春秋戦国時代

趙高が秦を崩壊させる

2020年4月9日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

趙高は、趙王室の遠い親戚であり、生まれてすぐに母親が罪を犯し連座で去勢され、宦官になったと言われています。

史記にはそのような記述がありますが、閻楽という女婿がいますし疑問を抱く専門家もいます。

他にも、家族を養っていくために自らが率先して宦官になったとする説もあるわけです。

ただし、経緯はどうであれ宦官として始皇帝胡亥に仕えた事は間違いありません。

春秋戦国時代李信を主人公とした漫画キングダムでは、趙姫(美姫)からも高く評価されているわけです。

しかし、どこか力強さに欠けるようなイメージがあり、趙高が本当に秦を腐敗させて内部崩壊させるの?と思うかも知れません。

それでも、史実の歴史を見る限りでは、趙高が暴走した事での文官・武官などは多くが殺害されてしまい骨のある臣下がいなくなってしまいました。

もしもになってしまいますが、趙高が暴走しなかったら劉邦は咸陽を落とせたのかは不明な点も多いです。

尚、胡亥と趙高はセットで語られる事が多いです。

罪を犯すが許される

趙高ですが、キングダムだと嫪毐や趙姫と大きく関わっている事になりますが、史実だとそのような事はありません。

嫪毐の乱の後に、蜀に島流しにされたなどの記述も存在しません。

嫪国建国などに関わっていた可能性はありますが、史記などには、そういう記述はないわけです。

呂不韋との関わりも不明です。

趙高は何かしらの罪を犯したとされていますが、始皇帝が仕事熱心だとして許したという話があります。

さらに、始皇帝の末子である胡亥に法律の事を教えて信任を得ていたようです。

始皇帝は仕事熱心な人で、趙高も仕事熱心だった事から気に入ったのでしょう。

趙高は無能だったわけではなく、始皇帝が生きていた時は、仕事熱心で政務や法律にも詳しかったと思われます。

秦は秦王政が即位した時には、既に中国の半分近くは秦の領土になっていました。

さらに、王翦王賁蒙恬、李信などの活躍により、戦国七雄などの6国を滅ぼして天下統一したわけです。

秦の法律を整備する事や内政などに関しては、趙高も丞相である李斯と共に活躍をしたと思われます。

始皇帝の遺書をすり替える

秦王政は、統一すると始皇帝を名乗る事になります。

さらに、蒙恬に30万の軍勢を与えて匈奴を破り北方に大きく領土を広げています。

万里の長城の建築や、阿房宮の建築などをした事でも有名です。

しかし、晩年は不老不死に憧れたり、過酷な法令を緩めるように諫言した、長男扶蘇を蒙恬がいる北方に行かせたりもしているわけです。

晩年の始皇帝は仕事熱心さは変わらなかったようですが、迷走しているように思えます。

始皇帝は体調が悪くなった時に、占いをすると巡幸に出ると良いと出ました。

それで、無理を押して巡幸に出たわけですが、そこで亡くなってしまうわけです。

史記などでは、北方にいる長男である扶蘇を跡継ぎにするように遺言したとされています。

しかし、趙高が権力を握るために末子である胡亥を皇帝にしようと画策したわけです。

趙高は丞相である李斯を抱き込む為に、扶蘇が皇帝になってしまったら蒙恬や蒙毅を採用して、李斯は遠ざけられると脅しました。

実際に扶蘇は、始皇帝のバリバリの法治国家に反対した経緯もあり李斯も左遷される可能性もあったわけです。

さらに、中国では王様が変わった時に、次の王様により粛清されるケースが非常に多いわけです。

実際に、商鞅呉起などの名臣は代替わりで粛清された経緯があります。

そういう話を聞いてしまうと李斯も不安を覚えて趙高の案に従ってしまいました。

その結果として、始皇帝末子の胡亥を説得して皇帝にさせる事になりました。

長男の扶蘇に対しては、自害するように始皇帝が命じた事にして、自害させています。

粛清の嵐が巻き起こる

胡亥が秦の二世皇帝として即位したわけですが、評判は悪かったようです。

兄である扶蘇は、法律を緩める事を進言した経緯があるため、人民は期待していたのでしょう。

実際に、陳勝・呉広の乱が起きた時に、陳勝や呉広は扶蘇や項燕を名乗っている事から、扶蘇に対する天下の期待が大きかった事が分かります。

