名前 | 観応の擾乱 |
時代 | 南北朝時代 |
コメント | 目まぐるしく情勢が変わった擾乱 |
観応の擾乱は高師直が四條畷の戦いで楠木正行に勝利し、巨大な権勢を得た事に始まりました。
しかし、四条畷の戦いから1年半後には、足利直義により執事を罷免され失脚しています。
高師直は失脚しますが、直ぐに高師泰や自分を支持する武将たち数万騎で、御所巻を決行し将軍御所(尊氏邸)を包囲しました。
今度は逆に足利直義が失脚し、高師直が執事復帰し権勢を得ています。
この1年後には足利直冬討伐に出かけた隙を突き、直義が南朝に降伏し多くの武士の支持を得て、最終的に打出浜の戦いで勝利し高師直らは滅びる事になります。
天下人になったはずの足利直義ですが、その五か月後には何もしていないのに、幕府内で孤立し北陸から関東に移動しました。
この時には足利尊氏に味方する武将が多く現れ、直義は薩埵山の戦いで敗れ降伏し、それから間もなく世を去っています。
観応の擾乱は一気に権勢を握った者が、直ぐに権勢を落し、転換が激しいのが特徴です。
応仁の乱などは東軍と西軍で寝返りなどはあっても、実力は拮抗し延々と続く感じとは、違った趣があります。
この辺りが「観応の乱」ではなく「観応の擾乱」と呼ばれる所以でもあるのでしょう。
当時の記録でも「世上擾乱」「諸国擾乱」「観応擾乱」などの言葉が使わている事が分かっています。
尚、観応の擾乱の言葉は小川信の論文の中で「観応の擾乱」という言葉が記録されており、この辺りから歴史用語として広まっていったと考えられています。
今回は観応の擾乱を出来る限り詳細に分かりやすく解説します。
観応の擾乱のYouTube動画(再生リスト)も作成してありますので、視聴してみてください。
室町幕府初期の政治体制
室町幕府の初期の政治体制と観応の擾乱は大きく関わっており、最初に観応の擾乱の主役となる足利直義、尊氏、高師直の権限を見て行きたいと思います。
足利直義の役割
梅松論によると室町幕府が成立した時に、足利尊氏は弟の直義に政務を譲ろうとした話があります。
足利直義は何度も断りますが、最終的に足利直義は政務の大半を引き受けました。
足利直義が室町幕府で得た権限の一つに所領安堵があります。
既に実効支配していた武士に、室町幕府が所有権を認めるのが所領安堵です。
所領安堵は安堵方と呼ばれる機関で審査を行い、最終的に足利直義の下文により決定しました。
評定の責任者も足利直義です。
評定は定期的に開催されており、幕府の有力者で方向性を定めるわけですが、評定の責任者も足利直義だったわけです。
因みに、評定が行われる日を式日と呼びます。
当時は所務沙汰と呼ばれる不動産訴訟が多くありました。
所務沙汰は引付方と呼ばれる部署で審査及び手続きを行い、評定に提出した上で最終的に直義の決裁を仰いでいます。
足利直義の判決の出し方は原告と被告の両方の話を聞き結論を出していくスタイルであり、理非糺明と呼ばれています。
最終的に足利直義が裁許下知状を発行し判決を出す事で決着する事になります。
足利直義の裁判では寺社や公家の権益が多く守られていました。
他にも、足利直義は軍勢催促や手柄を挙げた武士に感状を出すなど、武士の棟梁としての役割も果たしています。
足利尊氏の権限
足利尊氏は多くの権限を直義に譲りましたが、尊氏自身が正式に引退したわけではありません。
足利尊氏が持っていた権限に恩賞宛行があります。
戦で功績を挙げた武士に尊氏は敵から没収した土地を給付する権利を持っていたわけです。
他にも、尊氏は守護を補任する権限も持っていました。
しかし、足利尊氏が持っていた権限はせいぜい恩賞宛行と守護の補任権だけであり、直義に比べたら権限はかなり少なく、室町幕府の実質的なトップは三条殿こと足利直義だと言えるでしょう。
主従的支配権と統治的支配権
佐藤進一氏は足利尊氏が恩賞宛行や守護の補任などの権限を持っている事から、主従制的支配権と名付けました。
その一方で足利直義は所領安堵や裁判など統治に関わる権限を持っている事から、統治権的支配権と名付けています。
ただし、足利尊氏が主従関係など主従的支配権を持ち、足利直義が統治を主とする横の統治権的支配権を持つと言うのは、必ずしも一致しません。
足利直義は「所領安堵」の権限も持っていましたが、所領安堵は主従制的支配権も入るはずです。
さらに、足利尊氏の恩賞宛行権も統治に関わる事であり、統治権も入っていると言えるでしょう。
足利尊氏と足利直義の権限を主従制的支配権と統治権的支配権の二つに分ける事は困難だとも言えます。
足利尊氏は権限の大半を足利直義に移譲しながらも、恩賞宛行と守護の補任権を残したのには、足利直義のキャパオーバーを防ぐ為だったとも考えられています。
しかし、この各自に与えられた権限で観応の擾乱の結果が左右される事になります。
高師直の権限
観応の擾乱の前半部の主役の一人である高師直は足利尊氏の直属の部下としてのイメージが強い様に思います。
高師直は恩賞方や引付方の頭人もしており、恩賞や裁判など足利直義の配下としても動いています。
高師直は足利尊氏の下にいるようなイメージが強いですが、実際には引付など足利直義の下でも働いていた事になるでしょう。
他にも、高師直は北朝の院宣を施行する為に動いていたり、後醍醐天皇の慰霊の為の天龍寺造営事業の奉行人にもなっています。
北畠顕家を石津の戦いで破ったのも高師直であり、功績は極めて大きいと言えるでしょう。
しかし、高師直の幕政を考える上で、最大の権限は「執事施行状」となります。
高師直が足利尊氏の専属で下にいるイメージは「執事施行状」によって醸成されたのではないでしょうか。
鎌倉時代は新たに所領を賜わっても、自力で獲得しなければいけない現実がありました。
相手が納得して引き渡してくれれば問題はありませんが、引き渡してくれないケースも多々あったわけです。
こうした時に役だつのが執事施行状であり、高師直が発行する執事施行状があれば守護や国司の協力を得られる事になります。
高師直も執事施行状を武器に武士たちからの求心力を得ました。
足利直義と足利尊氏・高師直の対立はあったのか
1340年代前半に対立はあったのか
足利直義と高師直の対立が観応の擾乱に繋がって行くのは有名な話でしょう。
高師直の権限は1338年に北畠顕家を石津の戦いで破った辺りから、縮小を始めた事が分かっています。
手強い奥州軍を率いた北畠顕家を破ったのであれば、権限が強くなってもいいように思いますが、縮小に向かいました。
高師直は引付方を解任されたり、院宣の依頼も受けなくなっていきます。
1341年には高師直の代名詞でもある「執事施行状」の発給が停止されてしまいました。
足利尊氏の下文を施行する機関は引付に移行されています。
執事施行状は、戦時に臨時で発行される様な文書でもあったわけです
執事施行状は、迅速に武士たちに恩賞を与え、求心力を下げない為の仕組みでもありました。
北畠顕家が石津の戦いで世を去り、新田義貞も北陸で不運な形で命を落とし、既に早い段階で南朝は弱体化していたと言えるでしょう。
南北朝時代と言っても、北朝が南朝を本当に警戒していたのは、初期の頃だけでした。
足利直義は南朝の驚異が薄らいだ事で、平時の体制に戻そうと考えて、執事施行状の発給を停止させたのではないかとも考えられています。
足利尊氏の下文も引付で慎重に審査し、文書を発給すればよいと考えたのでしょう。
今の話でいえば、権限を奪われた高師直と足利直義が対立するのは必然に思うかも知れません。
常陸合戦に挑んだ北畠親房の手紙の中で足利直義と高師直の不和が書かれたものもあります。
実際に足利直義の病気見舞いを高師直に禁止させたりもしました。
ただし、亀田俊和氏は1341年頃に高師直を「東国管領」として東国に派遣する計画があった事に目を付けました。
東国管領になり東国に行くには、中央の幕府の役職を降りる必要があり、高師直の権限が削減されたと考えたわけです。
1340年代前半から足利直義と高師直の対立があり、観応の擾乱に繋がったとする見解もありますが、実際には「多少のすれ違いはあっても、そこまでは対立していなかったのではないか」とする見方も出来ます。
足利直義が病気になった時に高師直の見舞いを断わったのも、その前に高師直が重病になった時に混乱があった事が分かっており、混乱を防ぐために足利直義は見舞を拒否したとも考えられます。
北畠親房の足利直義と高師直の不和を謳った文章は「敵を貶めて見方を増やす為」と見る事も出来るはずです。
高師直の東国下向は中々決断できずにいましたが、高師冬が常陸合戦で関城や大宝城を陥落させ戦い北畠親房は吉野に戻りました。
東国が安定に向かった事で、高師直の東国行きは無くなったとみる事が出来ます。
常陸合戦が終了した翌年に足利直義は五方制引付方を改め、三方制内談方を発足させています。
三方制度内談方に高師直は上杉定朝や上杉重能らと共に就任しています。
石津の戦い意向で権限が失われていった高師直は、常陸合戦が終わると共に復調に向かいました。
1340年代前半には既に観応の擾乱の下地とも言える足利直義と高師直の対立は、「対立」というまでには至らなかったのではないかとする見方も存在するわけです。
如意丸の誕生
1347年になると、足利直義に実子である如意丸が誕生しました。
足利直義と渋川氏は共に40歳を超えてからの高齢出産です。
足利直義は子が出来ない事から、尊氏の子である直冬や基氏を養子としていましたが、ここに来て状況が変わったわけです。
足利尊氏は「直義には子が出来ない」と腹をくくっており、直義に政務を委譲していたのではないかとも考えられています。
しかし、如意丸が誕生してしまった事で、足利尊氏や正室の赤橋登子などは、我が子である「義詮が将軍になれない」かもしれないと不安がったのではないかとする説もあります。
如意丸の誕生により、足利尊氏と直義の間で微妙な空気が流れだしたとも考えられます。
観応の擾乱では足利尊氏と直義が対立しましたが、如意丸の誕生で関係が決裂に向かったとする説もあるという事です。
四條畷の戦い
1347年頃になると、南朝の楠木正行が活発に動きだし、幕府軍の細川顕氏や山名時氏を破る事になります。
しかし、高師直や高師泰が出陣すると、四條畷の戦いで楠木正行を討ち取りました。
さらに、南朝の吉野を焼き払うなどの大功を挙げています。
後村上天皇が賀名生に避難するなど、南朝は大打撃を受けたと言えるでしょう。
高師直は室町幕府を震撼させた楠木正行を短期間で滅ぼし、南朝の本拠地である吉野を壊滅状態にするなど、大きな功績を残しました。
これにより、高師直の権勢が一気に高まっています。
足利直冬の紀伊征伐
南朝は打撃を受けましたが、紀伊で南朝軍が蜂起しました。
