ただし、孫策は劉勲の本拠地である皖城を陥落させており、さらに孫輔、孫賁らが彭沢の戦いで劉勲を破りました。
それらを考えると、西塞山の戦いは孫策が圧倒的に有利な状態で戦いが進められた事も十分に考えられるはずです。
尚、西塞山の戦いで勝利した孫策は、揚州で最大の勢力となります。
西塞山の戦いの時に劉勲は弱体化していましたが、揚州の覇者を担う最後の戦いだったとも言えるでしょう。
西塞山の戦いで敗れた劉勲は、曹操を頼り北方に移動しました。
西塞山の戦いが起きた経緯
西塞山の戦いが起きた経緯から解説します。
廬江太守の劉勲は旧袁術軍の張勲、楊弘、袁胤、黄猗らの勢力を吸収し、さらに鄭宝を討った劉曄の軍勢も手に入れました。
劉勲は幸運も重なった事で、揚州で最大の勢力に昇りつめたわけです。
江東の孫策は過去に陸康を討ったのに、袁術に約束を反故にされ廬江太守に任命されなかった事もあり、孫策は劉勲を苦々しく見ていました。
しかし、孫策は心とは裏腹に劉勲に友好の使者や宝物を捧げ、海昬や上繚を討つ様に勧めています。
劉勲は孫策の態度を喜び出陣しようとしますが、劉曄は次の様に述べています。
劉曄「上繚は小さな城ではありますが、城の守は固く攻めるのは難しいですが、守るに容易な地です。
十日で城を落とす事が出来なければ、兵は疲弊し国内は空となります。
この状態で孫策に攻められれば、残った者たちでは防ぎきる事は出来ません。
そうなれば城を攻め落とす事も出来ず、帰る場所もなくなってしまいます。
今の状態で軍を出せば失敗する事は目に見えております」
劉曄は「出陣してはならない」と劉勲を諫めますが、劉勲は劉曄の進言を却下し、上繚を攻撃しました。
孫策は黄祖を討ちに出陣していましたが、劉勲が上繚に向かった事を知ると、軍を返して劉勲の本拠地・皖城を攻撃し直ぐに落城させています。
孫策が派遣した別動隊・孫輔、孫賁らが劉勲を襲い、彭沢の戦いが起きますが、劉勲は敗北しました。
劉勲は楚江を渡り尋陽から徒歩で置馬亭に入りますが、本拠地の皖城が孫策や周瑜らに落とされた情報をキャッチします。
劉勲は皖城に戻る事は出来ないと判断し、西塞山に身をひそめる事となります。
これにより、西塞山の戦いが勃発する事になります。
西塞山の戦い
劉勲は彭沢の戦いに敗れたばかりであり、単独では孫策と戦う事は出来ないと判断したのか、荊州の劉表や江夏太守の黄祖に援軍を求めました。
黄祖は息子の黄射を援軍の将として、劉勲の救援に差し向けています。
ただし、黄射の援軍が到着する前に、勝負は決しました。
孫策軍には孫堅の時代から孫家に仕えていた程普、韓当だけではなく、陳武や董襲、孫賁、孫輔などが西塞山の戦いに参戦しており武功を示す事になります。
孫輔などは士卒の先頭に立ち、軍を指揮し奮戦した記録も残っており、孫呉の将兵の活躍が目立ったのでしょう。
劉勲は西塞山の戦いで勝ち目はないと判断し、従弟の劉偕と共に曹操を頼り北方に向かいました。
孫策の軍は西塞山の戦いで勝利しますが、黄祖が黄射を派遣した事を知ります。
黄射は退却しますが、孫策は西塞山の戦いの勝利の勢いに乗り、江夏に進軍しました。
これにより黄祖と孫策の戦いが勃発します。
孫策は西塞山の戦いが終わった後も休むことなく進撃し、黄祖と沙羨の戦いで激突する事になります。
黄祖は沙羨の戦いでは、局地的に孫策に敗れますが、何とか江夏の地は守り抜く事に成功しました。