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橋瑁は三公の文書を偽造した

2023年1月27日

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宮下悠史

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名前橋瑁(きょうぼう) 字:元偉
生没年不明ー190年
時代後漢末期、三国志
年表189年 三公の文書を偽造
190年 反董卓連合として酸棗に駐屯
画像亶夏王朝

橋瑁は豫州梁国睢陽県の出身であり、字は元偉で正史三国志や後漢書、資治通鑑などに登場する人物です。

英雄記によると、橋瑁は橋玄の一族で、子の世代にあたると書かれています。

ただし、橋玄と橋瑁がどの様な関係だったのかは記録がなく「一族だった」と書かれているだけです。

それでも、橋玄は高句麗討伐などの功績があり、橋瑁の橋玄の軍に参加した可能性もある様に感じました。

英雄記によれば、橋瑁には威厳と恩情があり、兗州刺史だった記録があります。

別の記述を見ると、連合軍を侮辱する様な態度があった様な事が掛かれており、人間性には疑問符も付きます。

しかし、史実の橋瑁と言えば初期の反董卓連合に加盟し、三公の文書を偽造し董卓の悪事を並べた立てた手紙を諸侯に届けた事で有名だと言えます。

橋瑁は反董卓連合の立役者と言えるでしょう。

しかし、反董卓連合は大して機能しておらず、空中分解すると橋瑁は同じく反董卓連合の劉岱に殺害されています。

今回は反董卓連合結成の立役者でもある橋瑁を解説します。

因みに、三国志演義では橋瑁と劉岱は兵糧の事で揉め、橋瑁が最期を迎える結末になっていますが、正史三国志や後漢書には、その様な記述がありません。

それでも、当時は食料不足に悩んでいた時代でもあり、橋瑁と劉岱が兵糧で揉めるのもあり得ない話ではないでしょう。

城皋に駐屯

橋瑁の名が最初に歴史書に現れるのは、何進袁紹の進言もあり、宦官を撲滅させようと考えた時でしょう。

霊帝死後に、何進は妹の何氏を諸侯の武力で脅しつけ、宦官を追放しようとしました。

何進は各地の軍閥を都に集めますが、この時に「東郡太守の橋瑁を城皋に駐屯させた」とあります。

董卓や丁原も軍を率いて都にやってきた事を考えると、橋瑁は後漢王朝の中でも名が通っていたのでしょう。

後に魏の猛将となる張遼なども、この時に丁原の命令で兵を集めに行った話があります。

しかし、宦官らは何進を暗殺し、宦官もまた袁紹、袁術盧植らにより皆殺しにされています。

こうした中で、董卓が実権を握りますが、この時に橋瑁が、どの様な行動を取ったのかは不明です。

後に橋瑁が反董卓連合に加わっている事を考えると、橋瑁も董卓に関しては批判的だったのかも知れません。

反董卓連合に参加

董卓が実権を握ると袁紹、袁術、曹操などは都を脱出しました。

後の事を考えると、橋瑁も董卓が実権を握った時には、任地である東郡に戻ったのでしょう。

張超配下の臧洪が人脈を生かし、結成したのが初期の反董卓連合です。

臧洪が呼び掛けた反董卓連合に参加した面々は、張邈、張超、劉岱、孔伷、橋瑁でした。

張超張邈は臧洪の能力を高く評価しており、劉岱孔伷は臧洪と誼があったとされています。

しかし、橋瑁だけは臧洪との繋がりが不明であり、東郡太守をやっていた事だけが記録されています。

初期の反董卓連合の盟主には臧洪が選ばれています。

しかし、何進が各地の軍閥を都にあつめた時に、橋瑁の名があり、橋瑁は武名があった橋玄の一族だった事を考慮すると、橋瑁が盟主になってもおかしくは無かったのかも知れません。

橋瑁が初期の反董卓連合において盟主になれなかったのは、劉岱との確執にあったようにも感じています。

初期の反董卓連合は臧洪の人脈で集まった部分もあり、橋瑁は疎外感があった可能性もあるはずです。

三公の文書を偽造

臧洪を中心とした反董卓連合が結成されますが、連合軍はさらなる力を求めました。

結果として、橋瑁が各地の郡守や刺史に三公の文書を偽造し、仲間を集めています。

三国志演義では曹操が檄文を作った事になっていますが、正史三国志を見ると檄文を作ったのは橋瑁となっています。

正史三国志の武帝紀では橋瑁が送った文書を韓馥が読み、劉子恵が意見を述べた話が残っています。

反董卓連合は袁紹袁術曹操孫堅ら多くの者が集まり、盟主は袁紹となりました。

橋瑁は劉岱・張邈・袁遺・鮑信・曹操と酸棗に駐屯しますが、戦ったのは曹操、鮑信であり張邈が衛茲を派遣し董卓配下の徐栄と戦っています。

しかし、戦いは不利で曹操らは徐栄に大敗しました。

曹操は酒盛りばかりしている連合軍に演説を行い奮起を促しますが、結局は諸侯は進んで戦おうとはしなかったわけです。

これを考えると、橋瑁は酸棗に駐屯した者達の中では、酒盛り組だったのでしょう。

橋瑁は三公の文書を偽造し、威勢は良かった様に思いますが、実が無かったと見る事も出来るはずです。

しかし、この直後に橋瑁にとっての不幸が訪れます。

橋瑁の最後

連合軍はまともに戦おうとせず、献帝を擁する董卓が長安遷都を行うなどもあり、反董卓連合は瓦解しました。

この時に、正史三国志によると、次の記述が存在します。

※正史三国志 武帝紀より

劉岱と橋瑁は仲が悪く、橋瑁は橋瑁を殺害し、王肱を東郡太守とした。

橋瑁は劉岱に殺害され、最後を迎える事になったわけです。

正史三国志には劉岱と橋瑁の仲が悪かった位しか書かれておらず、なぜ橋瑁が命を落したのかも記載がありません。

しかし、後漢書によると橋瑁は軍の数が多い事を頼みとして、同盟を侮辱し人々を妬んだので命を落したとあります。

陳留太守の張邈と名前が分からない済陰太守が橋瑁を助けに向かった話もあります。

張邈らは橋瑁を救おうとした様ではありますが、橋瑁に大義が無く友好を捨てたとあるわけです。

橋瑁は皆に見捨てられ死んだようにも見受けられます。

ただし、実際の所は反董卓連合が解散した時に、勢力拡大を狙っていた兗州刺史の劉岱が、勢力拡大する為に、何かしらの失態を犯した橋瑁を殺害したと言うのが事実なのかも知れません。

劉岱は橋瑁を殺害し、王肱を東郡太守に任命しい勢力を拡げたと見る事も出来ます。

橋瑁にしても、董卓と戦わなかったのは、後に関東の諸侯で争いになると考え、兵を温存させておきたかった可能性もあるでしょう。

劉岱も同じことを考えており、劉岱と橋瑁が対立し、橋瑁が命を落した様にも見受けられます。

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