さらに、始皇帝の遺書を捻じ曲げて即位した経緯があるためか、粛清の嵐が起きるわけです。

二世皇帝は自分の兄弟が反乱を起こさないか心配で、皆殺しにしています。

その他にも、蒙恬や蒙毅などの功臣についても次々に粛清しているわけです。

これにより秦の内部には、名臣と呼べるような臣下はほとんどいなくなってしまいます。

ここで趙高や二世皇帝が大量に粛清をしてくれたお陰で、項羽や劉邦は秦を倒せたとも言えるでしょう。

趙高が実権を握る

趙高は自分が最高権力者になるための野望も見せ始めています。

二世皇帝に関しては「二世皇帝は即位して間もないから何か間違いがあると臣下に大きく評判を落とす。滅多に姿を現さない方が威厳を保てる」と進言しています。

これにより胡亥は宮殿の奥から出なくなり、趙高が取次役として話をするだけとなったわけです。

つまり、趙高を通さないと丞相の李斯であっても話は出来なくなってしまいました。

これにより趙高が実質的な最高権力者になったわけです。

さらに、趙高は胡亥に対して、酒と女色を勧めて骨抜きにしています。

秦に対して反乱が勃発する

こうして秦は内部崩壊の兆しを見せ始めますが、外部でも秦に対して反乱が勃発しています。

秦の過酷な法律に対して、陳勝や呉広が立ち上がり陳勝・呉広の乱を起こしています。

この反乱は瞬く間に広がってしまい、これにより秦は統一政権では無くなってしまったわけです。

反乱軍鎮圧のために、章邯が囚人兵を引き連れて戦っています。

外部に敵が現れると、内部がまとまる事はよくあるのですが、趙高が実権を握っている秦ではそういう事はありませんでした。

李斯を処刑して丞相となる

趙高は反乱が起きても、外には余り関心がなく内部の権力固めに必死だったわけです。

この時に役職で考えれば、趙高よりも李斯の方が上でした。

趙高は李斯を排除するための計画を立てたわけです。

李斯は胡亥に朝廷に出て政務を執って欲しかったようで、諫めようとしてます。

趙高は胡亥に朝廷に出られては、自分の権力が削がれると考えて、策を弄しています。

李斯は自ら胡亥を諫めるというわけですが、諫めようとするタイミングを胡亥が遊びで盛り上がっているタイミングに趙高は設定します。

胡亥は「いいところなのに丞相が来て困る」という状態になるのですが、これを数度繰り返す事になったわけです。

趙高は胡亥に、李斯が胡亥を舐めているから、そういう態度を取っていると讒言しました。

それに対して、李斯は趙高が悪臣だというわけですが、胡亥は趙高は忠臣だと言い、胡亥と趙高は李斯に無理やり罪を着せて処刑してしまったわけです。

胡亥から趙高は丞相に任じられる事となり、ここにおいて名実ともに趙高が秦の最高権力者となりました。

馬鹿問答で臣下を見極める

趙高は秦国の最高権力者になったわけですが、その他の文官・武官が従うか心配だったわけです。

もちろん、秦の官吏には宦官の趙高が嫌いな人も多くいました。

趙高は自分の言う事を聞くか見極める為に、後に馬鹿問答と呼ばれる事を引き起こすわけです。

胡亥を宮廷に呼び鹿を見せて馬だと呼び、臣下に馬に見えるか鹿に見えるか一人ずつ問うてみました。

正直に鹿だと答えた臣下は理由を付けて、後に趙高は殺害してしまったわけです。

これにより秦は完全に内部崩壊したような状態になってしまいました。

趙高の機嫌を取る臣下しかいないような状態です。

しかし、函谷関の外では反乱が収まらない状態になっています。

章邯が楚に降伏する

章邯は、趙高が内部を粛清している間にも戦い続けています。

函谷関を超えて侵入して来た周章を撃破して、さらに陳勝を討ち取るなどの戦果を挙げています。

さらに、の名将項燕の子である項梁をも討ち取っているわけです。

項梁の死により反乱軍は大打撃をくらい鎮圧は時間の問題とも思われました。

しかし、趙の趙歇と張耳が籠る鉅鹿を、秦将王離が落とす事が出来ません。

王離は秦の正規軍30万を擁していながらも落とす事が出来なかったわけです。

ただし、王離の鉅鹿への猛攻の前に、援軍に来た陳余や多くの諸侯は見守る事しか出来ませんでした。

しかし、楚の項羽が到着して、黥布などと共に王離に攻撃を掛けると、王離は大敗してしまいます。

章邯は軍勢の立て直しを図りますが、打開策を見出す事が出来ない状態です。

