韓非子の史実のお話です。
尚、キングダムでもキーポイントになる人物である事は間違いないでしょう。
ここでは、韓非子がどのような人だったのか?史実での実績など韓非子の生涯を紹介します。
韓非子は戦国七雄の韓の公子だと言う事は分かっていますが、誰の子かはっきりとしません。
専門家の間では、桓恵王の子とする説と韓王安の子とする説があります。
私は桓恵王の子ではないかと思っています。
韓非子が紀元前280年生まれの説があるので、それを考えると桓恵王の子の方が自然だと考えています。
ただし、この頃の韓は秦に領地の多くを割譲させられたり取られていますので、国としては風前の灯のような状態です。
今回は韓非子の最後や史実の韓非子の実績を紹介します。
尚、韓非子を韓王が重用し宰相に任じれば、韓の逆転劇が起きて天下が取れるのか?も解説します。
結論から言えば、好意的に見れば韓が天下を取るのも不可能ではないと考えています。
ただし、偶然が重なる必要はあるでしょう。
荀子の元に弟子入りする
韓非子は荀子という儒家に弟子入りしました。
荀子は楚の思想家として有名なだけではなく、春申君が蘭陵の長官に任命するなど役人としても活躍したようです。
荀子は性悪説で有名になっています。
その当時の荀子の弟子として、後の秦の丞相となる李斯も同門として学問を習っていたようです。
史記には「李斯は韓非子に及ばないと認識していた」という記述もあります。
尚、荀子は秦で李斯が丞相になったと聞くと「李斯が宰相では世も末だ」と言い自殺した逸話もあります。
本当に自殺しかは分かりませんが、極端な人なのかも知れません。
ただし、韓非子が宰相になったとしても、同じように自殺していた可能性もあるかと思います。
どちらかと言えば、韓非子の方が極端な性格にも感じるからです。
尚、韓非子が荀子の事に対して触れた記述が極端に少ない事から、韓非子は荀子の弟子ではなかった説も存在します。
韓王に進言する
韓非子は吃音で伝えるのは上手ではありませんでした。
しかし、韓王に対して進言を行っています。
ここでいう韓王は桓恵王ではないかと考えています。
桓恵王には、下手ながらも言葉で説明した説と書物に書いて差し出した説があります。
韓非子が口で説明したけど、韓王は聞き入れなかった事に発奮して韓非子の書物を残したと言う話も伝わっています。
どちらにしろ、桓恵王が韓非子の言う事に聞く耳を持たなかったのは間違いないです。
尚、韓非子は合従連衡などの論者を否定し、代わりに法治国家として国を治める事や重農政策を推奨しています。
他にも、商工業者や官位の売買も否定しているわけです。
これらの政策が韓王と意見が合わなかったのかも知れません。
秦王政が韓非子を絶賛する
韓非子の書いた書物の一部が秦に伝わりました。
それを見た秦王政(後の始皇帝)は、「この者と語り合えるならば死んでも悔いはない」と言ったとされています。
ちなみに、後に秦王政は韓非子と語り合いますが、満足して死んだという話は聞いていません・・。
秦王政は、李斯の言葉により韓非子の存在を知る事になります。
李斯が韓を攻めれば講和の使者として韓非子が来ると秦王政に進言します。
韓王安は韓非子を評価していたのか
秦は韓を攻めたわけですが、講和の使者として韓非子が本当にやってきました。
秦の方で韓非子が使者でないと講和に応じないとでも言ったのかも知れません。
それか、韓王安は韓非子の能力を高く評価していて、講和の使者であれば【韓非子しかいない】と考えて使者にしたのかも知れません。
韓王安はこの年に即位したのですが、もしかして、宰相に韓非子を任命したかった可能性もあるでしょう。
秦との講和が上手く行き韓非子が帰ってくれば、功を認めて宰相に任命したかも知れません。
ただし、韓非子が吃音で上手く喋れない事を分かっていたはずなので、韓非子を使者にするというのも変な話にも感じます。
それか、筆談を条件に韓非子を秦への使者にしたのかも知れません。
尚、後述しますが、韓王が韓非子を評価しなかったのに、秦王政が評価した理由も考えてみました。
韓非子の最後!李斯とは友情?それとも妬みなのか?
