甘夫人は三国志の劉備の妾でしたが、劉禅を生んだ人物でもあります。
ただし、赤壁の戦いが終わり、劉備が南郡を平定した頃に亡くなっています。
夫である劉備や子の劉禅が、皇帝になった姿を見る事無く没した事になるでしょう。
尚、劉備は何度も妻子を捨てて逃亡しますが、甘夫人は亡くなるまで劉備と行動を共にしたようです。
それを考えると、甘夫人は脚力などが強い女性だったのではないか?とも考えられます。
今回は史実の甘夫人がどの様な女性だったのか解説します。
因みに、正史三国志には蜀書・二主妃子伝があり、甘皇后伝(甘夫人の伝)が収録されています。
甘夫人は蜀の二代皇帝である劉禅の母親でもあり、側室でしたが死後に皇后として扱われる事になったのでしょう。
尚、劉備の子で劉禅の弟になる劉永や劉理もいますが、劉永、劉理は甘夫人の子ではないと考えられています。
劉備の妾になる
甘皇后伝によると、甘夫人は沛の人であり、劉備が豫州を支配した頃に妾になったとあります。
劉備は西暦193年頃に公孫瓚の元を離れて、陶謙の元に移動しました。
陶謙は劉備を豫州刺史に推薦し認められています。
この頃は、袁術が寿春を本拠地とし、陶謙と対立しだした時期でもあります。
さらに、呂布が劉備の元を訪れた事で、混迷を増します。
こうした時期に甘夫人は劉備と知り合い、劉備は甘夫人を妾としたのでしょう。
甘夫人が正妻になれなかったのは、甘夫人の実家の力が脆弱だったからではないか?と考えられています。
劉備が妻子を何度も失う
正史三国志によれば、劉備は戦いに敗れると妻子を置き去りにして逃亡した話があります。
徐州で劉備が敗れた時も、糜竺や糜芳の妹である糜夫人を置き去りにして、袁紹の元に逃げたと考えられています。
劉備は何度も正室を失いますが、劉備と甘夫人が離れる事はありませんでした。
劉備は甘夫人に奥向きの事を取り仕切る様になっていったわけです。
劉備と甘夫人は付き合いが長くなり、劉備は奥向きの事を甘夫人に任せたのでしょう。
劉禅を生む
西暦200年に官渡の戦いが起きますが、この頃に劉備は荊州の劉表を頼る事になります。
袁紹が西暦202年に亡くなると、曹操は袁紹の遺児である袁譚、袁煕、袁尚の征伐を開始しました。
劉備は夏侯惇や李典などと博望坡の戦いはありましたが、荊州は戦いが少なく、甘夫人は比較的平和な時代を過ごしたはずです。
この時に甘夫人がどの様に思ったのかは分かりませんが、劉備と平穏な時を過ごしたのかも知れません。
甘夫人が劉備との平穏な日々を望んでいたのであれば、この時期は甘夫人にとって最良だったと言えるでしょう。
ただし、この時期に劉備は内ももに脂肪が付いた事に気が付き「髀肉の嘆」を述べ嘆いた話があります。
西暦207年になると甘夫人が阿斗(劉禅)を生む事になりました。
この時は、劉備陣営に名士の諸葛亮が加わるなど、劉備や甘夫人にとってみれば、転機となったはずです。
長坂の戦い
劉表が亡くなると、劉琮が後継者となりますが、曹操に降伏しました。
劉備は曹操と対決出来るだけの力がなく、自分を慕う民衆らと共に江陵を目指して逃げる事になります。
南下する劉備軍の中に、甘夫人もいたわけです。
長坂で劉備軍は曹操軍に追いつかれて、大敗を喫しました。
こうした中で、劉備は趙雲に甘夫人や劉禅を任せて、自分は先を急いだわけです。
女性は男性に比べると体力もなく、甘夫人にとっては長坂の戦いは、辛い逃走劇だったと考えられています。
甘夫人は趙雲の助けもあり、阿斗と共に無事に逃げ延びる事が出来ました。
甘夫人の最後
劉備は魯粛と会い孫呉と同盟を結び、周瑜の活躍もあり赤壁の戦いで勝利しています。
劉備軍は関羽が満寵らと対峙し、張飛が周瑜を援け劉備は南郡を平定しました。
劉備は金旋、趙範、劉度、韓玄らを南郡から駆逐する事に成功しました。
劉備は南郡を孫権からの借用という形で領土としています。
この頃に、甘夫人は亡くなったと考えられています。
正史三国志には甘夫人の最後の言葉などはなく、次の文言があるだけです。
「后(甘夫人)は亡くなり南郡に埋葬された。」
劉備が荊州を得て再び平穏を得たと思ったら、甘夫人は亡くなってしまったのでしょう。
甘夫人は西暦210年に、亡くなったとも考えられています。
甘夫人が南郡に葬られた事を考えると、劉備が南郡制圧後に亡くなったと考えるのが自然だと感じました。
尚、甘夫人は劉禅を生んでから3年ほどで死去した事になり、劉禅は母親である甘夫人の事をよく覚えていなかった可能性もあるでしょう。
劉禅の皇后には張飛の娘である敬哀皇后と張皇后嫁ぎますが、甘夫人が我が子の嫁いだ、敬哀皇后と張皇后を見たのかは定かではありません。