章邯は、部下の司馬欣に対応策を秦の首脳部に確認していたわけですが、趙高は外部に興味を持たずに司馬欣は放置されてしまいます。

司馬欣は様子がおかしいと判断して、章邯の元に逃げ帰る事にしました。

趙高は、司馬欣が去った事を知ると追手を出しますが、来た道と違う道を通って司馬欣は逃げた事で無事に章邯の元に帰ったわけです。

そこで、趙高が完全に実権を握った事を章邯は知る事になります。

ここにおいて章邯は、「功を立てれば妬まれて誅されるし、功を立てなければ失敗を咎められて誅される」という状態に追い込まれている事を知ります。

さらに、前方からは項羽の軍勢が攻撃を掛けていますから、対策を立てるゆとりを与えてくれません。

ついに、章邯は、董翳と司馬欣と相談をして項羽に殷墟で盟約を行い降伏する事になりました。

この時に、章邯は項羽の前で涙を流したと言いますから、苦悩の深さが伺えます。

胡亥を殺害する

趙高ですが、函谷関の外で戦っている将軍たちが鎮圧出来ていない事実を胡亥に知れる事を恐れてしまうわけです。

胡亥に趙高は誅される事を恐れて、逆に胡亥を殺害する事を考えだします。

胡亥を誅するわけですが、史記の始皇本紀に書かれている内容と李斯列伝に書かれた記述に違いが見えます。

始皇本紀の胡亥の最後

趙高は、胡亥に反乱鎮圧に失敗している事を隠蔽していました。

しかし、胡亥にその事実を伝える者が現れたわけです。

趙高は胡亥には、いい事しか言ってなかった為に激怒して、趙高を呼び寄せます。

趙高は、胡亥の元に行けば罪を問われると感じて、自分から先手を打ち反乱を起こしたわけです。

二世皇帝胡亥を襲撃したわけですが、防備も何もしていない胡亥は趙高の兵に急襲されて窮地に陥ります。

この時に、胡亥は周り宦官に「なぜ、こんな事になるまで言ってくれなかったんだ!」といいます。

それに対して、宦官は次の様に答えています。

「私は言わなかったからこそ生きていられたのです。もし諫言などしたら直ぐに誅殺されていた事でしょう」

この言葉と言うのは、司馬遷が言いたかった事でもあると思いました。

司馬遷自身は武帝を諫めた事で怒りを買い宮刑にされているからです。

胡亥は趙高に命乞いをするわけですが、結局、許される事はなく殺害されています。

李斯列伝の胡亥の最後

李斯列伝では、趙高は自分の兵士に胡亥の宮殿を包囲させます。

趙高は胡亥に対して、山東の野盗どもが宮殿を包囲したという偽りの情報を流したわけです。

趙高は胡亥に自殺を勧めて、胡亥は自殺しました。

これが李斯列伝の胡亥の最後です。

始皇本紀に比べるとインパクトは薄いかな・・という印象です。

しかし、李斯列伝には、その後に趙高が皇帝になろうとする話が掲載されているのです。

趙高は皇帝になろうとした

李斯列伝だと胡亥が自殺した後に、趙高は皇帝になろうとします。

皇帝の象徴である玉璽を帯びて宮殿に入ろうとするわけです。

しかし、文武百官は納得しなかったとあります。

さらに、宮殿に入ろうとすると、宮殿が崩れそうになり、入るのをやめると崩れるのが収まったそうです。

しかし、また宮殿に入ろうとすると、宮殿が崩れそうになる現象が3度続き皇帝になるのを諦めたとあります。

趙高が皇帝になる事は、天も人民も許さなかったという話です。

文武百官が許さなかったとありますが、「馬鹿問答」などで多くの臣下を殺していますし、趙高に逆らう人は、ほぼいないはずです。

それにも関わらず文武百官が承服しないとか、宮殿が崩れ落ちるなどは、創作性が強く感じます。

しかし、趙高自身も皇帝を名乗ってしまえば、さらに反乱が起きる事を恐れたのか、皇帝にはなりませんでした。

尚、胡亥を誅した一連の事件の事を「望夷宮の変」と呼びます。

子嬰に殺害される

始皇帝の親族たちの大半は、胡亥と趙高に殺戮されてしまったわけです。

始皇帝の一族の中で、子嬰という人物が次の王位に就くように趙高は説得します。

子嬰は、始皇帝長男である扶蘇の息子とも言われている人物です。

しかし、子嬰の方も秦が趙高によって腐敗していて、いつ殺されるかも分かったような状態ではありません。

そこで、趙高を逆に誅殺する計画を立てる事にしたわけです。

皇帝就任の儀式の時に、病気だといい欠席しようとします。

趙高は病気でも出席するように、子嬰を促すためにやってきたわけです。

