縄文時代

縄文時代の暮らしと交易

2023年12月21日

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宮下悠史

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名前縄文時代
年表紀元前1万5千年~紀元前千年頃
コメント縄文文明があった

縄文時代は日本で最も長く続き世界最長とも言える文明の存在もありました。

縄文人と言えば、集落が単独で存在していたかの様なイメージがありますが、実際には丸木舟を使って交易を活発に行っていました。

縄文時代最大の遺跡とも言うべき三内丸山遺跡を見ると、翡翠、天然アスファルト、黒曜石などを他の集落から輸入していた事も分かっています。

縄文時代に日本にあった文明は明らかに世界の何処とも違う発展をしており、縄文文明と呼んでも差し支えはないでしょう。

縄文時代と言えば縄文土器や縄文人の服装など人々の暮らしが注目される事が多いです。

文明と言えばメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明と世界四大文明を想像する人が多いかと感じますが、縄文文明を知れば日本にも素晴らしい文明があった事が分かるはずです。

縄文文明が縄文人達の暮らしを支え繁栄させました。

縄文文明は現時点では世界最古で最長の文明であり、なぜこれほどまでに縄文時代が長く続いたのかを解説します。

尚、過去には縄文人と弥生人は別の民族だと考えられてきましたが、現在では縄文人と弥生人はほぼ同じ民族だったと考えられています。

縄文時代から弥生時代に移り変わっても、民族自体の変化はありません。

今回は縄文時代の交易や暮らしなどから、縄文時代が長く続いた理由を解説します。

縄文時代の時代区分

区分年表
草創期紀元前15000年~紀元前9500年
早期紀元前9500年~紀元前5000年
前期紀元前5000年~紀元前3470年
中期紀元前3470年~紀元前2420年
後期紀元前2420年~紀元前1220年
晩期紀元前1220年~紀元前350年