この時に、尊氏の子で直義の養子となっていた足利直冬が紀伊征伐で大将となり功績を挙げています。
足利直義は直冬の為に、念入りにバックアップを行いました。
足利直冬は功績を挙げましたが、尊氏は喜ばす、高師直も尊氏に同調し、足利直冬を冷遇していたとされています。
その後に足利直冬は長門探題に任命され、西国に下向して行く事になります。
足利直冬の長門探題就任は、観応の擾乱でのキーポイントの一つだと言えるでしょう。
尚、直義派の足利直冬が長門探題として下向するのは、足利直冬の出世と考える場合と、中央から排除とする場合があります。
高兄弟の悪行
太平記によると楠木正行を討ち取った後の高師直や高師泰は悪行三昧だった話があります。
ただし、高師直らは、当時の守護らと同程度の悪行?しかしておらず、極悪人という訳でもなかったとする見解があります。
似た様な事をしている人が当時は多かったのに、高師直だけが非難されるのはおかしいとも言えるでしょう。
それでも、当時の公家などを見ると、四條畷の戦いの後に高師直に対して、言及される事が明らかに増えています。
高師直は良くも悪くも、楠木正行を打倒し、南朝を壊滅状態にした事で、時の人になっていました。
大高重成の失脚
室町幕府内でギクシャクする中で、足利尊氏が大高重成の若狭守護を解任し、所領を没収するなどしました。
理由は不明ですが、大高重成は足利尊氏の怒りを買ったとあります。
大高重成は高氏の一族でありながら、観応の擾乱では足利直義に味方しました。
観応の擾乱では高師秋も直義に与しており、一枚岩とはいかなかったのでしょう。
尚、大高重成は文武両道で教養も高く評価も高かった人物です。
上杉重能の施行状
1348年の秋くらいになると、内談頭人の上杉重能が直義袖判下文の施行状を発行しています。
施行状は、高師直の特権だと思うかも知れませんが、この時期になると上杉重能も発行しました。
これが高師直以外の人物が発行する初の施行状でもあります。
上杉重能が発給した施行状は高師直と同じ様式であり、足利直義は自らの下文に限定し、高師直の勢力拡大を防ぎ自分の勢力拡大に繋げたいと考えていたのでしょう。
南朝の驚異が去りましたが、あちこちで不和が現れる様になり、観応の擾乱に向かっていく事になります。
内談頭人の人事
内談頭人も高師直と上杉朝定が解任され、仁木義氏と石橋和義が新たに就任しました。
仁木義氏は仁木頼章や義長の弟で、石橋和義は足利一門の中でも名門に位置します。
内談頭人の人事も観応の擾乱と関わっていると考えられ、尊氏派の高師直と中間派の上杉朝定が解任され、直義派の上杉重能が残留したと言えるでしょう。
そして、尊氏派の仁木義氏と中間派の石橋和義が内談頭人に就任しました。
この辺りも幕府内で、高師直派と足利直義派でせめぎあいがあったのでしょう。
高師直に求心力が集まってくるも、高師直は絶大な功績があり、義に対しても叛意を示さず、直義も排除する事が出来なかったとされています。
高師直への讒言
上杉重能や畠山直宗の高師直への讒言があったともされていますが、一番の効果があったのは、妙吉の讒言でした。
妙吉は高師直を嫌っており「天皇は木か金属で十分」「寺社への侵略を進めた」「罪を犯した武士に命令違反を命じた」などと、足利直義に伝えています。
高師直は美女を集めたり豪邸に住んだりしましたが、これは自己資金で行ったのであり、法律には抵触しませんが、天皇や法律に関わる事は看過しがたい事だったわけです。
足利直義は高師直の暗殺まで考えるも、高師直は事前に察知して難を逃れました。
洞院公賢の日記でも足利直義と高師直が不和になり、合戦が勃発すると、京都で大騒ぎしている事が記録されました。
ここまで行くと、足利直義と高師直は完全に対立しており、あと一押しで観応の擾乱という所まで行ってしまったと言えるでしょう。
高師直の執事解任
足利尊氏は騒動を聞きつけて三条殿を訪れました。
足利尊氏と直義は話し合いを行い、結果として高師直の執事職の解任が決まったわけです。
さらに、所領を没収するなど厳しい態度で臨みました。
足利直義は高師直の後任として、高師泰にしようと考えていたとされています。
しかし、高師泰は京都におらず兵を率いて河内に遠征をしていました。
高師泰は湊川の戦いなどでも直義の副将を務めており、直義とはいがみあっていなかったと考えられています。
しかし、結局は、高師世が後任の執事となりました。
この時の高師世はまだまだ若年であり、直義はコントロールしやすいと考えたのかも知れません。
足利直義は高師直を排除した事を北朝の治天の君である光厳上皇にも報告しました。
光厳上皇が不安にならない様に、足利直義は配慮を行ったのでしょう。
この後に、内談方に上杉朝房が抜擢されるなど、足利直義は自派閥の拡大を行っています。
直義の花押の巨大化
この頃から注目されるのは、足利直義の花押が巨大化する事です。
高師直が排除され、直義が天下人として君臨し高揚感の証とする説もあります。
ただし、別の見方も存在しており、直義は虚勢を張ったともされています。
足利直義の花押の巨大化は自信なのか、過信なのか、虚勢なのかは不明ですが、この頃の直義の何かしらの変化を現わしている事は間違いないでしょう。
直義は我が子である如意丸を後継者に出来ると考え、気分が高まっているとする説もあります。
御所巻
高師泰の京都進撃
こうした中で高師直の反撃が始まりました。
高師泰は大軍を率いて河内にいましたが、畠山国清に石川城を任せ、自らは京都に向かって進軍しました。
直義は焦ったのか、高師泰に執事就任を打診するも、高師泰は断っています。
さらに、赤松円心、則祐、氏範らが高師直に加勢する為に、700程の手勢を率いて現れました。
この後に、赤松軍は足利直冬が直義を助けにくる事を警戒し、播磨に下向しています。
赤松氏は高師直に味方したと言えるでしょう。
直義派と尊氏・師直派
京都に不穏な空気が流れる中で、足利直義の元に武将たちが集まりました。
これらの諸将が御所巻の段階で足利直義の元に集まった武士達です。
しかし、突発的な事であり兵力は三千ほどしか集まりませんでした。
足利直義に対し、高師直の邸宅にも諸将が集まっています。
さらに、常陸平氏や甲斐源氏、高一族なども集結しました。
ただし、これらの諸将は流動的であり、直義派と尊氏派の間で揺れ動いていたと言えるでしょう。
高師直は5万もの兵を擁していたとされています。
この段階で三千対五万では結果が見えており、高師直が圧倒的に有利だったと言えます。
ここで注目すべきは室町幕府内の対立は足利直義と高師直となっており、足利尊氏はどちらにも与していない状態です。
呑気な足利尊氏
一触即発の状態となるも、足利尊氏は弓馬始を予定通り行っていました。
さらに、篠村八幡宮への参詣も行っており、乱の一歩手前まで行っているのに、余裕の態度を振舞っていたわけです。
弓馬始には上杉朝房も参加しており、高師直と足利直義の話を聞き急いで直義邸に向かったとする話も残っています。
それでも、足利尊氏は翌日には直義に将軍邸に避難する様に勧めており、直義は将軍邸に移りました。
ここから御所巻が始まる事になります。
高師直の御所巻
足利直義は光厳上皇に連絡を入れ、高師直を流罪とする様に申しいれました。
しかし、5万の大軍に囲まれた状態で、高師直を流罪に出来るはずもなかったわけです。
将軍邸を囲む御所巻となり、崇光天皇が光厳上皇の持明院殿に避難するなどしています。
高師直は将軍邸を包囲するも、攻撃に踏み切る事が出来ませんでした。
石清水八幡宮や吉野を燃やした高師直であっても、主君の足利兄弟に攻撃する事は出来なかったわけです。
足利尊氏が激怒
足利尊氏は須賀清秀を使者として派遣し、高師直との交渉を始めました。
高師直は上杉重能、畠山直宗、妙吉、斎藤利泰らの身柄を引き渡す様に要求する事になります。
高師直は彼らのせいで失脚したと思っていたのでしょう。
足利尊氏は「累代の家人に強要され下手人を引き渡した先例があるのか」と激怒しました。
足利尊氏は討死覚悟で戦いを挑むと告げますが、足利直義に諫められています。
御所巻の結果
交渉は最終的にまとまり、上杉重能や畠山直宗の配流が決定し、高師直は軍を解散し、足利直義は無事に邸宅に戻る事が出来ました。
高師直は御所巻により上杉重能や畠山直宗が失脚するだけではなく、要求外であった足利直義まで失脚させる事に成功しています。
さらに、足利直冬の長門探題も解任される事になりました。
鎌倉にいた足利義詮が直義のポジションに入り、京都の足利基氏が鎌倉公方として関東に下向しています。
御所巻の効果は覿面だったと言えるでしょう。
諸大名が将軍の邸宅を囲み政治的な要求を行う御所巻は、鎌倉幕府や江戸幕府には見られず、室町幕府独自の風習でもあります。
室町幕府が弱いと言うイメージは、御所巻からも連想してしまうのではないでしょうか。
御所巻により足利直義のポジションを足利義詮に継承させる事に成功しており、足利尊氏自身もメリットが大きかったとする見方が存在しています。
御所巻は足利尊氏と高師直の猿芝居だった説もある程です。
ただし、御所巻は高師直の軍が何らかの理由で本当に将軍邸に攻撃してしまったら、足利尊氏の命もない事から、足利尊氏と高師直の裏取引はなかったとする説も有力です。
高師直も御所巻も一歩間違えれば、戦国時代の足利義輝の様な状態になってしまう可能性もあり、足利尊氏と高師直が芝居を打ったわけではないのでしょう。
光厳上皇は夢窓疎石に仲介させ、足利直義に政務に復帰させ、高師直も執事に復帰しました。
三条殿で評定も行われており、高師直も参加している事から、表面上は事なきを得たと言えるでしょう。
当然ながら、高師直の権力が強くなり、観応の擾乱で高師直、尊氏派として戦う武将が優遇される事になります。
御所巻により収まった様に見えましたが、観応の擾乱はいつ勃発してもおかしくはない状態まで来ました。
高師直の絶頂期
五方制引付方の復活
高師直は執事復帰しましたが、三方制内談方が廃止され五方制引付方が復活しました。
五方制引付方の人事は次の様になります。
上記の図をみれば分かりますが、明らかに高師直に親しい武将が優遇されており、高師直の権勢が強まっている事が分かるはずです。
さらに、足利尊氏の政所執事も直義派の二階堂行珍から佐々木道誉に変更され、侍所頭人も尊氏・師直派の仁木頼章が就任しました。
他にも、寄合方なる機関が発足され、高師直が頭人となります。
この時が高師直の絶頂期だったとも言えるでしょう。
足利直冬の九州落ち
高師直は備後の杉原又四郎という武士に命じて、足利直冬を攻撃させています。
太平記では油断していた直冬は河尻幸俊の船に乗り、九州に落ち延びた話があります。