そこを自分の子供や宦官である韓談などと共に、趙高を殺害してしまいました。

さらに、趙高の一族を皆殺しにしてしまったわけです。

これにより趙高は滅んだわけですが、腐敗が進んでしまった秦では、項羽や劉邦などの反乱軍を抑える事が出来ませんでした。

結果、武関を劉邦に破られて、さらに劉邦の軍師である張良の献策もあり秦の将軍が寝返っています。

既に戦力的に、戦う余力が残されていなかった秦は劉邦に降伏し、さらに遅れて項羽が到着すると子嬰は殺されています。

さらに、宮殿も焼かれて完全に秦は滅びる事となりました。

趙高は劉邦に内通していた?

趙高は劉邦に内通していた説があります。

史記では、子嬰の言葉で「趙高は既に秦に見切りをつけていて劉邦に内通している」という言葉があるからです。

実際に、趙高は劉邦に対して内通していて、関中の王になりたいと言っていた説もあります。

ただし、一説によると、劉邦には全く相手にされなかったとも言われています。

実際には、手紙が残っているわけではありませんし、分からない部分でもあるわけです。

しかし、趙高は秦に対して忠誠心があるわけでもありませんし、有利な状況で取引が出来れば、秦を見限って劉邦に味方してもおかしくはないでしょう。

趙高を殺害したのは章邯だった?

2009年に海外に流出してしまった中国の資料が送り届けられる出来事がありました。

北京大学蔵西漢竹書とも呼ばれています。

そこの中に、「趙正書」と呼ばれている巻があるわけですが、これが始皇帝の事を書いた資料です。

秦と趙は祖先が同じとされていて、史記の中でも始皇帝の事を「趙政」と書いてある部分もあります。

そのため、政ではなく趙政でも始皇帝になるわけです。

北京大学蔵西漢竹書の記録の中で、章邯が出かけて行き、その国を平定して趙高を殺害したとする記述があります。

これを考えると、趙高を殺害したのは章邯という事になります。

ただし、これを信じるとなると史記の記述とは大きく違う事になり、項羽と戦っているはずの章邯がなぜ趙高を殺す事が出来るのか?という疑問が湧いてきます。

それか、項羽と共に章邯は函谷関を抜けて秦に入ったわけで、これを章邯が平定した事にしたのかも知れません。

さらに、趙高は生きていたが章邯が殺害したのかな?とも考えられるわけです。

しかし、史記とは大幅に違う歴史となってしまい、謎が深い部分でもあります。

個人的には、外で戦っている章邯が趙高を殺害するのは、難しいのではないかと考えています。

尚、趙正書では趙高、胡亥、李斯が結託して、胡亥を二世皇帝にしたのではなく、始皇帝が自らの意思で胡亥を後継者に選んでいます。

趙正書の記述が正しければ、趙高の暗躍は無かった事となるでしょう。

趙正書に関しては、既に動画を作ってあります。興味があれば視聴してみてください。

趙高が秦を滅ぼした

秦を滅ぼしたのは項羽である事は間違いないでしょう。

しかし、趙高が滅ぼしたとも言えなくはないと思います。

権力闘争に明け暮れたせいで、反乱軍に対して、一致団結して挑めなかったのは大きな敗因でしょう。

さらに、蒙恬などの名将を殺害してしまった為に、名将と呼べるのは章邯しかいなかったはずです。

もし、蒙恬が王離の代わりに秦の正規軍30万で戦ったとしたら、項羽もどうなっていたのかは分かりません。

秦の内部が完全に腐敗していた為に、戦力では圧倒的に有利なはずの秦は滅亡に追い込まれたと言えるでしょう。

春秋戦国時代趙の悼襄王幽穆王は、郭開という宦官を信任した為に、廉頗が出奔し李牧は殺され滅びたとされていますが、秦も趙高に牛耳られた為に滅亡したと言えます。

尚、宦官と言えば三国志の十常侍や郭開、趙高などを思い浮かべて悪く思う人が非常に多いです。

しかし、藺相如を推挙した繆賢のような人物もいます。

さらに、宦官でありながら将軍として活躍した人物もいますので、宦官=悪と考えるのはどうかなとも思うわけです。

ただし、趙高は秦を崩壊させた悪徳宦官だとも言えるでしょう。

胡亥と趙高の動画

胡亥と趙高を題材にしたゆっくり解説動画となっています。

がどの様に滅亡するのか知る事が出来ます。

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