縄文時代は6つの時代区分に分けることが出来ます。

上記の図を見ると分かる様に、縄文時代の大半は草創期と早期であり、多くの人が縄文時代だと感じる縄文のビーナスや派手な縄文土器などは中期のものとなります。

縄文時代の草創期は旧石器時代から縄文時代の文化に移り変わった時期です。

早期は地球規模の温暖化により、気温が急上昇し海面が上がった時期でもあります。

早期は縄文海進が進んだ時期でもあります。

早期は温暖化により豊富な食料に支えられ定住生活も始まりました。

前期は縄文海進のピークでもあり、高台などに集落が造られる事になります。

ただし、縄文時代の早期の終わりか中期の頃に、九州では鬼界カルデラの大噴火があり、西日本の縄文人は苦難が多かったのかも知れません。

縄文時代を代表する集落である三内丸山遺跡は紀元前3900年ごろから始まったとされ、縄文時代前期には既にあった事になります。

縄文時代前期には現在の東京、大阪、名古屋などの平野部の多くが海に沈んでいたとされ、千葉などは島になっていた時代です。

縄文時代の中期になると、火焔型土器や土偶など多くの人がなじみ深い縄文時代の芸術品が見られる様になります。

多くの人が知る縄文時代は、縄文時代中期だと言えるでしょう。

縄文時代の中期に縄文時代の人口のピークとなり、日本列島には26万人が住んでいたと考えられています。

縄文時代の後期になると、地球規模の寒冷化により、縄文人達の暮らしに変化がみられる様になります。

縄文時代中期に栄えた様な集落が放棄され、人々が移動を始めた時期でもあります。

縄文時代の晩期になると、遮光器土偶が誕生したりもしました。

しかし、紀元前1000年位には九州には水田稲作があった事も分かっており、縄文時代晩期は西の方から弥生時代に変わって行く時代となります。

縄文時代の気候

旧石器時代の地球は氷河期であり、今よりもずっと寒く陸も海も氷で閉ざされていました。

その中でも2万年前が最も寒く現在よりも、7度から8度ほども気温が低かった事が分かっています。

北海道もユーラシア大陸と繋がっており、マンモスがいたとも考えられているわけです。

その後に間氷期に入り、気温の上下を繰り返しながら緩やかに温暖化に向かう事になります。

地球全体の温暖化が進んだ事で、南極と北極の氷が溶けだし海面は上昇し、気温は現在よりも2度ほど高くなりました。

温暖化により海岸線が内陸部に入り込んだ状況を縄文海進と呼びます。

縄文海進により現在の東京、名古屋、大坂などの平野部は海に沈んでいたわけです。

高台に貝塚があったりするのは、海が近くにあった痕跡とも言えます。

縄文時代の地形は今とは違っている事になるでしょう。

縄文時代の生態系

地球規模の温暖化により生態系に変化が訪れる事になります。

南九州ではクヌギ、ミズナラ、コナラなどの広葉樹も森が誕生し、森に住むイノシシやシカなどの小動物も増えました。

これらの生態系の変化が縄文時代の縄文人達を支える事になるわけです。

縄文人達はイノシシやシカを狩りで捕り、自然の木の実やキノコ採りをし生活をする事になります。

森が豊かになれば内湾に栄養分が流れ出し、魚も内陸部に多く集まり数が増えました。

気温が上がれば日本列島の北部の方でも生活が出来るわけであり、合わせて縄文人たちも北上していったとも考えられています。

縄文時代の始まり

ユーラシアの文明の最初期は何処の国でも旧石器時代から始まります。

石を使って石を割り、石器として使うわけです。

世界の多くの国で旧石器時代は紀元前8000年頃まで続いていました。

その後に鋭利な刃となった摩耗石器が誕生し、新石器時代に突入します。

紀元前4000年位になると、世界の国々では青銅器の時代に向かいました。

これが世界の主な国の旧石器時代、新石器時代、青銅器時代の流れとなります。

旧石器時代は非定住型の暮らしをするのが普通であり、新石器時代になると耕作が行われる様になり、定住も始まるわけです。

これに対し日本列島では1万5千年前までが明確な旧石器時代となります。

日本列島では紀元前1万5千年ごろから既に定住化が始り、縄文時代が始まりました。

これらを考えると、日本はユーラシアの国々よりも7000年も早く旧石器時代が終わり定住がはじまった事になります。

文明の定義は見方によって変わりますが、縄文時代の縄文文明が世界最古の文明にもなるわけです。

相沢忠洋さんと岩宿遺跡

相沢忠洋さんが関東ローム層から石器を発見しました。

これが後に岩宿遺跡と呼ばれる様になり、3万年前のものとされています。

相沢さんが発掘した石器は旧石器とされましたが、画像を見る限りでは磨製石器に見えなくもありません。

相沢忠洋記念館より

相沢忠洋さんが発掘した石器が磨製石器だと認定されれば、日本の新石器時代の幕開けが今よりももっと早まる事になるでしょう。

尚、発見された磨製石器の周辺から土器が見つかっておらず、日本では石器があるが土器が無い時代があった事になります。

相沢忠洋さんの世紀の大発見が縄文文明と言ってよいのかは疑問もあります。

しかし、考えようによっては縄文時代がさらに早まる可能性もあるという事です。

縄文文明は世界最長

縄文時代は1万年以上続きますが、紀元前1000年頃から弥生時代に変わっていきます。

縄文時代から弥生時代への切り替わりは、水田稲作で区分されるのが普通です。

菜畑遺跡では紀元前1000年頃の水田稲作の跡が見つかっており、九州では紀元前1000年頃から弥生時代の足音が響いていた事になります。

縄文時代から弥生時代に急激に変わったわけではなく、徐々に稲作が普及する様になり時間を掛けて縄文文明から弥生時代に変わっていったと言えます。

紀元前1000年からが弥生時代だと考えても、縄文文明は1万4千年も続いた事になり、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代と全ての時代を足しても、縄文時代の方が長かった事になるわけです。

