
| 名前 | 東周王朝 |
| 時代 | 紀元前770年ー紀元前256年 |
| コメント | 東周王朝の時代は諸侯の時代でもある |
東周王朝は西周王朝の崩壊後に、周の平王が洛陽に遷都した事で始まりました。
東周王朝の時代は周王朝に諸王を抑え込むだけの力がなく、乱世であり春秋戦国時代の始まりでもあります。
周の桓王などは王朝の復興を願い繻葛の戦いに挑みますが、鄭の荘公に完膚なきまでに敗れました。
斉の桓公や晋の文公が活躍した春秋五覇の時代は、東周王朝の時代でもあります。
諸侯は周王朝の庇護を受ける事が出来ず、外敵に対しては諸侯同盟を結び対抗したのが、覇者の始まりだと言えるでしょう。
東周王朝の国力や権威は低下していきますが、小さな王朝内でも対立を繰り返しました。
後期には東周王朝が西周国と東周国に分裂し、互いに争うなどしています。
東周王朝は周の赧王が亡くなると共に後継者として立つ者もなく、秦の昭王により滅亡しました。
周の東遷
西周王朝が崩壊すると、周の平王、周の携王、鄭の桓公が周の後継者候補となり争う事になります。
この中で、周の平王が東周王朝の始祖となります。
史記では西周が崩壊した翌年には、晋の文侯、秦の襄公、衛の武公ら有力諸侯が申国にいた周の平王を成周に入れて、東周王朝の時代が始まった事になっています
しかし、実際には周の平王、周の携王、鄭の桓公による、三つ巴の戦いがあったと考えられています。
鄭は成周を支配していましたが、鄭の桓公が亡くなると、鄭の武公は周の平王に臣従しました。
最終的に晋の文侯が周の携王を滅ぼしますが、晋では本家と曲沃の対立があり戦乱状態となってしまい、鄭の荘公が周の平王を洛陽に入れる事になります。
これにより、周の東遷が完了したわけです。
東周王朝では周王は王城で政務を行う事になりますが、諸侯の力が強く西周王朝ほどの権勢は発揮する事が出来ませんでした。
周の平王は虢を重用しようとした時に、鄭の荘公に釘を刺され言い訳をした話もあり、東周王朝と諸侯の関係をよく現わしたものだとみる事が出来ます。
周の桓王は周の再興を目指し繻葛の戦いに臨みますが、鄭の荘公に大敗しており、これが東周王朝が中心として起こした最後の軍事行動でもあります。
東周王朝の混乱
三代目の周の荘王の時代になると、東周王朝の重臣である周公黒肩が、周の荘王を殺害し王子克を擁立しようとしました。
周公黒肩の乱は失敗に終わりましたが、小さくなった王朝内でも争いが起きている事が分かるはずです。
五代目の周の恵王の時代になると、東周王朝の五人の大夫が王子頽を擁立し、衛や南燕の協力により洛陽を占拠しました。
一時的ではありますが、王子頽は周王となっています。
周の恵王は斉の桓公を覇者として認めるなどしていますが、王朝内の政治基盤の脆弱さも分かるはずです。
周の恵王の子で六代目の周の襄王の時代になると、周の襄王は王子帯により洛陽を追われました。
周の襄王は晋の文公の支援により、洛陽を奪還しています。
この頃から晋が台頭し、周王朝が諸侯に介入するなども減少し、軍事力も皆無となって行きます。
東周王朝の九代目の周の定王の時代になると、楚の荘王が北上し、鼎の軽重を問うなどの逸話も残っています。
周の霊王の次に周の景王が即位しますが、儋括が佞夫を擁立しようとし失敗するなどしました。
東王と西王
周の景王が亡くなると、周の悼王が即位しますが、王子朝が乱を起こし対立を深めています。
周の悼王は王子朝の乱を終わらせる事なく亡くなり、周の敬王が即位しました。
王子朝は王城を本拠地とし西王と呼ばれ、王城の東の狄泉を本拠地とした周の敬王は東王と呼ばれる事になります。
東周王朝の内部に西王と東王が立ちました。
東周王朝を二分する戦いではありますが、戦いの範囲は洛陽の近辺の50キロから60キロの範囲であり、狭い範囲でも戦いとなっています。
既に東周王朝の影響力はかなり減少しており、周の東遷の時の対立に比べると、スケールは大幅に削減されている事も分かるはずです。
紀元前517年に晋の趙鞅が中心となり諸侯の軍と共に乱を鎮め、最終的に王子朝が楚に逃亡し周の東王と西王の時代は終わりました。
尚、王子朝の乱では、東周王朝を支え続けた召氏や毛氏などの邦君らが、没落する事になります。
王城からの遷都
春秋左氏伝を見ると魯の昭公の32年から、魯の定公の元年に掛けて、周の敬王が晋に成周の城壁を修築させたとあります。