韓非子が悲劇の思想家と言われるのは、悲劇的な死に方にあると感じます。
韓非の最後を詳しく解説します。
李斯に妬まれて讒言される
韓非子は講和の使者として秦に行くわけですが秦王は大いに気に入ります。
李斯は能力では韓非子に及ばない事は分かっていましたし、自分の地位を危ぶみ秦王に韓非の事を讒言します。
「韓非子の能力の高さは認めますが、韓の公子です。韓に有利になるように事を進めるに違いありません。理由を付けて殺してしまうに限ります」
このように李斯が秦王政に伝えたと言います。
史実の秦王政は猜疑心が強い人物ですし、李斯の言葉を信じて韓非子を牢に入れてしまいました。
すぐに殺さなかったのは、「殺すには惜しい人物」だと考えたのでしょう。
しかし、李斯の方は殺せる時に、殺しておいた方が良いと考えたのか獄中にいる韓非子に毒薬を飲ませてしまいます。
実際に戦国時代の初期に魏の龐涓(ほうけん)は、ライバルの孫臏(そんぴん)を殺せる時に殺さなかった為に、桂陵の戦いや馬陵の戦いで敗れ身を滅ぼしています。
李斯には龐涓の様な甘さはなく結果として、韓非子は死んでしまいました。
秦王政は韓非子は牢には入れましたが、惜しい人物と考えなおして、罪を許そうと考えましたが、「時すでに遅し」という状態でした。
秦王政は「惜しい人物を亡くした」と大そう後悔した話も伝わっています。
これが、もっともスタンダードな韓非子の最後です。
李斯が気を利かせて韓非子に毒薬を飲ませた
李斯は韓非子の能力を認めていましたが、妬んだりはしていなかった説もあります。
韓非子が秦王政と対談して気に入った事ところまでは同じです。
さらに、秦王政は韓非子に絶対君主制を習う事になります。
この時に、鄭国が韓の回し者だという事がバレてしまいます。
鄭国は、秦で灌漑工事を行っていた人物ですが、元は韓が秦に対して資金を灌漑事業に使わせるために送り込んだわけです。
秦が韓を攻めるために資金を使わせないようにして、生き残りを図る韓の延命策でした。
それがバレてしまい秦王政は激怒するわけです。
しかし、鄭国以上の技術者が秦にいなかった為に、秦王政は鄭国をそのまま使い続けました。
この事で秦王政は韓に対して悪感情を持ち韓非子を獄につないでしまいます。
その後、秦王政に他国出身者を追放する逐客令を進言した者が現れました。
鄭国の例があったため秦王政は逐客令を承認します。
逐客令が出ると李斯も追放されてしまうので、李斯は秦王政に意見書を出します。
秦では過去に、商鞅、張儀、范雎、百里渓などの他国出身者を重用した事で国を強くしたことを述べたわけです。
この時に、秦王政は秦の貴族たちを優先して考えたようで、李斯の意見を却下しています。
そして、李斯も秦を去る事になるのですが、去る前に韓非子の元を訪れているわけです。
韓非子は李斯に対して、
李斯「自分は秦を去るだけで済むが、あなた(韓非子)はそうは行きません」
李斯「あなたは韓の公子ですし、あなたのような賢人を韓に返してしまい韓が富国強兵になってしまったら秦が困ります」
そして、毒薬を渡します
李斯「もし酷い拷問をされるようであれば、これ(毒薬)を飲んで苦しみから逃れてください」
韓非子「私も韓の公子として見苦しい死に方はしたくない。かたじけない」
このようなやり取りがあったとされています。
李斯は秦を去る途中だったのですが、秦王政の気が変わります。
逐客令を撤回したのです。これにより李斯は秦に再び仕える事になります。
韓非子も罪を許されて牢獄から出される事になりましたが、既に毒薬を飲んで自殺していたわけです。
これを聞き秦王政は「惜しい人物を亡くした」と残念がった話があります。
横山光輝さんの史記という漫画では、この説を採用しています。
しかし、逐客令を出したのは、紀元前237年とされています。
韓非子が秦に行ったのは紀元前233年です。そのため年代的に合わない事になります。
ちなみに、春秋戦国時代の末期を描いた漫画キングダムでは、貴族たちが政治の実権を握るために逐客令を出した事になっていますが、李斯に一喝されて取り消されています。
韓非子が姚賈を讒言した為に死んだ?
