李牧が趙の滅亡と共に亡くなると、秦軍と戦える将軍は楚の項燕だけとなってしまいました。
楚は考烈王の時代に春申君が長く宰相を務めましたが、楚の考烈王が亡くなった時に、王位に色気を出した為に、李園により暗殺されています。
李園が楚の実権を握りますが、楚は元々大臣の権力が強く国としてまとまりが悪い状態でした。
そうした中で、楚において奮戦したのが項燕となります。
因みに、項燕の何人かいる子の中の一人が秦末期に活躍する項梁であり、項燕の孫の項羽は史上最強の武将と呼ばれています。
尚、項燕の出身地は下相だと言われています。
個人的には、項燕は不屈の闘志を持った武将だと感じました。
史記の始皇本紀によれば、項燕は昌平君を擁立し最後の最後まで秦と戦い命を落とした事になっています。
楚軍のまとまりの悪さが目立つ
先に楚のまとまりが悪いと解説しました。
春申君が亡くなると、李園が実権を握り楚は幽王、哀王と続きますが、負芻が哀王を襲撃し楚王の位を奪っています。
これが紀元前228年の事であり、王翦が楚を破る4年前の話です。
この年には趙は首都である邯鄲を落とされていますし、李牧も亡くなっています。
秦の危機が目の前に迫っているのに、国内がまとまらない楚は致命的だとも言えます。
この状態の楚軍を率いて戦わなければいけない項燕が気の毒に思う位です。
項燕は李信と蒙恬を破る
紀元前225年になると秦王政は、楚を滅ぼす事に着手する事になるわけです。
李信は燕との戦いでは、燕太子丹を斬るなどの活躍があったとも言われています。
秦王政は李信に楚を討伐するのに何万の兵士が必要か?と問うと、20万あれば十分と言います。
次に、王翦に同じ質問をしてみると60万は必要と答えます。
そこで、秦王政は李信を総大将にして、副将は蒙恬を任命します。
王翦は自分の意見を用いられなかった事で引退してしまいました。
李信と蒙恬は20万の軍勢で出陣したのですが、初戦は連戦連勝で勝ち進みます。
そして、蒙恬と城父(地名)で合流したのですが、項燕に急襲され大敗してしまいます。
さらに、項燕は進軍して、秦の都を恐れさせます。
李信があっけなく敗れた事で秦王政は不安に駆られます。
そして、引退した王翦に詫びを入れて、今度は王翦が60万の大軍を率いて項燕と対決する事になりました。
王翦が60万の大軍で楚に攻めて来た事で、楚王負芻(ふすう)は、楚の全土より兵を集めて秦軍を迎え撃つ事になります。
もちろん、負芻が将軍に任じたのは項燕です。
王翦が出陣する
項燕と王翦は対決するのですが、項燕がいくら挑発しても王翦は戦おうとしません。
守りばかり固めていて、一向に戦おうとしないのです。
さらに、王翦は兵士を手厚くもてなしました。
兵士たちは力が、あり余り跳躍をしたりして遊ぶようになりました。
これを見て王翦の方は兵士が使えるようになってきた事を悟ります。
王翦は「ようやく兵士が使えるようになってきた」と謎めいた言葉を使ったと記録に残っています。
王翦の方は士気が高くやる気満々なわけですが、項燕から見ると遊んでばかりいてやる気が無さそうに見えるわけです。
これを見た項燕は秦軍は戦う気がないと判断して、軍を東に戻して撤退しようとします。
この撤退するタイミングを王翦は待っていたのです。
負けたわけでもないのに追撃を受ける
項燕は戦闘をやめて帰るために東に軍を進めたのですが、王翦は突如攻撃を仕掛けます。
これにより項燕は戦いに負けたわけでもないのに、追撃を受ける事になりました。
自分の軍を反転させる事も出来ませんし、結局、項燕は大敗してしまいます。
王翦に完全にやられてしまったわけです。
これを見ると項燕は李信には勝ったけど、とても名将とは思えません。