縄文時代は世界最古にして、世界最長の文明でもあります。

ただし、縄文時代と弥生時代の区分を水田稲作に求めると、北海道で最初に水田稲作が始まったのが、1873年(明治6年)であり、明治まで北海道は縄文時代だった事になってしまいます。

それらを考慮すると、文明の明確な分け方を一つのパターンで行うのは、困難だと言えるでしょう。

世界最古の土器

世界最古の土器が日本で見つかっています。

大平山元遺跡では1万5千年以上前の土器が見つかっており、煮炊きなどに使ったと考えられています。

ただし、縄の様な模様が無く大平山元遺跡で見つかった土器は、無紋土器だと言えるでしょう。

日本は土器の文明といってもよく、模様は入っていませんが、これも縄文文明の一つとして考える人もいるわけです。

それでも、世界最古の土器が日本にあるとは驚きです。

尚、大平山元遺跡に行けば世界最古の土器を見る事が出来ます。

縄文文明の変遷

縄文時代に縄文文明があったと言っても、広い日本列島で突如として、ガラッと変わったわけではありません。

大平山元遺跡の土器が紀元前14000年くらいに存在し、この時点では日本列島に小数ですが、縄文文明が芽生えていたと考える事が出来ます。

縄文時代には縄文海進があり、ピーク時とされる紀元前5000年から紀元前4000年の時点では、完全に大陸と切り離されました。

紀元前1000年位になると菜畑遺跡にみられる様な水田稲作が始まった事は明らかでしょう。

紀元前1000年から徐々に弥生時代が始り、徐々に東に向かって水田稲作が拡がりを見せます。

大和王権発祥の地ともされる大和の地にも紀元前400年頃には水田稲作があった事が分かりました。

現時点で考えれば、九州の菜畑遺跡から近畿の大和まで水田稲作が伝わるのに600年以上掛かったと言えます。

紀元前100年頃になると青森県にまで水田稲作が到達し、縄文文明は日本列島から消え去るかに思えました。

しかし、先に述べた様に北海道で稲作が始まったのは明治になってからであり、沖縄にも水田稲作は伝わってはいません。

北海道では縄文文化が続き、沖縄では後期貝塚文化が続く事になります。

メソポタミアやインダスでは紀元前5500年頃に農耕が始まったと考えられており、エジプトのナイル川流域では紀元前5000年頃に農耕が始まったと考えられています。

中国の長江流域では水田稲作はありませんでしたが、紀元前1万年には稲作が始まっていた事が分かっています。

これらを考慮すると縄文時代は、想像を超える長期間に渡り、日本列島に君臨したとも言えそうです。

蝦夷と縄文文明

中国側の記録で倭の五王が朝貢した話があります。

倭王武(雄略天皇とする説が有力)が南朝の宋に派遣した時に倭王武の上表文が提出されており、その中で「東は毛人(えみし)を征すること、五十五ヵ国に及んだ」と述べています。