ただし、園太暦には足利直冬の討伐を幕府内で議論した話があります。
高師直は直義派の足利直冬を軍事的に排除する為の議論だったのでしょう。
それを知った足利直冬は自ら四国から九州に移り、勢力を大幅に拡大させました。
足利直冬は観応の擾乱において、九州勢力を一変させる事になります。
上杉重能・畠山直宗の死
高一族庶流の大平義尚が備後守護に就任しました。
直義側近の上杉重能や畠山直宗は越前に配流されていましたが、越前国守護代の八木光勝により殺害させています。
別説として土佐守護の高定信を越前に派遣し殺害させたとも言います。
高師直失脚の原因を作ったともされる上杉重能や畠山直宗は世を去りました。
高師直を厳しく批判した妙吉は、足利直冬の元に下向したとも言われていますが、その後は行方不明になっています。
尚、高師直は直義派の上杉朝房を但馬守護としてはいますが、これは高師直による直義派の切り崩しともされています。
しかし、翌年には但馬守護は今川貞頼に代わっており、上杉朝房は以後も直義派として活動し、高師直による切り崩しは失敗に終わったのでしょう。
足利義詮の三条殿就任
足利義詮は鎌倉から上洛し京都に入りました。
観応の擾乱でのキープレイヤーの一人が足利義詮です。
義詮が上洛する時に平一揆の河越直重がド派手な格好で、義詮の入京を演出しました。
高師直らも足利義詮を近江国勢多まで迎えにいった話があります。
当時の足利直義は細川顕氏の邸宅に住んでいましたが、義詮と面会しました。
義詮は直義が住んでいた三条殿に移り、政務を執り始め義詮が「三条殿」と呼ばれる事になります。
直義が発給していた所務沙汰の裁許下知状も義詮が発給する様になりました。
義詮は直義の権限を委譲され、北朝の光厳上皇にも挨拶に行っています。
足利義詮を強烈にバックアップしたのが高師直であり、太平記は高一族は魯の哀公の季桓子や唐の玄宗の楊国忠の様だったとしました。
尚、義詮の正妻は渋川幸子ですが、渋川幸子の兄が渋川直頼であり、妻は高師直の娘でもあります。
高師直と義詮には義理の血縁関係があり、高師直は義詮の執事としても仕える事になります。
因みに、観応の擾乱で足利義詮は鎌倉から京都に入りましたが、代わりに弟の足利基氏は鎌倉公方として鎌倉に入りました。
足利直義の出家
足利直義は左兵衛督を辞任しました。
既に三条殿を義詮に明け渡し、細川顕氏の錦小路堀川の宿所に移る事になります。
さらに、1349年の暮れには夢窓疎石を受戒師として、直義は出家しました。
幕府では最高権力者が出家した場合に、北条貞時や高時の例に従い七日間の政務を停止した話もあります。
ただし、実際には政務が停止されたのは三日ほどだったとも考えられています。
出家し僧となった直義の元には玄恵法印くらいしか、高師直の許可を得て訪問しなかった話が太平記にあります。
しかし、足利直義は後に京都を脱出すると、短期間で大勢力を築いており、実際には多くの人とコンタクトを取っていたとみる事も出来るはずです。
観応の擾乱への道
足利直冬の勢力拡大
御所巻以降は高師直の独壇場でもありましたが、不安要素もあり、それが足利直冬の九州での活動だったわけです。
九州に下向した足利直冬は足利尊氏や直義の名で軍勢催促を行いました。
足利尊氏は直冬を嫌っていた話もあり、気分をかなり害していたと考える事が出来ます。
足利尊氏は直冬に出家し、上洛命令を出しますが、直冬は危険と判断し命令に従わず、九州での勢力拡大を狙いました。
京都でも足利直冬が高師直と高師泰を打つために、上洛するなどの噂が流れています。
足利尊氏も遂に直冬追討令を九州の諸将に出しますが、効果はなく足利直冬は勢力拡大しました。
北朝は観応に改元しますが、足利直冬は観応を認めず貞和の元号を使い続けています。
直冬方の武将である今川直貞が肥前を転戦したり、大友氏泰との戦にも発展しました。
高師泰の石見国遠征
室町幕府では足利直冬に対処する為に、高師泰を派遣しますが、武士の集まりが悪かったのか出陣までに、かなりの時間を擁しました。
それでも、高師泰は光厳上皇の錦の御旗を持ち出陣しています。
高師泰の最終目的は足利直冬の打倒ですが、手始めに石見国の三隅兼連を攻撃しました。
三浦兼連は南朝の武将でしたが、この頃には足利直冬を支持していたわけです。
太平記では高師泰の軍勢は快進撃を続けた事になっていますが、実際には三隅兼連相手にかなり苦戦しています。
桃井左京亮が中国大将軍となり、三隅兼連を支持しており、高師泰の進軍は阻止されました。
高師泰は直義派の岩田胤時の攻撃もあり、撤退を余儀なくされています。
名将と呼ばれた高師泰ですが、九州まで到達できず石見ですら超える事が出来ず撤退しました。
観応の擾乱では高師泰が九州まで到達できないなどの番狂わせもあったわけです。
足利義詮・高師直の美濃遠征
観応元年(1350年)7月に美濃では土岐周済が乱を起こしました。
美濃守護の土岐頼康は尊氏・師直派であり、土岐周済は対抗する為に足利直義もしくは南朝に与し乱を起こす事になります。
土岐周済の乱は拡大を見せ近江に侵入するなどもあり、足利義詮を高師直が補佐する形で出陣しました。
足利義詮は幼き日に新田義貞に擁立され鎌倉攻めの総大将にはなっていますが、今回は成人しており、初陣とも呼べる場面となったわけです。
美濃遠征は無事に成功し土岐周済を捕虜とし凱旋しました。
土岐周済は六角氏頼に預けられますが、後に処刑されています。
この勝利が戦上手と呼ばれた高師直の最後の勝利となり、ここから先の観応の擾乱では苦しい戦いの連続となります。
足利義詮は土岐周済の乱を鎮圧した事で、北朝から参議および左近衛中将に任命されました。
足利尊氏の出陣
信濃、常陸、越後などで反乱が勃発し、地方の情勢も不安となり、九州では足利直冬が勢力拡大を続けました。
九州では少弐頼尚が足利直冬を支持し、鎮西管領の一色道猷と対立しています。
少弐頼尚は足利直冬に味方した理由を「京都からの御命令」としており、足利直義との接触があったのかも知れません。
さらに、豊後守護の大友氏泰も直冬を支持し、日向守護の畠山直顕も足利直冬を支持しました。
畠山直顕は「直」の文字を直義から一字拝領しており、当初から直義を支持していたわけです。
ここにおいて足利尊氏は高師直と共に九州遠征を決行する事になります。
足利尊氏は建武二年(1335年)から戦場に出てはおらず、15年ぶりの出陣となりました。
将軍門跡の異名をとる僧の三宝院賢俊も、尊氏に従って出陣しています。
ただし、この時に兵士の集まりが非常に悪く、高師直の威勢が見当たらないとする指摘もあります。
園太暦には出陣直後に高師直の旗差が東寺の南門前で落馬し負傷した話もあり、不吉な事であると同時に、出発時の兵力が500騎ほどしかなく、何もしていないのに高師直は凋落しているとする声もあります。
足利尊氏と高師直の出陣が観応の擾乱においてのポイントになるのも、間違いないでしょう。
足利直義の出奔
太平記によると高師直の出陣前に、仁木や細川が足利直義が、突如として行方を眩ませたと報告しました。
しかし、高師直は直義を軽く見ており取り合わなかった話があります。
園太暦では高師直が出陣の延期を強く願いますが、足利尊氏が許さなかった事になっています。
当時の直義派で手強いとされていたのが、越中守護の桃井直常と、関東執事の上杉憲顕です。
しかし、桃井直常も上杉憲顕も都からは遠く、直義の助けにはならないと判断し、足利尊氏も高師直も、そこまで警戒してはいなかったのでしょう。
大高重成も直義派ですが、守護分国を持っておらず、大した戦力にはならないと考えられました。
足利尊氏や高師直は直義の事を気にも留めず、出陣してしまったわけです。
因みに、足利直義が行方を晦ませたのは「自らが暗殺されると思ったからだ」とする説もありますが、そもそも足利尊氏や高師直は直義の捜索すらも行っておらず、可能性は限りなく低いと言えるでしょう。
錯綜する情報
この時に京都には様々な噂が流れていた事が分かっています。
足利尊氏が播磨で舟遊びをしており、その後で行方不明になったとする情報も流れました。
他にも、高師直が出家の意向を足利尊氏に伝えたというものもあります。
足利尊氏と高師直が不和になった噂もあり、荒唐無稽の誰が情報を流したのかも分からないようなものが多くあったのでしょう。
ただし、足利尊氏と高師直が不和になったとする噂は、観応の擾乱において尊氏・師直派を支持する武士たちの減少に繋がったと考えられています。
直義派の結集
京都を脱出した足利直義は大和に向かい越智伊賀守を頼っています。
足利直義の元には石塔頼房ら直義を支持する者たちが集結し、足利直義は高師直と高師泰の誅滅を叫び軍勢催促状の発給を始めました。
足利直義の元に集まった多くは、足利尊氏や高師直から満足に恩賞を得る事が出来なかった者たちだとされています。
こうした中で足利尊氏に従軍していた細川顕氏が離脱し、讃岐に向かいました。
足利直義は御所巻以降は細川顕氏の邸宅で暮らしており、親しい仲であり、直義が挙兵する事は知っていましたが、尊氏や師直を欺く為に従軍していたとも考えられています。
足利直義は畠山国清の石川城に入城しました。
畠山国清は尊氏・師直派から足利直義派に鞍替えしたわけです。
畠山国清が直義派に鞍替えった理由ですが、過去に畠山国清は紀伊守護に補任されており、この時に足利直冬が紀伊征伐で大活躍をしました。
足利直冬には明確な功績があるにも関わらず、冷遇する足利尊氏や高師直に畠山国清が嫌悪感を抱いたとする説もあります。
足利直義の南朝降伏
足利直義は南朝に降伏するという禁じ手も行いました。
足利尊氏や高師直も足利直義が南朝に降伏するとは思っても見なかったのではないでしょうか。
直義は真面目な性格であり、北朝の治天の君である光厳上皇とも仲が良く、南朝に降伏したのは晴天の霹靂だった様に感じています。
足利直義は何としても高師直を排除したいと考え、南朝の戦力をも取り込み、戦いに勝利しようと考えました。
南朝の後村上天皇や重臣たちは、足利直義の降伏の意向を受けて激論が繰り広げられますが、北畠親房の意見が通り足利直義の南朝降伏が許されたわけです。
足利直義の南朝降伏により、多くの武将が直義を支持し、軍は大戦力となりました。
尚、足利直義は南朝に降伏しながらも、発給文書には北朝の元号を使用しており、北朝を完全に捨てたわけではない事が分かります。
足利直義の逆襲
石塔頼房の奮戦
石塔頼房は近江国高良荘の近辺で放火を行い、佐々木道誉が城を築いて対処しようとしました。
この時点で観応の擾乱は軍事衝突に発展したと言えるでしょう。
さらに、京都を守っていた足利義詮が東寺に籠城する事になります。
石塔頼房は京都に攻め込む構えを見せ、室町幕府では崇光天皇を光厳上皇の御所に避難させました。