姚賈はキングダムでは、昌文君の間者(スパイ)として趙の佞臣である郭開とも繋がっている人物です。
姚賈を韓非子が讒言したため、秦王政の怒りを買い死んだとする説もあります。
他にも、秦王が称賛する韓非子を妬んで李斯と姚賈が結託して韓非子を陥れた説まであります。
史記の老子・韓非列伝だと姚賈と李斯が韓非子を悪く言った記述もあります。
さらに、度を超えて法律を適用して訊問し誅する様に進言しているわけです。
韓非子は牢獄から秦王政に無実を釈明したいと言いましたが、聞き入られる事はありませんでした。
そして、李斯が毒薬を飲ませる話もあります。
韓非子が姚賈を讒言するにしても、吃音なので非常にへたくそだったと思われますし、韓非子を読んでみても讒言するタイプには思えません。
しかし、韓非子の死は李斯と姚賈が大きく関わっている事は間違いないでしょう。
キングダムの李斯を見る限りでは、李斯は讒言するようには見ませんね。
今のところですが・・・。
後に、李斯は趙高の誘いに乗り扶蘇を廃して胡亥を立てています。
他にも、李斯は始皇帝の焚書坑儒とも関わっている説もあります。
それらを考えると、韓非子を葬り去る位は分けなかったのかも知れません。
司馬遷の韓非子の評価
司馬遷は韓非子について次のように述べています。
韓非子が説難を説きながらも自分自身が、そこから抜け出せなかったのは悲しい事だ
さらに、韓非子の説については下記のような記述が太史公曰くの部分に載っています。
韓非子は法律の縄を張り巡らして、人の心情を適切に捉えて是と非を明らかにした。
韓非子の説は残酷で愛情に欠けているのは、全て老子の道徳の説に基づく、老子の道は深く遠かったのである
災いから逃れる事が出来ないというのは、司馬遷も自らの事を言いたかった部分がある様に思えてなりません。
司馬遷は李陵を庇った事で漢の武帝の怒りを買い宮刑を受けています。
韓非子に自らを重ね合わせた可能性も高いです。
韓非子の説は残酷で愛情に欠けるとも書いてありますが、史記の列伝では3番目に【老子・韓非列伝】に記載があります。
老子・韓非列伝には、他にも申子(申不害)の事や荘子の事も書かれています。
列伝のタイトルを【老子・韓非列伝】にした事や列伝の3番目に位置する事から司馬遷の評価は高かったように思います。
しかし、韓非子を認めて用いてくれる君主がいないのは残念に感じます。
藺相如でいう趙の恵文王や管仲でいう斉の桓公、楽毅の燕の昭王のような存在です。
自分にあった時代に生まれるかや名君と呼ばれる人と出会えるかは、非常に大事な事だなと感じています。
韓非子は諸葛亮も呼んでいた
韓非子が亡くなった3年後には韓は秦の内史騰により滅ぼされています。
そして、秦は次々に群雄を滅ぼし、秦の統一戦争は達成され天下統一を成し遂げる事になります。
しかし、統一後わずか15年で項羽により滅びてしまいました。
韓非子の思想を実践したはずの秦が短命に終わったわけです。
原因は始皇帝が亡くなった事や人民を法律により酷使しすぎた事だと言われています。
焚書坑儒や始皇帝が土木工事を好み阿房宮や万里の長城を建設した事が原因とする説もあります。
ただし、韓非子の思想はやりすぎだったと指摘される場合もあるのです。
しかし、秦では焚書坑儒なども行われましたが、その後も韓非子の思想は残る事になります。
三国志の時代では、諸葛亮孔明も読んでいた事も分かっていますし、蜀の劉備の後継者である劉禅にも帝王学として読ませていたようです。
さらに、現代になっても読み継がれていますし、日本であっても内容を知る事が出来ます。
それを考えれば韓非子も2000年を超え現代に読み継がれている書物だと言えるでしょう。
韓王が韓非子を評価しなかったのに秦王政(始皇帝)が評価した理由
韓非子は韓王に意見した時は、相手にもされなかったのに秦王政は非常に評価した現実があります。
なぜ韓王は韓非子を用いる事が出来ずに、秦王は韓非子を評価したのか考えてみました。
