陳武は正史三国志に登場する人物で、孫策や孫権に仕えた人物です。
陳武は揚州廬江郡松滋の出身であり、優れた体格を持った偉丈夫で思いやりがある性格だったと記録されています。
孫策の江東平定戦において活躍し、孫権の時代には特別な待遇を受けたとあり、孫策のみならず孫権にも気に入られていた事が分かります。
しかし、陳武は215年の合肥の戦いで張遼の猛攻の前で最後を迎えました。
陳武は正史三国志に陳武伝がありますが、陳武自身よりも息子の陳脩や陳表の方が多くの文面を割いている状態です。
尚、陳武伝は程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝に下記の人物と共に収録されています。
孫策に仕える
正史三国志によると陳武は孫策が寿春にいた時に、自ら出掛けて行き孫策の配下になったとあります。
当時の孫策は孫堅の子としての勇名がありましたが、まだ個人的な実績を挙げてはいなかったはずです。
しかし、陳武は孫策に何かしら感じるものがあり、仕官を望んだのでしょう。
この時の陳武の年齢は18歳だったと伝わっています。
孫策自身も江東で名を馳せようと考えており、身長が七尺八寸(185センチ)もある大柄な陳武の仕官を喜んだはずです。
孫策は袁術からの独立を考え、江東に兵を向けました。
尚、三国志演義では周瑜と陳武が昔からの知り合いだった様な描き方をしていますが、正史三国志の陳武伝を見ても「周瑜」の名前すら出てこない状態です。
陳武は孫策配下の一部隊の将となり、長江を渡り各地を転戦したとあります。
これらの記述から陳武は揚州刺史の劉繇との戦いや厳白虎、王朗などとの戦いにも参戦し手柄を挙げたのでしょう。
三国志演義の様に張英との戦いで功績を挙げた可能性もある様に感じています。
孫策は陳武を別部司馬としました。
精鋭部隊
劉勲は鄭宝から軍勢を奪った劉曄の軍や旧袁術軍を吸収し大兵力となりました。
しかし、深刻な食糧不足などもあり、そこを孫策に突かれ劉勲は北方の曹操を頼り逃亡する事になります。
孫策は劉勲を破った時に、廬江郡の人々を多く捕虜にしたとあります。
孫策は廬江の捕虜の中から精鋭部隊を創出しました。
廬江郡の精鋭部隊の指揮を孫策は陳武に任せたわけです。
陳武も廬江郡の出身であり、偉丈夫であった事から孫策も迷う事なく陳武に指揮を任せたのでしょう。
陳武が率いる廬江兵は強く、向かう所敵なしの活躍だったとあります。
孫権に信頼される
孫権は陳武を五校尉の目付け役に任じたとあります。
五校尉は首都を守る大事な任務を背負っており、孫権が如何に陳武を信頼したかが分かります。
陳武は体格が良いだけではなく、思いやりを持った性格でもあり、気前がよかったと記録されています。
陳武は多くの人に慕われた様であり、同郷の者や流浪の者たちの多くが身を寄せました。
孫権も陳武を信頼しており特別な待遇で報いて、陳武を寵愛し何度も家を訪れたとあります。
陳武自身も何度も戦功を挙げており、偏将軍にまで昇進しました。
三国志演義では劉備と孫尚香の婚姻において逃走を計る劉備を潘璋と共に追いかけますが、張昭からは「頼りない」発言が飛び出ています。
しかし、実際の陳武は孫権からは信頼されており「頼りない」などの発言は、正史三国志を見る限り一切ありません。
孫尚香に一喝された話も三国志演義の創作です。
陳武の最後
陳武は建安20年(215年)の合肥の戦いにも参戦したとあります。
孫権は圧倒的な大軍で合肥を攻撃しましたが、張遼、楽進、李典の守が固く、張遼に打ちのめされる事になります。
合肥の戦いでは孫権自身が捕虜になる直前まで行ってしまい、呂蒙、蒋欽、甘寧、淩統らが奮戦しました。
こうした中で陳武も命を賭して奮戦したと正史三国志に記録されています。
陳武も孫権を逃がす為に必死で戦い、こうした中で戦死しました。
陳武は215年の合肥の戦いで最後を迎えたわけです。
孫権は陳武の死を知ると哀惜し、葬儀に臨席したとあります。
尚、三国志演義では濡須口の戦いで龐徳と戦い討ち取られた話がありますが、これも史実では存在しない話です。
殉死
江表伝によると、孫権は陳武が亡くなると愛妾を殉死させたとあります。
さらに、小作人二百戸の租税を免除しました。
孫権は陳武の為を想い愛妻の命を奪ってしまったと思われますが、この行為を孫盛は批判しています。
孫盛は春秋時代に三人の立派な人物が秦の穆公に殉死したと述べました。
孫盛のいう三人の立派な臣下というのは、子車の三兄弟の事を言うのでしょう。
尚、秦の穆公に殉死した者は177名もいたと伝わっています。
しかし、秦では殉死が相次ぎ代が変わる事に弱体化し、東方に中々兵を進める事が出来ませんでした。
さらに、魏君の愛妾は殉死を免れ再婚しましたが、それが原因で杜回は草に足を取られ捕虜となり、魏軍は勝利を収めています。
孫盛は殉死に反対であり孫権が陳武の愛妾を殉死した事を非難しました。
孫盛は孫権が陳武の愛妾を殉死させた事を知り「呉王朝の子孫が長く続かなかったのは当然」とまで述べています。
ただし、淩統伝の注釈では淩統の遺児である淩烈や淩封を養ったり、陳武の愛妾を殉死させた孫権の行いを孫盛は「孫権が王者として振る舞うことが出来た理由」の一つとして評価しています。