毛人は関東の上野や下野にいた人々を指す場合もありますが、蝦夷と同等に扱われる事もあります。

景行天皇の時代に武内宿禰は蝦夷の国である日高見国を討つ様に進言しました。

武内宿禰の言葉では日高見国の者は髪を椎の様に結い体には入れ墨をして勇敢だと述べて、肥沃な土地を持っている事を理由に討伐する様に勧めています。

蝦夷の体に入れ墨をしていたと言うのは、縄文文明の名残だったのではないか?とする説があります。

魏志倭人伝を見ると倭人は入れ墨をしていた記述があります。

縄文時代の遺骨を見ると多くの装飾品と共に葬られており、派手さを好んだとみる事もでき入れ墨もしていたのではないか?と考えられています。

ただし、大和王権には入れ墨の文化が無かった様であり、どちらかと言えば大和王権は弥生時代の風習が強いと言えるのかも知れません。

縄文文明の継承者とも言える蝦夷ですが、戦いには滅法強かった様で、最終的には大和王権に屈しますが、願い年月を必要としました。

尚、日本書紀に日本側が遣唐使を派遣し、唐の高宗に蝦夷の暮らしを聞かれた話があります。

使者は蝦夷は東北におり五穀は持ってはいないが、肉を食べて深い山の中で樹木の本に住むと述べています。

蝦夷であっても五穀は作っていたはずですが、平城京や平安京の人々からしてみれば、肉ばかり食べているといった印象だったのでしょう。

日本側の使者の言葉を見ると、蝦夷はちゃんとした家に住んでいなかった事も述べており、縄文時代の延長とも言うべき竪穴式住居に住んでいた事も分かります。

竪穴式住居と言えば、縄文時代の代表的な居住地であり、縄文文明のシンボルの一つに思われがちですが、江戸時代になっても住んでいた人がいました。

竪穴式住居は長く日本で使われていたわけです。

尚、平安京の人々が護衛を雇う場合は、東人を望んだ話もあり、蝦夷の人々は肉を多く食べた事でたんぱく質をしっかりと摂取し、頑強な肉体に育ったのでしょう。

現在でも山菜を取ったりしている部分は、縄文時代と変わりがないとも言えます。

縄文時代の名残は確実に我々の生活に残っているわけです。

なぜ縄文文明と言えるのか

文明の定義

縄文文明という言葉に違和感を覚える人も少なくはないはずです。

学校の授業で世界四大文明の言葉を習った人も多くいる事でしょう。

文明という言葉は英語の「civilization」から来ており、都市住民を指す言葉でもあります。

ただし、都市住民でなければ文明ではないのか?と言えば、必ずしもそうではありません。

文明の定義を考えると、定住、農耕、都市化だとされる事が多いです。

しかし、生産力が向上し非生産的なものが誕生した時点で、文明が誕生したとみる事も出来ます。

人々が食べて行く為だけに働くわけではなく、生産性の向上により余剰食糧が誕生し、専門家が誕生した時点で文明とみなす事が出来るはずです。

縄文時代の火焔型土器を見ると、芸術点は極めて高いと感じますが、非生産的な代物でもあります。

縄文時代で食べて行くだけで精いっぱいであれば、火焔型土器の様なものは誕生しなかったとみる事が出来ます。

ウィキペディアより

文明を定義する上で、農耕、定住は多くの人が重視するポイントです。

世界四大文明であるメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明は定住し農耕を行っていました。

それに対し、ユーラシアステップの遊牧民にも文明と呼べるものは存在しましたが、農耕はしておらず定住もしてはいません。

遊牧民といえば文明国に襲い掛かる蛮族のイメージが強いかも知れません。

しかし、スキタイや匈奴を見ても文字がないだけで、装飾品など芸術の域に達しているものを持っているわけです。

日本の縄文文明になると世界でも、かなり特殊な存在であり定住をしていながらも、農耕は行ってはいません。

正確にいえば、縄文時代は農耕が始まっていながらも、縄文人が中々農耕を始めなかったのが現状だと言えます。

ただし、縄文人が全く農耕を行っていなかったと言えば、そうではなく栗の栽培などは行っていた事は確実です。

争いのない文明

縄文文明の特徴ですが、ユーラシアの文明と比べてみても、戦争らしきものが勃発しなかったと言えます。

メソポタミア文明は開封地形であり、シュメール人、アッカド人、アムル人のバビロン第一王朝など目まぐるしく王朝が入れ替わり戦いの歴史でした。

古代エジプトでもエジプト人の支配は続きましたが、上エジプトと下エジプトの戦いはありましたし、ヒクソスの侵入などもあったわけです。