韓非子は吃音で口下手だった
韓非子と言うのは非常に口下手だったはずです。
というのは、韓非子は吃音で上手く喋る事が出来なかったと書いてあるので、よっぽど酷かったのでしょう。
因みに、三国志の世界で蜀を滅ぼした鄧艾も吃音で有名です。
吃音というのは、少しの程度であれば「あの人少しどもるな~」位で済みますが、重度になると見ていて気の毒になるくらいです。
韓非子は多分ですが、重度だったのではないかと考えています。
しかし、吃音者であったからこそ、自分の考えを書物にまとめて書く事に集中したように思います。
尚、余談ではありますが、吃音というのは一種の天才病でもあります。
タイガーウッズ、エジソン、アインシュタイン、ダーウィンなどの偉人も吃音者であったそうです。
アスリートや芸術家など多くの分野偉業を残した人に吃音者が多いと言う結果が出ています。
吃音者というのは、デメリットも背負っていますが、上手く爆発した時は凄い能力が噴き出すのではないでしょうか?
三国志も吃音者鄧艾の爆発力で蜀が滅びたとも言えるのかも知れません。
他の公子や貴族にも舐められていた
上手く喋れないと舐めてくる奴はいるはずです。
人によっては、バカにしてくる人までいるわけです。
それが、韓王だけではなく、他の貴族や公子たちの間でも知れ渡っていたりして、韓非子は「使えない奴」として認識されていたかも知れません。
しかし、一部の人には高く評価されていたのは間違いないでしょう。
吃音と分かっていても荀子や李斯は大きく評価しているわけです。
韓非子はインプット能力は爆発的にあり荀子や李斯なども認めていたのでしょう。
しかし、アウトプットとなると吃音が原因で上手く出来なかった様に思います。
つまり、いくら脳みその中に知識を入れても口から出す事が出来ないのです。
韓非にしてみても、非常に辛かったのではないかと思います。
さらに、韓非子の書物は国を強くするためには、どういう人物を用いるかや何をすべきかが書かれています。
法治国家に変貌するために所作が書かれているわけですが、それを読んだ韓王は「韓の大臣達は無能だと言って様ようなもの」とか自分を否定された気分になった可能性もあります。
韓非子は桓恵王の子だと思われるので、息子に指摘されて余計に腹が立ったのかも知れません。
良いことを言ってもプレゼンが悪いとダメになる事が多い
会社員であれば感じている人も多いかと思いますが、プレゼンなどでは内容を求められていないような気がします。
内容よりも、【上手く発表が出来るか】の方が評価されると言う事です。
簡単に言えば、下手なプレゼンで会社にとって役立つ戦略的な事を語るよりも、上手いプレゼンで【プラス思考が大事】と語った方が評価される場合が多いです。
しかし、プラス思考が大事なんて言う事は、誰でも分かり切った事だと思います。
同じような事が韓王にも起きたのではないかと個人的には思います。
普段は吃音で会話も出来ないような人の書いた書物なので、読む気もしなかったのかも知れません。
秦王政が韓非子を認めた理由
逆に秦王政が韓非子を認めた理由ですが、韓非子の書物の内容だけを拾ったからだと思います。
つまり、韓非子が吃音で喋れないなんて事は、秦王政は知らないわけです。
韓非子の書物に書いてある事を読んで「凄い」と唸ったわけです。
もしかして、秦王に韓非子が直接プレゼンをしたとしたら、評価されなかった可能性もあるかも知れません。
しかし、秦王政は頭が切れる人物なので、内容を評価した可能性もあります。
尚、李斯は秦王政に荀子の元で学んだと言い、重度の吃音ではあるが優秀な人物と言ったのかも知れません。
李斯は秦王政に韓非子を合わせれば、韓非子のプレゼン能力の低さから、秦王政は重用しないと考えましたが、予想に反して秦王政が吃音の韓非子を気に入ってしまい、自分の為にも生かしておく事はできないと考えたのかも知れません。
韓非子が現代に生きていたら?