六角氏頼や京極秀綱らも臨戦態勢を整える事になります。
石塔頼房の軍は石清水八幡宮に進出し、京都七条に軍を派遣するなどしています。
赤井河原にも1万程の軍がいた話があり、佐々木道誉と仁木頼章が向かっています。
石塔頼房は平等院鳳凰堂を占拠したり、関山に乱入するなどし、佐々木道誉と交戦状態になります。
足利直義の動き
足利直義は石清水八幡宮に本陣を移しました。
この時に足利尊氏は備前国福岡に在陣しており、高師直と高師泰の引き渡しを求めています。
足利直義は書状の中で「両人を召し賜わる事は去年約束した事」とする文言があり、これが本当であれば足利尊氏と直義の間で高師直と高師泰を捕らえる計画があった事になります。
直義の態度に激怒したのが、高師直であり使者を自派閥の仁木頼章の元に送りました。
足利直義は畠山国清と共に摂津天王寺に進出しています。
この間に北朝の廷臣である六条輔氏や吉田守房らが足利直義の元を訪れています。
北朝の廷臣も直義を支持する者が多く現れたのでしょう。
地方の観応の擾乱
観応の擾乱では地方においても、激しく戦っておりまとめてみました。
東北地方の観応の擾乱
常陸合戦の後に石塔義房が奥州総大将と解任されると、吉良貞家と畠山国氏の二人が奥州管領に任命されました。
奥州管領は地方統治機関でしたが、吉良貞家と畠山国氏の共同統治という形になります。
吉良貞家が直義派で畠山国氏が師直派であり、最初から分裂していたともされていますが、現在では結果論に過ぎないとも言われています。
観応の擾乱では吉良貞家が足利直義に与し、畠山国氏が高師直に与して戦いました。
奥州の武士たちの求心力を集めたのが吉良貞家であり、畠山国氏は劣勢に立たされています。
畠山高国と国氏の親子は留守家任の岩切城に籠城しますが、戦いに敗れて最後を迎えました。
畠山親子は直属被官と配下の国人100人ほどと共に自害して世を去ったと伝わっています。
東北地方では吉良貞家の勝利により、直義派の勝利が決まりました。
信濃の南北朝
信濃では諏訪頼継(直頼)が諏訪郡湯河宿で挙兵しました。
諏訪頼継は中先代の乱で北条時行を擁立した諏訪頼重の子です。
信濃には尊氏・師直派の小笠原政長がいました。
諏訪頼継の軍は船山郷内の守護所に放火するなどしています。
小笠原政長の弟である小笠原政経や守護代の小笠原兼経が籠城する筑摩郡放光寺を攻撃し、小笠原政経らを降伏させています。
この時の諏訪頼継の軍は快進撃を続け、高師冬が籠る甲斐の須沢城にまで押し寄せています。
信濃では直義派が圧倒的に優勢だったと言えるでしょう。
関東の観応の擾乱
貞和六年(1350年)の正月に高師冬が関東執事に任命され東国に下向してきました。
高師冬は過去に北畠親房と常陸合戦を繰り広げて勝利した経験があり、常陸合戦が終わると高重茂が関東執事となり、高師冬は京都に戻っていました。
高重茂に代わり高師冬が再び関東の地に足を入れる事になります。
高重茂は内政面や和歌などでは高い評価をされていますが、槍働きは苦手であり、高師冬と交代になったともされています。
高師冬は一度関東に来ており、当時の人脈なども生かせると足利尊氏や高師直が考えた可能性もあるはずです。
関東では直義派の上杉憲顕がいました。
上杉憲顕が守護分国の上野に向かい、信太荘では上杉能憲が挙兵しています。
高師冬は上杉氏討伐の為に鎌倉公方の足利基氏を擁立し鎌倉から出陣し、相模国毛利荘湯山まで来ました。
しかし、ここで直義派の石塔義房の攻撃を受けて、足利基氏を奪われてしまう失態を犯しています。
高師冬は上杉憲顕を相手に劣勢となり、甲斐に落ち延びて行きました。
上杉憲将が数千騎の軍勢を率いて甲斐に出陣し、上杉能憲は東海道を下り、直義との合流を目指しました。
高師冬は須沢城に籠城しますが、信濃からは直義派の諏訪頼継の援軍もあり、最後を迎えています。
関東での観応の擾乱の戦いも直義派の勝利が確定しました。
北陸の観応の擾乱
観応元年(1350年)10月に越中国では軍が蜂起し氷見湊を攻撃しました。
この軍は一般的には直義派の桃井直常配下のものと考えられています。
この段階では直義も挙兵しておらず、尊氏も九州遠征の前であり、桃井直常は観応の擾乱で中央の戦闘が始まる前に、直義派を鮮明にした事になるでしょう。
11月には井上布袋丸、富来彦十郎などが能登国富来院などに侵攻しました。
桃井直常は高師直の激励もあり般若坂の戦いで大功を挙げましたが、戦後に高師直が恩賞を無視する事態となり、直義派になったともされています。
桃井直常の同族でもある桃井義盛は能登守護を務めていましたが、尊氏・師直派に与していました。
桃井直常の弟の桃井直信が数千騎を率いて能登に侵攻し、高畠宿に陣を置きました。
桃井義盛の軍と桃井直信の軍は激しく争う事になります。
金丸城に桃井義盛は籠城しており、戦況は桃井義盛が不利だった様です。
北陸でも観応の擾乱では直義派が有利だったと言えます。
桃井直常は北陸を桃井直信に任せると、自らは能登、加賀、越前などの北陸の軍勢と共に京都を目指しました。
近江の観応の擾乱
前述したように、近江では石塔頼房が直義派として奮戦しました。
上野直勝も直義派であり、河内国石川城から近江に入り、大原荘内油日城麓善応寺で挙兵しています。
三上山・野洲河原で近江守護軍と交戦し、山内信詮を破り、石塔頼房と協力し守護代の伊庭六郎左衛門を破りました。
守山では六角氏頼の軍勢とも戦っています。
石塔頼房は石清水八幡宮に進出しますが、上野直勝は近江で戦い続ける事になります。
四国の観応の擾乱
細川顕氏が足利尊氏の軍から離脱し、讃岐に向かった事は既に述べました。
細川顕氏は讃岐守護でもあり、守護分国に戻ったというわけです。
細川顕氏は内嶋弥六が土佐守護の高定信の代官である佐脇太郎入道の城を攻撃しました。
観応二年(1351年)の正月にも松風城を攻撃し、勝利を挙げています。
観応の擾乱は四国でも直義派が優勢だったわけです。
九州の観応の擾乱
先述した様に、九州では足利直冬が下向し少弐頼尚が味方しました。
足利直冬は少弐頼尚を味方とし、尊氏・師直派の一色道猷と戦い続ける事になります。
観応の擾乱では足利尊氏と直義が和睦する一幕もありますが、九州では足利直冬と一色道猷が戦い続ける事になります。
九州では最終的に懐良親王を擁する菊池武光の勢力が拡大し、南朝が優勢となりました。
東海地方の観応の擾乱
三河国では粟生為広が直義派として挙兵しました。
三河は鎌倉時代に足利義氏が承久の乱の恩賞として与えられた土地であり、代々に渡り守護職を継承して来た土地でもあります。
足利氏にとってみれば三河は第二の本領とも呼べる地でした。
室町幕府が出来てからの三河は、高師兼が守護を務め高一族の所領も集中していました。
粟生為広が直義派として挙兵した事は、高一族の本拠地と言える地であっても、離反者が出た事で注目されています。
尾張では直義派の今川朝氏が黒田宿で戦った記録があります。
今川朝氏は美濃の青野原でも戦いました。
丹波の観応の擾乱
丹波では波賀野で挙兵した軍が守護代の久下頼直がいる不来を攻撃しました。
しかし、久下頼直の奮戦により撃退し、首十九個が京都に届けられ河原に晒されています。
丹波では曽地荘も攻撃を受けた話があります。
丹波で不来や曽地荘を攻撃した軍は不明ですが、直義派もしくは南朝の軍だと考えられています。
丹波だけは尊氏・師直派が優勢に見えるかも知れませんが、丹波守護の山名時氏は後に直義派に鞍替えする事になります。
地方での観応の擾乱の前半戦は大半が足利直義が優勢だという事が分かるはずです。
打出浜の戦い
膨れ上がる直義派
足利直義は石清水八幡宮におり高師直や高師泰の追討命令を出しています。
桃井直常はかなり早い段階から直義を支持し、上洛し近江坂本に到着すると、京都にいる足利義詮を脅かしました。
足利義詮は最終的に京都を放棄し、足利尊氏との合流を目指す事になります。
この間にも斯波高経、上杉朝定、今川範国らが直義支持を明確にしました。
観応の擾乱で足利直義は恩賞の約束もしてはいないのに、多くの武士から支持されています。
消極的な直義
足利尊氏は直義がいる石清水八幡宮の近くを通り、京都奪還得を目指しますが、直義は動きませんでした。
桃井直常と足利尊氏が京都を巡って戦いとなりますが、直義は動いてはいません。
京都は足利尊氏が奪取しますが、戦いに勝利しても何故か武士たちに指示されず兵が集まらなかったわけです。
後に足利直義は京都を放棄しました。
滝野光明寺城の戦い
足利尊氏と高師直は高師泰の軍と合流し、石塔頼房が籠城する滝野光明寺城を攻撃しました。
しかし、石塔頼房が鉄壁の守を見せ、攻めあぐねています。
こうした中で四国からは細川顕氏や細川頼春の軍勢が襲来し、足利尊氏は危機に陥りました。
石清水八幡宮にいた足利直義も石塔頼房に援軍を派遣しています。
打出浜の戦い
足利尊氏は兵庫に本陣を移し、打出浜の戦いに臨む事になります。
足利尊氏は後方にある兵庫に陣し、高師直や高師泰が戦いに望みました。
高兄弟の率いた兵は500ほどしかなく、高師直、高師泰も負傷し打出浜の戦いで敗れています。
足利尊氏は打出浜の戦いで敗れると、和睦を直義に申し入れ受け入れられました。
ただし、高師直や高師泰、高師夏、高師世ら高一族の主要人物は打出浜の戦い後に討たれています。
観応の擾乱の前半戦は足利直義の圧勝でした。
ただし、こうした時期に足利直義の実子として誕生した如意丸が亡くなっており、足利直義の悲しみは大きかったはずです。
幕府体制を決める
京都への帰還
観応二年(1351年)二月二十七日に、足利尊氏は京都に戻りました。
既に足利尊氏の土御門東洞院の屋敷は全焼しており、尊氏は上杉朝定の邸宅に泊まる事になります。
この翌日には足利直義が帰京しました。
観応二年三月になると、足利尊氏と足利直義の間で、今後の事を話し合う事になりますが、この時の尊氏は酷く不機嫌だった話があります。
足利尊氏は自らに従った42人の武士たちに、最優先で恩賞を与える事を強く主張し、直義に認めさせています。
足利尊氏は高師直らを討ってしまたっとされる上杉重季を処刑する様に主張しますが、こちらは直義の意向もあり流罪が決定しました。
政務に関しては足利義詮が中心となり、直義が補佐する体制となります。
観応の擾乱勃発前の足利義詮中心の体制に戻ったとも言えるでしょう。
直義派で九州にいた足利直冬は鎮西探題に就任しました。
将軍家政所執事は佐々木道誉から二階堂行通になっています。
足利尊氏と恩賞充行
足利尊氏は観応の擾乱の前半戦での敗北を、正確に分析していたと考えられています。
観応の擾乱の前半戦で足利尊氏や高師直が支持されなかったのは、尊氏や師直の恩賞に不満を持つ者の多くが直義に流れたからだと分析しました。
