊大将は袁術に劉備を破る計略として、次の様に述べました。
楊大将「現在の劉備は小沛にいますが、これを打ち破るのは容易いはずです。
問題は徐州にいる呂布となります。
過去に呂布に兵糧と宝物を与える約束をしておきながら、未だに与えてはいません。
これを考えると、呂布は小沛にいる劉備を助ける事になるでしょう。
ならば、我等は呂布に兵糧と金銀を届け、劉備を助けぬ様に仕向けるべきです。
呂布が助けぬのであれば、劉備は弱小であり、劉備を捕虜にした後に、徐州の呂布征伐を考えるべきかと存じます」
袁術は楊大将の策を喜び、韓胤に密書を持たせ呂布に届けさせています。
呂布が韓胤を持て成した事で、袁術は楊大将の策が成功したと判断し紀霊、雷薄、陳蘭に小沛の劉備を討たせました。
劉備は軍議を開くと張飛は戦いを主張しますが、孫乾の言葉を採用し、呂布への援軍要請をしています。
呂布は陳宮と協議し、呂布が自ら紀霊と劉備の仲裁に乗り出しました。
呂布が弓の驚異的な腕前を披露し、戦いを仲裁した事で、楊大将の策は失敗に終わっています。
楊大将の策は陳宮などに見破られていたとも言えるでしょう。
袁術を諫める
袁術は皇帝となり、仲王朝を開く事になります。
袁術は、その後に七軍(張勲、橋蕤、陳紀、雷薄、陳蘭、韓暹、楊奉)を徐州に差し向け、袁術自身も紀霊、李豊、梁剛、楽就らと出陣しました。
しかし、この戦いは呂布や関羽の武勇が光り、袁術軍は利するところなく敗れています。
袁術は淮南に逃げ帰りますが、孫策に兵を借りて、再び呂布に戦いを挑もうとしました。
しかし、孫策は玉璽を返さない事を理由に拒否し、袁術と絶縁しています。
袁術は激怒し、孫策を攻撃しようとしますが、三国志演義には、次の記述があります。
「長史の楊大将が極力諫めたので、袁術は思いとどまった」
楊大将は敗戦したばかりの袁術が、孫策を攻めても利はないと考え、諫めたのでしょう。
袁術も楊大将の意見を採用しました。
最後の進言
袁術は食料が不足すると、陳留に略奪に向かいます。
しかし、この時の袁術は外交的に孤立しており、北は曹操、西からは孫策、東からは呂布、南からは劉備、関羽、張飛に攻められる事となります。
曹操は夏侯惇と于禁を先陣とし、袁術は橋蕤に5万の兵を授けて迎え撃たせますが、夏侯惇に敗れて戦死しました。
三國志演義の記述によれば、曹操は17万もの兵士を率いており、袁術は驚き軍議を開く事となります。
この時に、楊大将は次の様に進言しました。
楊大将「現在のいる寿春県は連年の日照りにより食料が不足しております。
それに兵士達を動かせば、民衆たちに迷惑が掛かります。
それよりは寿春の城内には守備兵だけを残す様にし、敵との交戦は避けるべきです。
粘り強く守れば敵軍は兵糧が尽きて、必ずや変事が起こる事でしょう。
陛下(袁術)は近衛兵たちを連れて、淮水を渡るべきです。
食糧が豊かな地に移動し、敵の矛先を逃れるべく動くのが最善となります」
袁術は楊大将の策を受け入れ李豊、楽就、梁剛、陳紀の袁術四天王に任せ、自らは金銀財宝と共に淮水を渡りました。
袁術四天王ですが、寿春で粘りを見せますが、最終的には曹操軍の猛攻の前に敗れています。
尚、袁術に逃げる様に進言したのが、三国志演義の楊大将の最後のシーンとなります。
楊大将のモデルとされるの楊弘は、袁術の没後に張勲と共に孫策を頼ろうとしますが、劉勲により捕虜となりました。
しかし、楊大将に袁術没後の描写はありません。