ただし、東に帰らなければいけなり理由が何かしらあったのかも知れません。
その当時の楚王は負芻ですが、負芻が何らかの理由で撤退命令を出した可能性もあるでしょう。
それか、李信が楚に負けたにも関わらず、粛清されていないところを見ると、李信が楚の後方を脅かしたなども考えられます。
しかし、歴史書にはそれらの記述はなく、項燕が純粋に秦が攻めてこないと思って戦いを放棄しています。
項燕の軍を破った王翦は楚に深々と攻め込み楚の首都を陥落させて負芻を捕らえました。
普通であればこれで楚は終わりですが、項燕が不屈の闘志を見せてくれます。
昌平君を王位に立てる
昌平君は、キングダムでは秦の首脳として描かれていますが、どこかのタイミングで楚に移るはずです。
項燕が昌平君を楚王に即位させて、楚を復興します。
項燕が淮南において昌平君を王に立てたという記述が史記にもあります。
項燕は王翦に敗れて、楚王が捕らえられても諦めてはいなかったわけです。
しかし、結局は秦の勢いを止める事が出来ずに王翦と蒙武によって滅ぼされています。
項燕と昌平君は自害をしたとも戦死したとも言われています。
そのまま王翦は東に進み百越の部族も制圧しました。
項燕も王翦に敗れてからしぶとく抵抗したようですが、結局は秦に敗れて楚は滅亡しました。
そして、斉は無抵抗のような状態で降伏したようなので、ここにおいて秦の天下統一がなり秦王政は始皇帝を名乗る事になったわけです。
項燕は愚将ではありませんが、名将とまでは行かないでしょう。
王翦との対決で軍を返してしまったのが痛恨のミスです。
ただし、楚が崩壊した後も戦い続けた不屈の精神を持った人物にも感じました。
新説・楚の滅亡動画
楚の滅亡に関して、ゆっくり解説動画にしてあります。
視聴者様のコメントで作成してあります。
興味があればご視聴してみてください。
秦を滅ぼすものは楚なり
楚が秦により滅亡した年が紀元前223年です。
この時から「秦を滅ぼすのは楚なり」という言葉が楚人の間でよく言われていたそうです。
他にも、「たとえ3家になっても秦を滅ぼすのは楚なり」などの詩もあったと記録が残っています。
後からのこじ付けかも知れませんが、見事に予言は成就されます。
楚が滅びた時に、秦を滅ぼす事になる項羽は9歳です。
項羽は体は2メートルを超える大男でしたが、まだ戦場には行ってなかったと思われます。
まだまだ、育ち盛りだった事でしょう。
しかし、自分の祖国である楚が滅亡したところを目の当たりにしたはずです。
項燕の子に項梁、項伯がいて、項燕のその他の子の息子が項羽になります。
分かりにくい説明ですが、項羽の父親の名前は残念ながら分かっていません。
項梁が江南の地で挙兵した時に、武将として項羽も活躍しています。
項梁が項羽の父親代わりだったからです。
その後、項梁は戦死してしまいますが、楚軍を引きついた項羽が秦王子嬰を項羽が殺し秦は滅びました。
先に、秦の都を陥落させたのは劉邦ですが、後に入って来た項羽の方が勢力が上だったので、項羽の決定により秦は滅び宮殿も焼かれたわけです。
尚、王翦のところでもお話しましたが、王翦の孫の王離は項羽と戦って敗れています。
孫の代のリターンマッチでは項家に軍配が上がるわけです。
項燕も自分の孫が秦を滅ぼすとは思ってもいなかったのではないでしょうか?
歴史も面白さを感じずにはいられません。
尚、キングダムでも楚が滅びる時に9歳の項羽が出て来たり、楚に住んでいた劉邦も登場するのではないかと個人的に思っています。
それか王翦と項燕の対決の時も少年ながら登場するかも知れませんね。
信と一騎打ちとかあったら面白そうだと思います。
他にも、項燕や昌平君が死ぬときに、項羽に後を託すなどの話しもストーリーとしてはいいかも知れませんね。