足利尊氏は将軍として恩賞充行を広範囲に行えば、武士たちの支持を再び得られると考えたのでしょう。
足利尊氏は直義との会談で恩賞充行の権利を認められました。
直義との会談が終わった頃には、尊氏はかなり上機嫌になっていた事が園太暦には記録されています。
敗者の尊氏が恩賞の権利を持っているわけであり、これで幕府体制が上手く機能するはずがないとする指摘もあります。
足利直義は観応の擾乱の前半戦が終わった時点で、実質的な天下人となりますが、足利尊氏にも大きく譲歩しました。
足利直義は観応の擾乱の前半戦の勝者であり、やろうと思えば足利尊氏を名前だけの傀儡将軍にも出来たはずです。
しかし、足利直義は足利尊氏の打倒を目指していたわけではなく、尊氏に遠慮する部分が多々あり、恩賞の権限を残してしまったのでしょう。
足利尊氏は会談が終わり数日すると、直義邸を訪れ最初は尊氏も直義も機嫌がよかったわけですが、足利尊氏は高師直の話になった途端に立腹した話があります。
足利尊氏は高師直を直義が殺害してしまった事に憤りを覚えていたのでしょう。
足利義詮の帰京
足利尊氏と直義の講和は成立しましたが、足利義詮は未だに京都に戻らずに丹波にいました。
細川顕氏は足利義詮の元に赴きますが、義詮は京都に戻ろうとはしなかったわけです。
細川顕氏では義詮を説得出来ず、尊氏が自ら書状を送り義詮を説得しました。
足利義詮は細川顕氏と共に帰京する事になります。
足利義詮も観応の擾乱の前半戦では敗者となりますが、先に述べた様に三条殿としての体制は守りました。
停滞する恩賞
1351年4月になると幕府で評定が行われ佐々木道誉、仁木頼章、仁木義長、土岐頼康、細川清氏など七名の武将の所領安堵が認められています。
彼らは尊氏派に属した守護クラスの武将たちです。
大名クラスの武将であっても四月になってから、所領安堵が認められているわけであり、恩賞や安堵は停滞しました。
足利尊氏は恩賞充行の権利を保持しますが、自由に行使する事は出来ませんでした。
直義の圧力もあり、直義派に所領を与える事も強いられています。
こうした事情により、観応の擾乱の講和期の恩賞充行は停滞する事になります。
施行状は直義が握っていましたが、そもそも尊氏から発行される恩賞充行が非常に少なく、施行状も発行出来ない状態だったのでしょう。
直義の所領安堵も殆ど行われませんでした。
当然ながら、恩賞や安堵は遅れ室町幕府に対する求心力も低下した事でしょう。
この時代においては恩賞は何よりも大事であり、恩賞や安堵の停滞が観応の擾乱を後半戦へと導く結果になったとも言えます。
足利義詮の不満
観応の擾乱の前半戦が終わった時点で、政務の中心は足利義詮であり、直義が補佐する体制になった事は決められていました。
普通で考えれば所領安堵の袖判下文は足利義詮が発行するべきでしょう。
しかし、実際には直義が発行しており、足利義詮は不満に思ったはずです。
観応の擾乱の前半戦で実相院静深は一早く直義派に与した事から、尊氏派の三宝院賢俊の六条若宮別当職を取り上げ、実相院静深に与えますが、後に返還する命令を出しています。
当然ながら実相院静深は不満だったはずであり、観応の擾乱の前半戦で直義に味方した武士たちを失望させた可能性もあります。
特に実相院静深は生粋の直義派だった事もあり、直義派の武士たちも多くがガッカリしたのではないでしょうか。
足利直義は光厳上皇との交渉も再開しますが、これも本来であれば義詮が行うべき職務であり、義詮の不満は募ったと考えられています。
引付頭人
観応の擾乱の前半戦が終わると、引付頭人の人事も一新されました。
引付頭人に直義派の武将が多く用いられる事になります。
石橋和義、畠山国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏らが任命されました。
引付方は寺社本社の権益を守る為の組織でもあり、守護の荘園侵略を禁じる立場でもありました。
実際に守護達は荘園侵略を行っており、そこで得た資金で幕府に賃金を提供するなどしていたわけです。
引付方は組織として構造的な矛盾を孕んでいました。
さらに、直義が任命した引付方の人事は、石橋和義以外は不慣れであり、さらに荘園からの押領を禁じるなど守護達から恨まれる役回りであり、引付になるのは「嫌だった」と言うのが、本音ともされています。
引付頭人になっても所領が増えるわけでもないという問題点もあった事でしょう。
観応の擾乱と守護分国の変化
下記は観応の擾乱の前半戦が終わった時点での、直義派の守護分国の表です。
国 | 前任者 | 守護 |
河内 | 畠山国清 | 畠山国清 |
和泉 | 畠山国清 | 畠山国清 |
伊賀 | 不明 | 千葉氏胤 |
伊勢 | 石塔頼房 | 石塔頼房 |
志摩 | 石塔頼房 | 石塔頼房 |
伊豆 | 石塔頼房 | 石塔頼房 |
武蔵 | 高師直 | 上杉憲将 |
下総 | 千葉氏胤 | 千葉氏胤 |
近江 | 六角氏頼 | 六角氏頼 |
信濃 | 小笠原政長 | 諏訪直頼 |
上野 | 上杉憲顕 | 上杉憲顕 |
若狭 | 山名時氏 | 山名時氏 |
越前 | 不明 | 斯波高経 |
越中 | 桃井直常 | 桃井直常 |
越後 | 上杉憲顕 | 上杉憲顕 |
丹波 | 山名時氏 | 山名時氏 |
丹後 | 山名時氏 | 上野頼兼 |
但馬 | 今川頼貞 | 上野頼兼 |
伯耆 | 山名時氏 | 山名時氏 |
出雲 | 佐々木道誉 | 山名時氏 |
隠岐 | 山名時氏 | 山名時氏 |
備中 | 南宗継 | 秋庭某 |
備後 | 高師泰 | 上杉重季 |
紀伊 | 畠山国清 | 畠山国清 |
阿波 | 細川頼春 | 細川頼春 |
讃岐 | 細川顕氏 | 細川顕氏 |
伊予 | 細川頼春 | 細川頼春 |
土佐 | 高定信 | 細川顕氏 |
筑後 | 少弐頼尚 | 少弐頼尚 |
豊前 | 少弐頼尚 | 少弐頼尚 |
豊後 | 大友氏泰 | 大友氏泰 |
肥前 | 一色直氏 | 河尻幸俊 |
日向 | 畠山直顕 | 畠山直顕 |
大隅 | 島津貞久 | 島津貞久 |
薩摩 | 島津貞久 | 島津貞久 |
対馬 | 少弐頼尚 | 少弐頼尚 |
(観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)より)
観応の擾乱の前半で高一族は敗者となっており、当然ながら守護分国から姿を消し、直義派の武将が守護となっています。
ただし、摂津では赤松範資から赤松光範に守護が代わっていますが、尊氏派から尊氏派に守護が代わっただけです。
播磨でも赤松範資から赤松則祐に守護が代わっていますが、これも尊氏派から尊氏派に代わっただけと言えるでしょう。
さらに、美濃の土岐頼康、飛騨の佐々木道誉などはいずれも守護の座を守っています。
長門守護は高師泰でしたが、これも尊氏派の厚東武村に代わりました。
さらに言えば、大高重成や上野直勝の様に直義派として戦ったにも関わらず、守護分国を獲得する事が出来ない者もいたわけです。
畠山国清、桃井直常、石塔頼房は観応の擾乱の前半戦において、特に優れた功績を挙げたにも関わらず、新たな守護分国を獲得する事が出来ませんでした。
細川顕氏が新たに土佐守護になりましたが、これも弟の細川皇海が土佐守護を行っていた過去があり、守護分国を回復しただけとも言えます。
尚、足利尊氏と直義が会談した時の決め事で、上杉重季は尊氏が強く処刑を希望し、島流しに決定したにも関わらず、備後守護になっているのも注目するポイントでしょう。
ただし、守護になったとしても、自ら荘園を切り崩し支持する武士たちに与えねばならず、必ずしも勢力拡大には繋がらないとする指摘もあります。
観応の擾乱の前半戦が終わると、朝廷から任命される官職にも若干の影響を及ぼしました。
官途に関しては直義派の中で恩恵を受けたものは、少数しかいませんでした。
南朝との交渉
足利直義は南朝との交渉に乗り出しました。
南朝サイドは後村上天皇の子孫が皇位継承していく事を望みますが、足利直義は両統迭立を妥協案としています。
他にも、南朝の武将の押領問題などもあり、話は決裂しました。
交渉の決裂に楠木正儀が激怒する一幕もありましたが、どうする事も出来なかったわけです。
足利義詮の御前沙汰
御前沙汰の発足
御前沙汰は観応の擾乱の講和期である観応二年(1351年)5月に、足利義詮が発足させた機関です。
足利義詮は御判御教書と呼ばれる文書を発給し、引付頭人奉書と同内容の命令を下します。
引付は足利直義の管轄でしたが、義詮は直義の権限を侵食し始めたわけです。
足利義詮は直義を嫌っており、対抗する為の組織だったとも言えるでしょう。
足利義詮と足利直義の不和を表面化されたのが、御前沙汰の発足でもありました。
室町幕府追加法第五十五条
御前沙汰が始まったのと同じ月に「室町幕府追加法第五十五条」が制定されました。
室町幕府追加法第五十五条は寺社本所領を保護する政策であり、命令に違反した者の所領の三分の一を没収できるという非常に厳しい法律だったわけです。
さらに、命令に従わない守護の罷免も出来る事になっており、どれ程の実効性があったのかは不明ですが、厳しい法令だった事は間違いないでしょう。
この「室町幕府追加法第五十五条」も義詮の御前沙汰で制定されたと考えられています。
御前沙汰と政争
足利義詮の御前沙汰と直義の引付は競合しますが、勝利したのは義詮でした。
御前沙汰が発足して二か月ほどが経過すると、足利直義の引付方の活動が停止する事になります。
足利直義は室町幕府内での活動拠点を失いました。
御前沙汰と引付方の違い
足利直義の引付方は、理非糺明を基本としていました。
引付方では訴人と論人の双方の言い分を聞き、判決を出していったわけです。
理非糺明のスタイルでは、公平性は高くなりますが、結論が出るまでには時間を要する欠点がありました。
これに対して足利義詮の御前沙汰は「一方的裁許」が取られています。
一方的裁許では訴人の主張のみを聞き判決を下す裁判となります。
引付方の理非糺明の裁判であっても、大半は訴人が勝利していた現実があります。
理非糺明の裁判の問題点
足利直義の引付で行われていた理非糺明の裁判ですが、論人が幕府の陳状提出や出頭などの命令に応じないケースが多々ありました。
しかし、幕府の方では出頭しない論人を罰する事もせず、同じ命令を繰り返す事が大半だったわけです。
論人が現れても、論点をすり替えたりして、問題を複雑化していく傾向がありました。
当然ながら審議には膨大な時間を擁し、その間にも論人は所領の押領や年貢の不払いを継続していく事になります。
勝訴が決定しても論人が控訴の手続きを行えば、訴訟はまた振り出しに戻ります。