因みに、甘夫人が亡くなると劉備は孫権の妹である孫尚香を娶り、孫尚香が呉に戻ると、呉懿の妹である呉夫人を娶っています。
呉夫人も245年に亡くなると劉備と合葬されました。
皇思夫人
正史三国志によれば西暦222年に甘夫人は、皇思夫人と諡された話があります。
紀元前222年は劉備が呉の陸遜に夷陵の戦いで大敗した年でもあります。
白帝城に逃げた劉備が甘夫人の事を思い出し、皇思夫人と諡したのかも知れません。
正史三国志には、次の記述もあります。
「皇思夫人を蜀に移葬する事になったが、棺が到着しないうちに先主(劉備)は崩御した。」
関羽が220年に呂蒙の策で敗れた時に、蜀は荊州を失っています。
甘夫人は荊州の南郡に葬られており、蜀の勢力としては、次期皇帝の母親のお墓が敵地にあるのは、問題だと考えたのかも知れません。
夷陵の戦い後に、蜀と呉は和議を結んでおり、その中の条件の一つとして甘夫人の移葬があったのでしょう。
劉備と合葬
甘夫人の棺が到着する前に、劉備は白帝城で崩御しました。
甘夫人の子である劉禅が皇帝に即位し、諸葛亮が次の様に上奏しています。
※正史三国志 蜀書甘皇后伝より
諸葛亮「皇思夫人(甘夫人)は品行もよく、仁徳も兼ね備え慎み深い方でした。
大行皇帝(劉備)が徐州にいた頃に、妃となり陛下(劉禅)を育まれました。
大行皇帝が存命の頃に、皇思夫人の霊柩が遠方にある事を憂慮し、使者を遣わし奉迎した次第です。
太常の頼恭らと相談し『天下に愛を打ち立てる者は、肉親から始め、それにより民衆に孝を教える。
敬の道を打ち立てるには、年長者を敬う事から始め、民に従順さを教える。』と考えました。
自分を生んでくれた人の事は、忘れてはいけないものです。
母は子の身分により尊貴となります。
昔、漢の高祖(劉邦)は、父親を太上皇帝とし、母親を昭霊皇后としました。
孝和皇帝は母親の梁貴人を改葬し、恭懐皇后の尊号を奉っています。
後漢の献帝も母親の王夫人を改葬し、霊懐皇后の尊号を奉りました。
皇思夫人にも、尊号を奉り冥界の悲しみを拭い去ってください。
頼恭らと諡号を考案した結果として、昭烈皇后とするのが相応しいと意見が一致しています。
詩経には『生きて室を異にするも、死して則ち穴を同じくせん。』とあります。
故に、昭烈皇后は大行皇帝と合葬するのが相応しいと感じております。
臣(諸葛亮)は大尉に頼み宗廟に報告させ、天下に宣布したいと考えております。
具備すべき礼に関しては、別に上奏致します。」
諸葛亮の上奏を劉禅が受け入れて詔勅を発行しました。
これにより劉備と甘夫人は合葬される事になったのでしょう。
尚、甘夫人の事を昭烈皇后とするのは、劉備の諡が昭烈皇帝であり、それに倣って甘夫人を昭烈皇后としたはずです。
甘夫人の死後ではありますが、劉禅が皇帝になった事で甘夫人は皇后として扱われた事になります。
甘夫人は妾から皇后に昇ったとも言えます。
甘夫人の評価
甘夫人を見ていると、劉備と同様に「しぶとい」と言えそうです。
甘夫人が劉備の妾になった時は、劉備には他に正室がいたと思いますし、甘夫人の身分も高くは無かったでしょう。
しかし、劉備は妻子を捨て逃亡し、他の女性が脱落する中で、甘夫人は劉備に付き従い、最後は劉禅を生む事になります。
長坂の戦いでは、趙雲の武勇ばかりが持ち上げられますが、実際には甘夫人の体力も評価されていい様に思います。
幾ら趙雲が強くても、動けない女性であれば守り切るのは難しかったのではないでしょうか。
劉備は逃げ足が速いと言われますが、甘夫人も逃げ足が速かった様に思います。
三國志演義の甘夫人
三國志演義での甘夫人を解説します。
三國志演義では官渡の戦いの前に、曹操が劉備を破り関羽を降伏させています。
関羽は曹操に降伏する為の条件として、甘夫人の命の保証や自分が漢に降伏するなどを条件としました。
曹操は官渡の戦いで顔良に手こずりますが、関羽が顔良を討ち取り、敵討ちに来た文醜も討ち取っています。
関羽は顔良、文醜を討ち取った事で、曹操への恩は返したと考え、甘夫人らを護衛し劉備の元へ向かいます。
途中で甘夫人らが杜遠に拉致されますが、関羽を尊敬する廖化により救われました。
長坂の戦いでは、甘夫人は無事に逃げ伸びており、趙雲は阿斗と糜夫人を助け出そうと奮戦します。
糜夫人は阿斗を趙雲に託すと、自らは井戸に身を投げています。
三國志演義では赤壁の戦い後に、甘夫人が死去した事になっており、呉の周瑜が劉備と孫尚香(孫夫人)との縁談を画策しました。
孫尚香は一時的に劉備に嫁ぎますが、後に劉禅を呉に連れ去ろうとする事件を起こしています。