黄河文明でも戦いはあり、森林伐採なども加わり文明の中心地は次第に変わっていきました。

しかし、縄文文明だけは戦争が行われなかったのではないか?と考えられているわけです。

縄文時代にも剣の様なものは見つかっていますが、重量があり過ぎたりもしており、殺傷能力は低かったのではないか?とされています。

縄文文明において戦争が行われなかったのは、大陸とは海があり隔離した場所にあった事も大きな要因です。

縄文文明の始まり

道具の進化

縄文時代の日本列島は自然豊かで気候も温暖であり多くの恵があった事が分かっています。

しかし、それだけでは縄文時代が世界最長にはならなかったはずです。

縄文時代には、縄文時代を長く続かせたメカニズムがあります。

縄文時代は資源を効率よく獲得し、食べ物に加工し、将来の為の蓄えにする3ステップにより成就される事になります。

食糧需給が安定する事で、長い年月を掛けて文明は花開くとも言えます。

三内丸山遺跡では石器が鋭利なものに進化したり、効率よく魚を獲る為の釣り針などが見つかっています。

石器の進化や釣り針などは効率よく獣や魚が獲れるわけであり、生産性の向上をもたらしたと言えるでしょう。

貝塚

貝塚と言えば、単なる貝のゴミ捨て場の様に思うかも知れません。

しかし、縄文文明にとってみれば貝塚は重要であり、貝を加工した場所が貝塚だとも考えられています。

全国に2700程の貝塚があるとされています。

貝は可食部分が少なく、貝だけでは大して栄養は摂取出来ません。

そこで、大量に採った貝は干しておき鍋の出汁として使ったり、保存食として使ったと考えられています。

縄文時代では食べ物を加工する技術も発展していきました。

尚、貝塚はゴミ捨て場にも見られがちですが、人骨と見つかる事も多くあり縄文人のお墓だったのではないか?とする説もあります。

貝塚は貝の加工工場だったとする説もあれば、お墓とする説もあります。

貯蔵

鹿児島にある前田遺跡からは、縄文時代の編み籠らしきものが見つかっています。

前田遺跡の編み籠の破片らしきものを見ると、縄文人の器用さも分かる様な気がします。

日本は春夏秋冬があり、食料の貯蔵が出来ないと冬を乗りきるのが大変なわけです。

縄文土器などは加工する為の道具としても使いますし、貯蔵の為にも使います。

獲得、加工、貯蔵の技術が徐々に進化し、最終的には縄文文明に到達したと考えられています。

互酬と再分配

縄文文明の経済は互酬と再分配で成り立っていたと考える事が出来ます。

獲物を取るにしても、自分で捕った分を自分のものにするのではなく、沢山の獲物を取った者は、みんなに分配したと考えられています。

相互に与えあったり再分配しなければ、自分が獲物を取れなかった時に、何も食べる事が出来ないなどの問題も生じるわけです。

それらを防ぐ為には、互酬と再分配が必要であり、餓死しない為の工夫でもあったとみる事が出来ます。

現在では物々交換は否定されている状態です。

ただし、互酬と再分配は同じ共同体の中だけの話であり、共同体の外に出れば物々交換をしていたと言えるでしょう。

縄文時代のリスク

縄文文明の特徴として、殆ど水田稲作を作っておらず、設備投資を殆ど行っていなかったと言えます。

よって、弥生時代と違い縄文時代は生産性が低い状態が長く続きました。

低生産性の生活モデルをしていても、気候変動や土壌の変化により飢餓に陥る事はあります。

しかし、縄文文明の場合は離乳食が無かった事で、人口が伸びなかったわけです。

弥生時代になると、日本列島でも灌漑設備を積極的に建設するなど、生産性が劇的に上がりました。

さらに、穀物からは離乳食が作れる事で、女性は毎年の様に出産する事も可能となります。

水田稲作という高生産モデルにより、人口が爆発的に増えた事は間違いありません。

しかし、水田稲作といっても万能ではなく、天候不順などによるリスクは抱えており、土地や水資源の問題もあり戦争にまで発展するわけです。

縄文文明の場合は食品で考えても陸上動物60種類、魚類70種類、貝類350種類を数えました。

縄文カレンダーを見れば分かりますが、縄文人は多様な食生活を実現し、栄養を安定定期に摂取する事が出来ていたわけです。

それでいて、離乳食がなく人口が増えなかった事で、戦争がおきなかったとも考えられています。

人口が少ないと少ないなりのメリットもあるという事です。

社会実情データ図録様より)