幕府では不易法と呼ばれる一定の期間を過ぎた判決に対する異議申し立てを禁止する法律を制定したりもしますが、限界があったわけです。
さらに、勝訴が決まっても論人が土地を占拠し続ければ、自力で取り戻すしかなく、苦労は多かったと言えます。
裁判にも莫大な費用と時間が掛かる事も問題でした。
これに対し足利義詮の御前沙汰の訴人のいう事を一方的に聞く方法は、画期的な方法だったわけです。
正当な根拠を有する訴人にとっては、論人の主張を聞く必要は存在しません。
さっさと勝訴の判決を頂き、守護による沙汰付で所領や年貢を奪還したいと思っても不思議ではないでしょう。
こうした理由から義詮の御前沙汰は評判がよかったとも考えられています。
偽りの講和
足利直義は恩賞問題や南朝との交渉、足利義詮の台頭などで求心力の低下を招きました。
園太暦には足利直義が、孤立しているとする世間の風聞を掲載しています。
足利直義は二階堂行詮を尊氏の元に派遣し、義詮との不和を理由に引退を申し出ています。
尊氏は直義の申し出を受諾し、直義は隠居する事になります。
しかし、足利尊氏は気が変わり、直義を説得しました。
それから間もなく、尊氏、義詮、直義の間で告文を作成しています。
書面の上では円満解決した事になりましたが、今後の体制の取り決めが行われていなかったわけです。
赤松則祐の挙兵
幕府内では団結力を欠き不穏な空気が流れる中で、播磨守護の赤松則祐が興良親王を奉じて南朝に鞍替えしました。
この時に、観応の擾乱の前半戦で尊氏・師直派として戦った諸将が国許に帰って行きます。
仁木義長、細川頼春、佐々木道誉、赤松貞範、土岐頼康らが京都を去りました。
佐々木道誉の娘婿が赤松則祐であり、佐々木道誉も南朝に鞍替えしています。
さらに、美濃の土岐氏も佐々木道誉に追従し南朝の武将となりました。
こうした中で足利義詮の正妻である渋川幸子が男児(千寿王丸)を出産しています。
足利尊氏にとってみれば初孫が誕生したわけです。
ただし、ここで誕生した千寿王丸は5歳で夭折しました。
足利尊氏は佐々木道誉を討伐する為に、近江へ出陣する事になります。
足利義詮も出陣しますが、突如として石橋和義が出家しました。
観応の擾乱は後半戦に移りますが、仁木頼章が有馬温泉に病気治療に行くなどしてもしています。
足利直義の出奔
尊氏と義詮は東西に出陣し、尊氏派の武将は京都を出て本拠地に移りました。
京都には足利直義が残ってはいますが、尊氏派に包囲された形にもなったわけです。
桃井直常は状況を危ぶみ、足利直義に京都を出奔する様に進言しました。
足利直義は自派閥の武将たちと京都を出奔しますが、足利尊氏による陰謀も囁かれています。
足利尊氏が直義を討つために京都を離れたのかですが、尊氏は播磨討伐に向かった義詮の為に、九州の足利直冬に援軍要請をし、後に直義が出奔すると、今度は直冬に討伐命令を出しました。
最初から直義を討伐する気があるのであれば、そもそも直義派の足利直冬を義詮への援軍として呼ばなかったのではないでしょうか。
赤松則祐と佐々木道誉が南朝に鞍替えしたのは、ほぼ確実ですが、足利尊氏が別に画策したわけではなく、個人的には直義の勘違いで出奔したと考えています。
尚、足利直義の北陸出奔には、下記の武将が従いました。
観応の擾乱で高一族で直義派として戦った大高重成は、論功行賞で若狭守護に補任されず、不満を持ち直義派から離脱したと考えらえています。
足利直義の一番の腹心とも考えられていた細川顕氏も、直義の北陸行きには同行していません。
赤松光範は観応の擾乱の前半戦は尊氏派でしたが、直義派に鞍替えした珍しい武将です。
直義の北陸行きに全ての武将たちが心の底から慕っていたわけではなく、斯波高経や二階堂行詮の様に尊氏派に帰参した者もいます。
足利直義は敦賀から金ヶ崎城に入りました。
これにより観応の擾乱の後半戦が幕を開ける事になります。
直義北陸出奔後の動き
細川顕氏を使者として、直義の元に派遣し京都に戻る事を強く勧めるも、桃井直常の上洛を尊氏が拒否した事で、直義は京都に戻らなかったわけです。
足利義詮は若狭の本郷貞泰に対し、若狭に侵入した山名時氏、上野頼兼、赤松光範らの討伐を命じました。
この時期には既に足利尊氏は直義が関東に向かう事を予想しており、信濃の小笠原政長にも命令している事が分かっています。
太平記では越前の直義の元には続々と武士が集まり、六万騎になったとされています。
しかし、実際の直義は室町幕府で居場所を無くし北陸に向かったのであり、求心力は低下し大して武士が集まらなかったとも考えられています。
太平記での足利直義は藤原有範の進言もあり、尊氏との対決を決断した事になっています。
近江に出陣
この時の軍勢は僅か200騎だったと言います。
佐々木道誉や秀綱の親子が馳せ参じ合流しました。
足利尊氏は少し前に南朝に鞍替えした佐々木道誉を討つために近江に出陣しましたが、佐々木道誉は直ぐに室町幕府に帰参した事になるのでしょう。
ただし、この時点では赤松則祐は依然として南朝を支持し続けています。
さらに、仁木義長の軍勢が尊氏軍に加わっており、大兵力になりました。
足利直義の方は越前の金ヶ崎城から動きませんでした。
北朝への働きかけ
足利直義は比叡山延暦寺の三門跡に、光厳上皇や光明上皇、崇光天皇ら皇族に比叡山に避難する様に依頼した話があります。
直義と尊氏が近江で対峙しており、がら空きの京都を南朝に急襲される事を危惧し、直義は比叡山に働き掛けたのでしょう。
北朝の治天の君の光厳上皇にも連絡が行きますが、驚き返答はしなかったと言います。
藤原有範が使者として北朝が比叡山に移る様に急かせますが、北朝の比叡山への移動は成されませんでした。
光厳上皇が比叡山に行かなかったのは、この時には足利直義との人間関係が崩壊していた為だとされています。
直義の南朝への降伏などもあり、観応の擾乱において光厳上皇が直義に不信感を抱いてもおかしくはないでしょう。
八相山の戦い
足利尊氏は近江に出陣し、足利直義も畠山国清や桃井直常を近江に向かわせました。
これにより八相山の戦いが勃発しました。
石塔頼房も直義派として、八相山に到着しています。
足利尊氏は八相山に布陣した直義派の軍に攻撃を仕掛けました。
桃井直常は抗戦を主張しますが、多くの武将が越前への撤退を望み短期間で勝負はついています。
この後に足利尊氏と直義の間で講和交渉が行われ、多くの者が講和成立を予想しましたが、予想に反し決裂しました。
直義が関東に移動
足利尊氏は交渉が決裂すると、直義が関東に移動すると考え、信濃守護の小笠原政長に対し、進路の妨害を依頼しました。
足利直義は北陸に移動し、北陸道を通り関東を目指す事になります。
この頃には、直義派だった斯波高経も尊氏派に鞍替えしています。
直義派の石塔頼房は瀬田の橋を破壊するなどしました。
細川顕氏と畠山国清は講和交渉の失敗を受け、出家する意向を足利尊氏に伝えています。
尊氏は説得し翻意されており、この時点で細川顕氏も畠山国清も尊氏派の武将となりました。
この時点で主戦派は尊氏派では足利義詮、直義派では桃井直常と石塔頼房しかいなかったとする指摘もあります。
既に高師直もこの世になく多くの武将が「これ以上戦っても無益」と思っても不思議ではないでしょう。
しかし、観応の擾乱は継続される事になります。
足利尊氏と義詮は京都に撤退しました。
この時期に醍醐寺の清浄光院房玄が亡くなっています。
房玄法印記は観応の擾乱を伝える上での、一級資料となっており注目されています。
尚、足利尊氏は京都に戻ると仁木頼章を執事に任じています。
高一族でも南宗継などが生き残っていましたが、足利尊氏は仁木頼章を執事としています。
これにより高一族が執事を行う時代は、完全に終了しました。
正平一統
足利尊氏は円観(恵鎮上人)を使者として南朝に派遣し、和平交渉を行わせました。
遡りますが、足利尊氏が円観を南朝に派遣したのは、尊氏が細川顕氏を直義との講和交渉に派遣した翌日です。
この時点では講和交渉が纏まるのかも未知数な状態だったはずであり、足利尊氏が直義打倒の為に南朝降伏するという意図はなかった事でしょう。
円観は過去に後醍醐天皇に仕えていましたが、南北朝時代が始まると北朝に仕えました。
こうした過去もあり、南朝との交渉には失敗しています。
足利尊氏と直義の間で八相山の戦いが勃発しますが、尊氏が勝利しました。
八相山の戦いまでには、佐々木道誉も室町幕府に帰順しています。
足利尊氏は直義の居場所を幕府内で作ろうとしたのか、南朝との和平交渉を諦めてはおらず、南朝に帰順していた赤松則祐を介して南朝との交渉を継続しました
南朝への交渉は義詮と赤松則祐、佐々木道誉が中心になって行われ、北朝の廃止と直義の追討を条件に降伏が許されています。
これにより正平一統が成立しました。
足利尊氏は「直義追討」には不満でしたが、正平一統が成立した事で、足利尊氏は東国に兵を向け東海道を進軍する事になります。
薩埵山の戦い
足利直義は関東に行きますが、鎌倉公方の足利基氏が迎え入れ鎌倉に入りました。
足利尊氏は駿河の薩埵山に陣を置き、直義は伊豆国府に陣を置いています。
尊氏は正平一統の決め事により「直義追討」命令に従い関東遠征を行いましたが、足利直義は「尊氏打倒」とは言っておらず、消極的な戦いとなります。
尊氏自身も直義と戦いたくない気持ちが強かったのか、薩埵山から積極的に動こうとはしませんでした。
義詮の息が掛かった宇都宮氏綱や薬師寺公義の軍が、後方から直義派の軍を蹴散らした事で、直義派の軍は崩壊しています。
足利尊氏も薩埵山の包囲が解けました。
薩埵山の戦いは尊氏の勝利となり、直義は軍を後退させていますが、戦意はなく降伏しています。
観応の擾乱の最後の戦いは足利尊氏が勝利しました。
薩埵山の戦いの最中に足利基氏が安房に逃れていた話もありますが、これを裏付ける資料が存在しておらず分かっていません。
足利基氏は薩埵山の戦いでは、足利直義と共に伊豆にいたとも考えられています。
観応の擾乱の終焉
正平七年(1252年)二月二十六日に足利直義が世を去りました。
これにより観応の擾乱は終焉を迎えたと言えるでしょう。
足利直義と高師直、高師泰ら高一族の多くが亡くなった日と同じであった事から、直義の毒殺説が噂されました。
室町幕府では直義の死因を病死と発表しましたが、当時から直義の死は毒殺ではないかと考えていた人も多かった様です。
大戦の後に亡くなる将軍や軍人は多く、観応の擾乱という激闘が終わり、足利直義もぽっくりと逝ってしまった事も十分に考えられます。
この時の足利直義は46才であり、当時の年齢的に考えても亡くなってもおかしくはないでしょう。
足利義詮は38歳で亡くなっていますし、足利基氏に至っては28歳の若さで亡くなっています。