この記述だけを見ると、周の敬王が晋に命令して城壁を造営させた様に思うかも知れませんが、実際には東周王朝には、それだけの力がなく、晋の定公が東周王朝の為に城壁を造営したのが実情なのでしょう。
三国志でも有名な杜預は、この時に王城から成周に遷都したと考えました。
東周王朝では代々に渡り王城を本拠地としてきましたが、王子朝の乱では敵方が王城を本拠地としており、周の敬王は「王城は危険」だと判断し、晋に頼んで成周に城壁を造営して貰ったと杜預は考えたのでしょう。
東周王朝は成周に遷都しました。
尚、東周王朝の十九代目の周の孝王が、弟の桓公に河南(王城)を与え周公を名乗らせており、周の孝王の時代までには、本拠地を王城から成周に遷都したとみる事が出来ます。
戦国時代に突入
春秋五覇の筆頭国とも言える晋ですが、晋の悼公以後は徐々に公室が弱体化し、六卿が強大化していきました。
六卿の中で勝ち残った魏、韓、趙の三国を紀元前403年に周の威烈王は諸侯として認める事になります。
斉も姜斉から田斉に代わり、時代は完全に戦国時代に突入したと言えるでしょう。
戦国時代に入ってからも東周王朝は魏の文侯や武侯が権威として利用したりもしていました。
しかし、魏の恵王が即位した時の混乱で、晋の公室は屯留に遷され、最終的に晋の静公の代で断絶する事になります。
こうした中で、東周王朝は東周と西周に分裂しました。
東周王朝が二つに分裂したのは、趙や韓が魏に周王の権威を利用されない為だとされています。
尚、魏の恵王は一時は夏王を称すなどしました。
東周君と西周君
先にも述べた様に、周の孝王の時代に東周王朝では、弟を王城に封じて西周の桓公としました。
西周の桓公は周公としており、周公旦の様な存在として担わせたのでしょう。
当然ながら、西周の桓公と西周王朝の関係はありません。
西周の桓公が西周の始まりとなります。
西周の桓公が亡くなると西周の威公が当主となりますが、亡くなった時に後継者の西周の恵公に対し、末子が反乱を起こし鞏に封じられました。
鞏に封じられたのが東周の恵公であり、東周の祖となります。
この時に東周王朝では周の赧王の時代となっていましたが、赧王は領地も無かったのか西周君を頼り保護される事になります。
東周王朝の赧王は西周君に養われていたと言えるでしょう。
周の赧王は西周国にいましたが、西周君と東周君は何度も戦争になっており、周の赧王はかなり微妙な立ち位置だったとも言えるでしょう。
東周王朝と戦国七雄
秦は軍事力で三晋を圧倒する様になり、秦の孝公の時代に商鞅が改革を成功させると、他国が束になっても敵わないだけの実力を身に付けました。
東周王朝では文武の胙を秦に贈るなどし、秦を覇者として認め東周王朝の保護者になって貰うべく動く事になります。
しかし、秦と対立していた魏と斉は紀元前334年に徐州で会見を行い共に王と呼び合い、斉の威王と魏の恵王が誕生しました。
秦の恵文王も東周王朝からの覇者としての立場を捨て去り、王号を称す事になります。
趙、韓、燕、宋、中山なども王号を称す様になり、各国が東周王朝の権威すら利用しない状況となりました。
春秋時代は周と楚だけが王を称しましたが、戦国時代になると各国が王号を称したと言えるでしょう。
紀元前288年には秦の昭王と斉の湣王の間で、西帝と東帝を名乗りましたが、半年ほどで取りやめられています。
東周王朝は「天子」としての立場を辛うじて保っていたと言えるでしょう。
東周王朝の滅亡
これに恐れを抱いたのが西周君であり、秦との同盟を破棄し、諸侯と共に秦を攻撃し陽城に通じる道を断とうと画策しました。
秦の昭王は怒り将軍の摎に、西周国の攻撃を命じる事になります。
西周君は秦を怖れ自ら秦に出向き領地と民を献上し、許される事になります。
この直後に西周君と周の赧王が共に亡くなっており、東周国は残っていますが、東周王朝の滅亡とする事が多いです。
ただし、別説として東周国の昭文君が周王に即位したとも言われています。
尚、東周王朝の滅亡は周の赧王が計画を企て失敗したとする話もあり、債台高築なる故事成語が生まれました。
周の赧王が亡くなっても存続していた東周ですが、紀元前249年に秦の荘襄王は呂不韋に命じて、東周を攻撃させ滅ぼしています。
こうした事情から、紀元前249年までには東周王朝は完全に滅亡したと言えるでしょう。
東周王朝の歴代君主一覧
春秋時代
平王ー桓公ー荘王ー釐王ー恵王ー襄王ー頃王ー匡王ー定王ー簡王ー霊王ー景王ー悼王ー敬王ー元王ー貞定王ー哀王ー思王ー考王
戦国時代
威烈王ー安王ー烈王ー顕王ー慎靚王ー赧王ー昭文君