上記の図を見ると、縄文時代はピーク時でも日本列島の人口は26万人程度であり、弥生時代に入ると一気に増えている事が分かります。

さらに、時代が進むにつれ人口が伸び、近代に入ると爆発的に増えている事が分かるはずです。

縄文海進と縄文人の幸運

現在から1万9千年前に海面の上昇が始り、日本列島は大陸から切り離されました。

縄文海進は紀元前4千年ごろまで続き、海面は100メートルも上昇する事になります。

1年では1センチ程しか変わりませんが、長い年月を掛けて徐々に海面が上がって行ったわけです。

現在の日本列島はピーク時から海面が5メートル程下がっており、これにより平野部が出来ている部分もあります。

縄文海進の時は、日本はもちろん縄文時代であり、農耕はほぼ行っていなかったと考えられています。

仮に日本の平野部で稲作が行われていたら、縄文海進により平野での農耕が行われ亡くなり、倭国大乱とは比べ物にならない程の大規模な戦いが起きていたのかも知れません。

しかし、縄文海進の時代の日本列島は縄文時代であり、海面が上昇しても縄文人は山野部に移動すればよいだけで、大規模な被害は受けなかったと考えられています。

弥生時代の様な溜池などの灌漑設備を持っていれば、縄文海進により大打撃を受けていたはずですが、縄文文明の特性として優れていた部分により救われたと言えるでしょう。

土地に依存した農耕文明であれば、縄文海進に対応できず大混乱に陥った可能性が指摘されています。

縄文文明が世界最長となった理由

縄文文明が世界最長となったのには、次の理由が考えられます。

共同体により生産と分配が出来ていた。

離乳食が無く人口が増えなかった。

生産性の向上意識が薄く大きな投資を行わなかった。

カロリー摂取減の多様化(縄文カレンダーを見れば分かる)

村と村の交易があった

土地や水などの利権が発生しなかった。

縄文時代を見ていると、長く続くには理由がある事が分かります。

縄文時代の交易

縄文人の交易は沖縄まで到達していた!?

2017年に沖縄県北谷町の縄文時代晩期の遺跡である平安山原B遺跡から、世紀の大発見がありました。

沖縄にある平安山原遺跡から東北の大洞系土器が発掘された事です。

大洞系の縄文土器は鹿児島や種子島などでは見つかってはいましたが、沖縄本島でも発見され世間を驚かしたわけです。

東北の土器が沖縄で発見されたという事は、誰かが東北から沖縄まで持って行った事になるでしょう。

勿論、縄文時代に一人の東北の縄文人が東北から沖縄まで持って行ったわけでもないと思いますが、何者かが東北の大洞式土器を沖縄まで持っていった事になります。

東北の縄文人が大洞式土器を新潟で引き渡し、越前の方に行って引き渡し出雲に行き、九州に渡ったなどの感じで、地域の縄文人のリレーにより最終的に沖縄まで大洞式土器が到達した可能性もあります。