韓非子が現代に生きていたとしたら、ネット上で意見を書き皆に評価されていた可能性があります。
現在は、電話社会でもあるので、吃音で喋れないと言うのは、マイナス要因が高いので普通のサラリーマンは難しいかも知れません。
しかし、ネットで文章を書くのを仕事にするのであれば、吃音でも問題はないはずです。
そのため、ネット上で独自の切り口で話題を集めて人気ブロガーにもなっているように思います。
韓非子の書物は、ズバズバと世の中の事を斬っていますので、現代であっても人気が出そうです。
現代に韓非子がいたら、自分としては面白そうだと思いますし、韓非子が日本人であったら日本の政治経済などもバンバン斬って欲しいと思います。
現代に韓非子がいたら面白そうな気がするんですけどね。
尚、韓非子は性格上ビットコインなどにハマるようなタイプでは無い様に思います。
むしろビットコインなどは性格に合わないと感じる気がします。
ビットコインを否定して、如何にして仕組みを作りビジネスを回すとか、そっちの方に興味が行きそうな気がしますね。
【戦国七雄・最弱国・韓の逆転劇】韓非子・宰相で韓は天下を取れるのか?
韓非子がいた韓は戦国七雄の中でも最弱国であり、韓王が韓非子を重く用いて宰相に任用したら天下が取れるのか考えてみました。
歴史のIFになってしまいますが、結論から言えば韓非子を宰相にした所で韓が天下を取るのは難しかった様に思います。
ただし、全くの不可能でもないと感じています。
韓非子の改革が成功すれば
ここからが本題ですが、韓非子の改革が成功して韓が強くなったとします。
この場合に、韓が秦の代わりに天下を取れたかですが、全くの不可能ではないように思います。
まず、韓の改革が成功すれば富国強兵となります。
国力が高くなれば、戦争にも勝てますし、国庫も充実する事でしょう。
張良が韓で登場する
張良(開姓から張姓に変えた話が史記にある)の父は開平であり祖父の開地は共に韓の大臣だった話があります。
つまり、時が立てば韓には天才軍師である張良が登場するわけです。
もちろん、登場したとしても、その時の韓王が用いるかは分かりませんが、用いたとすれば非常に戦力になる事でしょう。
韓非子の法治国家で国がよく治まり、さらに戦略の天才が韓に加われば大きな戦力になるはずです。
韓信が韓に来るのか?