足利直義は観応の擾乱において、いつも後方におり自ら軍を指揮する事はありませんでした。
これらの事から、直義は観応の擾乱が始まった時には、既に健康状態に問題があったからではないかともされています。
太平記では「鴆毒」により毒殺された事になっていますが、鴆毒の「鴆」という生物(鳥)も、実態がよく分からず謎が多いです。
観応の擾乱後の体制
足利尊氏と義詮による分割統治
観応の擾乱の勝者は足利尊氏となりました。
しかし、関東には直義派の武将が多くおり、潜在的な不安要素が大きかったわけです。
こうした状況もあり、足利尊氏は直ぐに京都に戻らず、東国の統治に専念する事になります。
足利尊氏が鎌倉幕府の管轄地域を統治し、足利義詮が六波羅探題・鎮西探題の区域を担当する事になったのでしょう。
尚、観応の擾乱が終わった後の恩賞宛行の件数が尊氏と義詮の文を合わせると、室町幕府の歴史の中で最多となっています。
恩賞宛行の多さは、観応の擾乱の中でも注目するポイントです。
尊氏の東国統治
執事の仁木頼章だけではなく、南宗継や今川範国も施行状を発行しました。
さらに言えば、足利尊氏も施行状を積極的に発行しています。
施行状と言えば高師直の「執事施行状」が有名ですが、観応の擾乱後では執事だけが施行状を発行するわけでは無くなっていました。
これに伴い執事の仁木頼章の権限が小さくなったとされています。
執事の仁木頼章の権限が小さくなったのは、そももそも観応の擾乱は高師直に権力を持たせ過ぎた事への反省なのでしょう。
他にも、恩賞を多くの者に出した事で、仁木頼章だけでは手に負えないと考え、皆で分担したとも考えられています。
足利尊氏は所領安堵や官途推挙、軍勢催促状、感状なども積極的に行っています。
他にも、所務沙汰関連のものなども発行しました。
足利直義が観応の擾乱の前に行使していた権限を尊氏が行う様になったとも言えるでしょう。
義詮の西国統治
足利義詮も西国において恩賞宛行袖判下文を発給しています。
しかし、足利尊氏と違い最初のうちは、施行状を発行しなかった事が分かっています。
観応三年(1352年)九月に室町幕府追加法第六十条が制定されました。
この時から、義詮の下文にも施行状が現れる様になります。
室町幕府追加法第六十条により施行状が制度化されたと言えるでしょう。
西国では引付頭人が施行状を発行しています。
観応の擾乱の講和期に足利直義の管轄であった引付は、義詮の御前沙汰の登場により廃止されました。
観応の擾乱が終わると、五方制引付方が復活する事になります。
五方制引付方に選ばれた五人の頭人は下記の通りです。
石橋和義 | 大高重成 | 宇都宮蓮智 | 二階堂時綱 | 高重茂 |
石橋和義の施行状は確認されていませんが、残りの四名の施行状が確認されています。
引付方は復活しましたが、足利義詮の御前沙汰も依然として継続されました。
文和元年(1352年)十一月には室町幕府追加法六十三条が制定され、最初は義詮の御前沙汰の御判御教書で行い、二度目以降は引付頭人奉書を下す事が取り決められています。
足利直義の御前沙汰に不服があり、論人の反論に根拠があれば、引付方で再度審議する様に定められたわけです。
こうして御前沙汰と引付の役割分担が明確化されました。
足利義詮も所領安堵や軍勢催促、感状なども積極的に行っています。
ただし、義詮が全て決められたわけではなく、重要案件は東国にいる足利尊氏の承認を得ていた様です。
尚、足利尊氏は軍人たちを多く引き連れて東国に行ったのであり、統治機構としては義詮の西国の方が優れていました。
優秀な官僚たちも京都に残ったと考えられており、西国の方が政務を行うのに整っていたのでしょう。
観応の擾乱と佐々木道誉
観応の擾乱後に幕府内で佐々木道誉の一族が大量に進出したのも、注目するポイントでしょう。
観応元年(1350年)頃から佐々木道誉が室町幕府の要職につきました。
観応の擾乱が終わった1352年には、嫡男の佐々木秀綱が侍所頭人になりました。
さらに弟の鞍智道誉が政所奉行人となり、佐々木道誉も政所執事に就任しています。
観応の擾乱が終わった時期には、足利義詮は高一族も優遇しており佐々木道誉の一族も合わせて義詮を補佐したと言えそうです。
観応の擾乱後の守護人事
観応の擾乱が終わると、守護の人事も大きく動く事になります。
仁木頼章と義長の兄弟は、最大で八カ国の守護分国を獲得しており、観応の擾乱において最大級の勝組となりました。
ただし、仁木義長が獲得した伊賀守護は、早い時期に細川清氏に代わっており、二人の因縁に繋がったともされています。
足利義詮の時代に細川清氏と仁木義長の対立は、頂点に達しました。
観応の擾乱後の守護分国で目立つのは、高一族の復権が見られる事です。
高師秀が河内、因幡を獲得し、高師詮も丹後、但馬を守護分国として与えられています。
足利義詮は高重茂を引付頭人に任命しました。
関東では高一族の南宗継が安房守護となっています。
薩埵山の戦いでの大功労者である宇都宮氏綱は、上野・下野(半国)、越後の守護となります。
上野や越後は上杉憲顕が守護を務めていましたが、宇都宮氏綱に交代しました。
細川氏では細川顕氏が和泉守護を回復し、細川頼春が侍所頭人に就任しています。
畠山国清は西国の河内、和泉、紀伊の守護職は失いますが、関東で伊豆守護を獲得しました。
伊豆は海洋交通の拠点でもあり、重宝された地域です。
山名時氏は幕府復帰していましたが、五カ国守護を取り上げられ、伯耆と隠岐の二カ国の守護となりました。
直義派の中核として戦った上杉憲顕、石塔頼房、桃井直常らは、全ての守護分国を没収されています。
ただし、観応の擾乱以前に培った地域密着の力は強く、一部は実行支配したままでした。
観応の擾乱の前半戦で足利直義が勝利した時は、恩賞の不発とも呼べる状態でしたが、尊氏は自分に味方した者に多くの恩賞を与えようとしたのでしょう。
足利尊氏が精力的に動きました。
正平一統の破棄
観応の擾乱は終わりますが、後村上天皇や北畠親房は正平一統を破棄し、室町幕府に攻撃を仕掛けました。
後村上天皇は石清水八幡宮を本陣とし、楠木正儀らが京都を制圧し光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王を捕らえて、最終的に賀名生に連れ去っています。
関東では新田義興、義宗、脇屋義治らが足利尊氏に戦いを挑み武蔵野合戦が勃発しています。
尊氏や義詮は一時的に敗れたりしましたが、後で逆襲し近畿、関東の両方で勝利しました。
後村上天皇は賀名生に撤退する事になります。
戦いは終わらず
観応の擾乱は終わり、後村上天皇も撤退しましたが、摂津では楠木正儀や石塔頼房ら、南朝軍が室町幕府の摂津守護・赤松光範と尼崎や伊丹河原などで戦闘が起こりました。
これらの戦いでは南朝軍が勝利しています。
観応の擾乱の京都侵攻では南朝の北畠親房などが作戦を指揮しましたが、今度は旧直義派の石塔や吉良などが主導権を握っていたとされています。
この頃から、幕府内で居場所を失った武士が南朝に降伏し、室町幕府に戦いを挑むと言う構図に変わっていきました。
観応の擾乱以前の南朝対幕府軍という構図から、南朝を利用した室町幕府の内紛に変わったという事です。
尚、義詮は赤松光範らの援軍として京極秀綱や京極高秀を向かわせますが、戦いに敗れ佐々木道誉が責任を取り蟄居した話があります。
さらに、観応の擾乱が終わると佐々木道誉が原因で、山名師義を怒らせ父親の山名時氏と共に南朝に鞍替えしました。
山名時氏らは出雲に侵攻し吉田厳覚を破るなどしています。
備後の上杉重季も反旗を翻し、石橋和義が鎮圧に当たりますが、失敗しました。
幕府軍として戦った仁木義長や土岐頼康も、摂津や河内で敗れ京都に戻っています。
観応の擾乱が終わっても幕府内でも戦いは継続されました。
足利義詮は後光厳天皇を二条良基の押小路亭へ行幸させ、後に比叡山に行幸する事になります。
義詮も神楽岡、吉田河原で迎撃しますが、戦いに敗れ、この時に栗飯原清胤が戦死しました。
足利義詮は後光厳天皇と共に近江に逃れますが、この時に細川清氏が後光厳天皇を背負って塩津の山を越えた話が太平記にあります。
尚、観応の擾乱の前半の主人公の一人であった高師直の子の高師詮が、京都での戦いで山名氏と戦い戦死しています。
高師直の子孫は断絶し、高師秋と高師泰の一族が、幕府の奉公衆として残りますが、高師直の様な権勢を室町幕府内で発揮する事は出来ませんでした。
観応の擾乱と鎌倉府
足利義詮は美濃国垂井から反撃を始めました。
赤松則祐や石橋和義の助けもあり、山名時氏や石塔頼房らは没落しています。
赤松則祐、石橋和義に備前守護の松田信重の活躍もあり、義詮はは京都に戻る事が出来たわけです。
武蔵野合戦以降に関東では大規模な戦いが起きておらず、足利尊氏は近畿に戻る決意をしました。
足利尊氏は観応の擾乱の功臣である畠山国清を関東執事及び武蔵守護とし、河越直重を相模守護としています。
宇都宮氏綱らも含めた観応の擾乱や、薩埵山の戦いでの功労者を優遇し、薩埵山体制を築いたとも言えるでしょう。
鎌倉公方の足利基氏には入間川を本拠地とし、活動を行わせました。
観応の擾乱後に出来上がった尊氏と義詮の東西分割統治は解消されています。
足利尊氏は上洛しますが、この時に東国の外様有力武将である小山氏政、佐竹義篤、武田信武、結城直光らが従っています。
足利尊氏は短期間で東国武士の心を大きく掴んだと言えるでしょう。
観応の擾乱以前の鎌倉府には義詮がいましたが、恩賞宛行の権限がないなど、東国の武士の支持を得られていませんでした。
しかし、観応の擾乱が終わり足利尊氏が鎌倉府の整備を行い、恩賞宛行も権限も鎌倉府に残したわけです。
これを考えると、鎌倉府の基盤を整えたのは、足利尊氏だと言えるでしょう。
尚、足利尊氏の死後に足利基氏は、旧直義派の上杉憲顕を復帰させており、これにより薩埵山体制は崩壊に向かいました。
ただし、尊氏の遺産とも言える組織や制度は鎌倉府に残る事になります。
観応の擾乱とは何だったのか
足利直義が保守派で高師直が急進派だったのか
観応の擾乱は足利直義と高師直の対立により始まったとされています。
室町幕府が始まってから政務の中心は足利直義が担ってきました。
一般的に足利直義は保守的な人物であり、寺社や公家、地方の有力御家人、足利一門、幕府奉行人層、東国の地頭職などに支持される傾向がありました。
高師直は幕府執事や執事施行状で求心力を得ますが、実力主義な部分も多々あり、武士の権益を拡大する事を目指したとされています。
庶子の武士や家格が低い足利一門から、高師直は多くの支持を得て強大な権力を形成するに至りました。
直義は保守的な人物で秩序の維持を優先させ、高師直は急進的で秩序の破壊者とされてきたわけです。