縄文人というのは、見方によってはかなりアクティブであり、朝鮮半島や樺太にまで行っていた事も分かっています。

縄文人は各地の集落とネットワークを作って交易をしていたとみる事も出来るはずです。

地域の縄文時代の遺物が離れた場所で見つかるのは、縄文人の交易の証であり海洋民族だと言われる由縁となります。

縄文時代に朝鮮まで縄文人は渡っていた

過去に韓国の釜山にある東三洞貝塚から縄文土器が発見され話題になりました。

朝鮮半島で見つかった縄文土器ですが、日本から朝鮮半島に土器を持って行ったとは考えられてはいません。

土器は輸出には余り使われていない事が分かっています。

現時点では、縄文人が朝鮮半島に渡り、現地で焼いて縄文土器を作ったと考えられています。

朝鮮半島の南部には古くは三韓と呼ばれる馬韓弁韓辰韓があり、後には百済、新羅、伽耶などの勢力もありましたが、日本産の翡翠が大量に出土しています。

日本では翡翠が取れる場所は新潟県の糸魚川周辺に限られており、日本産の翡翠が朝鮮半島に大量に輸出されていた事は確実でしょう。

東アジアではミャンマーなんかも翡翠は採れるますが、翡翠の産出地は限られている状態です。

日本神話で出雲の大国主が越国の奴奈川姫を口説きに出かけた話があります。

奴奈川姫は翡翠の女神とも呼ばれており、縄文時代だけではなく日本神話の時代にも翡翠と繋がっている状態です。

纏向遺跡の記事でも紹介しましたが、土器の種類において北陸・山陰系で一括りにされているのも注目するべき所でしょう。

山陰と北陸では、縄文時代から交易が行われ文化交流があったとみる事も出来ます。

丸木舟で交易をおこなう

縄文時代に縄文人は各地と交易をしていましたが、どの様にして翡翠や黒曜石などを運んだのか?という事が問題になります。

一般的には、縄文人は丸木舟で朝鮮半島や樺太まで行き翡翠などを運んだと考えられている状態です。

千葉県の雷下遺跡からは国内最古となる約7500年前の丸木舟や大量の木製品や貯蔵穴に詰まった木の実などが次々と出土しました。

発見された丸木舟は椋木をくりぬいたもので、全長約7メートル越え幅は50センチ程もあります。

丸木舟と言えば、小さなカヌーみたいなものや丸太に乗って縄文人が移動する姿を想像しますが、実際にはかなり大型の丸木舟もあった事が分かりました。

縄文時代の丸木舟は全国で160艘ほど発見され千葉県で最も多く発見されています。

千葉県で多くの丸木舟が発見された理由は、縄文時代の縄文海進と大きく関係しています。

縄文時代に現在の千葉県は日本列島と切り離され、島の様な状態になっていました。

葛飾区史より)

こうした理由から雷下遺跡にいた縄文人は必然と丸木舟を作り海に乗り出したのでしょう。

尚、大半の丸木舟が縄文時代後期から晩期のものとなっています。

縄文時代に黒曜石と天然アスファルトが使用された理由

現時点で縄文時代最大の遺跡と言えば、青森県の三内丸山遺跡だと見る事が出来ます。

三内丸山遺跡の出土物を考えると、様々なものが見つかっており縄文時代に各地と交易していた事は明らかでしょう。

三内丸山遺跡からは北海道の黒曜石が見つかったり、新潟県糸魚川近辺の翡翠、岩手県の北東部にある久慈の琥珀があり、三内丸山遺跡の南の方からは縄文人が採取していた天然アスファルトが見つかっています。