漢の初代皇帝となった劉邦には軍事の天才として韓信がいました。
韓信は、楚の人間なので韓とは無関係に思えるかも知れません。
しかし、楚は貴族などが権限を持っているため、在野で優秀な武将がいたとしての用いられる事はないはずです。
韓信の場合は、用いられなければ逃げ出してしまうはずなので、そうなると、どこの国に来るかは分かりません。
韓に来る可能性もゼロではないでしょう。
そこで、張良が韓信の才能がある事を高く評価し、韓王が用いる事が出来れば、軍事の天才である韓信の韓の為に働く事になります。
ただし、韓信は戦の天才ではありますが、野心も高いです。
そのため油断は禁物と言えるでしょう。
どこかのタイミングで蒯通が現れて独立を進言されてしまい、劉邦の時は断りましたが、再び断るとは限りません。
しかし、張良と韓信が韓にいて活躍すれば、かなり心強いはずです。
国力の差が問題
ここで問題になってくるのが、秦と韓の国力の差です。
秦は韓を滅ぼして、潁川郡を置きました。
秦は郡県制で国を治めようとするわけですが、秦が郡にした領土は、潁川郡で18番目です。
秦は後に天下を36郡に分ける事を考えれば、韓を滅す前で国力は17倍の差がある事になります。
さすがに、ここまで国力の差が出来てしまうと、かなり苦しいと言えるでしょう。
さらに、秦が天下の半分を手中にしているので、合従軍を作ったとしても、6国を合わせても秦と同じ位の国力しかありません。
合従軍は連合軍なので、団結力が低く出撃しても度々敗れているわけです。
実際に紀元前241年に行われた楚の春申君や趙の龐煖の合従軍である函谷関の戦いや蕞攻防戦では、合従軍は敗退しています。
それを考えると、韓非子が登場しても、国力の差が問題になってきます。
秦で趙高が暴政
韓が滅亡を免れて天下を取るには、秦の存在がかなり邪魔な事が分かったかと思います。
韓とは国力が10倍を軽く超えているわけです。
しかし、強くても必ず弱くなるのが歴史の常です。
実際に、秦には秦王政のお気に入りの宦官である趙高がいます。
秦王政には、荊軻のような刺客に襲われて命を絶ち、胡亥が跡を継ぐのが韓にとっては理想です
趙高が権力を握り名将・名臣を殺戮しつくせば秦の国力は大幅に弱まるはずです。
しかも、内部での権力闘争に明け暮れてくれれば、韓に攻めて来る事もありません。
韓としては、何としても趙高に権力を握ってくれるように、国を挙げてバックアップするのがよいでしょう。
これが実現すれば、李信、王翦、蒙恬、蒙武、王賁などの武将は全て趙高が抹殺してくれはずです。
これで秦の内部は骨抜きとなります。
ただし、秦の方も名将として章邯が登場する事になるはずです。
項羽は楚の将軍として登場するはず
他国の状況を考えると、戦国時代が続けば項羽は楚の将軍になる可能性が高いと思われます。
実際に、項燕将軍の孫になりますし、楚の名門出身だからです。
戦国時代は秦と楚が戦う場合は、楚が不利になる事が圧倒的に多かったわけです。
しかし、楚の将軍に項羽がなった場合は、王翦や蒙恬などとも引けを取らないように思います。
秦にとって脅威になるだけではなく、韓にとっても脅威となる存在でしょう。
その他にも、斉では田栄や田横、在野の士である陳平、黥布、彭越なども出て来るはずですし、楚漢戦争の名将・名臣たちも現れて来るはずです。
そうなると、どこが天下を取ってもおかしくない状態になるかも知れません。
しかし、現実は?
今まで話したのは、あくまで理想論であって現実ではありません。
趙高が権力を握ったのも、秦に取っては守成の段階であった為に、趙高が権力を握れた可能性も高いです。
守成・・・創業者(ここでは始皇帝)の後を継ぎ国の地盤を強化する段階
乱世が続いていれば、趙高自身も権力を握る事は出来なかったのではないかと思います。
唐の李世民や魏徴も言っていますが、天下統一よりも守成の方が難しいと考える人もいる位です。
天下統一の段階は、皆が引き締まっていますが、守成の段階になると権力闘争や平和ボケしてしまうからです。
名君と呼ばれた人ですら、守成の段階で失敗した人は多いと言えます。
秦が内部崩壊しない事を考えると、韓王が韓非子の言う事を聞いていても、国力の差がありすぎて国を保ち続けるのは難しかったのではないかと考えるのが打倒でしょう。
それでも、韓王が韓非子の言う事を聞いて、国内改革に成功する事が出来たら面白い展開かなとは感じます。
回復させた国力を元に張良が出てくれば面白いと思います。
ただし、張良の話は劉邦は非常によく聞く事が出来ましたが、他の人物がどれほど重用出来るのかは未知数です。
今までの話は架空のお話でしたが、本当に韓が秦を含めた6国を滅ぼしたとしたら、今度は韓が秦のように短期間で滅亡した可能性もあるかなと思います。
法律を過度に厳しくしたり、人民を酷使したりするのは社会に歪が生まれると考えるからです。
キングダムでも韓非子は出てくるはずですが、どのように描くのか楽しみにしています。