直義=保守派 師直=急進派というのが、定説ではないでしょうか。
定説は正しいのか
近年の研究では石塔頼房は最後まで足利直義を支持しましたが、石塔氏は「なぜ石塔と呼ばれるのか」も分からない程に家格が低い足利一門でもあります。
石塔頼房は足利尊氏が存命中は幕府に帰順せず、反尊氏で通しています。
石塔頼房は奥州に下向した事もありますが、多くは近畿で戦い近畿の新興武士団に支持されていたと考える事が出来るはずです。
足利尊氏は薩埵山の戦いで勝利しましたが、宇都宮氏綱や東国武士団に支持されたのが決め手となっています。
東国武士団の多くは足利尊氏を支持し、武蔵野合戦の勝利の原動力にもなりました。
足利直義と尊氏は上杉清子の子であり、妾腹の子でもあります。
足利氏の正統なる後継者は尊氏や直義の兄でもある足利高義です。
足利高義が若くして亡くなり、元弘の変が起きなければ、直義も庶流の人物で終わった事でしょう。
こうした事からなのか、今川了俊の難太平記には足利直義が幕府人事では実力主義であり、家柄を誇る事を戒めた話があります。
足利直義は伝統を重視する保守的な人物とされていましたが、実際には家柄がよいだけでは信頼されなかったとみる事も出来ます。
高師直は実力一本でのし上がって来た叩き上げの様な人物に思うかも知れませんが、足利氏の家来筆頭のような家柄であり、東国の伝統的な御家人出身者だと言えるでしょう。
高師直や高師泰が武功を挙げたといっても、室町幕府の軍事の最高責任者は足利直義であり、軍事権を任されて戦場に行きました。
足利直義と高師直で明確に支持基盤を分類する事は難しいとも言えます。
足利直冬の処遇問題
観応の擾乱が軍事衝突にまで発展したのは、九州の足利直冬を足利尊氏と高師直が討伐に向かった所からです。
足利尊氏が何故か足利直冬を嫌っていた話は有名です。
足利直冬は紀伊征伐でも活躍しており有能な人物として、周囲から評価されていたのではないかとも考えられます。
直冬自身も幕府の為に働こうとしていたのではないでしょうか。
しかし、足利尊氏は直冬を嫌い、高師直は足利義詮を後継者にする為に、全精力をつぎ込んでおり、批判が集まった可能性もあります。
足利直冬の処遇を巡って観応の擾乱が勃発したとする見解も的外れではないでしょう。
恩賞問題
室町幕府で新たなる所領を獲得する場合は、足利尊氏による恩賞充行袖判下文の発給があり、高師直が仁政方で執事施行状を発行し、守護に沙汰付けを行わせ所領の実効支配を確実にしようとしました。
しかし、中には様々な問題もあり所領を得る事が出来なかった武士も多かったと考えられています。
康永二年(1343年)に室町幕府追加法第十二条があり、足利直義管轄下で庭中方が設置され、恩賞宛行に介入する事が可能になりました。
庭中方は直義の権力強化ともみられていますが、そもそも足利尊氏と高師直に対する不満が高まっていなければ、庭中方なる機関は出来なかったのではないかと考えられています。
太平記では桃井直常が恩賞に不満を持ち直義派になった話が掲載されており、山名時氏や山名師義が南朝に鞍替えしたのは、佐々木道誉が恩賞をうやむやにしようとしたからだと言われています。
観応の擾乱の前に妙吉が高師直を讒言した時に「高師直が寺社本領を押領」する様に勧めたからだとされています。
裏を返せば高師直も武士たちが恩賞に満足していない事を感じており、仕方なく寺社から奪えとした様にも見えるわけです。
観応の擾乱前には武士たちは恩賞の不足により、フラストレーションが溜まっている者が多かったのでしょう。
高師直の恩賞問題
執事施行状を発行していた高師直は幕府の恩賞と深い関係にありました。
高一族の所領を見ると下野の足利荘や三河国額田郡に集中しており、権勢の割には少ない事が分かっています。
細川氏が自らの守護分国に所領を集中させたのとは、対照的です。
さらに、高師直は絶世の美女を例に出し、国の十カ国や所領の三十カ所よりも価値があるとしました。
高師直自身は豪邸に住んだり女性を多く侍らした話はありますが、自分の所領拡大に精を出したとする話は存在しません。
所領に関して無欲とも言える高師直が、恩賞を与える重要なポジションにいるわけであり、当時の武士とは軋轢が生まれたと考えられています。
足利直義の敗因
足利尊氏や高師直の恩賞に不満を持った者達の受け皿になったのが、足利直義だったと考えられています。
当時の武士たちは「足利直義が所領問題にちゃんと向き合ってくれる」と思っても不思議ではないでしょう。
観応の擾乱において足利直義は高師直を滅ぼしていますが、無気力さが目立ち武士たちが望むような恩賞を与える事が出来てはいなかったわけです。
足利直義に期待していた者達は大きな失望を得た事でしょう。
直義に対し見込み違いと感じた武士たちは、足利尊氏を支持する様になり、尊氏の方でも観応の擾乱の前半部においての敗因を正確に分析していました。
直義は無気力であり、尊氏は精力的に物事の解決に取り組んでおり、この差が観応の擾乱の勝敗を分け直義の敗北を決定づけたと言えるでしょう。
さらに、この時期に自然災害も多発しており、当時の人々は生活が苦しくなり、少ないパイの奪い合いもあり、観応の擾乱を引き起こしたとも言えそうです。
1350年に朝鮮半島側の記録として「庚寅年以降の倭寇」があり、倭寇の数が飛躍的に増えた記録があります。
庚寅年以降の倭寇は日本側の影響が朝鮮半島にも影響を及ぼしたとみる事も出来ます。
中国大陸では元の時代でしたが、1351年に紅巾の乱が勃発しました。
観応の擾乱の時代は東アジアでは、激動の時代への幕開けだったと言えそうです。
観応の擾乱後の恩賞
先にも述べましたが、観応の擾乱が終わると足利尊氏や義詮は武士たちに積極的に恩賞を与えています。
足利尊氏が関東にいる時に、恩賞に煩い武士に間違えて赤松則祐の所領を与えてしまった事がありました。
足利尊氏は関東にある赤松則祐の所領を把握しておらず、別の者に与えてしまったわけです。
当然ながら赤松則祐は怒り、尊氏に泣きつきますが、足利尊氏は西国の義詮に急いで別の所領を与える様に依頼しました。
当時の武士の所領欲の深さと共に、足利尊氏が如何に恩賞に対し気を配っていたのかが分かる話でもあります。
さらに、室町幕府では同じ所領を複数人に与えてしまった場合は、日付の古い者が優先される法律を作りました。
他にも恩賞地が寺社のものだった場合は、寺社勢力に別の所領を与えるなどしています。
全ての人を満足する事は無かったはずですが、恩賞問題の解決に努力したと言えるでしょう。
管領の誕生
足利義詮の時代の末期になると、足利義詮が執事施行状を独占しました。
しかし、足利義詮が若くして亡くなると、足利義満は10歳の子供であり、細川頼之が執事となります。
細川頼之が執事施行状を発行しており、観応の擾乱前の高師直と同じ状態となりました。
執事は後に引付頭人の庶務沙汰も吸収し「管領」と呼ばれる役職になっています。
半済令
観応の擾乱以後に武士たちに積極的に恩賞を与えた室町幕府ですが、それでも武士たちからは不満が出ていたわけです。
観応三年(1352年)に幕府追加法第五十六条が制定され、足利義詮は近江、美濃、尾張の三カ国限定で年貢の半分を1年限定で兵粮料所として認める事を決定しました。
これが半済令です。
しかし、直ぐに追加で半済令の対象地域が八カ国に拡大しました。
さらに、年限も拡大し下地の分割も許可されています。
半済令により寺社を多く悩ませたと思われがちですが、半分に限定する事で寺社本領を保護したとする見解もあります。
観応の擾乱が終わると半済令により、守護達の権力が拡大した事だけは間違いないでしょう。
所領安堵も簡素化されており、室町幕府が如何に武士たちに気を遣ったのかが分かる話でもあります。
恩賞としての官職任命
観応の擾乱の前では武士の戦場での恩賞として、建前の上で官位を与える事はありませんでした。
南朝では恩賞として官位を積極的に与えています。
しかし、観応の擾乱以降は北朝及び室町幕府で、堂々と武家任官や恩賞も行われました。
所領であれば土地が必要ですが、官職の任命であれば原資がいらないなどの理由があったとも考えられています。
幕府裁判の変化
延文元年(1356年)頃に足利尊氏が長く保有していた恩賞充行権を義詮に明け渡しました。
足利尊氏は観応の擾乱が終わった頃より、体調を崩す様になっており、この頃には悪化していたのでしょう。
これにより室町幕府の頂点に君臨するのは、足利義詮だけとなりました。
翌年になると足利義詮は引付方を廃止しています。
義詮は裁判の迅速な対応が求められている事を察知し、双方の言い分を聞く引付方を廃止したと考えられています。
ただし、どうしても論人の意見が正しい事もあり、こうした場合は執事管轄の仁政方で、訴人と論人の意見を聞く裁判を行いました。
観応の擾乱と足利尊氏の評価
梅松論には夢窓疎石による足利尊氏の評価が掲載されています。
※観応の擾乱(中公新書)より
①心が強く、合戦で窮地に陥っても怖れなかった。
②慈悲天性で、人を憎むことがなかった。多くの怨敵も我が子のように寛大に許した。
③心が広く、武具や馬などを惜しまずに人に与えた。
亀田俊和氏は足利尊氏の、これらの性格が出るのは観応の擾乱以降ではなかったのかとしました。
観応の擾乱の最中に夢窓疎石は亡くなっていますが、足利尊氏が戦いでは前線に立ち恩賞を多く与えたり、問題に対し正面から立ち向かったのは、観応の擾乱以降だとみる事も出来るはずです。
観応の擾乱は室町幕府の前進だった
亀田氏は「努力すれば報われる政治」とした項目を書籍観応の擾乱の書籍の最後で設けており、次の様に書き示しました。
※観応の擾乱(中公新書)より
努力すれば報われる。この場合の「努力」とは幕府への奉公を意味するが、幕府がこのような信頼を得た意義は大きい。
忠節を続けていれば、必ず何らかの形で権益を与えられる。
万一敵対しても、帰参すれば決して悪いようにはされない。
自分が殺されたとしても、最低限、家の存続は許される。
こうして多くの武士が幕府へ馳せ参じた。
それが義満以降しばらく続く幕府の全盛期の実態であったと筆者は考えている。
そうした変化の大きな決起となった意味で、観応の擾乱は室町幕府にとって有意義な試練だったのである。
観応の擾乱において、素晴らしい纏め方だと感じました。
室町幕府の様々な制度が整備されるきっかけになったのが、観応の擾乱でもあったのでしょう。
観応の擾乱は短期間で目まぐるしく権力者が変わり激戦が日本全国で繰り返されましたが、室町幕府が前進する為の試練だったと言えます。
※この記事及び動画は亀田俊和先生の観応の擾乱をベースく作成しました。
YouTube動画と合わせてご視聴してください。