アスファルトと言えば、道路に使われているものなど固いイメージがある様に感じています。

黒曜石を鏃として縄文人は使っていましたが、矢に取り付ける接着剤としてアスファルトが使われていました。

縄文人が使っていた天然アスファルトは火に近づけると溶ける特性があり、冷えると固まる事から接着剤の役目を果たしたわけです。

黒曜石と矢だけがあっても、取り付ける事は出来ないわけであり、天然のアスファルトは重要な役目を果たしたと言えるでしょう。

因みに、木の鏃では狩りを行っても動物の皮を貫く事が出来ず、逃げられてしまいます。

それに対し、黒曜石の鏃を使う事で動物の皮を貫通させる事が可能となり、効率の良い狩りが出来るわけです。

縄文時代の狩りを考えると、黒曜石があるのとないのとでは成果が全く別のものとなります。

翡翠の交易

新潟県糸魚川の翡翠が北海道や東北で見つかっており、海路を使って運んだと考えられています。

三内丸山遺跡からは多くの翡翠が見つかっており、丸木舟を使って三内丸山遺跡まで届けた人がいる事は確実でしょう。

糸魚川の翡翠は青森県の三内丸山遺跡だけに留まらず、北海道まで交易により届けられました。

魏志倭人伝を見ると卑弥呼の後継者である台与が青勾玉を魏への献上物とした話があります。

台与が魏へ献上した青勾玉が翡翠だと考えられているわけです。

他にも、日本神話で天照大神スサノオがやってきた時に勾玉で身を守ったり、翡翠だと考えられている八尺瓊勾玉が三種の神器に入っていたりもします。

古代日本人と馴染みが深い翡翠ですが、糸魚川から各地に翡翠が運ばれる様になったのは、縄文時代の中期後半からです。

尚、東北や北海道で発見された翡翠をX線分析を行った結果として、糸魚川周辺の翡翠だという事は確実しされています。

縄文時代に糸魚川周辺の翡翠が全国の集落に渡ったという事は、縄文時代から日本海側には海路があり、そこを縄文人が通ったとみる事が出来ます。

縄文時代に青色の翡翠などはかなり加工され重宝されており、儀式や魔除けなどで使われたと考えられています。

翡翠を加工するのは、工機が発展していない縄文時代では大変なはずですが、苦労して翡翠に穴を開けたとみる事が出来ます。

中には途中で翡翠に穴を開けるのを諦めてしまったかの様なものまで発見されているわけです。

他にも、縄文時代に男性が女性へのプレゼントとして翡翠を用意したのではないか?という説もあります。

尚、翡翠だけではなく岩手県の久慈で産出される琥珀なども東北地方の北部全般に運び込まれています。

神津島の黒曜石

伊豆諸島の神津島には黒曜石が採れた事で、縄文時代に関東の各地を中心に輸出されていた事が分かっています。

神津島の人々は黒曜石を輸出し、代わりに何かを交易で得ていた事は確実でしょう。

神津島の黒曜石なんだけど、縄文時代の晩期になると東北や愛知県まで交易反旗が広がったとも見られています。

縄文晩期になると縄文集落は減っていきますが、何故か神津島の黒曜石の使用範囲が拡がりを見せている状態となります。

交易の重要性

今までも記事を読んでみて、縄文時代であっても交易が極めて重要だという事が分かるはずです。

弥生時代の邪馬台国の時代である正史三国志の魏志倭人伝を読んでも、一大国の所で次の様に書かれています。

※正史三国志東夷伝より

農耕だけでは食料の時給が出来ず、南や北の海を渡り食物を買い入れている。

上記の記述を見ると一大国では食料が足りず、日本列島や朝鮮半島に行って穀物を買わないといけない状態だった事が分かります。

魏志倭人伝の記述を見る限りだと、一大国は交易をしなければ、食べていけない事になるでしょう。

中華王朝と北方の遊牧民も交易を行っていました。

遊牧民と中華王朝と言えば、敵対し戦ってばかりいるイメージがあるかも知れませんが、実際には遊牧民は毛皮などを中国王朝に贈り、中国王朝側は穀物などを匈奴に贈っていました。

遊牧民と中華王朝も交易を行っていたわけです。

古代ギリシアにおいて、スパルタと覇を競ったアテネも、農耕には向いていない地域であり、交易なしでは生活が成り立たなかった話があります。

スパルタは徹底したリアリズム国家であり、自国で農業生産を行っていましたが、交易都市として発展したアテネは、穀物を輸入しなければ成り立たなかったわけです。

アテネはテオドシア、シラクサ、エジプトのアレクサンドリアなどから穀物を輸入していました。

アテナはギリシア最強の海軍を持っていましたが、自分達の食料源であるシーレーンを守るためにも海軍力の教化は必須だったのでしょう。

日本もチョークポイントやシーレーンを封鎖されてしまえば苦しくなりますが、アテネもシーレーンを封じられてしまうのは死活問題だったはずです。

アテネもペロポネソス戦争で敗れたのは、シーレーンが繋がらなくなってしまったからだと言えるでしょう。

縄文時代も交易をしなければ生活が成り立たず、現在の日本であっても原油を海外から買う必要があり、交易なしでは生活は成り立ちません。

交易の重要度は縄文時代よりも、現在の方が上がっていると言えるでしょう。

縄文時代に限らず交易は人々が生活する上で重要なものとなります。

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宮下悠史

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